拈華微笑 ネンゲ・ミショウ

我が琴線に触れる 森羅万象を
写・文で日記す。

 生死=ishi=意志

2017年07月25日 | 観自在
  優れた仏像を観た時、『生死』をぶっ超えて『今!ここに!』存在している〜〜と観るのはボクだけではないだろう。

  仏教というと、死んだ後に世話になる葬式・・・の認識レベルに目下のところ堕落した感があるのは残念だ。
  仏陀自身は死後についての質問には『無記ムキ〜沈黙を守って答えなかった』という。

  ボク自身の禅修行中にも『生死』というぶっ通しの話はあったが『死』の話は、寺での修行にもかかわらず、
  一度もなかった。

  正直な話、ボクも死については…まァ、考えてもわからないし、生まれたら、いずれ死ぬ…自然なこと・・・と
  ぐらいな気持で、深刻に向き合ったことはない。
  しかし、釈迦すら無記を貫いた・・・ということをボクはもっと真剣に考えてみるべきだと今は思う。
  釈迦が仏陀になった理由もそこにあるんだと思う。人間が生死を超えた命に目覚めた存在が仏陀であるという…。
  そして、これが仏教のもっとも肝心なところなんだと思う。

  そして、一昨日ブログで紹介した科学者が書いた本『量子論から解き明かす心の世界とあの世』岸根卓郎著
  によると、量子論では意識によって『生死』がぶっ通しになっている…ということが科学的に証明されつつ
  ある・・・みたいなことが、書かれているようだ、という感想をボクは持ちつつある今日この頃では
  この我々が普通もっている『死』というイメージを修正しなければいけないのではないだろうか?

  ボクは『生き死に』というところから『いし』と読ませ生死を『意志』と認識して
  『愛』としての『志』に『意』を向ける生きざま(行きざま=ゆえに『道』ともいうか)という意味で『意志』
  としたらどうであろうか?・・・と思うのだが。

              

  


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