ここで少し話は変わるが、天沢氏は同解説で次のようなことも主張されていた。
と。
その指摘はまさにそのとおりであると私も思い知らされている。それは、例えば以前〝 『春と修羅第三集』の検証(#2)〟で投稿したように、当時の花巻の気象上から『春と修羅第三集』に所収されている詩を検証してみたならば、いくつかの虚構があったことを確認できたからである。あるいは、天沢氏が挙げている「〔あすこの田はねえ〕」「野の師父」「和風は河谷いっぱいに吹く」の三篇についても、同投稿で触れたように数値の水増しや天候の嘘が見られたからである。賢治の詩にも「単純な実生活還元をゆるさない」ものがある、ということを思い知らされたからである。
しかしながら、もちろん詩に虚構はつきものなのだからこのようなことは当たり前の行為であり、読者が作者を批難することは当たらない。問題はそうした結果その詩がより良いものになったか否かであろう。一方読者の方は、天沢氏が指摘するとおり、
詩というものは「単純な実生活還元をゆるさない」
ということを、常に心しておかねばならないということになろう。
ところが、そのように自覚していたつもりでいながらもかつての私は、賢治の詩でなければそうではなかったのだが、賢治の詩の場合に限ってはいつの間にか還元できるものと思い込んでいたことが殆どであった。
そしてやっと、今頃になって初めて賢治の詩といえども(天沢氏の言葉を借りれば)「単純な実生活還元をゆるさない」ということが身についてきた。言い換えれば、
実生活→詩
は成り立つが
詩→実生活
がいつでも成り立つとは限らないのであって、成り立つこともあれば成り立たないこともあるという「非可逆性」があるのだということを肝に銘じている。
つまり、「詩→実生活」の流れが成り立つか否かは、裏付けがあるとか検証された場合に初めて論ずることができるのであって、何もせずに言葉面だけからそこに詠まれていることが成り立つわけではないということである。平たく言えば、成り立つ部分もあるが成り立たない部分もあるし、もしかすると全く成り立たないこともあるし、全てが成り立つ場合もあるといことである。それは調べてみなければわからないという、至極当たり前のことでもある。
さてこのことを心に留めながら、次回は「〔わたくしどもは〕」にまた戻って少しく考察してみたい。
続きへ。
前へ 。
”羅須地人協会時代”のトップに戻る。
【『宮澤賢治と高瀬露』出版のご案内】
その概要を知りたい方ははここをクリックして下さい。
「〔あすこの田はねえ〕」「野の師父」「和風は河谷いっぱいに吹く」の三篇は、農民の献身者としての生き甲斐やよろこびが明るくうたいあげられているように見える。しかし、「野の師父」はさらなる改稿を受けるにつれて、茫然とした空虚な表情へとうつろいを見せ、「和風は……」の下書稿はまだ七月の、台風襲来以前の段階で発想されており、最終形と同日付の「〔もうはたらくな〕」は、ごらんの通り、失意の底の暗い怒りの詩である。これら一見リアルな、生活体験に発想したとみえる詩篇もまた、単純な実生活還元をゆるさない、屹立した〝心象スケッチ〟であることがわかる。
<『新編 宮沢賢治賢治詩集』(天沢退二郎編、新潮文庫)414p~より>と。
その指摘はまさにそのとおりであると私も思い知らされている。それは、例えば以前〝 『春と修羅第三集』の検証(#2)〟で投稿したように、当時の花巻の気象上から『春と修羅第三集』に所収されている詩を検証してみたならば、いくつかの虚構があったことを確認できたからである。あるいは、天沢氏が挙げている「〔あすこの田はねえ〕」「野の師父」「和風は河谷いっぱいに吹く」の三篇についても、同投稿で触れたように数値の水増しや天候の嘘が見られたからである。賢治の詩にも「単純な実生活還元をゆるさない」ものがある、ということを思い知らされたからである。
しかしながら、もちろん詩に虚構はつきものなのだからこのようなことは当たり前の行為であり、読者が作者を批難することは当たらない。問題はそうした結果その詩がより良いものになったか否かであろう。一方読者の方は、天沢氏が指摘するとおり、
詩というものは「単純な実生活還元をゆるさない」
ということを、常に心しておかねばならないということになろう。
ところが、そのように自覚していたつもりでいながらもかつての私は、賢治の詩でなければそうではなかったのだが、賢治の詩の場合に限ってはいつの間にか還元できるものと思い込んでいたことが殆どであった。
そしてやっと、今頃になって初めて賢治の詩といえども(天沢氏の言葉を借りれば)「単純な実生活還元をゆるさない」ということが身についてきた。言い換えれば、
実生活→詩
は成り立つが
詩→実生活
がいつでも成り立つとは限らないのであって、成り立つこともあれば成り立たないこともあるという「非可逆性」があるのだということを肝に銘じている。
つまり、「詩→実生活」の流れが成り立つか否かは、裏付けがあるとか検証された場合に初めて論ずることができるのであって、何もせずに言葉面だけからそこに詠まれていることが成り立つわけではないということである。平たく言えば、成り立つ部分もあるが成り立たない部分もあるし、もしかすると全く成り立たないこともあるし、全てが成り立つ場合もあるといことである。それは調べてみなければわからないという、至極当たり前のことでもある。
さてこのことを心に留めながら、次回は「〔わたくしどもは〕」にまた戻って少しく考察してみたい。
続きへ。
前へ 。
”羅須地人協会時代”のトップに戻る。
【『宮澤賢治と高瀬露』出版のご案内】
その概要を知りたい方ははここをクリックして下さい。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます