昨日は、14時から、迎賓館・横田爆取裁判の無罪を求める集会に参加した。そこでは、不当に起訴され、長期裁判を闘っている4人の心打たれる訴えが被告人から語られた。特に、須賀さん、十亀さん、板垣さんの三人は、不当な控訴審判決によって余儀なくされた一審裁判を再度戦い抜き、6月2日にその判決日を迎える。
この裁判では、控訴審判決が提起した三つの証拠群を完膚なきまでに粉砕し、無罪を印象付けたものであった。
しかし、今の裁判の現状では、どのような結論が出てもおかしくはない。論理のないところから有罪を導いてしまう。それについては戦いようがないのが現状である。でも、この裁判では、検察官主張はことごとく粉砕され、証拠採用すらされなかった。裁判官は、この現状の中で、いかなる論理で有罪を宣告するのであろうか。
それは不可能である。この裁判については、無罪しかありえない。
ところで、この事件は現在被告人とされた人たちは、無罪に向けて、一生懸命戦っている。それは、裁判の在り方について、一応の信頼を置いているのであろう。もし裁判に信頼が置けないならば、一切の主張は放棄すべきである。
ところで、この集会の中で、近世ヨーロッパの魔女裁判の例を挙げ、裁判の正当性が存在しない旨の発言をしたものがいた。
この発言は断じて許すことはできない。裁判の正当性を信じるがゆえに争うのであり、それがなければ争うことすらできない。また、2004年3月25日の一審判決では、無罪をかちとったではないか。それは、戦った結果としての無罪である。そこには、裁判権への信頼が存在した。
もし国家刑罰権の正当性を否定するのであれば、すべての裁判は存在しなくなる。
これは、まだ冤罪事件ではない。フレームアップ事件である。その政治性ゆえに、無罪を求めて争い、論争しているのである。
現在の再審構造を魔女裁判と同様な構造で理解し、このフレームアップ事件も同様に理解しようとすれば、それは戦いの放棄である。
この裁判では戦いは継続されるであろう。それは、事件の持つ政治性ゆえである。それは、被告人とされた人たちが魔女と認定されたからではなく、フレームアップされたからである。団体の責任は個人の責任ではない。
その点を明確にしながら、今後とも戦い続けなければならない。
この裁判では、控訴審判決が提起した三つの証拠群を完膚なきまでに粉砕し、無罪を印象付けたものであった。
しかし、今の裁判の現状では、どのような結論が出てもおかしくはない。論理のないところから有罪を導いてしまう。それについては戦いようがないのが現状である。でも、この裁判では、検察官主張はことごとく粉砕され、証拠採用すらされなかった。裁判官は、この現状の中で、いかなる論理で有罪を宣告するのであろうか。
それは不可能である。この裁判については、無罪しかありえない。
ところで、この事件は現在被告人とされた人たちは、無罪に向けて、一生懸命戦っている。それは、裁判の在り方について、一応の信頼を置いているのであろう。もし裁判に信頼が置けないならば、一切の主張は放棄すべきである。
ところで、この集会の中で、近世ヨーロッパの魔女裁判の例を挙げ、裁判の正当性が存在しない旨の発言をしたものがいた。
この発言は断じて許すことはできない。裁判の正当性を信じるがゆえに争うのであり、それがなければ争うことすらできない。また、2004年3月25日の一審判決では、無罪をかちとったではないか。それは、戦った結果としての無罪である。そこには、裁判権への信頼が存在した。
もし国家刑罰権の正当性を否定するのであれば、すべての裁判は存在しなくなる。
これは、まだ冤罪事件ではない。フレームアップ事件である。その政治性ゆえに、無罪を求めて争い、論争しているのである。
現在の再審構造を魔女裁判と同様な構造で理解し、このフレームアップ事件も同様に理解しようとすれば、それは戦いの放棄である。
この裁判では戦いは継続されるであろう。それは、事件の持つ政治性ゆえである。それは、被告人とされた人たちが魔女と認定されたからではなく、フレームアップされたからである。団体の責任は個人の責任ではない。
その点を明確にしながら、今後とも戦い続けなければならない。
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