食の歴史 by 新谷隆史ー人類史を作った食の革命

脳と食を愛する生物学者の新谷隆史です。本ブログでは人類史の礎となった様々な食の革命について考察していきます。

女王の海賊フランシス・ドレイク-イギリス・オランダの躍進(2)

2021-06-19 18:00:28 | 第四章 近世の食の革命
女王の海賊フランシス・ドレイク-イギリス・オランダの躍進(2)
今回は、イングランド女王エリザベス1世が重用した海賊フランシス・ドレイクを取り上げます。彼はイギリスがスペインの無敵艦隊(アルマダと呼ばれた)を打ち破ったアルマダの海戦で大活躍したことで有名ですが、それ以外にもエリザベス女王のために様々な功績を残しています。彼がいなかったら、イギリスが大国へと成長することは無かったと考える学者も少なくありません。

エリザベス1世の頃は、ブリテン島の南半分がイングランドで、北半分はカトリック国のスコットランドでした。また、南のドーバー海峡をはさんだ対岸にはカトリックの大国フランスがあり、両国は断続的な戦いを続けていました。それに加えて、海洋帝国として日が昇る勢いを見せていたスペインがイングランドへの侵略の機会をうかがっていました。さらにローマ教皇配下の修道士もイングランド国内に潜入していました。

このように四面楚歌のイングランドでしたが、国内には毛織物業しか目ぼしい産業が無く国力も小さかったことから、正攻法でカトリック国の脅威に打ち勝つのは不可能でした。そこで取った手段が海賊やスパイを活用することでした。その海賊の代表がフランシス・ドレイクであり、スパイの親玉がフランシス・ウォルシンガムという人物でした。アルマダの海戦の勝利も、ドレイクとウォルシンガムの連携がうまく行ったからだと言われています。

なお、両名ともエリザベス1世からナイト(騎士)の叙勲を得ていますが、騎士は男爵や侯爵のように世襲制ではないため、功績の大きさに比べて一代限りの名誉しか与えられなかったとも言えます。


フランシス・ドレイク
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フランシス・ドレイク(1543年頃~1596年)はイングランド南西部のクラウンデールという町で牧師の子として生まれた。しかし一家はカトリックの反乱に巻き込まれ、港町のプリマスに逃げのびた。そこでは非常に貧しい生活を強いられたらしい。この経験がカトリックに対して反感を抱くきっかけの一つになったと言われている。

ドレイクは10代前半から海の仕事を始めたとされる。しばらくして10歳ほど年上の従弟で大物海賊となっていたジョン・ホーキンスの下で働き始める。ここで船乗りや海賊としての技術を身につけたと考えられている。そして、1568年には念願であった自分の船を手に入れた。

ホーキンスは奴隷貿易の先駆者で、配下のドレイクも奴隷貿易に参加していた。この頃、奴隷貿易は合法と認められていたのである。しかし、ある時ドレイクが参加した船団がスペイン海軍の襲撃に遭い、ほとんどの仲間が殺されてしまう。この事件によってドレイクはスペインに対する敵愾心を強く持つようになったとされている。そして、スペイン船やポルトガル船相手に海賊行為を行うようになったのだ。

ドレイクが強奪したのは主に金や銀などの財宝、砂糖やワインだった。特に南米のポトシ銀山から運ばれてくる銀は一番の獲物だった。当時は銀が世界通貨として使用されており、その主要な産地がポトシ銀山だったのだ。なお、ワインは自分たちの飲料となった。

ドレイクの最大の功績の一つが1577年から1580年にかけて行われた世界一周だ。これはマゼラン艦隊に次ぐ2度目の世界一周であり、イギリス人としては初めての快挙だった。ドレイクはこの功績によって、エリザベス1世からナイト(騎士)の称号を授けられている。

ところが、世界一周自体は当初の目的ではなく、結果として世界一周してしまったというのが通説だ。真の目的は、ポトシ銀山から運ばれる銀を太平洋側から強奪することだった。そして元の計画では、来た時と同じようにマゼラン海峡を通って大西洋に戻り、北上してイングランドに帰国するつもりだったのが、マゼラン海峡が難所だったことから太平洋を西に向かって横断するルートを取ったと言われている。実際、マゼラン海峡を通過できたのはイングランドを出港した5隻中2隻だけだった。

しかし、この航路の選択が功を奏した。ドレイクの船団は季節風に乗って太平洋を横断し、香辛料の生産が盛んなインドネシアの島々に立ち寄ることができたのだ。ドレイクはそこで大量のクローブ(約6トン)やナツメグ、コショウ、ショウガなどの香辛料を購入した。その頃のクローブやナツメグは希少性が高く、ヨーロッパでは非常に価値の高いものだった。イングランドに持ち帰れば大儲けできるのは確実だったのだ。

ドレイクたちはその後も西に進み、喜望峰を回ってイングランドに帰り着いた。ただし、世界一周を成し遂げて帰港できたのは、ドレイクが乗船するゴールデン・ハインド号1隻のみだった。なお、この船のレプリカが現在でもロンドンで展示されている(航行可能で来日もしている)。

ドレイクが帰国した時には、イングランドではドレイクたちは既に死んだものと考えられていたという。それは無理もないことで、当時の航海の致死率が非常に高かったからだ。その主要な原因はビタミンC不足による「壊血病」の発症だ。壊血病は長引くと死に至る病で、大航海時代には壊血病によって約200万人の船乗りが命を落としたと見積もられている。

ビタミンCは野菜や果物などに含まれているが、船乗りたちが食べていたものは塩漬け肉や塩ダラなどの保存食ばかりで、ビタミン類が圧倒的に不足していた。こうした食事を数か月もしていると、体内に貯蔵されていたビタミンCが枯渇して壊血病が発症するのだ。

ビタミンCは体内の組織を維持しているコラーゲンを作るために必須のビタミンで、壊血病では新しいコラーゲンを補充することができずに組織が壊れてしまうのだ。その結果、皮膚は崩れ、歯茎はボロボロになり、細菌が繁殖して悪臭を放ち出すようになる。また、体の内部では軟骨が少なくなるため骨同士がこすれてコキコキと音がするようになり、血管が破れて内出血が体中に広がる。さらには神経も侵されて幻覚などを見るようになるという。そして、最後には体が朽ちて死んで行くのだ。

この壊血病の克服に成功するのは18世紀末になってからである。イギリス海軍の軍医ギルバート・ブレインが、レモンやオレンジなどの柑橘類に壊血病を防ぐ効果があることを見つけて、乗組員に摂取させたのである。さらに、実際にビタミンCが発見されるのは1931年になってからで、ハンガリー人のセント=ジェルジがパプリカから世界で初めて単離を行った。

さて、ドレイクが本国に持ち帰った財宝や香辛料は莫大な富を生み出した。この頃の航海は投機の対象になっており、船長は出資者から金を集めて航海を行い、帰港した際には航海で出た利益を出資額に応じて分配することとなっていた。ドレイクのこの航海では、利益は出資金の47倍の60万ポンドになったとされる。出資金のうち約半分はエリザベス1世が出したものであり、配当金は30万ポンドに上った。当時のイングランドの国家予算が20万ポンドと見積もられていることから、莫大な儲けを手にしたことになる。

英雄となったドレイクはナイトに叙され、さらに1581年にプリマス市長となるが、やがてエリザベス1世の要請を受けて海賊に復帰した。1587年にはスペインの王室船を拿捕して莫大な財宝を手に入れるなど女王の期待通りの働きをしたという。

そして、いよいよ1588年のアルマダの海戦である。この戦いは一度だけの海戦というイメージもあるが、実際には前哨戦も含めて複数の戦いが繰り広げられた。イングランド軍の実質の司令官はドレイクであり、彼は前哨戦から大活躍した。1587年の前哨戦では、冒頭に登場したウォルシンガムの情報からスペイン軍基地への攻撃を行い、100隻以上の艦船の破壊と大量の物資の破棄に成功している。

本戦では、短距離砲しか持たないスペイン海軍に対してイギリス海軍は長距離砲を用いて遠方からの攻撃をしかけることで優位に立った。さらに、火薬や可燃物を搭載した船に火をつけて突入させるなどすることでスペイン艦隊を大混乱に陥れたとされる。

この時スペイン軍にとって誤算だったことが、イギリス本土に上陸する陸軍の招集が間に合わなかったことだ。そのため作戦を中止してスペイン本国に帰還することにしたのだが、不運なことに嵐が襲来し3割以上の船が沈没してしまったのだ。さらに船内に蔓延した感染病で死亡したり、食料不足で餓死したりするなどして、合わせて1万人以上の兵が死んだと言われている。

一方のイングランド海軍の損害は微々たるもので、死者は100名にも満たなかった。

こうしてアルマダの海戦はイングランド側の大勝利に終わった。しかし、スペインの優位はまだ続いており、両者の戦いはその後もしばらく続いた。ドレイクもリスボンを襲撃するなどいくつかの戦いに参加するが、大きな戦果を挙げるには至らなかったらしい。そして最後は南米で赤痢にかかり死亡したとされる。1596年1月28日のことである。彼の遺体は今でもパナマの海底で静かに眠っていると言われている。


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