それからもう一つあった。
件の「ライスカレー事件」が起こったのがほぼ昭和2年5月の始めであることが確からしいということを踏まえて、その後また「詩ノート」を読み返していたならばちょうどその頃に詠んだのであろう次のような、少し屈折した心理を詠んだ詩〔芽をだしたために〕があったからである。
この詩の中の「ぎざぎざの松倉山の下のその日蔭である/あんまり永くとまってゐたくない」からは、賢治はこの時「鉛電鉄」の馬面電車に乗っていたと思われるが、その車中で賢治が
もしかすると、露は当時下宿をしていたので「電車に乗って小学校に出勤」するというのであれば、それは月曜日の朝しかないのだがその朝に、賢治は露と一緒に「西公園」から電車に乗ってきて、露は「二ツ堰」で下り、賢治はそのまま「松倉(志戸平)駅」までやって来た。そしてそこでこの詩を詠んでいたのでもあろうか。
とまれこれで、件の「ライスカレー事件」の発生時期とこの詩が詠まれたであろう日付とを併せて考えれば、
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件の「ライスカレー事件」が起こったのがほぼ昭和2年5月の始めであることが確からしいということを踏まえて、その後また「詩ノート」を読み返していたならばちょうどその頃に詠んだのであろう次のような、少し屈折した心理を詠んだ詩〔芽をだしたために〕があったからである。
一〇五九 〔芽をだしたために〕 一九二七、五、九、
芽をだしたために
大へん白っぽく甘酸っぱくなった山である
このわづかな休息の時間に
上層の風と交通するための第一の条件は
そんな肥った空気のふぐや
あはれなレデーを
煙幕でもって退却させることである
……川なめらかにくすんでながれ……
実に見給へ 傾斜地にできた
すばらしい杉の方陣である
諸君よ五月になると
林のなかのあらゆる木
あらゆるその藪のなかのいちいちの枝
みなことごとくやはらかな芽をひろげるのである
川にぶくひかってながれ
退職の警察署長のむすめが
水いろの上着を着て
電車にのって小学校に出勤しながら
まちの古いブルジョア出身の技術者を
少しの厭悪で見てゐたのである
こゝはひどい日蔭だ
ぎざぎざの松倉山の下のその日蔭である
あんまり永くとまってゐたくない
けれどもいったい
これを岩頸だなんて誰が云ふのか
<『校本宮澤賢治全集第六巻』(筑摩書房)138p~より>芽をだしたために
大へん白っぽく甘酸っぱくなった山である
このわづかな休息の時間に
上層の風と交通するための第一の条件は
そんな肥った空気のふぐや
あはれなレデーを
煙幕でもって退却させることである
……川なめらかにくすんでながれ……
実に見給へ 傾斜地にできた
すばらしい杉の方陣である
諸君よ五月になると
林のなかのあらゆる木
あらゆるその藪のなかのいちいちの枝
みなことごとくやはらかな芽をひろげるのである
川にぶくひかってながれ
退職の警察署長のむすめが
水いろの上着を着て
電車にのって小学校に出勤しながら
まちの古いブルジョア出身の技術者を
少しの厭悪で見てゐたのである
こゝはひどい日蔭だ
ぎざぎざの松倉山の下のその日蔭である
あんまり永くとまってゐたくない
けれどもいったい
これを岩頸だなんて誰が云ふのか
この詩の中の「ぎざぎざの松倉山の下のその日蔭である/あんまり永くとまってゐたくない」からは、賢治はこの時「鉛電鉄」の馬面電車に乗っていたと思われるが、その車中で賢治が
退職の警察署長のむすめが
水いろの上着を着て
電車にのって小学校に出勤しながら
まちの古いブルジョア出身の技術者を
少しの厭悪で見てゐたのである
と詠んでいるところからは、露は「退職の警察署長のむすめ」ではないが、その他の事について (特に「水いろの上着を着て」「電車にのって小学校に出勤」する「むすめ」) は露のことを想定して詠んでいたのではなかろうか (その頃鉛電鉄に乗って小学校へ出勤する女性といえばすぐに露が思い浮かぶし、賢治周辺でそれ以外に当てはまる女性はいない) ということと、その女性に対しての屈折した心理や猜疑心が垣間見られる。なぜならば、「まちの古いブルジョア出身の技術者」とは他ならぬ賢治を彷彿とさせるからである。そして、その女性はその技術者を「電車にのって小学校に出勤しながら/少しの厭悪で見てゐたのである」と賢治は客観的な視線で感じ取ってしまっていることになる。それも、「少しの」と形容はしているものの「厭悪」という賢治らしからぬきつい言葉を用いてそれを表現しているのである。一体そこには何があったというのだろうか。水いろの上着を着て
電車にのって小学校に出勤しながら
まちの古いブルジョア出身の技術者を
少しの厭悪で見てゐたのである
もしかすると、露は当時下宿をしていたので「電車に乗って小学校に出勤」するというのであれば、それは月曜日の朝しかないのだがその朝に、賢治は露と一緒に「西公園」から電車に乗ってきて、露は「二ツ堰」で下り、賢治はそのまま「松倉(志戸平)駅」までやって来た。そしてそこでこの詩を詠んでいたのでもあろうか。
とまれこれで、件の「ライスカレー事件」の発生時期とこの詩が詠まれたであろう日付とを併せて考えれば、
賢治は遅くとも昭和2年の5月初め頃にはもう、露との間にそれまでのような関係が保てなくなっていたという可能性が高い。
と言えそうだ。となれば、もう少し遡って調べねばなるまいと思って「詩ノート」を瞥見したみたがそのよう類の詩は私にはもう見つけられなかった。続きへ。
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