食の歴史 by 新谷隆史ー人類史を作った食の革命

脳と食を愛する生物学者の新谷隆史です。本ブログでは人類史の礎となった様々な食の革命について考察していきます。

古代ローマの農業の発展と衰退(1)

2020-07-14 20:15:47 | 第二章 古代文明の食の革命
古代ローマの農業の発展と衰退(1)
古代ローマは政治形態から次の三つの期間に分けることができる。
  • 王政ローマ(紀元前753~前509年):7人の王の時代、詳しい記録は残されていない
  • 共和政ローマ(紀元前509~前27年): 君主を持たない時代
  • 帝政ローマ(紀元前27~476年): 皇帝の時代
この中で、古代ローマが最も発展したのが二つ目の共和政ローマの期間だ。この時には以下のように新しい領土の獲得が次々と成し遂げられた。

イタリア半島統一(前272年)、シチリア西部を獲得(前241年)、西地中海征服(前201年)、東地中海を支配(前170年頃)、マケドニアを属州化(前148年)、カルタゴ征服しアフリカを属州化(前146年)、シリア征服(前64年)、ガリア征服(前50年)



さらに、帝政期の初期に下記の地域を属州化することで、古代ローマの支配地域はほぼ最大に達する。

エジプトを属州化(前30年)、ダキアを属州化(106年)、メソポタミアを属州化(117年)

古代ローマは農業国だった。そして農業のあり方がこの古代国家の盛衰に大きく関わっていたと同時に、上で見たような古代ローマの版図の拡大が古代ローマの農業のあり方を大きく変化させた。そしてこの農業のあり方の変化が、古代ローマが衰退していく大きな要因になったと考えられるのだ。

そこで今回と次回で、古代ローマにおける農業の変化について見て行こうと思う。

共和政初期のローマの農場は小規模な家族経営だった。つまり、ローマの中産階級の一般市民は小さな自分の農場を持ち、自給自足の生活を送っていた。そして戦争があると自前で揃えた武器を携えて戦闘に参加した。農耕も戦闘も自分と家族の生活を守るための重要な活動であり、彼らはこのような生活に誇りを持っていたと思われる。

古代ローマ人は作物を育む土壌を「テラ・マーテル(Terra Mater、母なる大地)」と呼び、ローマ神話の大地の女神と同一視していた。テラはラテン語で「大地」を意味する語で、現代日本でも大地や地球を意味する言葉として使われることがある。

共和制に移行した紀元前500年頃から徐々に鉄が農具に使用されるようになったことが、農作物の生産性を大きく向上させる要因になった。金属器としてそれまでは青銅が使われていたが、青銅が採れる地域は限られており、とても貴重な金属であったため農具には使用されなかった。一方、鉄はいたるところで手に入り安価だったし、堅く、耐久性があり、加工も簡単なため、農具に広く使用されるようになった(鉄の利用は人類史上の画期的な出来事で、なかなか面白いテーマなので、古代中国のところで詳しくお話ししたいと思います)。

鉄の農具は堅く先が鋭いため、土壌を深く耕すことができる。土が深いところまで柔らかくなると植物は根を伸ばしやすくなり、たくさんの水と栄養を吸収できるようになって育ちが良くなるのだ。この結果、作物の収穫量が増えることになった。

また、鉄製の斧や鋤などを使うことで木を切り倒したり木の根を掘り返したりも楽にできるようになったので、森を農地に変えることが盛んに行われた。紀元前500年頃のイタリア半島の大部分は森におおわれていたが、鉄の農具の普及によって紀元前300年頃までに多くの森林が農地に変えられていった。そして、新しく作られた農地には灌漑設備によって水が供給された。たくさんの水道を作ったようにローマ人は水利工事にもたけていたので、農地に水を引いてくることもお手の物だった。こうして優良な農地が増えたことによっても生産量が増大したのだ。

以上のように農作物の生産力が向上したことで国力が増強され、市民も裕福になった。裕福になると良い武器を買うことができるので、戦闘力も強化されたと考えられる。こうして紀元前3世紀以降に、ローマ軍はイタリア半島を統一し、ギリシアやカルタゴとの戦い勝利していくわけだ。

ところで、この頃のギリシア人は大きな土地を所有し輪作という新しい農業を始めていた。輪作とは、同じ耕作地に穀物や牧草などのいくつかの種類の作物を一定の期間ごとに順番に栽培する農法のことである。同じ作物を作り続けると、特定の栄養素が作物に奪われることで枯渇し、いわゆる「連作障害」が起こるが、輪作ではこれを防ぐことができるのだ。

また、カルタゴも農耕の先進国だった。ローマがカルタゴを徹底的にたたいた理由の一つが、カルタゴが自分たちよりも優れた農業技術を持っていることに脅威を感じたからだと言われている。そのため、カルタゴを征服した後に、作物が二度と育てられないようにカルタゴの農地に塩をまいたのだ。なお、ローマ軍がカルタゴを占領した時には、カルタゴの知識が詰まった図書館の蔵書はアフリカの諸王に提供したが、「マゴの農書」と呼ばれるカルタゴの農業についての書物だけは自国に持ち帰り、ラテン語とギリシア語に翻訳したという。

カルタゴとローマの戦いはこちら⇒「カルタゴとローマの戦い」

ローマがギリシアとカルタゴを征服することによって、両国の新しい農耕技術がローマに導入されることでさらに生産性が向上した。そして、共和制の後期から帝国期の初期にかけてローマの農業の生産効率は最高に達したと推定されている。
ところが、戦争の勝利が市民たちに悲劇をもたらすことになる。
(つづく)


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