村上文緒はアマデウス先生の嫁(仮)

いい風が吹いていますよ~ 村上文緒

1月9日(金)のつぶやき

2015-01-10 06:52:26 | 日記

江戸時代初期、寛永四年 (1627)に出版された『 塵劫記(国立国会図書館 ndl.go.jp/math/s2/1.html)』 という数学書がある。『 塵劫記』はその後も版を重ね、多くの数学ファンとともに研究者を生み出した。 pic.twitter.com/8jHtqogupw


もしこの本の登場がなかったなら、和算文化が花開くこともなかったかもしれない、と言われるほど多くの人々に読まれた本である。実際、江戸時代後期になると、もはや子供でも知っているような本だった。


たとえば、弥次郎兵衛と喜多八の珍道中記として有名な滑稽本、『東海道中膝栗毛』にも『 塵劫記』は出てくる。吉原宿 (現在の静岡県富士市)を過ぎたあたりで、弥次喜多の二人は、旅人に菓子を売っている小僧と出会う。二人は菓子を買って食べるが、小僧が掛け算ができないことをよいことに、


喜多八は次々と代金をごまかす。
「2文の菓子が五つで二五の三文か。コレここにおくぞ」
「三文の菓子を四ツ食ったから、三四の七文五分か。エイワ、五分はまけろ、まけろ」
よせばいいのに、今度は餅に目をつけて、二人はそれもたいらげて、ごまかそうとする。


「五文ずつならこうと、二人で六ツ食ったから、五六が十五文、ソレやるぞ」
すると、ようやくインチキに気がついた小僧が、掛け算はやめてくれという意味で、『塵劫記』を持ち出すのだ。
「イヤこの衆は、もう塵劫記の九九じゃ売りましない。五文ずつ六ツくれなさろ」


小僧はまだ『塵劫記』をしっかり勉強していなかったが、その中に九九の計算があることは知っていた。「塵劫記の九九じゃ売りましない」で笑いがとれるほど、『塵劫記』は人口にかい膾炙していたのだ。『塵劫記』はよく売れたので、たちまち海賊版が出た。江戸時代を通じて、類似の本が続々と出版。


寺子屋で使われる教科書にもなった。明治初期までに出た『〇〇塵劫記』とか『塵劫記〇〇』といったタイトルの本だけで、四百種類もあるという。とにかく 塵劫記と付け加えるだけで「楽しく学べる実用数学書」を意味するようになったほどである。


『塵劫記』の著者は、豪商・角倉一族からなる吉田光由という人物である。角倉一族は、さかのぼれば、宇多源氏に端を発する近江の武家である。その末裔が、京都嵯峨で土倉と呼ばれる金融業を始めた。もとは吉田という姓であったが、朱印船貿易に進出した角倉了以の代から、屋号でもあった角倉を名乗った