本当の賢治を渉猟(鈴木 守著作集等)

宮澤賢治は聖人・君子化されすぎている。そこで私は地元の利を活かして、本当の賢治を取り戻そうと渉猟してきた。

〔わたくしどもは〕 (〔氷のかけらが〕)

2015-12-09 08:00:00 | 賢治の詩〔わたくしどもは〕
 さて、天沢氏が「物語性・虚構性の強いものが主として捨てられたようである」と推測している中の一つ「〔わたくしどもは〕」の詩は、もちろん虚構はあるものの、かなりの部分が露をイメージして詠んだ詩であったのではなかろうかと私には思えるのであった。
 それではこの〔わたくしどもは〕ような詩は、「詩ノート」の中に他にあるのだろうかと思ってざっと通読してみたが、顕わに「キリスト教との関連が深いもの」も含めて、他には見つけることが私にはできなかった。
 ただ、これは露のこともイメージして詠んだのではなかろうかと直感した詩〔氷のかけらが〕が一つだけあった。それは、
一〇〇二    〔氷のかけらが〕     一九二七、二、一八、
   氷のかけらが
   海のプランクトンのやうに
   ぴちぴちはねる朝日のなかを
   黒いペンキのまだ乾かない
   電車が一つしづかに過ぎる
   兵隊みたいな赤すじいりの帽子をかぶった電気工夫や
   またつゝましくかゞやいてゐる朝の唇
      ……ハムマアを忘れて来たな……
      ……向ふには電気炉がない……
   江釣子森が暗く濁ったそらのこっちを
   白くひかって展開する
   そのぶちぶちの杉の木が
   虫めがねででも見たやうに
   今日は大へん大きく見える
      ……雪の野原と
        ぼそぼそ燃える山の雲……
   東は茶いろな松森の向ふに
   巨きな白い虹がたつ
            <『校本宮澤賢治全集第六巻』(筑摩書房)より>
というものであり、
   江釣子森が暗く濁ったそらのこっちを
   白くひかって展開する
   そのぶちぶちの杉の木が
   虫めがねででも見たやうに
   今日は大へん大きく見える
の連に賢治の「想い」を特に感じたからだ。
 この詩を詠んだと思われる昭和2年2月18日は金曜日だから、翌19日は土曜日でいわゆる「半ドン」の日なので、明日露は一週間ぶりに向小路の生家に戻るであろう。
 では、その露の職場はどこで、下宿はどこに当時あったか。それは、下根子桜の別宅からは共に「江釣子森」の方角に見える。もっと限定すれば「江釣子森が暗く濁ったそらのこっち」に「白くひかって展開する」場所にある「そのぶちぶちの杉の木」林周辺であった。そして、その一帯が賢治には「虫めがねででも見たやうに/今日は大へん大きく見える」という。他ならぬ「今日」半ドンの日に、「たいへん大きく見える」のである。そこからは、賢治が「今日」を待っているということが如実にわかるし、次第に気持ちが膨らんでくるという心の内が垣間見えてくる。

 したがって、この2月頃であれば賢治の露に対する気持ちはまだ「複雑」ではなかったと言えそうだ。そしてそうなったのは遅くとも、前述したように6月、〔わたくしどもは〕の詩を詠んだり、「マツ赤ナリンゴ」のあの葉書が書かれた月にはそうであったと考えられる。が、もしかするとその前の5月にもう始まっていたかもしれない…。

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