阪神間で暮らす-2

テレビを持たず、ラジオを聞きながら新聞を読んでます

古賀茂明氏 「憲法9条改正で頭がいっぱいの安倍総理が財政健全化を先送りする理由」

2018-05-26 | いろいろ

より

*****
古賀茂明「憲法9条改正で頭がいっぱいの安倍総理が財政健全化を先送りする理由」

 5月3日、安倍晋三総理は、憲法改正を求める民間団体の集会へのビデオメッセージの中で、「この1年間で憲法改正の議論は大いに活性化し、具体化した」と述べた。

 モリカケ疑惑、自衛隊日報問題などの相次ぐスキャンダルにまみれて、憲法改正どころではないという声が与党内でも囁かれる中で、安倍総理の頭は、悲願の憲法改正に向かって、物事は着々と進展しているという幻想に支配されているようだ。

 一方、憲法記念日前日の5月2日、日本経済新聞は1面トップに、「財政黒字化25年度に 5年先送り 規律維持 綱渡り」という 見出しを掲げた。連休明けからは、その他の全国紙も連日のように財政健全化計画についての報道を大きく展開している。

 これらの報道によれば、政府は2019年度以降の新たな財政健全化計画を検討しているが、国と地方を合わせた基礎的財政収支を黒字化する目標時期を25年度としようとしている。報道のとおりだとすれば、これまでより5年先送りだ。

 基礎的財政収支とは、一言で言うと、借金のことは忘れて、毎年の税収などの国の収入から、毎年必要な政策的な経費(社会保障費、公共事業費、防衛費など)を引き算した差額のことだ。プライマリーバランス(PB)ともいう。これが黒字なら新たな借金はせずにすむが、赤字だと新たな借金をしなければならないことになる。

 日本の財政は火の車で、PBが黒字になったことはない。つまり、毎年PBが赤字で、その分の借金を積み重ねてきた。その結果、02年度に約601兆円だった公債等残高は17年度には約1042兆円に膨らんだ。

 政府はこれまでもPBを黒字化すると言い続けてきたが、その時期を繰り返し先延ばししてきた。06年には「11年度の黒字化」目標を掲げて失敗。09年に「今後10年以内の黒字化」へ先送り。10年には「20年度の黒字化」と微修正したが、これも失敗は確実となった。

 そこで、今回は、「25年度黒字化」と5年も先送りする方針を定めようというのだが、それでもその達成は容易なことではない。そのため、現在の議論でも、既に様々な前提条件をかなり甘く設定するという本末転倒の話になってきている。つまり、5年先送りでも、現実には達成困難というのが実情である。


 このように、計画が決定される前から実現困難と言われるくらいだから、議論の過程で、厳しい歳出抑制がテーマになるのは自然の流れだ。各紙報道によれば、歳出抑制のために、今後3年間の社会保障費について、75歳以上の人口の伸びが鈍化する見通しを反映して、従来以上にその伸びを抑制する方向だという。

 現行の財政健全化計画では、高齢化に伴う社会保障の自然増の分が毎年6000億円以上あると想定している。このため、それを16~18年度の間、毎年1000億円程度抑えて3年で1.5兆円の増加に抑えることにしていた。

 それにならえば、新計画の19~21年度の目安として、社会保障費を1.5兆円の増加にとどめるということになるのだが、財務省は、さらなる切り込みを狙っているという。実は、20~21年度に75歳を迎える人口は、第2次世界大戦の影響で出生数が少なかったことでかなり減少する。これを勘案すると、20~21年度の社会保障費の伸びは、16~18年度の想定より年1000億円程度減る可能性があるというのだ。このため、数値目標は明示しないものの、事実上、その程度の抑制を目指そうということのようである。

 こうした方針は、21日に開く経済財政諮問会議で、民間議員の提言として提示され、6月にまとめる予定の新しい財政健全化計画に反映されることになるという。

 ここで、読者の皆さんは、大きな違和感を抱くのではないだろうか。それは、「社会保障費の見直しを歳出抑制策の中心」とするということばかりが連日大きく報じられるのに対して、公共事業費や防衛費などの他の政策的経費削減の議論がまったく報じられないのはなぜかということだ。

 国の借金返済のための費用などを除いて、政策を実施するために必要な経費である政策的経費のうち、社会保障費は約44%を占めているから、ここに切り込むことは当然のことだ。社会保障費であっても、無駄な経費の支出は許されない。

 しかし、だからと言って防衛費など他の経費が聖域になるというのは理屈が通らない。「どこかおかしい」、そう感じるのは、自然なことではないだろうか。


■安倍総理の憲法9条改正で何が起きるのか
 
 私が、今回のコラムで、憲法改正と財政健全化計画を一緒に取り上げたのにはもちろん理由がある。それは、この二つの問題を結びつけて考えると、今、日本という国の「国の形」を大きく変えようとしている安倍総理の目論見が鮮明に浮かび上がってくると考えるからだ。

 冒頭に紹介した通り、憲法記念日のメッセージで、安倍総理が憲法9条改正に執念を燃やしていることがあらためて明らかとなった。

 安倍総理の決まり文句は、「命がけで日本を守ってくれる自衛隊が違憲だというような憲法学者が多い。これでは、自衛隊員に申し訳ない。違憲の疑いをなくすために、9条の2を新設して、自衛隊保持を憲法に明記するべきだ。9条の1項、2項には手を付けないので、平和主義は不変で、自衛隊の役割にも何も変化はない。自衛隊があるからそれを保持すると書くだけのことだ」というものである。一見、なるほどと思ってしまう人もいるかもしれない。何も大きな変化はないのだとしたら、「国の形が変わる」などと騒ぎ立てるのは、おかしいということになる。
 
 安倍総理の論理には、様々な反論があるが、私が最も懸念しているのは、今自民党が考えている9条の2が創設されると、国防以外の様々な政策のプライオリティが下がり、国民生活よりも防衛費が優先されることになるという点だ。そして、もう一つの懸念は、徴兵制や核武装に道を開くことである。

 これらの点は、5年ほど前から私が指摘してきたことだが、あらためてそれを紹介しておこう。

 現在、政府の解釈では、「自衛隊保持は合憲」とされている。ここで、注意すべきなのは、「合憲」という意味は自衛隊があっても悪くはないという意味に過ぎない。決して、「自衛隊がなければいけない」ということではない。「自衛隊を持たなくても合憲である」という意味を含んでいる。

 そんなことは当たり前だと誰もが思うだろうが、意外とこの点が見過ごされている。

 自民党が現在検討している9条改正案は、「第九条の二」という条項を新たに設けるものだ。その「第九条の二」第1項には、こう書かれている。


 九条の二 (1)前条の規定は、我が国の平和と独立を守り、国及び国民の安全を保つために必要な自衛の措置をとることを妨げず、そのための実力組織として、法律の定めるところにより、内閣の首長たる内閣総理大臣を最高の指揮監督者とする自衛隊を保持する。

 これだと、自衛隊の保持が「憲法上の義務」となる。つまり、自衛隊を持たなければ憲法違反になってしまうのだ。「自衛のための軍隊なら持っても合憲、持たなくても合憲」という現状の憲法とは、意味がまったく変わってくるのである。

 しかも、自民党の改正草案には、「我が国の平和と独立を守り、国及び国民の安全を保つために必要な自衛の措置をとることを妨げず、そのための実力組織として」という修飾語がついている。このことから、その目的を達成するのにふさわしい自衛隊を持つ必要があるということになる。しかも、それが憲法上の要請となるのだ。

 例えば、中国が軍拡を進めれば、今の装備のままでは日本の国を守るに十分ではない。それでは、憲法の要請にこたえられず、憲法違反となる。したがって、中国に負けないように軍備を増強しなければならない。

 という理屈が成立することになるのだ。

 「国を守るために必要な軍備」というものを考えた時、当然、一定規模の自衛隊員の維持が責務となる。しかし、現在でさえ、自衛隊の高齢化は深刻な問題で、今後、若手隊員不足が深刻化するのは必至だ。若年労働者の不足により、今、日本中の労働市場で若者の争奪戦が起きている。給料もどんどん上がるだろう。そんな中で自衛隊員を新たにリクルートするのは至難の業だ。

 そうなると、徴兵制を採るしか道はないということになる。それが憲法上の義務だという考えになるのだ。石破茂元防衛相は、徴兵制導入の議論に関連して、自衛隊員になることは、憲法18条が禁止する「苦役」に当たるのかという疑問を投げかけたことがある。国を守る仕事は、聖なるお仕事ということだろう。今は徴兵制は憲法違反だというのが政府見解だが、集団的自衛権と同じく、ある日突然その解釈を変えて、9条の2の要請にこたえるためには認められるということになる可能性が十分にある。


 この議論を進めていけば、核武装も例外ではない。核武装も、「国を守るため」には必要という議論が出て来るのは時間の問題になっているのではないだろうか。ちなみに、安倍総理は、以前、小型の核爆弾なら違憲ではないという趣旨の発言をしたことがある。

 前述した通り、9条改正が実現すれば、強力な自衛隊を保持することが憲法上の義務となり、他の政策よりも優先するという解釈を生む。そうなれば、憲法25条の生存権よりも防衛費優先などという議論になってくるだろう。新たな条文として付け加えられたものは、それより前から書いてあることよりも優先だという解釈も主張されることは確実だ。

 25条2項では、「国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない」と書いてあるが、自民党案の9条の2が、自衛隊を「保持する」と言い切っているのに対して、25条2項が、単に「努めなければならない」としか書いていないのは、比較上いかにも弱い書き方になっている。

 安倍政権の大盤振る舞いは続き防衛費は青天井に

 来年度(19年度)予算では、19年10月の消費税増税対策と銘打って、莫大なばらまき予算が計上されることが確実だと、連日のように報道されている。もちろん、公共事業も、最も即効性が高い予算として、全国にばらまかれることになるだろう。よほどカネが余っているのかと錯覚しそうな勢いだ。

 防衛費関連では、年末に向けて、新中期防衛力整備計画の策定が進んでいるが、ここでは、これまでの専守防衛を超える様々な装備を追加することが検討されている(「中期防衛力整備計画」という単語を入れてネット検索すれば、驚くほど多種多様な新しい装備品の導入が計画されていることがわかる)。また、トランプ大統領に媚びる安倍総理が、米国のほぼ言い値で武器を買う約束を立て続けにしているのはご承知のとおりだ。防衛費は、まるで青天井で、歯止めが失われてしまった感さえある。

 その中で、削減の議論がされているのが、社会保障費だけ、というのは、前述した通り、「どこかおかしい」という違和感を生む原因となっている。

 一言で言えば、国民から見たとき、いかにも「優先順位がおかしい」のだ。

 憲法9条改正は、単に安全保障政策の問題と言うだけではすまない。今の議論には、国民生活をどこまで犠牲にして防衛費にかけるのかという論点が完全に欠落している。

 戦後70年間、日本は、「軍事より国民生活優先」という戦略的路線を採ってきた。それが、今、百八十度転換して、「国民生活より軍事優先」の路線を採ろうとしている。

 「国の形が変わる」とは、まさにこういう時に使う言葉ではないのか。

 今のままでは、「国があっての国民生活だ!国防優先に決まっているだろう!」という乱暴な議論がまかり通ることになる。そうなる前に、冷静な議論をしておくべきではないのか。国民生活を視野の中心に置けば、安倍総理が考えている抑止力理論など、全く絵に描いた餅に過ぎないことがわかるはずだ。
*****




コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。