おはようございます♪
昨夜は3:00頃まで眠りに就けず、今朝は6:31に目覚めました。
そして9:15頃に寝付き、12:30頃目覚めました。
2度寝により、6時間半以上の睡眠しか採れなかった事になります。
それもそのはず。少々不幸な連絡が父からあったからです。父曰く昨日担当医の経過診察と検査結果を聴いたところ、母は入院先で肺炎を起こし始めており、脳梗塞もいくつか見くけられたの事。
これまでは2009年9月22日にペットボトル症候群により、1型糖尿病(すい臓でインスリンが全く作ることが出来ず、インスリンを打っていかねば普通にしていられなくなる病気)と、思った以上に脳の委縮が進んでおり、認知症が近い将来やってくるという事と、排尿・排便が自力では出来なくなるという3点で始まった。老老介護は難しく、私は私で過去の過重労働により、その半年くらい前からうつ病が増悪し、会社を休まざるを得ない状態になっていた。
過去の過重労働からは極端な不安や恐怖感を抱くようになり、常に毎日会社から独身寮へ帰ったら母に連絡を取り、少しでも不安感、恐怖感を取り除こうとしていてかつ、酷い睡眠障害も主治医の下、仕事と治療の両立を図りながら、治していく方針になったからだ。それから約1年後には独身寮滞在期間満了となり、当時自殺願望が酷かった私は実家から片道2時間かけて通わざるを得なくなった。私の病気は以降夕方の18時30分には会社から返してもらう習慣をつけ、それでも良くもならずにいた。妻との結婚もしてみたが、母親との連絡は相変わらず取り続け、母も精神的に疲れ果てて途中から電話相手を父親にバトンタッチした。それから約12年が経っての事、上司が変わり、再び長時間残業を迫られ、治療時間はおろそかになり、1か月半で仕事と治療のバランスを失い、最後には2008/12/1深夜、帰宅準備が整った私は直属上司と一緒に帰り始めた所、職場のエレベータの前で倒れた。
この頃から長期休業となり始めていた。とりあえず最初は50日間休んで、体調(神経)を出来るだけ整え、慣らし運転のつもりで会社へ復帰した。ただその心得は上位上司には認められず、結果その時の主治医に診断書を乱筆させられることになり、もう私の事は診れないと言われ、紹介状を書いてもらいいまの精神科へ受診することとなった。
その結果、2009/3/19(木)から休業し始めた。(最初私傷病扱い、のちに労災扱いとなった。)
それから約半年後母は実家で倒れ、血糖値が800を超え、大学病院へ緊急入院となり、暫く(1週間程度)集中治療室で治療を受けておりました。母の入院闘病生活はこれを原点に始まりました。
先にも申し上げましたが、1に一型糖尿病、2に近い将来来るであろう認知症(転院先で約半年後からひどくなってきた)、3に排尿・排便が自力でできない、という状態で闘病入院生活は始まりました。
さて、昨夜、いつもの時間帯に電話で父から母の病状を聞いてびっくりしました。
4にいくつかの「脳梗塞」、5に「なりかけた肺炎」が加わっていたからです。
確かに今年の1月16日からは食べ物を飲み込む力がなく、口の中に要れた食べ物を吐き出してしまう始末で、点滴治療が始まりました。
点滴は手始めにフィジオゾール3号輸液(総合電解質輸液)のようです。2月21日からは微熱が本格的になり、抗生物質と解熱鎮痛剤も投与しているようです。
母は、大学病院のころから「ごはん」「インスリン」の2つのフレーズを日常口にしていましたが、昨年あたりからは「ごはん」のみとなり、現在は「ごはん」も口にしなくなった状況です。
父の話によれば、医者伝えですが、38度前後の発熱の正体を突き詰めるべく、検査をしたところ、小さな肺炎が出来ていたそうです。さらに、もって1か月半と医師から説明があったようです。
これまでの経緯、医師伝えの父の話しを伺った限りでは、そんなに酷くなかった母が、急変したのかのように聴こえ始めました。
大学病院から数えるといまは3つ目の病院ですが、2つ目の病院では大学病院で言われたことがそのまま反映されたような感じで、3つ目の病院では大学病院時代から膀胱炎だろうと思われていた発熱さえ出なかったものの、まさかの「脳梗塞」と「肺炎」の初期症状でした。手術する方針もなく余命1か月半。かなりショックを受けました。
しかしながら、現実は現実として取り入れるべく、いま出来る事を考えながら過ごしてゆきたいと思います。
起床時刻と行動歴の一覧は下記の通りで起床時刻は依然としてばらついております。
★起床時刻と行動歴の一覧
こちらをクリックして下さい。
昨夜の22:19頃に飲んだ薬(22錠)は下記の通りです。セディールは飲んでものっまなくても結果は同じと思い、服用を中止しました。
【昨日 2/24 22:13頃】
ラボナ50mg2錠
ドラール15mg1錠
ダルメート15mg1カプセル
ソメリン5mg1錠
レボトミン50mg2錠
レボトミン25mg2錠
フェノバール30mg4錠
ピレチア25mg1錠
アナフラニール25mg4錠
カルビスケン5mg1錠
ビオスリー配合錠3錠
2013/09/12 21:58(木)(22週間以上前)~ドラール1/2錠導入。
2013/11/02 22:05(土)(16週間以上前)~ドラール3/4錠へ増量。
2013/11/17 22:01(日)(14週間以上前)~ドラール1錠へ増量。
2013/12/04 21:58(水)(11週間以上前)~待望のダルメート導入。
2013/12/16 22:01(月)(10週間以上前)~ソメリン5mg導入。
2014/02/05 22:02(水)(2週間以上前)~セディール10mg導入。
2014/02/16 22:00(日)(1週間前)でセディール10mgを一時中止。
睡眠時間など、今後の動向を注視してゆきたいと思います。
尚、ω2受容体の反応状況ですが、いまのところ、22週間前(2013/09/12 21:58)からドラールを飲んでいるせいか、同日(2013/09/12 21:58)からロヒプノールを飲んでいないにもかかわらず、筋肉の状況はロヒプノール不足の症状には至っておらず、順調です。
ロヒプノールは17年間お世話になった薬であり、2000年5月に依存に至ったことが発覚したことから、先ずは、春夏秋冬の1年間を通し、ロヒプノールの依存から脱却したいです。
特に離脱症状が出やすいこの冬季にかけては依存から脱却できるか否かが注目です。
尚、ロヒプノール(1/12mg、1/10mg、1/8mg)は飲まずに保管しておりますので、2014/02/05(水)の診察時点でセディールと引き換えに処方を中止しました。
昨日の日中は、サインバルタやレクサプロなどを飲み忘れました^^;
そして、今日は、どんな一日になることやら・・。
★過重労働がきっかけで病にかかった奮闘記
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昨夜は3:00頃まで眠りに就けず、今朝は6:31に目覚めました。
そして9:15頃に寝付き、12:30頃目覚めました。
2度寝により、6時間半以上の睡眠しか採れなかった事になります。
それもそのはず。少々不幸な連絡が父からあったからです。父曰く昨日担当医の経過診察と検査結果を聴いたところ、母は入院先で肺炎を起こし始めており、脳梗塞もいくつか見くけられたの事。
これまでは2009年9月22日にペットボトル症候群により、1型糖尿病(すい臓でインスリンが全く作ることが出来ず、インスリンを打っていかねば普通にしていられなくなる病気)と、思った以上に脳の委縮が進んでおり、認知症が近い将来やってくるという事と、排尿・排便が自力では出来なくなるという3点で始まった。老老介護は難しく、私は私で過去の過重労働により、その半年くらい前からうつ病が増悪し、会社を休まざるを得ない状態になっていた。
過去の過重労働からは極端な不安や恐怖感を抱くようになり、常に毎日会社から独身寮へ帰ったら母に連絡を取り、少しでも不安感、恐怖感を取り除こうとしていてかつ、酷い睡眠障害も主治医の下、仕事と治療の両立を図りながら、治していく方針になったからだ。それから約1年後には独身寮滞在期間満了となり、当時自殺願望が酷かった私は実家から片道2時間かけて通わざるを得なくなった。私の病気は以降夕方の18時30分には会社から返してもらう習慣をつけ、それでも良くもならずにいた。妻との結婚もしてみたが、母親との連絡は相変わらず取り続け、母も精神的に疲れ果てて途中から電話相手を父親にバトンタッチした。それから約12年が経っての事、上司が変わり、再び長時間残業を迫られ、治療時間はおろそかになり、1か月半で仕事と治療のバランスを失い、最後には2008/12/1深夜、帰宅準備が整った私は直属上司と一緒に帰り始めた所、職場のエレベータの前で倒れた。
この頃から長期休業となり始めていた。とりあえず最初は50日間休んで、体調(神経)を出来るだけ整え、慣らし運転のつもりで会社へ復帰した。ただその心得は上位上司には認められず、結果その時の主治医に診断書を乱筆させられることになり、もう私の事は診れないと言われ、紹介状を書いてもらいいまの精神科へ受診することとなった。
その結果、2009/3/19(木)から休業し始めた。(最初私傷病扱い、のちに労災扱いとなった。)
それから約半年後母は実家で倒れ、血糖値が800を超え、大学病院へ緊急入院となり、暫く(1週間程度)集中治療室で治療を受けておりました。母の入院闘病生活はこれを原点に始まりました。
先にも申し上げましたが、1に一型糖尿病、2に近い将来来るであろう認知症(転院先で約半年後からひどくなってきた)、3に排尿・排便が自力でできない、という状態で闘病入院生活は始まりました。
さて、昨夜、いつもの時間帯に電話で父から母の病状を聞いてびっくりしました。
4にいくつかの「脳梗塞」、5に「なりかけた肺炎」が加わっていたからです。
確かに今年の1月16日からは食べ物を飲み込む力がなく、口の中に要れた食べ物を吐き出してしまう始末で、点滴治療が始まりました。
点滴は手始めにフィジオゾール3号輸液(総合電解質輸液)のようです。2月21日からは微熱が本格的になり、抗生物質と解熱鎮痛剤も投与しているようです。
母は、大学病院のころから「ごはん」「インスリン」の2つのフレーズを日常口にしていましたが、昨年あたりからは「ごはん」のみとなり、現在は「ごはん」も口にしなくなった状況です。
父の話によれば、医者伝えですが、38度前後の発熱の正体を突き詰めるべく、検査をしたところ、小さな肺炎が出来ていたそうです。さらに、もって1か月半と医師から説明があったようです。
これまでの経緯、医師伝えの父の話しを伺った限りでは、そんなに酷くなかった母が、急変したのかのように聴こえ始めました。
大学病院から数えるといまは3つ目の病院ですが、2つ目の病院では大学病院で言われたことがそのまま反映されたような感じで、3つ目の病院では大学病院時代から膀胱炎だろうと思われていた発熱さえ出なかったものの、まさかの「脳梗塞」と「肺炎」の初期症状でした。手術する方針もなく余命1か月半。かなりショックを受けました。
しかしながら、現実は現実として取り入れるべく、いま出来る事を考えながら過ごしてゆきたいと思います。
起床時刻と行動歴の一覧は下記の通りで起床時刻は依然としてばらついております。
★起床時刻と行動歴の一覧
こちらをクリックして下さい。
昨夜の22:19頃に飲んだ薬(22錠)は下記の通りです。セディールは飲んでものっまなくても結果は同じと思い、服用を中止しました。
【昨日 2/24 22:13頃】
ラボナ50mg2錠
ドラール15mg1錠
ダルメート15mg1カプセル
ソメリン5mg1錠
レボトミン50mg2錠
レボトミン25mg2錠
フェノバール30mg4錠
ピレチア25mg1錠
アナフラニール25mg4錠
カルビスケン5mg1錠
ビオスリー配合錠3錠
2013/09/12 21:58(木)(22週間以上前)~ドラール1/2錠導入。
2013/11/02 22:05(土)(16週間以上前)~ドラール3/4錠へ増量。
2013/11/17 22:01(日)(14週間以上前)~ドラール1錠へ増量。
2013/12/04 21:58(水)(11週間以上前)~待望のダルメート導入。
2013/12/16 22:01(月)(10週間以上前)~ソメリン5mg導入。
2014/02/05 22:02(水)(2週間以上前)~セディール10mg導入。
2014/02/16 22:00(日)(1週間前)でセディール10mgを一時中止。
睡眠時間など、今後の動向を注視してゆきたいと思います。
尚、ω2受容体の反応状況ですが、いまのところ、22週間前(2013/09/12 21:58)からドラールを飲んでいるせいか、同日(2013/09/12 21:58)からロヒプノールを飲んでいないにもかかわらず、筋肉の状況はロヒプノール不足の症状には至っておらず、順調です。
ロヒプノールは17年間お世話になった薬であり、2000年5月に依存に至ったことが発覚したことから、先ずは、春夏秋冬の1年間を通し、ロヒプノールの依存から脱却したいです。
特に離脱症状が出やすいこの冬季にかけては依存から脱却できるか否かが注目です。
尚、ロヒプノール(1/12mg、1/10mg、1/8mg)は飲まずに保管しておりますので、2014/02/05(水)の診察時点でセディールと引き換えに処方を中止しました。
昨日の日中は、サインバルタやレクサプロなどを飲み忘れました^^;
そして、今日は、どんな一日になることやら・・。
★過重労働がきっかけで病にかかった奮闘記
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