本なんかで『東洋思想』みたいなものを勉強しよう・・・なんて思う時
基本的事項としてまず説かれるのが『身心一如』のような気がするが、実際に坐禅の修行をした私自身を省みると
それを意識した事は一度もなかった。というか当時その『身心一如』という言葉を知らなかったのだろうか。
ヨーロッパに住んで30年、ボーッとした頭で考えても日本で言う『身心一如』のような要素は西洋文化にはなく
確かに東洋文化が育んだ『道の文化』であることを改めて思う。
『身心一如』が人を導くのは『無とか空とか言われる境涯』で、具体的に言うところの『調身・調息・調心』の中心となる
『丹田』の活用である・・・と考えると、一般の大半の日本人でもなかなか体験する人は少なく、西洋では皆無なのでは。
『道』を行う時、我々日本人は先ず『型』を学ぶ・・・。今考えるとそれが先ず『身心一如』の第一歩であった。
今日の今日まで、私は『坐禅』を『型』として考えた事がなかったが、しかし、これこそ立派な『型』も『型』、『型の原型』ではないか?
背筋の伸び具合、顎の微妙な引き具合、もっと微妙な目線具合など、『丹田呼吸』の具合を塩梅することで『身心一如』を実現し
『人脳』をして最大限活用する、私が以前盛んに提唱していた『人"間"工学』的完成度を高める方法であった。
『身心一如』が東洋文化、強いては『日本文化』の要であるとしても、『型』として長年修養体験し、その重要性を知る人は少ない。
しかし、日本には普段の『御辞儀』、食事時の『合掌』、神社仏閣での『参拝』など『身を正す』慣習があるが
それらは皆、『身心一如』への限りない入り口として示されているのだろう。
今日湖畔を散歩していると、人気が無いはずなのに、どこからか『人声』が聞こえて…妙だなぁ、と湖を見渡すと
遥か遠くで7〜8人でボートを漕ぐ姿が見え、『人声』がそこから聞こえてくることがわかった。
あんなに遠くであるのに・・・『人声』が聞こえてくることが不思議な気がした。
我々の頭の中も、『余計な雑音』の一切無いとき、『観音』が聞こえてくる・・・のだと思った。
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