さてそれでは次に、「詩ノート」には留め置かれずに『春と修羅 第三集』に所収されたものの中には〔わたくしどもは〕や〔芽をだしたために〕のような類の詩はあるのだろうか。するとすぐに思い付くのが次の詩だ。
実はこの詩の場合、下書稿(二)において、《俸給生活者》に対して《サラー》と賢治はフリガナを付けているから
「サラーに属する女たち」=「俸給生活者に属する女たち」
ということがわかる。さらには下書稿(四)においては、
[あの聖女の]を削除→[基督教徒だといふあの女の]
と書き換えているから、「基督教徒だといふあの女の」とはクリスチャンで俸給生活者の女性、つまり寶閑小学校の先生高瀬露その人だと判断できる。賢治周辺の女性で当時これに当てはまる女性は他にいないからである。したがって、賢治は「昭和2年4月18日」時点で露のことを「聖女」と認識していたこともわかる。が同時に、賢治はこの当時露に対してあまり信頼できなかったのではなかろうかということも、この詩の「それは信仰と奸詐との/ふしぎな複合体とも見え」を字面どおりに解釈すれば窺える。露に対して特に“奸詐”というどぎつい言葉を使っているからである (それにしてもこの「奸詐」といい、先の「厭悪」といい、賢治は難しい色んな用語を識ってはいるが、このようなきつい言葉を容赦なく女性に浴びせるということはかつての私からは想像だにできないことである)。
一方で、清六の証言からは、当時の賢治と露はある一定期間オープンで親密なよい関係にあった<*1>ということがわかっている。となれば、賢治はどうやらある時期から露に対して猜疑心を抱くようになっていたか、あるいはもともと始めからそれを露に対して抱いていたとも考えられる。賢治は露と親しくかついろいろと世話になってはいたものの、自分に自信が持てなかったが故に心の底から露のことを信頼することはできなかったのかもしれない。
したがって、賢治が露に対していつから距離感を抱き始めたかというと逆にはっきりしなくなってしまった感もあるが、今まで時間軸を遡ってきたということで、取りあえずここでの一応の結論は、
早ければ昭和2年の2月後、遅くとも同年4月時点で賢治は露に対して距離感を強く感じ始めていた蓋然性が結構高い。
ということにしておきたい。なお、なぜ「早ければ2月後」としたかについては、先の〔氷のかけらが〕の詩からは、「2月頃であれば賢治の露に対する気持ちはまだ「複雑」ではなかった」と言える可能性があるからである。
さて、これで〔わたくしどもは〕ははたして虚構性が強いのだろうかという疑問から始まったこのシリーズは終わりとしたいが、詩の「非可逆性」を踏まえながらも、それなりに還元できるところも多かったと私は判断できたので、虚構性が強い個所ももちろん一部にあるが、
ということを私はこれで確信した。そして今回のシリーズを通じて、賢治の露に対する心情は二人が特に親しかったと思われる約一年間の交際期間中、その後半になるとかなり屈折していて複雑なものであったであろうことを改めて思い知らされた。
<*1:註> 『新校本全集第六巻 校異篇』によれば、
ということで、賢治は高瀬露から讃美歌を教わっていたということを教えてくれる賢治の弟の清六の証言がある。
さらにもう一つ、同じく清六の次のような証言、
もあり、こちらの証言に従えば、この時賢治は露を招き入れて二人きりで二階にいたことになる(当時そこに出入りしていてオルガンで讃美歌が弾けるイニシャルTの女性といえば露がいるし、露以外にこのことが当てはまる女性はいない)。
したがって、清六のこの2つの証言からは、
当時、賢治と露はオープンで親密なよい関係にあった。
ということが導かれるだろう。
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一〇三九 〔うすく濁った浅葱の水が〕 一九二七、四、一八、
うすく濁った浅葱の水が
けむりのなかをながれてゐる
早池峰は四月にはいってから
二度雪が消えて二度雪が降り
いまあはあはと土耳古玉のそらにうかんでゐる
そのいたゞきに
二すじ翔ける、
うるんだ雲のかたまりに
基督教徒だといふあの女の
サラーに属する女たちの
なにかふしぎなかんがへが
ぼんやりとしてうつってゐる
それは信仰と奸詐との
ふしぎな複合体とも見え
まことにそれは
山の啓示とも見え
畢竟かくれてゐたこっちの感じを
その雲をたよりに読むのである
<『校本宮澤賢治全集第四巻』(筑摩書房)より>うすく濁った浅葱の水が
けむりのなかをながれてゐる
早池峰は四月にはいってから
二度雪が消えて二度雪が降り
いまあはあはと土耳古玉のそらにうかんでゐる
そのいたゞきに
二すじ翔ける、
うるんだ雲のかたまりに
基督教徒だといふあの女の
サラーに属する女たちの
なにかふしぎなかんがへが
ぼんやりとしてうつってゐる
それは信仰と奸詐との
ふしぎな複合体とも見え
まことにそれは
山の啓示とも見え
畢竟かくれてゐたこっちの感じを
その雲をたよりに読むのである
実はこの詩の場合、下書稿(二)において、《俸給生活者》に対して《サラー》と賢治はフリガナを付けているから
「サラーに属する女たち」=「俸給生活者に属する女たち」
ということがわかる。さらには下書稿(四)においては、
[あの聖女の]を削除→[基督教徒だといふあの女の]
と書き換えているから、「基督教徒だといふあの女の」とはクリスチャンで俸給生活者の女性、つまり寶閑小学校の先生高瀬露その人だと判断できる。賢治周辺の女性で当時これに当てはまる女性は他にいないからである。したがって、賢治は「昭和2年4月18日」時点で露のことを「聖女」と認識していたこともわかる。が同時に、賢治はこの当時露に対してあまり信頼できなかったのではなかろうかということも、この詩の「それは信仰と奸詐との/ふしぎな複合体とも見え」を字面どおりに解釈すれば窺える。露に対して特に“奸詐”というどぎつい言葉を使っているからである (それにしてもこの「奸詐」といい、先の「厭悪」といい、賢治は難しい色んな用語を識ってはいるが、このようなきつい言葉を容赦なく女性に浴びせるということはかつての私からは想像だにできないことである)。
一方で、清六の証言からは、当時の賢治と露はある一定期間オープンで親密なよい関係にあった<*1>ということがわかっている。となれば、賢治はどうやらある時期から露に対して猜疑心を抱くようになっていたか、あるいはもともと始めからそれを露に対して抱いていたとも考えられる。賢治は露と親しくかついろいろと世話になってはいたものの、自分に自信が持てなかったが故に心の底から露のことを信頼することはできなかったのかもしれない。
したがって、賢治が露に対していつから距離感を抱き始めたかというと逆にはっきりしなくなってしまった感もあるが、今まで時間軸を遡ってきたということで、取りあえずここでの一応の結論は、
早ければ昭和2年の2月後、遅くとも同年4月時点で賢治は露に対して距離感を強く感じ始めていた蓋然性が結構高い。
ということにしておきたい。なお、なぜ「早ければ2月後」としたかについては、先の〔氷のかけらが〕の詩からは、「2月頃であれば賢治の露に対する気持ちはまだ「複雑」ではなかった」と言える可能性があるからである。
さて、これで〔わたくしどもは〕ははたして虚構性が強いのだろうかという疑問から始まったこのシリーズは終わりとしたいが、詩の「非可逆性」を踏まえながらも、それなりに還元できるところも多かったと私は判断できたので、虚構性が強い個所ももちろん一部にあるが、
〔わたくしどもは〕の詩は全体としては虚構性は弱く、かなり高瀬露のことを具体的に意識し、イメージして詠んだものである。
ということを私はこれで確信した。そして今回のシリーズを通じて、賢治の露に対する心情は二人が特に親しかったと思われる約一年間の交際期間中、その後半になるとかなり屈折していて複雑なものであったであろうことを改めて思い知らされた。
<*1:註> 『新校本全集第六巻 校異篇』によれば、
この歌の原曲は…(投稿者略)…『いづれのときかは』で、賢治が愛唱した讃美歌の一つである。宮沢清六の話では、この歌は賢治から教わったもの、賢治は高瀬露から教えられたとのこと。
<『新校本全集第六巻 校異篇』(筑摩書房)より>ということで、賢治は高瀬露から讃美歌を教わっていたということを教えてくれる賢治の弟の清六の証言がある。
さらにもう一つ、同じく清六の次のような証言、
私とロシア人は二階に上ってゆきました。
二階には先客がひとりおりました。その先客は、Tさんという婦人の客でした。そこで四人で、レコードを聞きました。…(筆者略)…。レコードが終ると、Tさんがオルガンをひいて、ロシア人はハミングで讃美歌を歌いました。メロデーとオルガンがよく合うその不思議な調べを兄と私は、じっと聞いていました。
<『宮沢賢治の肖像』(森荘已池著、津軽書房)より>二階には先客がひとりおりました。その先客は、Tさんという婦人の客でした。そこで四人で、レコードを聞きました。…(筆者略)…。レコードが終ると、Tさんがオルガンをひいて、ロシア人はハミングで讃美歌を歌いました。メロデーとオルガンがよく合うその不思議な調べを兄と私は、じっと聞いていました。
もあり、こちらの証言に従えば、この時賢治は露を招き入れて二人きりで二階にいたことになる(当時そこに出入りしていてオルガンで讃美歌が弾けるイニシャルTの女性といえば露がいるし、露以外にこのことが当てはまる女性はいない)。
したがって、清六のこの2つの証言からは、
当時、賢治と露はオープンで親密なよい関係にあった。
ということが導かれるだろう。
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