拈華微笑 ネンゲ・ミショウ

我が琴線に触れる 森羅万象を
写・文で日記す。

 令和の『侘び寂び』の意義(2)

2021年08月29日 | 観自在

  仏教の旗印である三つの教理 諸行無常・諸法無我・涅槃寂静・・・ということで、

  昔は仏教とは大変悲観的な宗教であると他宗教の人々からみなされていたという。

 

  しかし、科学の絶対的真理『エントロピーの法則』の方は、科学だけにもっと情け容赦なく事実のみを突きつけてくる。

  『この法則は、地球の物理的な限界、具体的にはエネルギーの有限性を明確に示すものであり、さらに、我々人間は

  その限界を絶対に超えられず、この法則に支配され続ける・・・』  と言って、かなり悲観的だ。

 

  この著書の最後の第5章にある文章は仏教の『諸行無常』から『諸法無我』そして『涅槃寂静』へとむかおうとしている。

  『歴史を通じて、あらゆる文化は”世界的な観点に立ち、人間はどのように行動すべきか?”という問いに取り組まざるを

  得なくなっている。 人間は生命を守り、そして高めてくれるような形で行動すべきだとする点は、誰しも認めるところだが

  それを達成するにはどうしたらよいかということになると、これまで無数の方法が試みられてきた。それに対して総括的な答えを出してくれるのは

  結局は『エントロピーの法則』なのである。 (仏教的に言えば結局『諸行無常』なのである)

 

  どんなかたちであるにしろ、生を守り、生を高めるためには使用可能なエネルギーが必要だ。使用可能なエネルギーが多ければ多いほど将来において

  生命の可能性が高まる度合いも大きくなる。しかし、使用可能なエネルギーの蓄積は、常に何らかの現象が起こるたびに枯渇していくと教えているのも

  また『エントロピーの法則』なのである。そうなると、できるだけエネルギーの消費少なくすることが、最終的道徳規範となる。

  そうすることによって、我々は生命に対する愛を表出し、あらゆる生命が絶えず自由に展開できるよう、愛をもって約束することができるのである。

  したがって、我々が宇宙的な意味で愛を論じるときには、深い一体感のことを言っているのであって、それによって我々は生命そのものの生成過程たる

  絶対的な流れとは、切っても切り離すことのできない存在であることを知らされるのである。(中略)

  結局のところ、我々一人ひとりの存在は、生命の維持と社会に対する集団的精神という形を通して、永遠に続くのである。

  我々に残された限りある財産をできる限り守り、そして生成過程を支配する自然のリズムを可能なかぎり尊ぶためには、我々より先に存在し、

  また後から存在してくる一切の生命に対し、本源的な愛を表出しなくてはならない。

  この二つの責務に目覚めることこそ、エネルギーを『植民形態』から『絶頂形態』へと導き、社会を大きく転換させるための第一歩なのである。

  つまり、我々一人ひとりに、世界の”世話役”としての自覚が必要なのだ。』

 

  物質やエネルギーの限界を芯から理解した先に真の『侘び寂び』・・・つまり、令和の『侘び寂び』がしみじみと解ってくるというのである。

       

              約一ヶ月前の我々の新アパートの中庭の図

     


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