2年ほど前に製作された「いじめ」についてのアメリカとカナダでのドキュメンタリーを三夜連続で録画しておいた。
あまりの酷暑で何もやる気にならず、『そうだった、見ようか』と見てみると・・・・・。
やはり日本を上回る身体的な暴力と執拗なまでの言葉での暴力が展開されていた。
うぅぅ~む、なんでここまで徹底的にいじめるのかな?
昨日も私が住む東海地方の名古屋市では中学2年生の男子生徒さんが数人の男子生徒と
担任から言葉の攻撃を受けたと遺言ともとれる内容を残して世を去った。
起こる素地は、非常に簡単なこと。
それは個人がもつ個人的なイライラじゃないかと思う。
しょせん自分が解決をしていかねばならないことなのに
その憂さ晴らしを簡単にできそうな相手に向けてうっぷん晴らしをするのだ。
アメリカは自由で個性が尊重されるというのは単純すぎると思う。
アメリカ人の自由はとても限定されているというのが今まで英語を学んで得た実感だ。
というのも、アメリカ人の中にある信仰にも似た「尊敬できる人物のあるべき姿」というのが
非常に典型的だということ。
親が子供に望む第一は、「スポーツか勉強で親を喜ばせること」。
どうもスポーツが上のような気がする。
とくに花形のバスケットボールかアメリカンフットボールで優秀な選手になれれば
親子関係はかなりうまくいきそうだ。
ところがこの逆、スポーツも勉強もイマイチ。
コミュニケーション能力にも劣るというタイプ、
このドキュメンタリーではアレックスのような子供は社会に対して悪意を持ちやすくなるのだろうと思う。
とくに思うのは、親の対応の大事さじゃないかと思う。
私がアレックスのような息子をもったことで中学に入学後、集団いじめにあった時に彼に言ったことは、
「あなたは悪くない。あなたは私とお父さんの大切な宝だ。だれが何と言おうと絶対に私たちが命を賭けて守ってやる。でも、すべてを守れるわけじゃない。自分で戦って勝ち取らなくちゃいけないときもある」
家庭でいじめられている子供を両親が精神的に徹底してサポートすることが
どれほど残酷な子供の世界で孤独な戦士として戦えるのか決まるように思う。
そしてきっと親友と呼べる人物に出会える日が来る。
キレキャラで有名になったカンニング・竹山さんが母校に先輩としてクラスの指導をした
NHKの番組を見たことがある。
彼が放ったテーマは、「親友ってなんだろう」「親友のいる人生とは?」というもの。
せっせと探し求めるのじゃなくて、そして相手からしてもらうばかり期待するのじゃなくて、
見返りを求めずに相手とつきあっていくという態度から、親友の存在が身近になっていくように思う。
人間を死へ駆り立てるものをどう排除するか。
私は塾講師としてサブカルチャーの立場の人間だけど
親でも先生でもない立場から、多少なりとも助言をして若者を良い方向へ導いてやりたいと思う。
大人のイライラや情緒不安定は子どもに伝わり、
子どもの世界もたいへんそうです。
Lineとかが子どもたちにとっては当たり前のものになって、ますます彼らを追い詰めてるような気がするのですが。
心配して防げるものではないけど、わが子がいじめられたり、(またはいじめたり)するようになった時、受け止める覚悟はしておかないといけないかなと思うこの頃です。
13日から昨日まで2泊3日で横浜の娘のところに行ってました。
返信が遅れてごめんなさいね。
私自身が母親として、そして人間がどうやって服従させられるのかという
個人的な興味もあっていじめの問題は尽きない話題です。
ピッピさん、人が誰かの命令に従うって何が理由になるか考えたことあります??
こういうことにすごい好奇心があるので、教育哲学を専攻したんだなぁって自分でも思うんですわ。
学校時代だけが教育で社会に出たら関係ないってことは絶対になさそう。
人が誰かの指示にしたがうための一番良いと思われるのは何なんだろう?
それを自分で考えて答えを出していくのが良いことじゃないかと思ったりします。
簡単に解答をもらえる癖をつけないこと。
こういう不確実なことって、ネットの現代だと一番嫌われそうなことですね。
でもそのプロセスがとっても大事だと思います。