食の歴史 by 新谷隆史ー人類史を作った食の革命

脳と食を愛する生物学者の新谷隆史です。本ブログでは人類史の礎となった様々な食の革命について考察していきます。

近代フランス料理の巨人アントナン・カレーム-近代フランスの食の革命(1)

2023-03-26 17:28:47 | 第五章 近代の食の革命
近代フランス料理の巨人アントナン・カレーム-近代フランスの食の革命(1

今回から「近代フランスの食の革命」と題して、新しいシリーズが始まります。

フランスの近代とは、1789年のバスチーユ牢獄襲撃に始まるフランス革命から1871年のパリ・コミューン革命までの期間と言われています。

フランス革命では、1792年に王政が廃止され、共和制(君主を置かずに、国民の代表者が政治を行う体制)に移行しました。そして、1793年にルイ16世とマリー・アントワネットが処刑されました。その後は、ロベスピエール率いるジャコバン派が権力を握りましたが、彼は3万人もの反対派の人々を次々に処刑したため、この時代は恐怖政治の時代と言われています。

そのロベスピエールも1794年7月に処刑されます。そして1795年には5人の総裁が政治を主導する総裁政府が設立しますが、不安定な情勢が続きます。ここで、イタリア遠征などで人気を集めたナポレオンが1799年11月にクーデターを起こし、実権を握りました。ナポレオンは1804年に国民投票によって即位し、ナポレオン1世となりました。こうして第一帝政(1804~1814年)と呼ばれる時代が始まります。

ナポレオンは対外戦争の勝利によって大陸内に支配地域を広げていきます。しかし、各地で反乱が起こるとともに、イギリスとの貿易を禁止した大陸封鎖やロシア遠征が失敗に終わり、ナポレオンの勢いも衰えて行きました。そして、1813年にはヨーロッパ諸国が結成した対仏大同盟軍がナポレオン軍に勝利し、パリに入城しました。これを受けて1814年にナポレオンは退位しました。

ヨーロッパ諸国は、ナポレオン戦争後の秩序回復について話し合うウィーン会議を開催しますが、話はなかなかまとまりません。この時の様子は「会議は踊る、されど進まず」という言葉でよく知られています。

結局、会議の途中でエルバ島に流されたナポレオンが島を脱出して皇帝に復帰したことから、1815年6月に議定書が急遽調印されることになりました。ちなみに、ナポレオンはワールテローの戦いに敗れ、セント・ヘレナ島へ流されてその生涯を終えました。そして、フランスではルイ16世の弟のルイ18世が王として復帰しました(王政復古)。

さて、今回紹介するのは「王のシェフ、シェフの王」と呼ばれたアントナン・カレーム(1784~1833年)です。彼はウィーン会議において、各国の首脳に自慢の料理をふるまい、名声をほしいままにしました。そして、その後は、各国の宮廷でその腕を振るいました。こうして、ヨーロッパの高級料理には彼の影響力が色濃く残ることになるのです。


アントナン・カレーム

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マリー・アントワーヌ・カレーム、通称アントナンは、フランス革命前の1784年6月にパリで生まれ、1833年1月に亡くなった。

アントナン・カレームは、パリ郊外の子沢山の貧乏な家に生まれた。ところが不幸なことに、カレームが10歳の時に母が亡くなってしまう。母の死から少しして、父は彼を家から少し離れた酒場に連れて行き、一緒に食事をした。食事が終わると、父はアントナンに言った。

「世の中には良い仕事がある。お前は賢い子だから、頑張れば、きっと幸せがやって来るはずだ。今日か明日には、どこかの店がお前を拾ってくれるだろう」と。

アントナンを養うことができない父親は、こうして彼を捨てたのである。

結局、アントナン・カレームは、その酒場で雇われることになった。そこで皿洗いをしたり、野菜の皮むきをしたり、魚をさばいたりして、5年間を過ごした。

1798年の15歳の時、カレームは一流パティスリーのバイイに入店した。カレームの才能はすぐに見出され、バイイで外務省の注文をこなしていたジャン・アヴィスから菓子作りの指導を受けることになる。なお、シュークリームなどシュー生地を使った菓子は、アヴィスが考案し、カレームが発展させたと伝えられている。

また、カレームは菓子作りのヒントを得るために、空いた時間には国立図書館に通って、様々な建築物について学んだと言われている。こうしてカレームは、バイイで随一の細工菓子(ピエス・モンテ)の技術を身に着けるに至る。ちなみに、折り返して作るパイ生地を考案したのはカレームである。

バイイの顧客であった外務省や富裕層に支持されるようになったカレームは、1803年の19歳の時に独立し、パティスリーショップを開くとともに、フリーの料理人(エキストラ)としての活動を始めた。それに目を付けたのが、フランスの外務大臣タレーランだ。タレーランは、ナポレオンから外交官や外国の君主をもてなすための腕利きのシェフを探すように指示を受けていたのだ。ナポレオンは美味しいものには無頓着だったが、外交の世界では社交が重要であることを理解していたのである。

タレーランは、カレームに1年分の多彩なメニューを考案するよう命じた。この若いシェフは菓子だけでなく料理の世界でもその才能を開花させ、見事にそのテストに合格する。こうしてカレームは、10年以上にわたってフランス政府に仕えることになったのである。ちなみに、しばらく途絶えていたエスカルゴの料理を復活させたのは、タレーランとカレームのコンビである。

やがてナポレオンと決別したタレーランだが、ナポレオン失脚後にはヨーロッパ諸国に請われてフランス代表としてウィーン会議(1814年9月~1815年6月)に出席した。この時、タレーランはカレームを一緒に連れて行き、各国首脳の舌を喜ばせることで、フランスの国益を守ることに成功したと言われている。また、その結果、アントナン・カレームの名声も各国の上流階級の間に広まることになった。

カレームは1815年にはロシア皇帝アレクサンドルの料理長となり、サンクトペテルブルクの宮廷で料理を作った。また、オーストリアのウィーンでも皇帝フランツ1世や英国大使スチュワード卿に仕えた。そして、ロンドンでイギリスの摂政で後の国王ジョージ4世に仕えた後、1819年に再びロシアの宮廷に戻る。しかし、ロシアの劣悪な環境に耐えられなくなったため、パリに戻り、バグラシオン公妃に仕えたのち、最後はロトシルト男爵家で一生を終えた。

アントナン・カレームは、同時代の他の料理人よりも軽くて、盛り付けが美しい料理を得意とした。また、肉類をあまり使わず、多くの先人たちよりも魚を多く調理していた。これは、魚料理の方が健康に良いという考えに基づくものであった。

また、彼自身の料理の腕前だけでなく、数十人もの料理人を統括するシェフとしての能力にもたけていた。特に絶賛されたものに、三日三晩にわたってシャンパーニュ地方で開催されたヴェルテュの宴や、パリのシャンゼリゼで12000名もの出席者を集めて催された祝宴がある。

また、カレームは著作家としても重要な功績を残している。1815年には『Le Pâtissier royal parisien(パリの宮廷菓子職人)』と『Le Pâtissier pittoresque(華麗なる菓子職人)』を、1822年には『Le Maître d'hôtel français(フランスの給仕長)』を、1828年には『Le Cuisinier Parisien(パリの料理人)』を執筆し、さらに美食文学の記念碑である『Art de la cuisine française au XIX° siècle(19世紀のフランス料理術)』を執筆している。

カレームは料理人の服装にも気を遣い、清潔で働きやすい服装を身に着けるようにしていた。ちなみに、料理人が被る「コック帽」はカレームが発案されたと言われている。あのように背が高い形なのは、頭からの熱をより早く発散させるようにしたからだとされている。

空気から肥料を作る-近代の肥料革命(3)

2023-03-20 14:19:54 | 第五章 近代の食の革命
空気から肥料を作る-近代の肥料革命(3)
植物の必須の栄養素は窒素(チッソ)(N)、リン(P)、カリ(K)の3つですが、今回は窒素の話です。

窒素は生物の体を作っているタンパク質の構成要素の一つで、窒素が無いと生命は存続できません。窒素は身近な物質で、空気の約78%は窒素です。ところが、ほとんどの生物は空気中の窒素を利用できません。マメ科の植物と共生する根粒菌などの一部の微生物が、空気中の窒素から窒素化合物を作ることができるだけです。

また、自然界では、雷によっても空気中の窒素から窒素化合物が生成されます。放電のエネルギーによって空気中の窒素と酸素が結びつき、窒素化合物ができるのです。雷が落ちると作物が良く育つと昔から言われていますが、その理由はこうして生まれた窒素化合物が肥料になるからだと考えられます。

このように、微生物や雷によって空気中の窒素から窒素化合物ができることを「窒素固定」と呼びます。微生物によって1年間 に1.8 億トンの窒素が、また、雷によって1年間に 0.4 億トンの窒素が窒素固定されると見積もられています。

産業革命以前であれば、このように自然界で起こる窒素固定と有機肥料によって必要量の作物を育てることができていました。ところが、産業革命による技術革新や、グアノやリン鉱石の利用によって作物の生産量が増加したため、ヨーロッパやアメリカ合衆国の人口が急増しました。この急増した人口を養い続けるためには、グアノやリン鉱石を使用し続けなければなりません。しかし、窒素源であるグアノは近い将来枯渇するであろうことが予想されていました。

人類はこの問題をどのように解決したのでしょうか?

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1898年、英国科学振興協会の会長に就任したウィリアム・クルックスは、文明諸国は十分な食料が無くなるという未曽有の危機に瀕していると演説した。そして、この食糧危機を解決する責任は化学者にあると呼びかけた。

実際に、1890年から1900年にかけて、多くの化学者が大気中の窒素を固定化しようと奮闘していた。1895年、ドイツの化学者アドルフ・フランクとニコデム・カローは、高温にした炭化カルシウムと窒素を反応させることによって、石灰窒素(CaCN2)と呼ばれる窒素化合物の合成に成功した。この方法はフランク・カロー法と呼ばれ、1905年には工業化が開始され、1918年には年間33万トンの窒素を固定するようになった。しかし、フランク・カロー法は高温化のために大量のエネルギーを消費するという欠点があった。

アメリカの電気化学者のブラッドリーとラブジョイは、放電を利用した窒素固定法を開発し、この方法による窒素酸化物(硝酸)の工業的な製造が1902年に開始された。また、ノルウェーのクリスチャン・ビルケランドも、1905年に放電によって空気中の窒素を窒素酸化物として固定するビルケランド・エイデ法を開発した。放電を利用する方法では大量の電力を必要とするが、ノルウェーでは水力発電によってこの電力をまかなうことができた。1911年には、水力発電と窒素固定を組み合わせて肥料を生産するノルスク・ハイドロ社が設立され、1913年までに年間12000トンの窒素から肥料を生産するようになった。

しかし、これらの方法はすべて、より安価な「ハーバー・ボッシュ法」に取って代わられる。ハーバー・ボッシュ法を簡単に言うと、「触媒を利用することによって、高温・高圧化窒素水素からアンモニアを化学合成する方法」だ。ドイツのフリッツ・ハーバーカール・ボッシュによって開発されたことから、この名前で呼ばれている。


フリッツ・ハーバー

フランスの化学者アンリ・ルシャトリエの研究によって、窒素と水素からアンモニアを化学合成するためには高圧が必要であることが明らかになっていた。また、反応を高速で進めるためには、触媒の利用も不可欠と考えられた。

フリッツ・ハーバーは1903年頃から研究を開始し、1909年 7 月にオスミウム触媒を使って550℃、175 気圧の条件でアンモニアの合成ができることを見出した。ちなみに、この成功にはハーバーの研究室に在籍していた田丸節郎の貢献も大きかったと評価されている。

ハーバーがアンモニアの合成に成功したと言っても、1時間に80グラムほどのアンモニアを作るだけの、まだ研究室レベルの生産量だった。工場で大量のアンモニアを生産するためには、さらなる技術開発が必要だったのである。そこで活躍したのがドイツの化学会社 BASF 社のカール・ボッシュアルヴィン・ミタッシュだ。

当時の工場では、550℃、175 気圧という過酷な条件で稼働できる装置は存在しなかった。このような新しい装置の開発を担当したのが化学者・技術者のカール・ボッシュだ。装置の素材や構造について様々な試行錯誤を繰り返すことで、アンモニアの合成に耐えられる装置の開発を行ったのである。

一方、技術者のアルヴィン・ミタッシュは触媒を担当した。ハーバーが当初使用していたオスミウム触媒は高価で扱いが難しかった。そこでミタッシュは、3年間をかけて2万回以上の試験を行うことによって、酸化鉄を主体とし、酸化アルミニウムと酸化カリウムを含む最適な触媒を開発することに成功したのである。

こうして1913年には、BASF 社の工場で1日あたり30トンのアンモニアを合成することに成功する。

肥料を作るために開発された窒素固定法だったが、窒素化合物は爆薬の原料にもなる。BASF 社の工場が建設された翌年には、第一次世界大戦(1914~1918年)が始まった。その結果、BASF 社の工場は爆薬の原料の生産に利用されるようになるのである。ドイツは最終的に敗北するが、BASF 社の工場がなければ、もっと早く終戦になったと言われている。

終戦後、ドイツはハーバー・ボッシュ法を秘密にしようとした。しかし、終戦交渉でドイツの交渉団の一員であったボッシュが、工場の建設に必要な情報を提供してしまったのである。こうして、1920年代以降、フランスやイギリス、アメリカをはじめとする世界各国で次々とアンモニアの生産が行われるようになる。

生産されたアンモニアからは肥料が作られ、世界中の食料生産を支えることになった。20世紀以降に世界人口が急増しているが、その要因の一つがハーバー・ボッシュ法なのである。また、現代でもハーバー・ボッシュ法は窒素固定に無くてはならない技術であり、もしハーバー・ボッシュ法が無いと、20億人以上が餓死すると言われている。

なお、ハーバーは、アンモニア合成法の開発が評価されて、1918年にノーベル化学賞を受賞した。また、ボッシュも、高圧化学における業績が評価されて、1931 年のノーベル化学賞を受賞した。