食の歴史 by 新谷隆史ー人類史を作った食の革命

脳と食を愛する生物学者の新谷隆史です。本ブログでは人類史の礎となった様々な食の革命について考察していきます。

江戸時代の和菓子(1)-近世日本の食の革命(12)

2022-02-09 13:23:06 | 第四章 近世の食の革命
江戸時代の和菓子(1)-近世日本の食の革命(12)
日本でも欧米でも、いわゆる菓子と呼ばれるものの多くは砂糖が入っていて甘いものです。もし、地球上に砂糖がなかったら、多くの菓子が現在のものとは別物になっていたと思われます。

砂糖の普及は菓子作りの進歩にとても密接に関係してきました。例えば、ヨーロッパでは、17世紀から18世紀にかけて砂糖が手に入りやすくなった結果、菓子作りの技術が大きく発展しました。同じように日本でも、江戸時代になって砂糖が広く普及するようになって、現在私たちが口にする和菓子が作り出され始めました。そして、江戸末期までに現在の和菓子の大部分が誕生します。

一方、このような和菓子の発展には、砂糖以外の材料が入手しやすくなったという背景もあります。例えば、和菓子には、米粉や餅粉、小麦粉などの穀物の粉が使われていますが、江戸時代になると一般庶民も石臼を所有できるようになり、和菓子作りに様々な粉を使えるようになったのです。

今回は、以上のような江戸時代の和菓子の発展について見て行きます。



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平安京以来、京都が菓子作りの中心だった。これは菓子の消費者が京都に多かったからだ。つまり、菓子は貴族の宴には欠かせなかったし、貴族は日常でも餅などの菓子を食べていた。また、餅は京都にたくさんある寺社でのお供え物としてよく作られていた。

鎌倉時代になると中国から帰国した留学僧や中国人の僧によって禅宗が日本に伝えられ、鎌倉仏教として武士や庶民に広がって行った。この禅宗が新しい菓子生み出すきっかけとなる点心をもたらした。

禅宗では眠気を覚ますために茶を飲んでいたが、その時の茶うけとして食べられていた簡単な食事が点心だ。現在は菓子となっている羊羹(ようかん)や饅頭(まんじゅう)は中国から伝わった点心で、菓子ではなく料理の一つだったのだ。なお、中国では羊羹や饅頭には羊肉が詰められていたが、肉食が禁じられていた日本では塩味の小豆餡が代わりに使われた。

16世紀に入ると、羊羹や饅頭は料理としてだけでなく、砂糖などで甘く味付けされて菓子としても食べられるようになった。この時代には裕福な商人や武将を中心に茶の湯が流行したが、甘い羊羹や饅頭は茶菓子として取り入れられることで、菓子として定着して行った。

また、茶人たちは新しい菓子を創作するとともに、金平糖などの砂糖を使った南蛮菓子も積極的に取り入れた。このように茶の湯で食べられた菓子はどれも高価で手が込んでおり、民衆の手に届くようなものではなかった。

一方、室町時代後半になると、京都の有名な寺社の門前などで茶と一緒に、団子・餅などの素朴な菓子を参拝者に販売する茶屋が登場し、民衆も気軽に菓子を食べられるようになってきたと言われている。

17世紀の江戸時代になっても同じような状況が続いていたが、元禄時代(1688~1704年)の頃になると、上方(京都・大阪)を中心に元禄文化が花開き、和菓子の世界は飛躍の時を迎える。

その原動力となったのが砂糖の輸入量の増加と、石臼の普及による新しい「米粉」の開発だ。この頃までに、下記のような「上新粉」「白玉粉」「みじん粉」「道明寺粉」などの米粉が作られるようになったのだ。

上新粉:うるち米を水洗いしてから製粉し、ふるいわけしたもの。
白玉粉:もち米を水洗いし、水漬けした後、水を加えながら製粉したもの。
みじん粉:もち米(又はうるち米)を烝煮後、乾燥し、焙煎して製粉したもの。
道明寺粉:もち米を蒸した後、粗めにひいたもの。

上新粉からは柏餅、ちまき、外郎(ういろう)などが作られるようになった。また、白玉粉からは和菓子の重要な素材である「求肥(ぎゅうひ)」が作られる。求肥は白玉粉に砂糖や水飴を加えて練り上げた柔らかい餅で、砂糖の保水効果によって時間がたっても柔らかさが失われないため、和菓子に広く利用されるようになる。

みじん粉は菓子の表面にまぶして装飾に使われたり、落雁(らくがん)の材料に使われたりする。また、道明寺粉はツブツブ・モチモチの食感が特徴で、次回でお話しするように関西風の桜餅に使われたり、おはぎの材料になったりする。

また、17世紀半ばには、トコロテンから「寒天」を作る方法が開発され、これも和菓子に利用されるようになった。テングサという海藻の煮汁を固めたものがトコロテンだが、これを凍結して乾燥させると、雑味が抜けた寒天の粉末ができる。これをもう一度水に入れて熱して固めたものは海藻臭さがなく、美しく透き通っていたため、和菓子の良い材料になったのだ。

こうして、京都を中心に洗練された新しい和菓子が作られていった。そのコンセプトは「五感を楽しませる」で、味覚だけでなく、視覚・嗅覚・触覚(食感)・聴覚(食べた時の音)のすべてを心地よく刺激する菓子が創作された。当時の記録からは、色とりどりの200種類以上の菓子があったことが推定されている。

このような京菓子は「上菓子」と呼ばれ、宮中(御所)に納められるとともに、公家や上級武士、裕福な商人たちが催した茶会などの集まり(サロン)で重用された。また、商人街や本願寺の門前町で和菓子を売る店が増えて行った。他の門前町の菓子も、砂糖の普及や新しい菓子の登場の影響をうけて、大きく進歩したという。

こうして一つの完成形を迎えた上菓子は全国に広がって行く。江戸では京都の和菓子屋が店舗を構え、一部の店は幕府の御用達となった。また、上菓子の作り方を習った職人たちも様々な土地で店を開いた。

このように各地に根付いた上菓子はそれぞれの土地で独自の工夫が施されて、現代に残る銘菓が生み出されて行く。特に江戸は京都に並ぶ菓子作りの中心地として発展して行った。

一方、江戸などで一般の民衆が食べる菓子も砂糖の普及とともに発展した。ただし、高価な白砂糖ではなく、精製度の低い黒砂糖が主に使用されたという。そうして作られた菓子は「雑菓子」と呼ばれ、これがのちに「駄菓子」になったとされている。

(次回は、江戸時代に誕生したいろいろな和菓子の話題です。)


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