近代フランス料理の巨人アントナン・カレーム-近代フランスの食の革命(1)
今回から「近代フランスの食の革命」と題して、新しいシリーズが始まります。
フランスの近代とは、1789年のバスチーユ牢獄襲撃に始まるフランス革命から1871年のパリ・コミューン革命までの期間と言われています。
フランス革命では、1792年に王政が廃止され、共和制(君主を置かずに、国民の代表者が政治を行う体制)に移行しました。そして、1793年にルイ16世とマリー・アントワネットが処刑されました。その後は、ロベスピエール率いるジャコバン派が権力を握りましたが、彼は3万人もの反対派の人々を次々に処刑したため、この時代は恐怖政治の時代と言われています。
そのロベスピエールも1794年7月に処刑されます。そして1795年には5人の総裁が政治を主導する総裁政府が設立しますが、不安定な情勢が続きます。ここで、イタリア遠征などで人気を集めたナポレオンが1799年11月にクーデターを起こし、実権を握りました。ナポレオンは1804年に国民投票によって即位し、ナポレオン1世となりました。こうして第一帝政(1804~1814年)と呼ばれる時代が始まります。
ナポレオンは対外戦争の勝利によって大陸内に支配地域を広げていきます。しかし、各地で反乱が起こるとともに、イギリスとの貿易を禁止した大陸封鎖やロシア遠征が失敗に終わり、ナポレオンの勢いも衰えて行きました。そして、1813年にはヨーロッパ諸国が結成した対仏大同盟軍がナポレオン軍に勝利し、パリに入城しました。これを受けて1814年にナポレオンは退位しました。
ヨーロッパ諸国は、ナポレオン戦争後の秩序回復について話し合うウィーン会議を開催しますが、話はなかなかまとまりません。この時の様子は「会議は踊る、されど進まず」という言葉でよく知られています。
結局、会議の途中でエルバ島に流されたナポレオンが島を脱出して皇帝に復帰したことから、1815年6月に議定書が急遽調印されることになりました。ちなみに、ナポレオンはワールテローの戦いに敗れ、セント・ヘレナ島へ流されてその生涯を終えました。そして、フランスではルイ16世の弟のルイ18世が王として復帰しました(王政復古)。
さて、今回紹介するのは「王のシェフ、シェフの王」と呼ばれたアントナン・カレーム(1784~1833年)です。彼はウィーン会議において、各国の首脳に自慢の料理をふるまい、名声をほしいままにしました。そして、その後は、各国の宮廷でその腕を振るいました。こうして、ヨーロッパの高級料理には彼の影響力が色濃く残ることになるのです。
アントナン・カレーム
**************
マリー・アントワーヌ・カレーム、通称アントナンは、フランス革命前の1784年6月にパリで生まれ、1833年1月に亡くなった。
アントナン・カレームは、パリ郊外の子沢山の貧乏な家に生まれた。ところが不幸なことに、カレームが10歳の時に母が亡くなってしまう。母の死から少しして、父は彼を家から少し離れた酒場に連れて行き、一緒に食事をした。食事が終わると、父はアントナンに言った。
「世の中には良い仕事がある。お前は賢い子だから、頑張れば、きっと幸せがやって来るはずだ。今日か明日には、どこかの店がお前を拾ってくれるだろう」と。
アントナンを養うことができない父親は、こうして彼を捨てたのである。
結局、アントナン・カレームは、その酒場で雇われることになった。そこで皿洗いをしたり、野菜の皮むきをしたり、魚をさばいたりして、5年間を過ごした。
1798年の15歳の時、カレームは一流パティスリーのバイイに入店した。カレームの才能はすぐに見出され、バイイで外務省の注文をこなしていたジャン・アヴィスから菓子作りの指導を受けることになる。なお、シュークリームなどシュー生地を使った菓子は、アヴィスが考案し、カレームが発展させたと伝えられている。
また、カレームは菓子作りのヒントを得るために、空いた時間には国立図書館に通って、様々な建築物について学んだと言われている。こうしてカレームは、バイイで随一の細工菓子(ピエス・モンテ)の技術を身に着けるに至る。ちなみに、折り返して作るパイ生地を考案したのはカレームである。
バイイの顧客であった外務省や富裕層に支持されるようになったカレームは、1803年の19歳の時に独立し、パティスリーショップを開くとともに、フリーの料理人(エキストラ)としての活動を始めた。それに目を付けたのが、フランスの外務大臣タレーランだ。タレーランは、ナポレオンから外交官や外国の君主をもてなすための腕利きのシェフを探すように指示を受けていたのだ。ナポレオンは美味しいものには無頓着だったが、外交の世界では社交が重要であることを理解していたのである。
タレーランは、カレームに1年分の多彩なメニューを考案するよう命じた。この若いシェフは菓子だけでなく料理の世界でもその才能を開花させ、見事にそのテストに合格する。こうしてカレームは、10年以上にわたってフランス政府に仕えることになったのである。ちなみに、しばらく途絶えていたエスカルゴの料理を復活させたのは、タレーランとカレームのコンビである。
やがてナポレオンと決別したタレーランだが、ナポレオン失脚後にはヨーロッパ諸国に請われてフランス代表としてウィーン会議(1814年9月~1815年6月)に出席した。この時、タレーランはカレームを一緒に連れて行き、各国首脳の舌を喜ばせることで、フランスの国益を守ることに成功したと言われている。また、その結果、アントナン・カレームの名声も各国の上流階級の間に広まることになった。
カレームは1815年にはロシア皇帝アレクサンドルの料理長となり、サンクトペテルブルクの宮廷で料理を作った。また、オーストリアのウィーンでも皇帝フランツ1世や英国大使スチュワード卿に仕えた。そして、ロンドンでイギリスの摂政で後の国王ジョージ4世に仕えた後、1819年に再びロシアの宮廷に戻る。しかし、ロシアの劣悪な環境に耐えられなくなったため、パリに戻り、バグラシオン公妃に仕えたのち、最後はロトシルト男爵家で一生を終えた。
アントナン・カレームは、同時代の他の料理人よりも軽くて、盛り付けが美しい料理を得意とした。また、肉類をあまり使わず、多くの先人たちよりも魚を多く調理していた。これは、魚料理の方が健康に良いという考えに基づくものであった。
また、彼自身の料理の腕前だけでなく、数十人もの料理人を統括するシェフとしての能力にもたけていた。特に絶賛されたものに、三日三晩にわたってシャンパーニュ地方で開催されたヴェルテュの宴や、パリのシャンゼリゼで12000名もの出席者を集めて催された祝宴がある。
また、カレームは著作家としても重要な功績を残している。1815年には『Le Pâtissier royal parisien(パリの宮廷菓子職人)』と『Le Pâtissier pittoresque(華麗なる菓子職人)』を、1822年には『Le Maître d'hôtel français(フランスの給仕長)』を、1828年には『Le Cuisinier Parisien(パリの料理人)』を執筆し、さらに美食文学の記念碑である『Art de la cuisine française au XIX° siècle(19世紀のフランス料理術)』を執筆している。
カレームは料理人の服装にも気を遣い、清潔で働きやすい服装を身に着けるようにしていた。ちなみに、料理人が被る「コック帽」はカレームが発案されたと言われている。あのように背が高い形なのは、頭からの熱をより早く発散させるようにしたからだとされている。