《「独居自炊」とは言い切れない「羅須地人協会時代」》
続きへ。
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“『賢治が一緒に暮らした男―千葉恭を尋ねて―』の目次”へ。
*****************************なお、以下は本日投稿分のテキスト形式版である。****************************
5 千葉恭楽団ではマンドリン担当
千葉恭と賢治の関係を客観的に示す資料は少なく、今までのところでは3枚の施肥表が唯一のものであったが、もう一つそれらしきものがある。
まずは大正15年の初夏の頃についての証言を取り挙げたい。それは伊藤克己著「先生と私達―羅須地人協会時代―」の中にある次のようなものである。
私達は毎週火曜日の夜集つて練習を續けたのである。林の中の一軒家で崖の上にある先生の家の周圍には松や杉や栗の木やいろいろの雑木が生へて時々夜鳥が羽ばたいていたり窓にあたつたりして吾々を驚かしたものである。
第一ヴァイオリンは私で、第二ヴァイオリンはさんと慶吾さんでフリユートは忠一さんクラリネツトは與藏さん、先生はオルガンとセロをやりながら教へてくれたのである。
私達樂團のメンバーはこれだけだつたのである。練習に疲れると皆んな膝を突合はせて地質學や肥料の話しをしたり劇の話しをしたりラスキンの話をしたりした。夏はトマトを食べる日が多く、冬は藁で作つたつまごを履いて大豆を煎つて食べたりした。
<『宮澤賢治研究』(草野心平編、十字屋版)>
ということは伊藤克己の言に従えばこの楽団のメンバーは
第一ヴァイオリン・伊藤克己
第二ヴァイオリン・伊藤、高橋慶吾
フリユート・伊藤忠一
クラリネツト・伊藤與藏
オルガンとセロ・宮澤賢治
ということが分かる。
一方、この楽団のメンバーに関して『拡がりゆく賢治宇宙』の中では次のように書かれている。
楽団のメンバーは
第1ヴァイオリン 伊藤克己
第2ヴァイオリン 伊藤清
第2ヴァイオリン 高橋慶吾
フルート 伊藤忠一
クラリネツト 伊藤與藏
オルガン、セロ 宮澤賢治
時に、マンドリン・平来作、千葉恭、木琴・渡辺要一が加わることがあったようです。
<『拡がりゆく賢治宇宙』(宮沢賢治イーハトーブ館)>
という記載があった。
私はこの記載を知って「したり」とほくそ笑んだ。そこには断定的表現は避けているが
「時に、マンドリン・平来作、千葉恭、木琴・渡辺要一が加わることがあったようです」
と〝千葉恭〟の名前があったからだ。
実はこのことがあったので、私は以前千葉恭の三男F氏に「お父さんはマンドリンを持っていませんでしたか」と訊ねていたのであった。そしてその回答は「はい持っていましたよ」というものであった。一方、長男B氏からはそのマンドリンに関する面白いエピソードまで教えてもらった。
したがって、これらの証言からは『拡がりゆく賢治宇宙』の
〝マンドリン・平来作、千葉恭〟
の記載はほぼ間違いなかろうと、つまり
☆実は千葉恭は下根子桜で結成された楽団の仲間の一員であり、マンドリンを担当していた。
と確信している。
そして翻って、以前私が次のように
(千葉恭が)「書き残している賢治関連の資料は少なからず存在しているのに、彼と賢治との関係に言及している千葉恭以外の賢治周辺の人物が書き残している資料はなさそうだということである(私の管見のせいかもしれぬが)」
と言及したことを恥じた。たしかに私は管見だった。千葉恭と賢治の関係を示す資料があの3枚の〔施肥表A〕以外にもまだ実在しそうだからである。もちろんこの資料が存在するであろうということ自体はとても嬉しいことではある。
なお、不思議なことにこの件に関して「新校本年譜」では
「しかし音楽をやる者はマンドリン平来作、木琴渡辺要一がおり」
と断定的表現に変わっているとともに、「千葉恭」の名前のだけが抜け落ちている。どちらが正しいのか今のところ私には分からないが、必死になってこれらの出典を探している。
第5章 いつからなぜ独居自炊に
1 一体いつから「独居自炊」に
振り返ってみるに、なぜ私はここまでこんなことを行ってきたのか。それは少し前までの私は、「下根子桜時代」の宮澤賢治は「独居自炊」生活をしていたとばかり思っていた。ところが実は約半年間賢治は千葉恭という人物と一緒に暮らしていたということを、賢治は「下根子桜時代」は〝独居〟じゃなかった期間もあったのだということを知ってしまった。そしてあっそうか、これが賢治の甥の一人が約40年前に
「賢治はあまりにも聖人・君子化され過ぎてしまい、実は私は色々なことを知っているのだがそのようなことは簡単には明らかに出来なくなってしまった」
というような意味のことを私達に語ってくれていたが、その一例なのかも知れない。そう思ったら急に、賢治と一緒に暮らした男にまつわる賢治の真実を私は知りたくなっていた。ただそれだけでここまでやってきたような気がする。
そのことがあって関連資料を漁っているうちに、『あれっ?』と思ったことがある。それは幾つかの宮澤賢治関連図書等を見ていて、賢治の「下根子桜時代」を決まり文句の「独居自炊」というキャッチフレーズで昔から修辞していた訳ではないということにふと気が付いたのである。
そこで、「下根子桜時代」のことをはたして「独居自炊」と修辞しているかどうか、主な賢治関連図書等について発行年順に並べてみると以下のようになる。
*********************************************************
【「独居自炊」に関する文献】
(1)『土に叫ぶ』(松田甚次郎著、昭和13年、羽田書店)
1p 故あつてそこを辭されて自ら鍬取る一個の農夫として、郊外下根子に『羅須地人協會』といふを開設して、自ら農耕に從つた。毎日自炊、自耕し、或は音樂、詩作、童話の研究に餘念なく、精根の限りを盡された。
(2)『宮澤賢治名作選』(松田甚次郎編、昭和14年、羽田書店)
3p (宮澤賢治略歴)
大正十五年四月 花巻町下根子櫻ニ羅須地人協會開設。同所ニ於イテ農耕ニ從事、自炊ス。
(3)『宮澤賢治研究』(草野心平編、昭和14年、十字屋版)
175p 谷川徹三
大正十五年四月花巻町下根子字ニ羅須地人協會開設。同所ニ於テ農耕ニ從事自炊ス。
284p 三浦參玄洞
大正十五年四月花巻町の片ほとりに羅須地人協會といふのを設けて自炊生活を營みながら農耕に從事した。
324p 菊池武雄
私が藤原君の案内で賢治さんのあの自炊の家(適當でないが)を訪れたのは…
436p 白藤慈秀
宮澤君は或る事由によりて大正十五年三月偶然にも私と同時に退職した、彼は花巻の郊外都塵も通はぬ静閑の地にある同家の別邸に只一人住むことになつた。
年譜13p 四月、花巻町下根子櫻の假偶(ママ)に自炊生活し、附近を開墾し、農耕に從事す。
(4)『宮澤賢治』(佐藤隆房著、昭和17年、冨山房)
257p (宮澤賢治年譜)
大正十五年 三十一歳(二五八六)
四月、花巻町下根子櫻の假寓に自炊生活し、附近を開墾し、農耕に從事す。(宮澤清六編)
(5)『宮澤賢治覚え書』(小田邦雄著、昭和18年、弘學社)
206p 大正十五年農學校を退職し、花巻町の櫻に自炊生活をしながら本格的開墾に入り、農耕に從つた。
(6)『雨にもまけず』(斑目榮二著、昭和18年、富文館)
158p 賢治は、學校を止めてほどなく、亡妹とし子が、いたついて臥つてゐた下根子櫻の、から松の林の丘のうへにある、柾葺屋根の二階建ての別宅に、一人、居をかまへた。
(7)『宮沢賢治の世界』(谷川徹三著、法政大学出版局)
<昭和19年9月20日の講演「今日の心がまえ」より>
17p ―賢治は大正十五年三十一歳の時、それまで勤めていた花巻農学校教諭の職を辞し、町外れの下根子桜という地に自炊しながら、附近を開墾し半農耕生活を始めた…
(8)『宮澤賢治素描』(関登久也著、昭和22年、眞日本社)
6p 花巻農學校を依願退職したのは三十一歳の昭和(ママ)十五年三月三十一日で、四月にはこの櫻の家に地人協會を開設しました。…
賢治はこの家にゐて自ら農耕に從事し、農村の求めに應じて農事講演を行ひ…
(9)『宮澤賢治の肖像』(佐藤勝治著、昭和23年)
宮澤賢治略年譜
125p 大正十五年(三十一歳)
四月、花巻町下根子に獨居。農耕自炊の生活に入る。
(10)『宮澤賢治研究』(古谷綱武著、昭和23年発行、26年再版、日本社)
8p 三十八年の生涯を通じて獨身であつた賢治は、三十一歳の三月末には、農學校教師の職をしりぞいて、ひとり農耕し自炊する生活をはじめた。
275p (宮澤賢治略年譜)
大正十五年(一九二六)三十一才
四月、花巻町下根子櫻の假寓に自炊生活し、附近を開墾し、農耕に從事する。
(11)『雨ニモマケズ』(小田邦雄著、昭和25年発行、酪農学園通信教育出版部)
172p 宮澤賢治が野の人として、こうして全農民の「病苦」をいやすべく、花巻、下根子に自炊生活を始めることになったのは大正十五年、三十一才の四月である。
261p (宮澤賢治年譜)
大正十五年 三十一才
四月 花巻町下根子櫻の假寓に自炊生活し、附近を開墾し、農耕に從事す。
(12)『昭和文学全集14 宮澤賢治』(昭和28年発行、角川書店)
376p 大正十五年三月農學校教諭を辭職した彼は、四月から自耕自活の一農民の姿になり、花巻郊外に獨居自炊の生活を始めた。<「小倉豐文解説」>
(13)『宮沢賢治物語』(関登久也著、昭和32年、岩手日報社)
134p 四月には、花巻の郊外下根子桜の地にある宮沢家の別宅に ただ一人移り住み、自炊の生活を始めました。
(14)『宮澤賢治全集十一』(昭和32年、筑摩書房)
496p (年譜) 大正十五年四月、花巻下根子桜に自炊生活を始め、附近を開墾し畑を耕作した。
(15)『高村光太郎・宮澤賢治』(伊藤信吉編、昭和34年、角川書店)
372p (宮沢賢治年譜) 大正一五年・昭和元年(一九二六)三一歳
四月、花巻町大字下根子小字桜に自炊生活を始め、附近を開墾し畑を耕作した。
(16)『宮沢賢治』(中村稔著、昭和47年、筑摩叢書)
258p 大正十五年(一九二六年)三月農学校を退職した彼は花巻校外下根子桜の宮沢家の別宅に独居して自炊し、付近を開墾、耕作することになった。
(17)『こぼれ話宮沢賢治』(白藤慈秀著、昭和47年、トリョウ
****************************************************************************************************
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《鈴木 守著作案内》
◇ この度、拙著『「涙ヲ流サナカッタ」賢治の悔い』(定価 500円、税込)が出来しました。
本書は『宮沢賢治イーハトーブ館』にて販売しております。
あるいは、次の方法でもご購入いただけます。
☆『「涙ヲ流サナカッタ」賢治の悔い』 ☆『宮澤賢治と高瀬露』(上田哲との共著) ★『「羅須地人協会時代」検証』(電子出版)
なお、既刊『羅須地人協会の真実―賢治昭和二年の上京―』、『宮澤賢治と高瀬露』につきましても同様ですが、こちらの場合はそれぞれ1,000円分(送料込)の郵便切手をお送り下さい。
☆『賢治と一緒に暮らした男-千葉恭を尋ねて-』 ☆『羅須地人協会の真実-賢治昭和二年の上京-』 ☆『羅須地人協会の終焉-その真実-』
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*****************************なお、以下は本日投稿分のテキスト形式版である。****************************
5 千葉恭楽団ではマンドリン担当
千葉恭と賢治の関係を客観的に示す資料は少なく、今までのところでは3枚の施肥表が唯一のものであったが、もう一つそれらしきものがある。
まずは大正15年の初夏の頃についての証言を取り挙げたい。それは伊藤克己著「先生と私達―羅須地人協会時代―」の中にある次のようなものである。
私達は毎週火曜日の夜集つて練習を續けたのである。林の中の一軒家で崖の上にある先生の家の周圍には松や杉や栗の木やいろいろの雑木が生へて時々夜鳥が羽ばたいていたり窓にあたつたりして吾々を驚かしたものである。
第一ヴァイオリンは私で、第二ヴァイオリンはさんと慶吾さんでフリユートは忠一さんクラリネツトは與藏さん、先生はオルガンとセロをやりながら教へてくれたのである。
私達樂團のメンバーはこれだけだつたのである。練習に疲れると皆んな膝を突合はせて地質學や肥料の話しをしたり劇の話しをしたりラスキンの話をしたりした。夏はトマトを食べる日が多く、冬は藁で作つたつまごを履いて大豆を煎つて食べたりした。
<『宮澤賢治研究』(草野心平編、十字屋版)>
ということは伊藤克己の言に従えばこの楽団のメンバーは
第一ヴァイオリン・伊藤克己
第二ヴァイオリン・伊藤、高橋慶吾
フリユート・伊藤忠一
クラリネツト・伊藤與藏
オルガンとセロ・宮澤賢治
ということが分かる。
一方、この楽団のメンバーに関して『拡がりゆく賢治宇宙』の中では次のように書かれている。
楽団のメンバーは
第1ヴァイオリン 伊藤克己
第2ヴァイオリン 伊藤清
第2ヴァイオリン 高橋慶吾
フルート 伊藤忠一
クラリネツト 伊藤與藏
オルガン、セロ 宮澤賢治
時に、マンドリン・平来作、千葉恭、木琴・渡辺要一が加わることがあったようです。
<『拡がりゆく賢治宇宙』(宮沢賢治イーハトーブ館)>
という記載があった。
私はこの記載を知って「したり」とほくそ笑んだ。そこには断定的表現は避けているが
「時に、マンドリン・平来作、千葉恭、木琴・渡辺要一が加わることがあったようです」
と〝千葉恭〟の名前があったからだ。
実はこのことがあったので、私は以前千葉恭の三男F氏に「お父さんはマンドリンを持っていませんでしたか」と訊ねていたのであった。そしてその回答は「はい持っていましたよ」というものであった。一方、長男B氏からはそのマンドリンに関する面白いエピソードまで教えてもらった。
したがって、これらの証言からは『拡がりゆく賢治宇宙』の
〝マンドリン・平来作、千葉恭〟
の記載はほぼ間違いなかろうと、つまり
☆実は千葉恭は下根子桜で結成された楽団の仲間の一員であり、マンドリンを担当していた。
と確信している。
そして翻って、以前私が次のように
(千葉恭が)「書き残している賢治関連の資料は少なからず存在しているのに、彼と賢治との関係に言及している千葉恭以外の賢治周辺の人物が書き残している資料はなさそうだということである(私の管見のせいかもしれぬが)」
と言及したことを恥じた。たしかに私は管見だった。千葉恭と賢治の関係を示す資料があの3枚の〔施肥表A〕以外にもまだ実在しそうだからである。もちろんこの資料が存在するであろうということ自体はとても嬉しいことではある。
なお、不思議なことにこの件に関して「新校本年譜」では
「しかし音楽をやる者はマンドリン平来作、木琴渡辺要一がおり」
と断定的表現に変わっているとともに、「千葉恭」の名前のだけが抜け落ちている。どちらが正しいのか今のところ私には分からないが、必死になってこれらの出典を探している。
第5章 いつからなぜ独居自炊に
1 一体いつから「独居自炊」に
振り返ってみるに、なぜ私はここまでこんなことを行ってきたのか。それは少し前までの私は、「下根子桜時代」の宮澤賢治は「独居自炊」生活をしていたとばかり思っていた。ところが実は約半年間賢治は千葉恭という人物と一緒に暮らしていたということを、賢治は「下根子桜時代」は〝独居〟じゃなかった期間もあったのだということを知ってしまった。そしてあっそうか、これが賢治の甥の一人が約40年前に
「賢治はあまりにも聖人・君子化され過ぎてしまい、実は私は色々なことを知っているのだがそのようなことは簡単には明らかに出来なくなってしまった」
というような意味のことを私達に語ってくれていたが、その一例なのかも知れない。そう思ったら急に、賢治と一緒に暮らした男にまつわる賢治の真実を私は知りたくなっていた。ただそれだけでここまでやってきたような気がする。
そのことがあって関連資料を漁っているうちに、『あれっ?』と思ったことがある。それは幾つかの宮澤賢治関連図書等を見ていて、賢治の「下根子桜時代」を決まり文句の「独居自炊」というキャッチフレーズで昔から修辞していた訳ではないということにふと気が付いたのである。
そこで、「下根子桜時代」のことをはたして「独居自炊」と修辞しているかどうか、主な賢治関連図書等について発行年順に並べてみると以下のようになる。
*********************************************************
【「独居自炊」に関する文献】
(1)『土に叫ぶ』(松田甚次郎著、昭和13年、羽田書店)
1p 故あつてそこを辭されて自ら鍬取る一個の農夫として、郊外下根子に『羅須地人協會』といふを開設して、自ら農耕に從つた。毎日自炊、自耕し、或は音樂、詩作、童話の研究に餘念なく、精根の限りを盡された。
(2)『宮澤賢治名作選』(松田甚次郎編、昭和14年、羽田書店)
3p (宮澤賢治略歴)
大正十五年四月 花巻町下根子櫻ニ羅須地人協會開設。同所ニ於イテ農耕ニ從事、自炊ス。
(3)『宮澤賢治研究』(草野心平編、昭和14年、十字屋版)
175p 谷川徹三
大正十五年四月花巻町下根子字ニ羅須地人協會開設。同所ニ於テ農耕ニ從事自炊ス。
284p 三浦參玄洞
大正十五年四月花巻町の片ほとりに羅須地人協會といふのを設けて自炊生活を營みながら農耕に從事した。
324p 菊池武雄
私が藤原君の案内で賢治さんのあの自炊の家(適當でないが)を訪れたのは…
436p 白藤慈秀
宮澤君は或る事由によりて大正十五年三月偶然にも私と同時に退職した、彼は花巻の郊外都塵も通はぬ静閑の地にある同家の別邸に只一人住むことになつた。
年譜13p 四月、花巻町下根子櫻の假偶(ママ)に自炊生活し、附近を開墾し、農耕に從事す。
(4)『宮澤賢治』(佐藤隆房著、昭和17年、冨山房)
257p (宮澤賢治年譜)
大正十五年 三十一歳(二五八六)
四月、花巻町下根子櫻の假寓に自炊生活し、附近を開墾し、農耕に從事す。(宮澤清六編)
(5)『宮澤賢治覚え書』(小田邦雄著、昭和18年、弘學社)
206p 大正十五年農學校を退職し、花巻町の櫻に自炊生活をしながら本格的開墾に入り、農耕に從つた。
(6)『雨にもまけず』(斑目榮二著、昭和18年、富文館)
158p 賢治は、學校を止めてほどなく、亡妹とし子が、いたついて臥つてゐた下根子櫻の、から松の林の丘のうへにある、柾葺屋根の二階建ての別宅に、一人、居をかまへた。
(7)『宮沢賢治の世界』(谷川徹三著、法政大学出版局)
<昭和19年9月20日の講演「今日の心がまえ」より>
17p ―賢治は大正十五年三十一歳の時、それまで勤めていた花巻農学校教諭の職を辞し、町外れの下根子桜という地に自炊しながら、附近を開墾し半農耕生活を始めた…
(8)『宮澤賢治素描』(関登久也著、昭和22年、眞日本社)
6p 花巻農學校を依願退職したのは三十一歳の昭和(ママ)十五年三月三十一日で、四月にはこの櫻の家に地人協會を開設しました。…
賢治はこの家にゐて自ら農耕に從事し、農村の求めに應じて農事講演を行ひ…
(9)『宮澤賢治の肖像』(佐藤勝治著、昭和23年)
宮澤賢治略年譜
125p 大正十五年(三十一歳)
四月、花巻町下根子に獨居。農耕自炊の生活に入る。
(10)『宮澤賢治研究』(古谷綱武著、昭和23年発行、26年再版、日本社)
8p 三十八年の生涯を通じて獨身であつた賢治は、三十一歳の三月末には、農學校教師の職をしりぞいて、ひとり農耕し自炊する生活をはじめた。
275p (宮澤賢治略年譜)
大正十五年(一九二六)三十一才
四月、花巻町下根子櫻の假寓に自炊生活し、附近を開墾し、農耕に從事する。
(11)『雨ニモマケズ』(小田邦雄著、昭和25年発行、酪農学園通信教育出版部)
172p 宮澤賢治が野の人として、こうして全農民の「病苦」をいやすべく、花巻、下根子に自炊生活を始めることになったのは大正十五年、三十一才の四月である。
261p (宮澤賢治年譜)
大正十五年 三十一才
四月 花巻町下根子櫻の假寓に自炊生活し、附近を開墾し、農耕に從事す。
(12)『昭和文学全集14 宮澤賢治』(昭和28年発行、角川書店)
376p 大正十五年三月農學校教諭を辭職した彼は、四月から自耕自活の一農民の姿になり、花巻郊外に獨居自炊の生活を始めた。<「小倉豐文解説」>
(13)『宮沢賢治物語』(関登久也著、昭和32年、岩手日報社)
134p 四月には、花巻の郊外下根子桜の地にある宮沢家の別宅に ただ一人移り住み、自炊の生活を始めました。
(14)『宮澤賢治全集十一』(昭和32年、筑摩書房)
496p (年譜) 大正十五年四月、花巻下根子桜に自炊生活を始め、附近を開墾し畑を耕作した。
(15)『高村光太郎・宮澤賢治』(伊藤信吉編、昭和34年、角川書店)
372p (宮沢賢治年譜) 大正一五年・昭和元年(一九二六)三一歳
四月、花巻町大字下根子小字桜に自炊生活を始め、附近を開墾し畑を耕作した。
(16)『宮沢賢治』(中村稔著、昭和47年、筑摩叢書)
258p 大正十五年(一九二六年)三月農学校を退職した彼は花巻校外下根子桜の宮沢家の別宅に独居して自炊し、付近を開墾、耕作することになった。
(17)『こぼれ話宮沢賢治』(白藤慈秀著、昭和47年、トリョウ
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《鈴木 守著作案内》
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〒025-0068 岩手県花巻市下幅21-11 鈴木 守 電話 0198-24-9813☆『「涙ヲ流サナカッタ」賢治の悔い』 ☆『宮澤賢治と高瀬露』(上田哲との共著) ★『「羅須地人協会時代」検証』(電子出版)
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