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ポジティブな私 ポジ人

2番目の家

小学校へ上がる頃、父の仕事上の関係から生まれ故郷釧路から札幌へ引っ越してきた。

お婆さんが一人で暮らしている一軒家に間借りした。かなり古い木造のお家だった。私が物心ついてから2番目の家だ。

小さな門柱を入ると、茂るに任せた木々が常に日射しを除けているので、地面は湿気で黒々していた。

引き戸の玄関のすぐ横には、ホウセンカが無造作に生えていた。
花が終わり、実になると、指でそっと触れた。種がはじけて飛ぶさまが楽しかった。

部屋は数室あったが、平屋であった様に記憶している。

日当たりの良い縁側があり、時折大家であるお婆さんは、そこで新聞紙を貼り合わせ、紙袋をいくつもこしらえていた。
のりは、大きなアルミの鍋に小麦粉を水に溶かして煮て作ったものだった。私も刷毛で新聞紙にのりを塗り、手伝った。

出来上がった紙袋は、いつも近所の八百屋さんのところに持って行っていた。頼まれていた訳ではない様子で、お婆さんの善意で作られた袋だったのだろう。
そこでお買い物をすると、果物や野菜はお婆さんが作った紙袋に入れてくれるのだった。

縁側を出ると、庭があり、お婆さんはよく手入れをしていた。
いつだったかオケラを捕まえて見せてくれた。オケラは害虫なので駆除していたのだろう。

昆虫の中でもオケラは大型だ。オケラを初めて見た私は、その手がモグラの手の様でびっくりした。およそ虫という感じがしなかった。

当時は昼にはハエが、夜には蚊が部屋を飛んでいるのが当たり前の時代だったが、お婆さんの家にはノミもいた。
絨毯の上をピョンピョン飛ぶので、ビックリした。
それも初めて見たもののひとつだった。
後にも先にもノミを見たのはその家でだけだった。

私はその家から、歩いて数分の幌西(こうさい)小学校に通った。

クラスで私の隣の席になった男子は、お金持ちのお坊ちゃんH君だった。栄養状態の良い子で肥満では無いが、肉付きが良く背が大きかった。
母親同士が仲が良かったので、何度かH君の家に遊びに行った事がある。

H君の家は、ものすごく広くて部屋数も多く、ピアノもおトイレやお風呂も複数あるらしく、いつも自慢していた。
お庭には、公園にあるようなブランコが設置されており、砂場もあり、かなり広かった。

社会科の時間に、「自分の家の周辺の地図を描く」という授業があった。
私は真剣に自分の家の周辺の地図を描いていたが、隣に座るH君は私に向かって
「お前の家、古くて汚いからウンコ色だ」
と言って、H君が描いた小さな私の家らしき建物を、黄土色のクレヨンで乱暴に塗りつぶしていた。

私は気分は良くなかったが、私の住んでいる家が人から見るとそのように見えるのかと、自分では全く考えたこともなかったので、意外に感じた。

自分の家がお金持ちであることを“鼻にかける”H君の事を好きでは無かったけれど、H君のお母さんは美しくて上品で素敵な方だったので、好意を寄せていた。

長い黒髪を真ん中から分けたボブスタイルで、シンプルだが品の良いワンピースを着ていた。
声が暖かく、優しい方だったので、そんな人が母親であるH君が羨ましかった。

お婆さんの家には半年も暮らさなかったのではないだろうか。
再び父の仕事の関係で、転校する事になり、引っ越す事になった。

とても短い期間だったが、H君が強烈に印象に残っている。他のクラスメートの事は一切覚えていないのに。
自慢ばかりする子だったけど、社会科の地図の件を除けば、そんなに悪い子じゃなかった。
今頃、どうしているだろうか。今も、裕福なままだろうか。

お婆さんは私達が引っ越したあと、あの広い家に一人で住んでいたのだろうか。あの頃、すでに70歳は越えていたかと思う。

遠い記憶のはずが、歳のせいか年々鮮やかに蘇る。



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