拈華微笑 ネンゲ・ミショウ

我が琴線に触れる 森羅万象を
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  『観世音』か『観自在』菩薩か?

2024年06月21日 | 東洋自分なり研究所

 『摩訶般若(マカハンニャ)〜波羅蜜多(ハラミタ)〜心経(シンギョウ)・・・』のタイトルを読み上げると、

  第一行目に出てくる言葉が『観自在菩薩』の名前だ。

 

  サンスクリット語の『アヴァローキテーシュバラ』を鳩摩羅什(5世紀)が『観世音菩薩』と訳し、後に玄奘三蔵(7世紀)が『観自在菩薩』と訳した。

  つまり、『観世音菩薩』=『観自在菩薩』という事であるが、これって今流行りの『重ね合わせ』・『もつれ』現象で言葉の意味やその働きのシステムを

  その菩薩名によって言い表している・・・のだが、そのように読み取っている人は少ない。

 

  この二つに名前は、般若心経に次に続く文句『行深般若波羅蜜多時』(深く般若智を行ずる時)の状態を表し、『悟り』の様子を具体化して観せている。

  ・・・というのが、何の学識もない馬骨の禅修行時に徐々に気づいて来たことであった。

  禅寺で坐禅をし、お経を唱え、作務をし、老師の提唱に耳を傾ける・・・といった修行をするなか、一つ風穴が開くと猛烈な勢いで般若智を解する…。

  私の場合、その風穴は『観音』と言う現象で、それが即『観自在』と言う形で日常を生きていくべく『道』となった気がする。(永い時間を要したが)

 

  現在の般若心経を訳した玄奘三蔵は『観世音菩薩』ではダメで、『観自在菩薩』でなければならないと主張したというが

  仏教の『衆生無辺誓願度』の精神にのっとれば、般若智を自在に活用して救済にあたる『観自在菩薩』でなければならなかったであろうが

  自己の仏性の声を聞き取る、つまり仏性に目覚める(自己自身を救済)には、『観世音菩薩』でなければならなかったのだ。

  それをもっと簡単にいうと、仏性覚醒の為の受信器としての『観音』は即、般若智の発信器、『観自在』として世に働き出る・・・といったような事か。

 

  映画マトリクスの緑の『マトリクス・コード』とか、映画ルーシーの空間に読み取るデーター・・・などは般若智コードを読み取る

  『観世音・観自在』状態現象を映像化したものと言えば、ナウい若者にイメージしやすいだろうか・・・(?)

  

  こんなことを考えるのは私一人か?と思って今朝ググってみると…

  現円覚寺老師様が、観音様のことを『禅門においては、修行して達することのできる究極であります。』・・・と言っているのを読んで不二落ちた。

 

         

          高校生の頃、描いたこの二つの絵・・・菩薩はこの関係のReligion(再び結びつける)を知っていたのか?

 

  



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