本当の賢治を渉猟(鈴木 守著作集等)

宮澤賢治は聖人・君子化されすぎている。そこで私は地元の利を活かして、本当の賢治を取り戻そうと渉猟してきた。

『賢治と一緒に暮らした男』 (17p~20p)

2016-01-25 08:30:00 | 『千葉恭を尋ねて』 
                   《「独居自炊」とは言い切れない「羅須地人協会時代」》








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*****************************なお、以下は本日投稿分のテキスト形式版である。****************************
時間的に無理だったろうし、その上「夜の更けゆくのも忘れて語り合ひ」と証言しているのだから、この当時も時々彼は下根子桜に泊まったはずである。
 したがっておそらく、下根子桜の別宅に集った人達はこの熱心な賢治の弟子、約半年間寝食を共にしその後も時々盛町からはるばる訪ねてやって来る弟子の千葉恭のことは良く知っていたはずだし、一目置いていたに違いない。なのに何故なのだろうか、彼等は千葉恭のことを公には一切語っていないようだ。なぜかくも千葉恭のことが語られていないのだろうかということがますます気になるのである。

8 「賢治抄録」より
 ではここでは「宮澤先生を追ひて」のシリーズはちょっと中断し、時系列のことを考えて千葉恭が著した「賢治抄録」の方を先に見てみたい。そこには次のような大正14年10月20日に豊沢町の賢治の実家を初めて訪れた際のピソード等が語られている。
 大正十四年は豊作に近い年で、季候も良いのであつた、晴れ勝ちな日が多い年であつた。十月二十日役所に出勤し、何かと忙しく働き夕方下宿先の鎌田旅館に歸った時、宿の主人は「あなたところに宮澤先生から電話がありましたよ」と云われ、早速電話した。先生を呼び出した時、先生は若い元氣のある聲で出て呉れた。「何かお用でしたでしようか」と尋ねたところ、先生の方から急ぎの句調で「先日は失禮致しました、私も突然のため何ごともなし得なかつたのに非常に申譯なかつた」と本當に申譯ないような聲で私に語つた。そして「今晩是非學校でなく私の家に遊びにお出で下さい。是非來るように、待つております」と電話を切つて了つた。
 その晩九時頃豊澤町にある賢治の家を訪ねた、屋がまえの大きな家で、花巻町として相當の舊家であつた。
 賢治は喜んで私を迎え入れた。
 私としては初めて家を尋ねるので、少しえんりよであつたが、來て了つたと云うあきらめの心になり静かに入つた。
 賢治の親達も聲をかけ「どうぞお入りえんせ」と云われて、力をえた氣持になつた。
 「賢治はおであんしたからどうぞ」と賢治の母親の優しい聲に誘われ、私はちよとあいさつをして濟むと賢治は「さあどうぞ」と表二階に誘われ、それに從つて階段を上がつて行つた、二階は八疊位の大きな室で、奥の方につくえと本が一杯あり、その脇に蓄音機が置いてあつた、この蓄音機も一般のものと違い大きな型のものであつた。
 賢治の母は早速お茶を持つて室に來た「どうぞおあげんせ」と出され、私は恐縮して「ども……」と簡たんに頭をさげたが、賢治は自分の母に對してひざをついてていねいに「ありがとうございまいした」とお禮をしたのを見て、私はうろたえてひざをつき直して、今だやつたことのないていねいさで再びお禮を申上げたことは今だに頭の中に殘つている。…(略)…
 母が去つてから、二人で肥料の話、水稲栽培の話、花造りの話、地理の話をしたりして、それのあとは「一つレコードでもかけましょうか」と自ら蓄音機を持ち出し、賢治は蓄音機を大切にしレコードも大切にして、針は金でなく、竹の針は本當の音が出るし又レコードを長持ちするために必要であると説明して呉れた。…(略)…
<『宮澤賢治研究』(草野心平編、筑摩書房33年版)>
 この後には引き続いてベートーベンの名曲を観賞し、その感想を訊かれたというエピソードが続けて書かれてあり、最後に銀河の星とか北斗七星のことなどの空の話をし、賢治の家を辞したと書かれている
 さてこのエピソードは大正14年10月20日のことだから、千葉恭が賢治に出会った大正13年11月から1年弱を経て彼は初めて賢治の実家を豊沢町に訪ねたことになる。その彼が紹介しているこの時の、賢治の母イチに対する賢治の丁寧すぎるほどの接遇の仕方は、たしかに流石賢治ならではのことである。また、二人は相変わらずこの時も熱く農事のことを語り合っていたであろうことが容易に推し量れる。
 ところでこの中の
「二階は八疊位の大きな室で、奥の方につくえと本が一杯あり、その脇に蓄音機が置いてあつた、この蓄音機も一般のものと違い大きな型のものであつた」
に出てくるこの〝蓄音機〟に関連して次は触れてみたい。

9 「宮澤先生を追つて(四)」より
 では再び「宮澤先生を追つて」シリーズに戻って「宮澤先生を追つて(四)」を見てみよう。
 岩田屋に売った蓄音機
 その前半には、千葉恭が蓄音機を売りに行ったというエピソードは以前〝『イーハトーヴォ復刊5号』より〟でも触れたことがあるが、ここにも似た様なことが載っている。とはいえ、こちらのそれは前述のそれとは似ていても違うところがあり次の様になっている。
 蓄音機で思ひ出しましたが、雪の降つた冬の生活が苦しくなつて私に「この蓄音機を賣つて來て呉れないか」と云はれました。その当時一寸その辺に見られない大きな機械で、花巻の岩田屋から買つた大切なものでありました。「これを賣らずに済む方法はないでせうか」と先生に申しましたら「いや金がない場合は農民もかくばかりでせう」と、言はれますので雪の降る寒い日、それを橇に積んで上町に出かけました。「三百五十円までなら賣つて差支ない。それ以上の場合はあなたに上げますから」と、言はれましたが、どこに賣れとも言はれないのですが、兎に角どこかで買つて呉れるでせうと、町のやがら(筆者註:「家の構え」の意の方言)を見ながらブラリブラリしてゐるとふと思い浮かんだのが、先生は岩田屋から購めたので、若しかしたら岩田屋で買つて呉れるかも知れない……といふことでした。「蓄音機買つて呉れませんか」私は思ひきつてかう言ひますと、岩田屋の主人はぢつとそれを見てゐましたが「先生のものですな―それは買ひませう」と言はれましたので蓄音機を橇から下ろして、店先に置いているうちに、主人は金を持つて出て來たのでした。「先に賣つた時は六百五十円だつたからこれだけあげませう」と、六百五十円を私の手にわたして呉れたのでした。私は驚いた様にしてしてゐましら主人は「……先生は大切なものを賣るのだから相当苦しんでおいでゞせう…持つて行って下さい」静かに言ひ聞かせるように言はれたのでした。私は高く賣つた嬉しさと、そして先生に少しでも多くの金を渡すことが出來ると思つて、先生の嬉しい顔を思ひ浮かべながら急いで歸りました。「先生高く賣れましたよ」「いやどうもご苦労様!ありがたう」差し出した金を受け取つて勘定をしてゐましたが、先生は三百五十円だけを残して「これはあなたにやりますから」と渡されましたが、私は先の嬉しさは急に消えて、何だか恐ろしいかんじがしてしまひました。一銭でも多くの金を先生に渡して喜んで貰ふつもりのが、淋しい氣持とむしろ申し訳ない氣にもなりました。私はそのまゝその足で直ぐ町まで行つて、岩田屋の主人に余分を渡して歸つて來ました。三百五十円の金は東京に音楽の勉強に行く旅費であつたことがあとで判りました。岩田屋の主人はその点は良く知つていたはずか、返す金を驚きもしないで受け取つてくれました。
 東京から歸つた先生は蓄音機を買ひ戻しました。そしてベートーベンの名曲は夜の静かな室に聽くことが多くなつたのでした。…(略)…
<『四次元9号』(宮澤賢治友の会)>
 2つのエピソードについて
 さて、千葉恭が蓄音機を売りに行ったという2つの似た様なエピソード、どちらの場合も下根子桜時代に別宅に置いてあった蓄音機を売りに行ったというものである。
 しかしこの2つのエピソードは、
・『イーハトーヴォ復刊5号』の場合
 100~90円位で売つてくればよいと賢治は言った。十字屋では250円で買ってくれた。
・「宮澤先生を追つて(四)」の場合
 350円までなら売ってよいと賢治は言った。岩田屋で650円で買ってくれた。
ということだから、経緯は同じ様だが、金額といい売った店といい全く違う。したがって考えられることは、
(ア)金額と店はそれぞれ千葉恭の記憶違いで1回きり。
(イ)同じ様なことが2回あった。
のどちらかであろう。
 そこで参考にしようと思って『岩手年鑑』(昭和13年発行、岩手日報社)の広告を見ていたならば、その中の広告欄にコロムビア蓄音機が45円~55円とあった。もし大正末期もこの程度の値段ならば当時の賢治の月給は百円前後だったはずだから、一ヶ月の給料で優に買うことは出来たであろう。なお、賢治の蓄音機は250円あるいは650円で買い上げてくれたということだからおそらくその金額はそれぞれの蓄音機の販売価格と推定出来る。したがって賢治が持っていた蓄音機は相当高額であったに違いない。
 実際、そのことを示唆しているのが前述したような
「当時一寸その辺に見られない大きな機械」
という証言、また「賢治抄録」に登場する
「二階は八疊位の大きな室で、奥の方につくえと本が一杯あり、その脇に蓄音機が置いてあつた、この蓄音機も一般のものと違い大きな型のものであつた」
という証言である。売った蓄音機がこの蓄音機であれば相当高価なものであったことであろう。
 仮に250円の蓄音機の方だとしても月給の約2.5倍の、650円ならば優に6倍以上の額になる。また蓄音機とくれば当然それに伴うレコードが必需品である。佐藤隆房によれば
 賢治さんはこのさゝやかな楽器店に目をつけ、時々來て大量にレコードを買ひます。月末の支拂いが百圓とか貳百圓とかまとまることも稀ではない。店の割合に高級な西洋音楽レコードをあまりに大量に賣るので、ポリドール會社の阿南という社長から「あのレコードは何れ方面に賣れて行くのか」と山幸商店に問合せがあつた程でありました。その時に、「あのレコードは農學校の宮澤先生に賣るのです」と囘答した處、ポリドール會社の社長から、賢治さんに丁寧な奉書に認めた感謝状が來たものです。
<『宮澤賢治』(佐藤隆房著、冨山房)>
ということであるから、もしこの証言が正しければ賢治の金銭感覚は庶民のそれとは全くかけ離れている。月給とほぼ同額、あるいはその2倍ものお金をレコード購入のためにも使うということになるからである。普通の人はそうしたくても出来ない。因みに、花巻農学校勤務時の賢治の最初の俸給(大正10年12月)は80円、大正14年の6月頃ならば105円であったという(『宮澤賢治の五十二箇月』(佐藤成著、川嶋印刷)より)。その他にボーナスもあったであろうから、賢治の一年間の給料は1,000円前後はあったであろう。
 代金の使途
 さて、このエピソード本当のところは(ア)であったのかはたまた(イ)であったのだろうか。その真実を知りたくて関係すると思われる岩田呉服店等に訊いて廻ったのだが、今に至ってはその検証は困難だということを覚るしかなかった。とはいえその際、当時岩田屋や十字屋で蓄音機を売っていたということは確認出来たから、千葉恭が賢治に頼まれて蓄音機を売りに行ったということが少なくとも一回はあったであろうということは確信出来た。ただしその代金は生活苦解消のために使われたのかというとそうではなくて、大正15年12月の上京のための旅費であったと千葉恭は証言しているから、賢治はその蓄音機を売ったお金を懐にして大正15年12月2日、澤里武治一人に見送られながら花巻駅から7度目の上京をしたことになる。
 なお賢治は花巻に帰るとその蓄音機を買い戻したと千葉恭は言うが、滞京中の必要経費としてその際に父政次郎に「二百円」
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《鈴木 守著作案内》
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       〒025-0068 岩手県花巻市下幅21-11 鈴木 守    電話 0198-24-9813
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 ☆『賢治と一緒に暮らした男-千葉恭を尋ねて-』      ☆『羅須地人協会の真実-賢治昭和二年の上京-』     ☆『羅須地人協会の終焉-その真実-』


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