本当の賢治を渉猟(鈴木 守著作集等)

宮澤賢治は聖人・君子化されすぎている。そこで私は地元の利を活かして、本当の賢治を取り戻そうと渉猟してきた。

〔わたくしどもは〕(「ライスカレー事件」)

2015-12-10 08:00:00 | 賢治の詩〔わたくしどもは〕
 では何故私が「その前の5月にもう始まっていたかもしれない」と思ったのかというと、まずは一つは、例の「カレーライス事件」が起こったのが昭和2年の5月であったという蓋然性が高いからである。
 たまたま『賢治研究6号』を見ていたならば、そこには高橋慶舟という人の「賢治先生のお家でありしこと」が載っていて、次のようなことなどがそこで述べられていた。
 雪消えた五月初めのころ宝閑小学校の女の先生の勧誘で先生のお家を訪れました。
 小生は二階で先生と話しを致しており、女の先生は下で何かをしておりました。その時農家の方が肥料設計を頼みにまいりました。設計書を書き終わり説明をしているとき、下から女の先生がライスカレーを作っておもちになり、どうぞお上がり下さい下さいとお出しになされたその様子はこゝのお家の奥様が晝時になって来客に心利かせてすゝめる食事の如く、飛び上がるばかりに驚いたのは、外ならぬ先生なり。まづどうぞおあがりくださいと、皆にすゝめてたべさせて、私には食う資格はありませんと遂におあがりになりませんでした。それでお作りになった女の先生は不満やるかたなく、隅にあったオルガンをおひきになりました。それを聞いた先生は、トントンと二階からおりて、二階の板に片手をかけ、階段一二の上に足をとどめて、おりきらないまゝ先生は口を開くのです。今はまだ農家の方は野外で働いている時間です。どうかオルガンをひかないで下さい、と制せられるのでありました。
               <『賢治研究6号』(宮沢賢治研究会)27p~より>
 この記述内容から判断して、この著者“高橋慶舟”とはその名前からしてあの高橋慶吾のことであり、“女の先生”は高瀬露のことであることはほぼ間違いない。なぜならば、高橋慶吾は同じようなことを「賢治先生」の中で
 或る時、先生が二階で御勉強中訪ねてきてお掃除をしたり、臺所をあちこち探して「カレ-ライス」を料理したのです。恰度そこに肥料設計の依頼に数人の百姓たちが来て、料理や家事のことをしてゐるその女の人をみてびつくりしたのでしたが、先生は如何したらよいか困つてしまはれ、そのライスカレーをその百姓たちに御馳走し、御自分は「食べる資格がない」と言つて頑として食べられず、そのまゝ二階に上つてしまはれたのです、その女の人は「私が折角心魂をこめてつくつた料理を食べないなんて……」とひどく腹をたて、まるで亂調子にオルガンをぶかぶか弾くので先生は益々困つてしまひ、「夜なればよいが、晝はお百姓さん達がみんな外で働いてゐる時ですし、そう言ふ事はしない事にしてゐますから止して下さい。」と言つて仲々やめなかつたのでした。
              <『イーハトーヴォ(第一期)創刊号』(宮澤賢治の會、昭和14年)4pより>
と語っているし、このいわゆる「ライスカレー事件」に関してこのような詳しい証言を公的にしているのは慶吾の他にはいないからである。
 よって、件の『ライスカレー事件』が起こった時期は「雪消えた五月初めのころ」であったという蓋然性が極めて高いことがこれでわかったかし、今まで何度か引用しているように、露の証言
 賢治先生をはじめて訪ねたのは、大正十五年の秋頃で昭和二年の夏まで色々お教えをいただきました。その後は、先生のお仕事の妨げになっては、と遠慮するようにしました。
              <『七尾論叢 第11号』(七尾短期大学)81pより>
とを併せて判断すれば、どうやら、件の『ライスカレー事件』が起こった時期は昭和2年の五月始め頃であったとほぼ言えそうだ。
 それからもう一つあったのだが、それは次回へ。

 なお、この「ライスカレー事件」はその中身が時間の流れと共に次第に針小棒大化された風聞となり、そのようなものを元に森荘已池が「昭和六年七月七日の日記」で、儀府成一が『宮沢賢治 その愛と性』(儀府成一 著、芸術生活社、昭和47年12月発行)で、裏付けも取らず検証もせずに露独りだけを悪し様に書いたとしか思えない、週刊誌のゴシップ記事もどきに仕立てて「伝記」として世に広めたと言えよう。あまりにも無責任な創作活動であったのではなかろうか。

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