食の歴史 by 新谷隆史ー人類史を作った食の革命

脳と食を愛する生物学者の新谷隆史です。本ブログでは人類史の礎となった様々な食の革命について考察していきます。

ボルドーワインの歴史-フランスの大国化と食の革命(10)

2021-07-31 14:01:11 | 第四章 近世の食の革命
ボルドーワインの歴史-フランスの大国化と食の革命(10)
前回はブルゴーニュとシャンパーニュのワインの歴史を見て行きましたが、今回はブルゴーニュに並ぶワインの銘醸地であるボルドーのワインのお話です。

ブルゴーニュのワインとボルドーのワインはともにフランスを代表するワインのため、両者は比較されることがよくありますが、面白いことに実に多くの点で異なっています。例えば、使用されるブドウの品種が違います。また、ワインのボトルの形も、ブルゴーニュは「なで肩」で、ボルドーは「いかり肩」と言うように大きく異なっています。


ブルゴーニュ(左)とボルドー(右)のワインボトル

さらに、この後で詳しくお話しますが、歴史的にもボルドーとブルゴーニュには大きな違いがあります。

今回はボルドーワインの歴史を取り上げますが、前回と今回の話を読んでいただくと、ブルゴーニュとボルドーのワインの歴史について概略を理解してもらえると思います。

************


最初に、ボルドーワインの特徴をあげておこう。

ボルドーのワイン
・ボルドーはガロンヌ川に面した町で、川が運んできた砂利のおかげでブドウ栽培に適した土壌が広がっている。

・生産されるワインの約9割が赤ワインであり、複雑かつ濃厚な味わいで、瓶内で長期熟成させて飲むことが多い。この長期熟成の際に澱が出るため、ボトルをいかり肩にして、グラスに注ぐ時に澱が入らないようにしているのだ。なお、ブルゴーニュワインのボトルがなで肩なのは、たがいちがいに置くことで収納しやすくしたからだ。

・ボルドーでは複数の品種のブドウを混ぜてワインを造っている(ブルゴーニュでは単一品種のブドウでワインを造っている)。

・赤ワイン用に使用される主な黒ブドウは、メルロカベルネ・ソーヴィニヨン。両者はほとんどのボルドーワインでブレンドされていて、メルロ主体のワインやカベルネ主体のワインなどがある。

・ボルドーでは生産者(シャトーと呼ばれる)ごとに格付けが行われている(ブルゴーニュでは畑ごとの格付け)。ただし、すべての地区で格付けが行われているわけではない。

・最も有名な地区がメドックで、中でもオー・メドックに格付けが高い上質なワインが集中している。ちなみに、メドックの格付けが行われたのは1855年の第1回パリ万博の時で、それが今でもほぼ変わらずに受け継がれている。メドック以外には、サン・テミリオンポムロールなどが有名。

・赤ワイン以外に有名なのが、三大貴腐ワインの一つの「ソーテルヌ」。貴腐ワインは、カビの一種の貴腐菌がついて水分が抜けたブドウを原料にして造られる甘口のワインである。

それでは、ボルドーワインの歴史について見て行こう。

ボルドーは古代から栄えてきた港町で、紀元前300年頃にガリア人によって築かれたと言われている。その後、紀元前1世紀にローマによって征服された。ボルドーの土壌はブドウ栽培に適していたため、ワイン好きだったローマ人はワインの製法を伝え、ワインの一大産地となった。

5世紀になるとボルドーは、民族の大移動によってやって来たゲルマン民族によって支配されるようになる。そして、ゲルマン民族を統一したフランク王国の領土となった。しかし、ボルドーには良い港があったことから、イスラムやヴァイキングなどによって征服されることもあった。

950年からは、フランス貴族のポワティエ家がボルドーを含むフランスの南西部(アキテーヌと呼ばれた)を治めるようになった。アキテーヌ公の領土はフランスの中で最大であり、また大西洋岸のボルドーやラ・ロシェルなどの港はワインなどの交易でとても栄えていた。このため、アキテーヌ公はフランス国王よりもずっと裕福であったと言われている。

アキテーヌ公ギヨーム10世には息子がおらず、娘のエレオノールがアキテーヌの後継者だった。彼女は1137年にフランス王ルイ7世と結婚したが、1152年に離婚する。豊かな生活に慣れ親しんだエレオノールが、貧しい宮廷生活になじめなかったからだと言われている。そして、1154年にはイングランド王となるヘンリ2世と結婚した。その結果、それ以降アキテーヌはイングランド国王の領地となったのである。

こうしてイングランドとの強固なつながりが生まれたボルドーは、主にイングランド向けにワインを輸出するようになる。イギリスではブドウの栽培ができなかったため、ボルドーの良質のワインはイングランドの王侯貴族に大歓迎されたのだ。ボルドーの赤ワインはイングランドではクラレット(claret)と呼ばれ、これが赤ワインの代名詞となり、現在でも使用されている。

イングランド王ジョン(在位:1199~1216年)は、ボルドーがワインを出荷するまで他の地域のワインの出荷を禁じるなど、ボルドーを優遇した。また、税金も免除されていた。さらに、イングランドへのワインの輸送にはイングランドの軍艦が護衛として付き添った。

イングランドに運ばれたワインの一部は、フランドル地方(現在のオランダ南部、ベルギー西部、フランス北部にかけての地域)やドイツ、スカンジナビア半島に向けて再輸出された。イングランドもボルドーワインで大儲けをしていたのだ。なお、当時は900リットルほどの樽でボルドーワインが運ばれていた。この樽は「トノー(tonneau)」と呼ばれ、これがその後、船舶の積載量を表す国際単位の「トン」となった。

ボルドーとイングランドの良好な関係は長く続いたが、フランスとイングランドが戦った百年戦争(1337~1453年)によって一時停止を迎える。この戦いは最後にフランス軍がボルドーを占領することで終了したのだが、その結果、ボルドーはイングランドにワインを輸出することができなくなったのだ。ボルドーは生産量の80%以上をイングランドに輸出していたため、ボルドーの経済状態はとても悪くなった。

しかし、ルイ11世(在位:1461~1483年)はワインの税収に魅力を感じたことから、ワインの生産者などボルドーの有力者を集めて議会を設立し、ワイン生産を保護させた。かつてイングランド王が与えた「ボルドーが他に先駆けてワインを出荷できる」特権も認めたため、海外への輸出も復活した。

ボルドーの議会はブドウ畑を整備するとともに、ワインの生産量を増やすために、荒れ地を開拓しブドウ畑を広げて行った。こうして17世紀以降になって、メドック地区などの現在銘醸地になっている地域にブドウが栽培されるようになった。

17世紀から18世紀にかけて、ボルドーワインのほとんどはイギリスやオランダ、ドイツの商人に販売されていた。中でもオランダ人は大量のワインを購入し、それを蒸留して「ブランデー」を造っていた。ボルドーもそれに合わせて、蒸留用のワインの製造も行うようになった。

それに加えて18世紀からは、アメリカ大陸の植民地向けのワインの輸出が増大した。植民地の支配人たちが本国の貴族のような生活を追い求めたため、ワインの需要が増えたのである。その結果、ボルドーは著しい繁栄を遂げることとなった。

一方、フランス国内では17世紀になって上流階級でボルドーワインが飲まれるようになっていた。例えば、ルイ15世が愛したポンパドゥール夫人(1721~1764年)はボルドーのシャトー・ラフィット・ロートシルトというワインを愛飲していたと言われている。

しかし、フランス国内でボルドーワインが本格的に飲まれるようになるのは19世紀半ばにパリを中心とする鉄道網が作られてからであり、それまでは水上輸送が可能なところでボルドーワインが主に楽しまれていたのである。

シャンパーニュとブルゴーニュのワインの戦い-フランスの大国化と食の革命(9)

2021-07-28 17:32:27 | 第四章 近世の食の革命
シャンパーニュとブルゴーニュのワインの戦い-フランスの大国化と食の革命(9)
フランスのワインの二大産地と言えば、パリの南東方向にある「ブルゴーニュ」と南西方向にある「ボルドー」です。また、発砲ワインの「シャンパン(シャンパーニュ)」で知られる「シャンパーニュ」も有名な産地です。

近世フランスのヴェルサイユ宮殿では、ブルゴーニュのワインとシャンパーニュのワインの争いが繰り広げられます。この勝負ではブルゴーニュが勝利しますが、敗れたシャンパーニュは復活を遂げるために新しいワインであった発泡性のワインを生み出しました。これが「シャンパン(シャンパーニュ)」です。

今回は、このようなブルゴーニュとシャンパーニュのワインの歴史を見て行きます。

************
ブルゴーニュとシャンパーニュの歴史を見て行く前に、現代の両者のワインについて簡単にまとめておこう。



ブルゴーニュのワイン
・ブルゴーニュは、北からシャブリ地区、コート=ドール(コート・ド・ニュイ地区とコート・ド・ボーヌ地区)、ボージョレ地区に分かれている。

・基本的に、ブルゴーニュの白ワインはシャルドネという白ブドウだけで造り、赤ワインはピノ・ノワールという黒ブドウだけで造る。ただし、ボージョレ地区ではガメイという黒ブドウから赤ワインが造られている。

・ブルゴーニュは内陸で、夏は暑く、冬は寒い。また、天候が激しく変わるとともに、土壌と天候が地域によってかなり異なっている。その結果、畑ごとにブドウの品質が違ってくるため、畑ごとに格付けがされている。また、一つの畑に複数の所有者がいる場合が多い。

・最高級のワインが赤ワインの「ロマネ・コンティ」で、1本が数百万円以上で売買されている。

シャンパーニュのワイン(シャンパン)
・シャンパーニュはフランスのブドウ栽培の北限に位置していて、ランスと言う町が中心となっている。

シャンパン(シャンパーニュ)はシャンパーニュ地方の発泡性のワインだけに許されている名称であり、手摘みされたブドウから決められた方法で造られる。

・シャンパンは、ピノ・ノワールシャルドネムニエというブドウから造った通常のワインを混合して瓶詰めし、さらに糖分と酵母を加えて瓶の中で二次発酵をさせることで造られる。この二次発酵で発生する炭酸ガスがワインの中に溶け込むことで、開けた時に泡が出るようになる。

・二次発酵の時に発生する酵母のカス(澱)は、瓶を逆さにして口元に集め、その部分を急速に凍らせてから瓶を上に向けて取り除く。そして、成分を整えてからコルクで栓をして出来上がり。

・通常のシャンパンは何年間かストックしたワインを混合して造っているため、造った「年号」は瓶に表示されない。ただし「ドン・ペリニョン」は、出来の良い年のブドウで造ったワインだけで醸造されるため「年号」が表示される。そのため、値段が高くなる。

それでは歴史の話だ。

第三章中世の食の革命「シトー派修道会とブルゴーニュワイン」でお話したように、中世のブルゴーニュにはシトー派などの多くの修道院が建てられ、修道士たちがブドウ栽培とワイン醸造を行った。この頃の修道士たちは畑ごとのブドウの出来の違いにすでに気づいていたらしい。


ブルゴーニュは11世紀からフランス王カペー家の傍系ブルゴーニュ家が統治していたが、直系の後継者が絶えたため、1363年にフランス国王シャルル5世(ヴァロワ家)の弟フィリップがブルゴーニュ公爵を引き継いだ。フィリップは、ワイン用のブドウとしてガメイの使用を禁じ、品質の良いピノ・ノワールだけを栽培するように命じたと伝えられている。

その後、裕福なフランドル地方などを取り込むことで、ブルゴーニュ公国はフランス王家をしのぐほどの繁栄を極めるようになる。その結果、催される晩餐会は最高級のものになり、ワインもより優れたものが求められるようになった。こうしてブルゴーニュのワインは、公国の要望に合った高品質ものが作られるようになって行った。

ブルゴーニュ公国は百年戦争(英仏戦争;1339~1453年)ではイングランドと結び、フランス王家とは対立する。その頃はフランスの一部と言うよりも、独立国のような存在だったのだ。しかし、ブルゴーニュ公国を受け継いだ神聖ローマ帝国皇帝カール5世は、1529年のフランスとの講和の際にブルゴーニュ公国の領地をフランスに譲渡したため、これ以降はフランス領となった。

一方のシャンパーニュは、フランスにおけるワインの始まりの地とされているところだ。第三章の「ワインとフランク王国」でお話したが、フランスの前身であるフランク王国を興したクロヴィス(466年頃~511年、在位:481~511年)がランスで行った戴冠式でワインに強い霊感を覚えたと伝えられている。そして、クロヴィスと臣下たちは、それ以降は大のワイン好きになったのである。


ランスの大聖堂は歴代のフランス国王が戴冠式を行う場となったため、その際に使用されるワインも優れたものが造られるようになった。また、シャンパーニュ地方では中世にはヨーロッパで最大と言われている市が開かれており、ワインも重要な商品の一つだったため、商業的な目的でも盛んにワインの醸造が行われていた。

ブルボン朝を開いたアンリ4世(在位:1589~1610年)が即位するまでは、フランス宮廷では近場のロワール川流域で造られたワインが良く飲まれていた。一方、アンリ4世はシャンパーニュのワインが大好きだった。その結果、その後のフランス宮廷では、ロワールのワインはあまり飲まれなくなり、シャンパーニュのワインと、評判の高かったブルゴーニュのワインを飲むようになって行った。なお、当時は、両者ともにピノ・ノワールを使って赤ワインを造っており、品質にも大きな違いが無かったと言われている。

ところが、ルイ14世(在位:1643~1715年)の代になって、シャンパーニュのワインとブルゴーニュのワインのどちらが優れているかと言う大論争が巻き起こった。貴族や聖職者、医者、学者など多くの人を巻き込んだ論争の結果、ブルゴーニュのワインが勝利する。一説では、健康を害していたルイ14世に医者がブルゴーニュのワインの方が健康に良いと勧めたからだと言われている。こうしてフランス宮廷では、主にブルゴーニュのワインを飲むようになった。

少し時代をさかのぼるが、16世紀頃になると、修道院のブドウ畑は修道士自身が耕作するのをやめて、農家に委託するようになっていた。例えば1584年には、現在のロマネ・コンティの畑について、最も高値を付けた者に耕作を請け負わせる権利を永久に与えるという広告が出されたらしい。

このロマネ・コンティの畑は、ルイ15世(在位:1715~1774年)の代になって売りに出されることになった。それを耳にしたルイ15世の公妾のポンパドゥール夫人が何とか手に入れようとしたのだが、結局コンティ公(ルイ・フランソワ1世)が争奪戦を制した。このコンティ公の名前と、ローマ時代からこの地でブドウを造ってきたということから「ロマネ・コンティ」と名付けられたのである。

一方、ブルゴーニュとの戦いに敗れたシャンパーニュは、発泡性のワインを売り出す方向に舵を切った。ただし、18世紀末でもシャンパーニュのワインのうちシャンパンが占めたのは10%程度だったと言われている。一番の問題が炭酸ガスの圧力で瓶が破裂してしまうことで、これが解決されるのは1840年のことだ。

しかし、生産数が少ないながらもシャンパンは上流階級にたいへん人気だったようで、ヴェルサイユ宮殿ではよく飲まれていたという。特にポンパドゥール夫人のお気に入りだったようで、「酔っても女性の美しさを損なわないのはシャンパンだけ!」と言ったと伝えられている。また、シャンパンに合う料理がいくつも考案された。

ところで、シャンパンの製法(瓶内二次発酵)を生み出したのは修道士のドン・ペリニョン(1638~1715年)だったという話があるが、これは正しくないと考えられている。最初の発泡性のワインの醸造は17世紀にイギリスで始まったという説が有力で、この醸造にたずさわっていたフランス人がシャンパーニュ地方に製法を伝えたとされる。

ただし、ドン・ペリニョンがシャンパンの品質向上に貢献したことは間違いなく、異なるブドウから造ったワインを混合する方法やコルク栓などを考案したと言われている。このため彼の名が最高級のシャンパンに付けられたのだ。

フランス最初のカフェとレストラン-フランスの大国化と食の革命(8)

2021-07-25 14:11:00 | 第四章 近世の食の革命
フランス最初のカフェとレストラン-フランスの大国化と食の革命(8)
私たちは街中でのどが乾いたら喫茶店に入ってコーヒーや紅茶などを飲み、お腹がすいたらレストランに入って食事をします。諸外国でも同じように、街中にはたくさんの飲食店があり、多くの人が利用しています。

テレビで国内や国外の食べ歩きの様子がよく放映されるのも、どこに行ってもたくさんの飲食店が営業しているからです(ちなみに私は、ヒロシの「迷宮グルメ 異郷の駅前食堂」が好きです)。

このような飲食店の始まりにも歴史があります。今回は、近世フランスにおけるカフェレストランの始まりについて見て行きます。


************
世界最初のコーヒーハウスカフェ)は、1554年にオスマン帝国のイスタンブールに誕生した。また、ヨーロッパでは1645年のヴェネツィアでの開店を皮切りに、各地でコーヒーハウスが誕生するようになった。例えば、1650年にはロンドンで、1666年にはアムステルダムで最初のコーヒーハウスが開店している。

フランスに本格的なカフェが誕生したのは1686年のことで、シチリア人のフランチェスコ・プロコピオがパリにカフェ・プロコップ(ル・プロコップ)という店を出したのが最初だ。この店ではコーヒーのほかに、果物やお菓子、ジャム、そしてソルベ(シャーベット)が出されていたという。なお、ソルベは、果物の入った砂糖水やリキュールを容器に入れ、塩を加えた氷で容器の周りを囲んで凍らせて作ったらしい。この店では後の時代になると、紅茶やチョコレート飲料なども出されるようになった。

プロコップの目の前には王立劇団のコメディ・フランセーズが本拠とした劇場があり、劇場関係者や観劇に訪れた人々でもにぎわっていた。なお、「コメディ」とは喜劇のことではなく、広く「劇」と言う意味だった。

また、プロコップでは客を呼ぶために社会の出来事がニュースとして張り出されるようになったのだが、目論見通りそれが評判を呼び、その情報を元に多くの人が議論するようになった。そして、ヴォルテールやディドロ、ルソーなどの啓蒙思想家が集まる政治的サロンの様相を呈するようになる。

プロコップが成功するとパリでは次々とカフェが誕生し、1721年には300軒以上の店が営業していたという。これらの店も情報交換や議論の場となり、これが民衆の政治意識を高めることでフランス革命を生み出す下地となって行く。

そして18世紀末になると、カフェには革命家が集結するようになり、毎日のように革命のための会合が開かれたと言われている。中でもカフェ・ド・フォアは、バスティーユ襲撃のきっかけを作ったカミーユ・デムーランが「外に出て革命を!」と民衆を鼓舞した場として有名だ。

こうしてフランス革命が勃発し、ルイ16世は処刑されるのである。なお、フランス革命後は政治集会の場はカフェから酒場に移って行った。

次はレストランの話だ。

フランスでは中世からオーベルジュと呼ばれる宿屋兼料理屋や、タヴェルヌという居酒屋があったが、いずれも大した料理は出なかった。そのような中、1765年にブーランジェという男が、パリに肉と野菜を煮込んで作ったブイヨンを出す店を出した。このブイヨンを「元気になる食べ物」という意味で「レストラン(restaurant)」という名前で売り出したのだ(フランス語の「レストレrestaurer」には「修復する」と言う意味がある)。この店ではそれ以外に、ビスケットや季節のフルーツ、クリームチーズなどが出されていた。

ところで、この頃のフランスには販売品目ごとにギルド(同業組合)があり、組合に入っていない者は商品が売れないという強い規制があった。食べ物に関して言うと、豚などの肉をソーセージやハムなどの加工品にして売るギルドや、肉の煮込み料理を売るギルド、ローストした肉を売るギルドなど、細かく分かれていた。このため、店で料理を自由に出すことはできなかったのだ。

ところが、1776年にルイ16世の財務卿だったテュルゴーが、パリの商売を盛んにするためにギルドを廃止したことから、いろいろな料理を出す店が登場することになった。そして、その名前にブーランジェのレストランを使うようになったのだ。こうして「レストラン」が料理店の名前として定着して行った。

現在のレストランのように本格的な料理を出す店を最初にパリに開店したのが、プロヴァンス伯爵(後のルイ18世)に料理長として仕えたアントワーヌ・ボヴィリエ(1754~1817年)だ。彼は1782年にグランド・タヴェルヌ・ド・ロンドゥルという店を開いた。ただし、彼の料理は富裕層をターゲットにしたもので、庶民にはとても手が届かなったそうだ。なお、この店はフランス革命時に他の料理人に奪われてしまうが、1799年に別の場所にボヴィリエという店を出したところ大成功をおさめたという。彼は来た客の好みを細かく記録して、次に店に訪れた時に最高のおもてなしをしたと伝えられている。

ボヴィリエが1782年にレストランを出店すると、ボヴィリエのように貴族の料理人として働いていた人たちの中でレストランを出す人がぽつぽつと現れるようになった。そして1789年のバスティーユ襲撃によってフランス革命が始まると、多くの貴族が国外に逃亡を始めた。その結果、貴族に仕えていた料理人は、逃げる貴族に同行するか、貴族の下を離れて自分の店を開くかの選択を迫られることになる。しかし、ちょうどその頃には、ボヴィリエのようにレストラン経営を軌道に乗せていた人たちも少なからずいたことから、多くの料理人がレストランを出店するようになった。

こうして、貴族の間で食べられていた本格的な料理が多くのレストランで出されるようになり、フランスの一般市民の間にも広がって行くことになるのである。

18世紀のフランス料理と錬金術-フランスの大国化と食の革命(7)

2021-07-22 17:50:36 | 第四章 近世の食の革命
18世紀のフランス料理と錬金術-フランスの大国化と食の革命(7)
錬金術とは鉄や鉛などの安い金属を金や銀などの貴金属に変える技術のことです。

錬金術は古代からギリシアやエジプトなど世界の各地で研究されてきました。中世のイスラム世界は古代ギリシアの科学や哲学を受け継ぎましたが、錬金術もその中に含まれていて、盛んに研究が行われました。その結果、様々な物質を化学的に分離する技術などが発達しました。例えば、液体を蒸発させることで成分を分離する蒸留器が開発されました。そして、この蒸留器が世界各地に広まることでウイスキーやブランデー、焼酎などの蒸留酒が作られるようになりました。このように、錬金術は人類の暮らしを豊かにする役割を果たすこともあったのです。

錬金術は十字軍の遠征などをきっかけにして、中世のヨーロッパにも伝えられました。ルネサンス期になると、錬金術の研究は非常に盛んになり、ヨーロッパで独自の進化を遂げて行きます。そして、17世紀の終わりから18世紀にかけて、錬金術から「化学」と呼べるものが誕生したのです。

このような錬金術的・化学的な方法は料理の世界にも持ち込まれました。つまり、料理も科学の一分野となり、新しい料理を開発するための研究が日夜繰り広げられることになったのです。

という言わけで今回は、18世紀のフランス料理と錬金術の関係について見て行きます。

************
料理の世界にも錬金術や化学が持ち込まれた結果、料理人たちは美味しい食べ物には美味しさの根源となる物質が含まれていると考えるようになった。そして、この物質を「オスマゾーム」と名付け、これをうまく取り出すために様々な方法が考案されるようになった。

「何を食べているか言ってみたまえ。君が何者か言い当ててあげよう。」という名言で有名なフランスの法律家で美食家のブリア=サヴァラン(1755~1826年)も、著書『美味礼賛(味覚の生理学)』でオスマゾームについて詳しく述べている。次にその一部を抜粋してみよう。

「食品科学に対する化学の最大の貢献は、オスマゾームの発見というよりも、それが何かを明らかにしたことだ。オスマゾームとは肉の中の非常に美味な部分のことで、冷水に溶けるが、熱湯には溶けないものである。美味しいスープを作るのも、肉を焼いた時にカラメル化して焦げた色を作るのも、ローストした時にうま味を肉の中に閉じ込めるのも、鹿などのジビエにかぐわしい香りを作るのも、このオスマゾームである。」


ブリア=サヴァラン

現代の私たちにはオスマゾームが何なのかよく分からないが、とにかく肉が美味しくなるのはすべてオスマゾームのおかげと言うことらしい。

オスマゾームは「熱湯には溶けないもの」とあるように、肉を煮出す時にはグツグツと沸騰させてはダメで、そうならないように火加減に気を付けて、じっくりと弱火で煮込む。アクは不純物のかたまりだから丁寧に取り除く。そうすると、フォンやブイヨンが美味しくできるのだ。このように、より良いフォンやブイヨン、ソースを作り出そうとする努力が続けられた。

肉料理のソースには肉で作ったフォンを、魚料理のソースには魚で作ったフォン(フュメfumetと呼ばれる)を使うようになったのも18世紀頃からだ。なお、フュメは、魚のあらやザリガニ、トリュフ、マッシュルームなどから作った。また、食材をバターなどで焼いたのち、鍋の底に残った汁とこびり付いたコゲをフォンで溶かし込んでソースにするデグラッセの技術も開発された。

さて、オスマゾームは肉の中にほんの少ししか含まれていないと考えられたので、オスマゾームを大量に手に入れるためには大量の肉を使用しなければならなかった。これに関してもブリア=サヴァランが次のような逸話を紹介している。

ある貴族が、自分が主催する晩餐会の料理の材料に目をとめた。「ハム50本」とあるのだ。
「なんだ、これは!いったい、何人に食べさせるつもりだ!」
激怒する主人に向かって料理人はこう答えたという。
「ご存じないのかもしれませんが、私たちは50本のハムを親指ほどの大きさの小瓶に閉じ込めることができるのです」

このように料理人たちは莫大な費用をかけて、究極の美味を追求したのである。

さらに、この時代には料理に使用される肉自体にも細心の注意が払われるようになった。それまではしめてすぐの肉が食べられていたのが、現代と同じように、しばらく放置することで熟成させた肉を食べるようになったのだ。

ところで、17世紀の終わり頃からフランス王は主にヴェルサイユ宮殿で生活するようになった。また、多くの貴族たちも王の取り巻きとしてヴェルサイユ宮殿で寝泊まりを始めた。その結果、フランス料理の中心はヴェルサイユ宮殿となり、発展を続けたのである。

この最新のフランス料理は貴族層全体に広がり、さらにそれを裕福なブルジョワ階級がまねることで、一般社会にも徐々に浸透して行った。ただし、ブルジョワ階級が貴族のまねをしたのは料理だけでなく、服装やかつら、香水、アクセサリーなども同じだったらしい。

一方の貴族の方も、ブルジョワたちがまねできないようにせっせと金を浪費し、より豪華になって行った。こうして、フランスの料理・服飾・香水などはヨーロッパ一の輝きを放つことになるのである。

17世紀のフランス料理-フランスの大国化と食の革命(6)

2021-07-19 23:54:15 | 第四章 近世の食の革命
17世紀のフランス料理-フランスの大国化と食の革命(6)
近世はフランス料理が現代の形に変化した重要な時代です。中世までの料理の世界では、食事を通して健康になることが重視されていました。すなわち、古代ギリシアのヒポクラテスやローマ帝国時代のガレノスによって作られた「四体液説」と呼ばれる理論に従って、体液のバランスを保つための料理が作られていました。香辛料がたくさん使用されていた理由も、四体液説によるところが大きかったと言われています。

ところが、14世紀にイタリアから始まったルネサンスが一つの大きなきっかけになって社会が大きく変化するとともに、料理の作り方も見直されるようになりました。ルネサンスによって、昔から守られてきた習慣に対して疑問の目が向けられると同時に、美味しさを純粋に追及する動きが見られるようになったのです。

ルネサンス振興のパトロンとなったイタリアのメディチ家から、カテリーナ・デ・メディチ(1519~1589年)とマリア・デ・メディチ(1575~1642年)が王妃としてフランス王家に入ってきたことによって、フランス料理はルネサンスによって始まった新しい料理の影響を受けることになりました。

今回は、17世紀に見られたフランス料理の変革について、その時代に出版された料理書を中心に見て行くことにします。

************
フランス料理の料理書と言うと、ギヨーム・ティレル(通称タイユヴァン)(1310~1395年)が出版した『ル・ヴィアンディエ (le Viandier)』がとても有名で、17世紀まで版を重ねて広く読み継がれていた。その間にいくつかの料理書が刊行されるが、料理の世界には大きな影響を与えなかったとされている。

ところが1651年になると、『ル・ヴィアンディエ』に肩を並べる料理書が登場する。それがフランソワ・ピエール・ラ・ヴァレンヌ(1618~1678年)が書いた『フランスの料理人 (le Cuisinier français)』だ。なお、「Cuisinier」に「料理人」という訳がついているが、当時は「料理書」と言う意味があり、本の中身もフランス料理のレシピ集であるため、「フランス料理の書」と訳した方が正しいようだ。この本はベストセラーになり、18世紀にかけて何度も版を重ねたという。



ラ・ヴァレンヌはデュクセル侯爵らに仕えた料理人で、ルイ14世に料理を出したこともあると言われている。ラ・ヴァレンヌは『フランスの料理人』を出した後に、『フランスのジャム職人』と『フランスの菓子職人』というレシピ集も出版しており、菓子などの世界でも後世に大きな影響を与えた人物だ。

ラ・ヴァレンヌの『フランスの料理人』が刊行されると、その成功をきっかけに料理書が続々と出版された。それらの中でも、1674年のL.S.R.(著者の本名は不明)による『巧みに饗応する技(L’Art de bien traiter)』と1691年のマシアロによる『宮廷とブルジョワ家庭の料理人(Le Cuisinier royal et bourgrois)』が17世紀のフランス料理を知る上で重要とみなされている。なお、L.S.R.は著作の中でラ・ヴァレンヌを辛辣に批判したことでも有名だ。

これらの料理書を見ると、17世紀に起きたフランス料理の変革がよく分かる。その変革を以下にあげて行こう。

・香辛料の減少とハーブの増加
中世までの料理では大量の香辛料が使用されていた。例えば、タイユヴァンの『ル・ヴィアンディエ』では大量のコショウやショウガなどが使用されている。それが、17世紀のフランスでは激減して、それぞれの料理に少しずつしか使わないようになった。

また、料理に使用される香辛料の種類も減少した。中世で使用されていたショウガ、シナモン、ナガコショウ(コショウに似た香辛料)、アニス、クミンはほとんど使用されなくなり、コショウ、クローブ、ナツメグだけが少量使用された。ただし、ショウガについては豚肉料理に使われることが増えた。

このような香辛料の減少は、四体液説が廃れてきたことが一つの理由として考えられるが、それに加えて、大航海時代に入って香辛料が大量に市場に出回るようになったこともある。

中世ではヨーロッパに輸入される香辛料はとても少なかった。このため、料理に大量の香辛料を使用することが上流階級の権威を誇示することになっていたのだ。ところが、海外貿易が盛んになって香辛料が容易に手に入るようになると、権威を誇示する目的で大量の香辛料を使用することは無くなったのである。

なお、17世紀には香辛料に代わって、タイムやパセリ、ネギなどの香味野菜(ハーブ)がよく使用されるようになった。

・酸味料の変化
中世では料理に酸味をつける目的でワインビネガーやヴェルジュと呼ばれる未熟のブドウをしぼったジュースがよく使用されていた。17世紀にはその代わりに、レモンがよく使用されるようになった。

レモンはインド原産の植物で、9世紀頃にイスラム教徒によって地中海のシチリア島に持ちこまれた。その後、ノルマン人やスペイン人によってシチリア島が征服された結果、温暖な南ヨーロッパを中心に盛んに栽培されるようになった。そして17世紀になると、フランスでも貴族の間で柑橘類を育てるための温室を作ることが流行し、レモンもよく栽培されるようになったのだ。その結果、レモンを料理に使用することは貴族の一種のステータスとなり、見栄えのためにカットしたレモンが料理に添えられることも多かったようだ。

ただし、17世紀には中世に比べて酸味料の使用量は全体的に減少した。香辛料の使用量の減少も考えると、料理の風味はよりマイルドなものに変化したと言える。

・ソースとフォンの発達とバターの利用
焼いたり煮たりした食品に添えるソースは古くからあったものだが、17世紀になるとその中身がより複雑になった。料理におけるソースの重要性が認識されるようになったからだ。

この時代には、煮汁に香辛料や香味野菜を加えたりすることで風味を高めたり、とろみをつけることで食材にからませるようになった。

とろみをつけるためによく使用されたのが小麦粉で、熱した液体をかき混ぜながら少しずつ小麦粉を加えることで、とろみをつけるようになったのだ。また、単純に煮汁を煮詰めることでとろみをつけることもあった。

さらに、17世紀頃からの大きな特徴としてバターを使用することがあげられる。中世にはバターはほとんど使用されることはなかったが、ソースに濃厚さをつけるためにバターが使われるようになったのだ。小麦粉とバターを加熱して混ぜ合わせ、そこに熱した牛乳を少しずつ加えて作る「ベシャメルソース」が作られるようになったのもこの頃だ。

また、西洋のだし汁であるフォンブイヨンの原型が生まれたのも17世紀頃だ。なお、フォンはソースのベースとなるだし汁のことで、ブイヨンはスープのベースとなるものだ。これらは、ウシのすね肉と羊肉、鶏肉を煮込んだものに、ネギ、タイム、パセリなどを縛ったブーケガルニを加えてさらに煮だすことで出来上がる。

このブイヨンに様々な食材を入れて煮込んで作る「ポタージュ」から貴族の食事は始まった。ラ・ヴァレンヌの『フランスの料理人』には、「ヤマウズラのポタージュ、キャベツ入り」や「ガチョウのヒナのポタージュ、グリーンピース添え」、「若どりのポタージュ、コメ入り」などのレシピが収められている。

この料理名のように野菜やキノコ類を多く使うようになったのも17世紀の特徴で、18世紀になるとさらに野菜とキノコ類の使用量が増えて行く。
さて、貴族の食事をさらに見て行こう。

ポタージュの次に出されたのがアントレと呼ばれる鳥獣肉の料理で、「牛タンのラグー(煮込み)」や「仔豚のラグー」、「子ウサギのラグー」などのレシピが載っている。

その次は第2のサービスと呼ばれる焼肉料理だ。キジやウズラなどの野鳥や仔羊、シカ、ウサギ、仔牛などの肉が食べられた。

そして最後にアントルメと呼ばれた、マリネやジュレ、パテ、パスタ、サラダなどの軽い料理が出されて食事は終了となった。

やはり、とても豪華な料理を食べていたようだ。