拈華微笑 ネンゲ・ミショウ

我が琴線に触れる 森羅万象を
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  馬の耳に念仏〜その2

2022年12月25日 | 東洋自分なり研究所

  一昨日、12月23日のブログ『馬の耳に念仏』が深まって、公案化していた話。

   

 

  辞典によると、『馬にありがたい念仏を聞かせても無駄である』・・・とあったが、それで終わらせないところが禅者。

  念仏を聞いた馬は、『?』状態になり、その大疑念に行き詰まった先に道が開ける・・・という、これは禅の公案であった。

 

 

  『馬の耳に念仏』を最初ブログに書いた時、同時に『馬に人参』という諺を思い浮かべたが、正にそれであったのだ。

  どんなに『悟りという人参』を目の前に提示されても、解らない人(縁が熟してない人)には解らない・・・

  凡夫はそれをそのままにして過ごして『馬鹿』でいるが、駿馬は『?』となり…その一瞬の『間』に『道』を観るのであろう。

 

 

  例えば臨済禅師にしても、三度、師に叩かれて『?』状態に落しめられ、時をおいて別の師に『お前の師は三度も親切にしてくれたのに…』

  という一言で、悟った。こういう『間』が人には必要だ。

  私も老師に参禅した後に、老師の提唱があり、『もうちょっとなのになぁ…』と大勢の雲水の前で、誰に言うともなく嘆息された時

  おそらく誰もが自分のことを言っているのでは?とも思い、いや他の弟子のことを言っているのではないだろうか…

  などと、思ったものだが、あれから32年たった今、『あれは私のことだった』と私は確信する。

 

 

  日本には『馬』にまつわる諺が案外多い・・・。

  でなくても『馬鹿!』は、自分自身にも相方にも毎日のように使っている最も身近な言葉だが、

  その『馬』が『郷里・サトリ』にいざなう縁をもたらしているとは! 

  だいぶ前に適当に付けた、自称『馬骨』の居士名も、存外『馬鹿』にできない深いものがあるのかも・・・。

            

         馬頭観音菩薩(京都大報恩寺)という奇妙な菩薩がいると思っていたが、『馬の耳に念仏』で思わず納得。

       

 



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