本当の賢治を渉猟(鈴木 守著作集等)

宮澤賢治は聖人・君子化されすぎている。そこで私は地元の利を活かして、本当の賢治を取り戻そうと渉猟してきた。

『賢治と一緒に暮らした男』 (21p~24p)

2016-01-26 08:00:00 | 『千葉恭を尋ねて』 
                   《「独居自炊」とは言い切れない「羅須地人協会時代」》








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*****************************なお、以下は本日投稿分のテキスト形式版である。****************************
の無心をした賢治だから、花巻に戻る頃には所持金は殆ど無かったずで、しかも帰花した頃の賢治は心身ともに疲れ果てていたはず。そんな賢治だったが、花巻に戻ると前に売ったその蓄音機は買い戻したということになる。賢治はどこからそんな大金を用意したのだろうか。
 それから気になることがある。ここで千葉恭が述べていることが事実であるとすれば、賢治は生活が苦しくなったので彼に蓄音機を売ってきて欲しいと頼んでおきながら、実は蓄音機を売ったお金は12月の上京の際の旅費になったということが、である。幸い高く売れたので喜び勇んで下根子桜に帰って手渡そうとした代金をそのまま賢治が受け取ることはしなかったことに対して、「何だか恐ろしいかんじがしてしまひました」と千葉恭はその時の心情を吐露している。その挙げ句、頼んだ時の理由は実は口実であったことが後になって分かったから、一緒に生活して労苦を共にして来た千葉恭にすればそれはもどかしかったはず。蓄音機を売りに行った時期は雪の降る冬だから賢治と一緒の生活もかなり長くなっていた頃のはずなのに、賢治は千葉恭に悩みや心のうちを明かさずに売りにやらせたわけで、この時期に至っても二人はまだ打ち解けていなかったと思うからである。私は取り越し苦労をしているのだろうか。
 賢治の肥料設計
 さて、千葉恭の『宮澤先生を追つて(四) 』の後半部分には「肥料設計」と題して次のようなことが述べられている。
肥 料 設 計
 羅須地人協会の仕事も忙しかつたのでした。秋も過ぎ東北独特の冬が來て五、六尺の雪が積もつた花巻の町角のせまい土間を借りて、百姓相手に土壌の相談と肥料設計に、時には畫食も夕食も食はずに一日を過ごすこともありました。土間といつても間尺三尺奥行二間位のせまい処でした。そのせまい土間にビール箱を机にして、設計用紙と万年筆一本を頼りに、近郷の村々から朝から押しかけて來る百姓達を笑顔で迎え、仔細に質問しながら設計用紙に必要事項を満たしていくのでした。…(略)…農民達は作物に愛着を持ち収穫を充分に希つてゐますが、それについて研究するでもなく、たゞ泥まみれになつて働くばかりが、百姓だと云ふ観念を打破する一番早い策としては肥料、土壌、耕作に対して興味を持たせることであり、興味を持たせるには理論より先に、実際から見る判断であるからその方法をとることであると先生は考えられたのでせう。
 羅須地人協会はその意味の開設であり、肥料設計は具体化された方法であつたのでした。土壌改良により一ヵ年以内に今迄反当二石の収穫のものが、目に見えて三石穫れるとすれば、たとえ無智な百姓であつても興味を持ち、進んで研究する様になるだらうと信じられたからでした。先生の無料設計をしていくことになつたのも、このやうなことが考えられての結果だつたのです。…(略)…
<『四次元9号』(宮澤賢治友の会)>
 ここでは「羅須地人協会の仕事も…」という書き出しで始まっているから、ここに書かれている肥料設計の内容や仕方についてはおそらく千葉恭が下根子桜の別宅に寄寓していた頃のものであろう。それも、その肥料設計は冬に行われていたというものだから大正15年か昭和元年(6日間しかない)あるいは昭和2年の冬に行われた肥料設計のことを書いているのであろう。
 そしてこの千葉恭の回想からは、肥料設計に懸ける賢治の熱意は凄まじいものであったことが容易に想像出来る。昼食どころかさらに夕食までも摂らずに肥料設計に勤しんでいたということを千葉恭は証言しているからだ。また、〝近郷の村々から朝から押しかけて來る百姓達〟とあることからこの肥料設計は近隣の多くの農民から頼りにされていたことも知れる。
(ア) 「いちの川」
 さてここに出て来た「花巻の町角のせまい土間」とはどこの土間だったのだろうか。そういえば、以前にも触れたことだが『イーハトーヴォ復刊2号』の中に
「最初蓄音機屋の一間を借りておつたが一週間して〝いちの  川〟というところの土間を借りて勉強しておりました」
という証言があったことを思い出した。もしかするとこの〝いちの川〟というところの土間がここでいう「花巻の町角のせまい土間」のことではなかろうか。そして、そもそもこの「花巻の町角のせまい土間」を借りて開かれた肥料相談所はどの辺に開設されたのだろうか。
 これに関連したことを佐藤隆房は『宮澤賢治』の中で言っていたはず。調べてみるとそれは次のようなものであった。
 肥料屋は、自分の肥料の賣れ行きばかりを目論んでゐるのですから、どんな所へでもその肥料を使用すれば米が出來るやうに宣傳します。それを聞く百姓は、土質などにはとんとおかまひなしに、何でも高價な肥料を澤山入れゝば米が出來るものと考へて、大豆粕や過燐酸などを無設計に入れてをります。…(略)…
 その無智な有様を見て、非常に氣の毒と思ひ、何とかこれを救濟しようと思つた賢治さんは、羅須地人協會開設と同時に、花巻町(上町)石鳥谷町、その他縣内數箇所に肥料の無料設計所を設けました。
<『宮澤賢治』(佐藤隆房著、冨山房)>
 ということは、佐藤隆房の証言によれば肥料相談所の一つは花巻の上町のどこかに開設されたということになる。そこでもし〝いちの川〟が花巻の上町にあったということが判ればその可能性が高くなるだろうと考えて探してみたならば、たしかに上町に〝いちの川(市野川)〟があったことを確認出来た。したがって、肥料相談所の一つは上町の〝いちの川〟に開設されたのではなかろうかと考えられる。
 話はちょっと横道にそれてしまうが、気になるのでもう少しこの肥料相談所に付いて調べてみたい。
(イ) 「額縁屋」
 ところで、賢治は〝その他縣内數箇所〟に肥料相談所を開設したと佐藤隆房はここで述べている。昔の人の言う〝数ヶ所〟とは〝5~6ヶ所〟のことを意味したはずだから、前述の花巻上町のそれと、よく知られている石鳥谷町の計2ヶ所の他にもあと3~4ヶ所の肥料相談所を賢治は開設していたということになる。
 そこで他の関連図書等も漁ってみると、伊藤克己は「先生と私達―羅須地人協會時代―」の中で
 春になつて先生は町の下町と云ふ處の今の額縁屋の間口一間ばかりの所を借りて農事相談所を開いた。誰でも事(ママ)由に入れて、無料で相談に應じてくれたのである。
<『宮澤賢治研究』(草野心平編、十字屋版)>
と語っていた。
 ならばということで下町に〝額縁屋〟があったかどうかを探してみたならば、たしかに下町に〝額縁屋〟があったという場所があった。したがって、ここも当時開設された肥料相談所の一つであったのであろう。
(ウ) 「三新」
 また、佐藤成氏は『宮沢賢治―地人への道―』で
 国道筋の目抜きの場所、つまり商店街、賢治の家に曲がろうとする角、現在岩手銀行花巻支店の向角に「三新」という小間物屋があった。その頃店の一隅にこの肥料相談所を開設して無料で相談に応じていた。また旧郡役所の北側、土木事務所のあったところ、その中に卓球台が一台おかれてあった。ここにも開設した。さらには隣接の石鳥谷、日詰、太田村等にも設けてカーキー色の作業服で終始出入りし活躍した。
<『宮沢賢治―地人への道―』(佐藤成著)>
と記述している。そこで、「三新」があったと思われる場所近くのガソリンスタンドの従業員から訊いてみると、たしかにかつて〝三新〟がそこにあったということを教えてもらった。そしてその場所は、『拡がりゆく賢治宇宙』(宮沢賢治イーハトーブ館)の中の「大正期の花巻地図」の中にある〝賢治の肥料相談所〟と地理的に一致しているから、「三新」の場所はこの〝賢治の肥料相談所〟だろうと思われる。また、賢治の教え子清水武雄の次のような証言
 ガソリンスタンドの場所に机一つと椅子二つ置いて、「植物病院」という看板を掛け、百姓たちの農事相談や肥料設計に応じていて。学校劇『植物医師』を実地に先生が再現しているような気がした。
<『賢治の時代』(増子義久著、岩波書店)>
があるが、この「植物病院」とは「三新」に開設した肥料設計相談所でなかろうかと私は直感した。
(エ) 「石鳥谷肥料相談所」
 この石鳥谷肥料相談所については、石鳥谷好地塚根に行けばその跡地にはその案内板が立ててあり、数ヶ所設けられた肥料相談所の中では一番審らかになっているようで次のように案内されている。
   石鳥谷肥料相談所跡
 昭和三年三月十五目から一週間、ここで宮沢賢治先生による肥料相談所が開設されました。これは、賢治先生の愛弟子であった菊池信一氏の努力と、当時の柳原一郎町長や照井源三郎氏の協力によって実現したものでした。
 当時の相談所の面影は写真でしかわかりませんが、菊池信一氏は、「石鳥谷肥料相談所の思い出」の一文に、その模様を次のように表しています。
 『店には八畳敷と土間が提供され、荒作りの大きな卓子(テーブル)と大鉢が二・三個あり、囲りの壁には三色で無造作に描かれた肥料と水稲の図が十数枚貼られ、かぜにガワガワゆらいでいた。毎朝七時半の列車で石鳥谷駅におり立った賢治先生は、羅紗の鳥打帽子に茶羅紗の洋服をまとわれていた。そして、ゴムのだるま靴を履かれ、鞄を抱えた左肩を斜めに上げて右腕を大きく振って来られた。
 相談所にはすでに十人も待って居り、農民達は皆外に出て先生を迎えた。
 毎朝午前八時より午後四時まで休む暇もなく続けざまに肥料設計をされたが、煙草を喫わない先生は一々ていねいにお辞儀をされながら用紙を取り出して順番を譲り合っている農民に対応された。
「石鳥谷の人達はみんな質がいい」先生はいつか云われた。そして又「河西の人達は一帯に土地が痩せていて農作には尠しも油断がならないのです。こうした一面からも因襲的に村の人達の性質が培われるのでせう」と。九時十時とすすむにつれ、人が増えて来た。仕事を分担して僕は土地の景況と前年度の栽培状況を調査。先生はその後をうけて今年度の施用肥料の施用肥料の設計をやられた。
 大馬力で三十枚ほども整理し、お昼飯をしたのは一時すぎだ。午後は「稲作と肥料」に関する講演であった。
 その年は天候不順であったが、設計に当たっては陸羽一三二号種を極力勧められた。これにより秋は二割方増収であった。」
 この肥料相談所と周りの情景を 詩「三月」として賢治先生は残されています。
<『石鳥谷肥料相談所跡』案内板>
 この石鳥谷肥料相談所は愛弟子菊池信一の出身地で開設されており、この案内にあるとおり菊池がその開設に尽力したことであろう。ここの相談所には沢山の人が押し寄せ、その人たちに対して熱心に肥料相談にのり、肥料設計する賢治の精力的な活動ぶりが目に見えるようだ。
(オ) 肥料相談所の数
 以上のことから、宮澤賢治が開いた肥料設計所の場所あるいはその場所の候補地は
 ・いちの川
 ・額縁屋
 ・三新
 ・旧郡役所傍土木事務所
 ・石鳥谷
 ・蓄音機屋
 ・日詰
 ・太田村
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《鈴木 守著作案内》
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       〒025-0068 岩手県花巻市下幅21-11 鈴木 守    電話 0198-24-9813
 ☆『「涙ヲ流サナカッタ」賢治の悔い』                ☆『宮澤賢治と高瀬露』(上田哲との共著)           ★『「羅須地人協会時代」検証』(電子出版)

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 ☆『賢治と一緒に暮らした男-千葉恭を尋ねて-』      ☆『羅須地人協会の真実-賢治昭和二年の上京-』     ☆『羅須地人協会の終焉-その真実-』


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