拈華微笑 ネンゲ・ミショウ

我が琴線に触れる 森羅万象を
写・文で日記す。

  慈悲の華

2022年10月25日 | 観自在

  『仏教と華』の関係に私はいまあらためて注目している。

  なかでも『蓮華』と仏教とは切っても切れない関係があって、それは仏教がインドで発生、発展した事も理由であろうが

  『煩悩の泥沼から美しい悟りの花を咲かせる』・・・という仏教の特徴を見事に象徴し、仏像なども蓮華座が表されたり

  手に蓮華そのものを持っている仏像もよく見かけ、仏教がどのような教えであるかを端的に示している。

 

  『華』によって『端的に示している』はずの仏教であるが、案外誰も『そこ』に注目しなかった・・・。

  修行によって悟って『仏』になる・・・という一面が仏教においてあまりにも強調され、

  植物のように『華を咲かせる』という本来備わっているDNAをただ開花させる・・・という最も大切な主張がないがしろにされてしまった。

 

  仏教に関する屁理屈は、9世紀中国唐代の禅僧『臨済禅師』が悟った時のエピソードで終わっているはずだ。

  先輩僧が臨済が見所があると見込んで、老師に『仏法に真意を聞いてこい』と言われ、素直にその通りにすると

  臨済の質問が終わらぬうちに、老師から棒で叩かれてしまった。何故叩かれたのかわけが分からない・・・

  先輩僧に、一回じゃわかるもんじゃないと励まされ、もう一度行くと、再び棒で叩かれた。

  そういったことが、3度あり、すっかり参ってしまった臨済はあきらめて下山しますと、音を上げると

  この和尚を紹介するから、彼の処に行け・・・とアドバイスされた。

  その和尚のところに行き、これまでの経緯を話すと、『お前の老師はなんて、親切なんだ。3度も懇切に指導してくれたのに

  こんなところまで来て、何をグダグダ言っているのか!』と怒鳴られ、それを聞いた途端、臨済禅師は大悟した・・・という。

  その時臨済禅師は、『あの老師の仏法って、こんなことか〜』と、さっきまでメソメソしていた男が大口をたたいた…そうだ。

 

  私はこの話が大好きで、どこがいいって屁理屈をただ、ただぶっ叩く老師・・・の一幕が痛快で、ほんのさっきまで

  泣きべそをかいていた臨済が、打って変わって大口を叩くというところがなんとも言えない。

 

  で、その『華』って結局、主語を介在させない『愛』のことで、仏教ではそれを『慈悲』と称している。

 

        

  この写真の湖は『ジュラ湖』といってジュラ山脈中にあり、今朝はじつに『明鏡止水』そのものだった。

  秋はその気配を律儀にも『腰痛』というわかりやすい仕方で示してくれ、有り難いような、迷惑なような・・・