食の歴史 by 新谷隆史ー人類史を作った食の革命

脳と食を愛する生物学者の新谷隆史です。本ブログでは人類史の礎となった様々な食の革命について考察していきます。

イギリスとオランダの戦い-イギリス・オランダの躍進(4)

2021-06-24 18:22:30 | 第四章 近世の食の革命
イギリスとオランダの戦い-イギリス・オランダの躍進(4)
今回はイギリスとオランダの「東インド会社」の続きです。

イギリス(イングランド)とオランダはともに数少ないプロテスタント国で、オランダの独立ではイングランドが支援を行うなど、両国の関係は良好でした。

ところが、両国が東インド会社を設立した後は「昨日の友は今日の敵」という言葉の通り、イングランドとオランダは東南アジアでの香辛料の貿易をめぐって激しく争うようになります。

オランダは経済的に非常に栄えており、たくさんの船を貿易に投入することができました。一方、イングランドはまだまだ貧しく、オランダほどの多くの船を利用することはできませんでした。両国の戦いの結果は火を見るよりも明らかでした。

今回はこのような両国の争いを軸に、当時の香辛料の生産と流通について見て行きます。

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新しく設立されたオランダ東インド会社は1603年12月に最初の船団を出向させた。この12隻の船団の目的は香辛料の貿易ととともに、インド洋沿岸のポルトガルの拠点を攻撃することだった。

オランダ東インド会社の一番の目的地はクローブやナツメグを産出するモルッカ諸島(香辛料諸島)に属するマルク諸島とバンダ諸島だった。この頃はコショウなどのヨーロッパで古くから知られている香辛料については供給が安定していたため、クローブやナツメグなどの高級香辛料に注目が集まっていたのだ。

ここでクローブナツメグについて簡単に説明しておこう。

クローブはチョウジノキという樹木の花蕾(つぼみ)を乾燥させたもので、すがすがしい甘い香りを特徴とする。ウースターソースの香りの多くがクローブのものと言えば、少しは分かってもらえるだろうか。中国の漢時代には皇帝が食事の後に口臭を消すために使っていたと言われている。


クローブ(abuyotamによるPixabayからの画像)

日本では丁子(チョウジ)と呼び、正倉院にも納められていることから、奈良時代には日本に伝わっていたことが分かる。武士は丁子の香りを兜に炊き込めたり、丁子の油で刀剣の手入れをしたり、頭髪剤として使用したりしていたことから、日本人には好まれてきた香りと言える。

一方、当時のヨーロッパでは、クローブの香りはペスト予防に効果があると考えられていた。ペストは悪い空気を吸い込むことで発症すると言う説が広まっており、クローブの香りは悪い空気を清浄にすると信じられたのだ。医者は鳥のくちばしのようなマスクの中にクローブやハーブを入れてペスト患者に接したと言われている。また、オレンジなどの柑橘類にクローブを差し込んだ「ポマンダー」が魔除けとして用いられた。


ポマンダー

一方のナツメグは、ニクズクという樹木の果実の中の種のことだ。種の入った殻は赤色の網目状の皮で覆われているが、これは別の香辛料のメイスになる。ナツメグもメイスも同じように独特の甘い香りとほろ苦さを特徴としていて、肉や野菜の不快臭をマスクするのに効果的だ。このため、ひき肉料理には不可欠の香辛料とされている。なお、メイスの方が香りやほろ苦さがまろやかで色も薄いため、焼き菓子などのデザート類やスープなどで上品さを求める時には主にメイスが使用される。


ナツメグとメイス(Ma_RikaによるPixabayからの画像)

ナツメグやメイスもクローブと同じように、病気の予防に効果があると考えられていた。また、当時のヨーロッパではナツメグよりもメイスの方が人気で、オランダ本国から現地の東インド会社に対して「ナツメグの樹を切って、代わりにメイスを植えるように」という笑い話のような指示が出されたことがあったという。

さて、話を歴史に戻そう。

オランダ人がやってくる前のマルク諸島とバンダ諸島では、ポルトガルやスペインの支配は確立していなかった。ポルトガルは何とか要塞を築いたが、現地では有力なスルタン(イスラムの地域支配者)が勢力を誇っており、また複雑な地形のため少数の船で海域一帯を支配することができなかったのだ。ポルトガルはスルタンに武器やインドで手に入れた綿製品などを渡すことで香辛料を手に入れていた。

東南アジアに進出してきたオランダは1605年にはマルク諸島とバンダ諸島の中間点にあったポルトガルの要塞を奪った。さらに、オランダ東インド会社の拠点としてジャワ島の西部のジャカルタに要塞を築き、街の名をバタヴィアと改称した。実はイギリス東インド会社がジャワ島の王と関係を結んで1602年にジャワ島内に要塞を築いていたのだが、オランダ東インド会社は力づくでイギリスを排除したという。なお、バタヴィアは第二次世界大戦での日本による占領まで、オランダによる植民地支配の中心地となった。

さらにオランダ東インド会社は、バンド諸島においても武力を用いて一帯の島々を支配した。イギリス勢力を追い出すとともに、抵抗する島民を虐殺し、代わりに自分たちの奴隷や使用人を送り込むことでナツメグやメイスの生産を独占しようとしたのだ。

また、クローブの生産地のマルク諸島においても、オランダ以外のヨーロッパ人を追い出そうと画策した。それに抵抗した現地の王を武力で制圧し、さらにポルトガルの一大拠点であったマラッカを1641年に征服した。

こうして17世紀末までにオランダ東インド会社は、マルク諸島とバンダ諸島の香辛料を独占的にヨーロッパに運ぶことに成功する。

このような東南アジアの活動と並行して、オランダ東インド会社はアジア全域に勢力を広げ、各地に商館を築いていった。例えば、日本の長崎の平戸には1609年に幕府の許可を得て商館を建てた。



一方、イギリス東インド会社も1613年に平戸に商館を開設するなど各地に商館を建設していたが、たびたびオランダ船に貿易が妨害されたり船が拿捕されたりしたという。そして1623年には、マルク諸島のアンボン島にあるイギリス商館がオランダ東インド会社に襲われ、商館員が全員処刑されるという事件が起きた。

これを契機にイギリス東インド会社は東アジア方面から撤退し、また、香辛料も安全に手に入る少量のものしか扱わなくなった。その代わりに、インドのムガール帝国などと綿織物の貿易を主に行うようになる。

以上のように、オランダ東インド会社は17世紀中に香辛料貿易と東アジアとの貿易を手中に収めたのである。


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