拈華微笑 ネンゲ・ミショウ

我が琴線に触れる 森羅万象を
写・文で日記す。

  『 無 ・ 我 』

2023年09月02日 | 東洋自分なり研究所

  私たち漢字を使用する東洋人にとって『考えるな、漢字ろ!』はすでに『漢字』の中に『感じ・観じ』る・・・という仏陀に成るための

  『悟り方程式』(システム)が組み込まれていた事は、古(いにしえ)の仏教徒、ことに禅仏教徒には自明なことであったであろう。

 

  インドから仏教が漢字の国、中国に入ってきて、『無我』の何たるかを体得した翻訳僧たちによって、サンスクリット仏語が漢訳された時

  その方程式は最大限に活用されたのだ。

  その時期は偶然にも『大乗(仏教)』運動の隆盛の時期と重なって、『誰もが仏陀になれる』という『東洋のルネッサンス』とも言うべく

  『人間性の回復』の喜びに満ちた時期で、中国人はそれをイタリア人のような絵画ではなく、次々に素晴らしい『漢字』を創作することで表現した。

 

  しかし、それからかれこれ2000年の歳月を経て、『漢字』にその『方程式』がある事すらほぼ完全に忘れ去られてしまった。

  たとえば、『自分』という漢字・・・『自ずから分かれ、自ずから分かる』・・・これが、『色・空』の『重ね合わせ』であり『もつれ』であることを

  知っている人は少ない。またこのような大切な日常用語を、このように教える先生も親も僧侶すら皆無であることが悲しい。

 

  我々、仏教国に生まれながら仏教理念『諸行無常・諸法無我・涅槃寂静』の三法印・・・を知る人は何%いるだろうか。

 

  『諸行無常』は説明すれば小学生でも分かるだろう。 しかし問題は『諸法無我』で『何のこっちゃ』・・・と私も長いこと思っていた。

  禅語で『銀山鉄壁』・・・近寄ることすら拒絶する壁が『諸法無我』にあることは確かだ。

 

  しかし、『無我』という言葉すら『悟り方程式』そのものであることを知らなければならない・・・と思う。

  つまり、『無』という境涯が『我』を『無我』に導く・・・ことを表している。だから仏教では『無』が重要なのだ。

  そして『無我』を量子力学的にミクロで観察すると『無』と『我』の間に『・』があることに気づく。

  『・』が、『色即是空空即是色』の『即是』であり『間』である。 

  すると『無我』というのが、ある時は『無我』であり、ある時は『我』となる『観自在』を得、『諸法無我』が実現する。

  その時、人は『天上天下唯我独尊!』と叫ぶのであろう。

 

              

  だから『人間』という言葉は間違いなく『仏語』である。 『諸法無我』を実現する『間』をもつ。

  『世間』という言葉も『色・空』の『異次元』の『重ね合わせ』と解すべきで、本来はその意味で『世間』なのだと思う。

  

  

 



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