そろばんはもちろん、和算も全国に普及しているのである。その蓄積を生かしながら西洋数学を学んだ方がよほど効率的であることは、自らの経験に照らしても明らかであった。その結果、小学校の算術教育は当分の間併用することが決まり、実はこれは大正年間まで続いた。
友五郎は、その後も日本の数学教育に並々ならぬ関心を持ち、小学校用の教科書『尋常小学新撰洋算初歩』を書くなど、和算出身の数学者として尽力した。
小笠原諸島が日本領なのは彼の小野友五郎のおかげなの? s.webry.info/sp/blog.q-q.jp…
一方、友五郎は、後半生を製塩技術開発に捧げ、独自の天日製塩法(shiojigyo.com/en/backnumber/…)を完成。明治三十一年 (1898)、播磨国大塩村 (現兵庫県姫路市)に招かれて製塩法の実地指導をしていたところを体調を崩し、帰京したのち、10月29日、81歳で生涯を閉じた