社会の鑑

社会で起きている出来事にコメントを加えています。

差別

2008-05-10 22:14:17 | ノンジャンル
今日は、かまくら春秋社主催の差別問題についての座談会に出席してきました。ゲストとしてきていたのは、川村二郎元週刊朝日編集長、小林和男作新学院大学教授(元NHKモスクワ支局長)の各氏でした。
皆さんそれぞれ社会経験が豊かな方で、非常に参考になる会議でした。
そこで私が強調したのは、「意識の反映としての差別」です。知らず知らずのうちに、社会的常識に慣らされ、意識下の中で醸成された差別については、何の問題意識もなく、その言葉を使っている事実をどう思うかということです。
例としてあげたのは、「北朝鮮」という言葉です。同一民族の中で国家が分裂している場合、南北あるいは東西を使う場合はあるでしょう。しかし、この場合は、南については「韓国」といい、北については「北朝鮮」という現実についてです。英語やドイツ語では、それぞれの国を南北で示している。North Korea、South Koreaがそうです。この場合は、Koreaという同一名の中に南北を用いているので、問題はないでしょう。しかし、日本のように、片一方を正式国名でいい、もう一方をあえて方角で表すというのは何を意味しているのでしょうか。二つの国をあらわすのであれば、「朝鮮」といえば足りるのではないでしょうか。
なぜそうならないのでしょうか。
私は、日本人の中にある、意識下の差別意識が働き、朝鮮人民民主主義共和国を敢えて無視することに起因しているのではないだろうか。
もし、米朝和解が成立し、お互いが国家承認し、国交を樹立した場合、日本はどのように動くのですか。多分、それに追随するでしょう。では、その場合、それまで、「北朝鮮」といっていた意識はどこに行くのですか。その意識は代わることはないでしょう。だとすれば、その意識に規定されつつ、「北朝鮮」という言葉は、残り続けるでしょう。
これが、「意識の反映としての差別」の実例です。
同じ事例としてあげれば、「脱北者」とは、何を意味するのでしょうか。韓国の立場から見れば、そのとおりでしょう。しかし、日本の立場から見れば、「脱北者」とは、「北海道から逃れた者」というになるでしょう。しかし、現実にはそのように使われていません。この言葉は真実を曲げているのです。やはりそれも、意識下で規定されているのでしょう。
差別のない社会を樹立することは、大切なことであり、それに気づいた者は、意識の中で、差別用語を使わないようにすべきでしょう。