話の種

新聞やテレビ、雑誌などで、興味深かった記事や内容についての備忘録、考察、感想

仏教の理念と温厚な理由

2023-08-10 14:46:09 | 話の種

[仏教の理念と温厚な理由]

「仏教についての当方の質問とChatGPTの回答」

User
■[仏教は他の一神教の宗教よりも温厚だと言われていますが]
ChatGPT
はい、仏教は一般的に他の一神教の宗教と比較して温厚な宗教とされています。以下にその理由をいくつか挙げます。

[非暴力と慈悲]: 
仏教は非暴力(アヒンサー)を重視し、他の生物への苦痛を与えないことを教えます。仏教の核心の教えである「四つの高尚な真理」の一つに「慈悲」があり、他の人々への思いやりと慈しみを育むよう促します。

[無差別の愛]: 
仏教では、全ての生命に対して平等で無差別な愛を持つことを奨励しています。他の人々に対して差別や偏見を持たず、思いやりと共感を持って接することが重要視されます。

[忍耐と平和]: 
仏教は内省や瞑想を通じて心の平穏と安定を追求することを教えます。個人の内なる平和と調和を追求することに焦点を当て、怒りや憎しみといった負の感情を超えるよう努めます。

[相互依存の理解]: 
仏教では、全ての存在が相互に依存しあっているという理念があります。個人の幸福や繁栄は他の人々や生物とのつながりによって支えられており、相互依存の関係を認識し、共生を促すことが重要とされます。

以上のような理由から、仏教は一般的に温厚で穏やかな宗教と見なされています。ただし、仏教の教義や実践方法は地域や宗派によって異なる場合があり、個々の信者や宗派の実践によっても異なる特徴が存在することを念頭に置いておく必要があります。


(とはいえ、仏教徒は戦争とは無縁と言うことはないだろうと思い、ChatGPTで検索したがエラーとなってしまう。多分この種の質問は受け付けないようになっているのだろう。従って、ネットでの検索にしたところ、次のような記事に行き当たった。)


■「仏教は暴力に結びつきにくい」のか:ロヒンギャ排斥を主導する仏教僧を突き動かすもの
(著者 六辻彰二 国際政治学者)
(以下要点のみ抜粋)

先日、ロヒンギャ問題の記事を読んだ知り合いから質問を受けました。それは「なぜミャンマーでは仏教僧が先頭に立って、ムスリムのロヒンギャを排斥しようとしてきたのか」というものでした。
同様の質問は他でも受けたことがありますが、そこには「仏教はその教義からして他者を受け入れるもので、歴史的にも宗教戦争はなかったのではないか」という疑問があるようです。言い換えると、この手の質問の前提には、キリスト教やイスラームなどと比べて、仏教に平和的なイメージがもたれていることがあると思われます。

しかし、後述するように、キリスト教やイスラームなどの一神教と仏教の間に、他の宗教・宗派に対する態度の違いはあるとしても、その他の宗教と同様に仏教もやはり暴力と無縁ではありません。
ただし、ここで注意すべきは、「(他の宗教と同様に)宗教としての仏教の教義そのものが暴力を導いているのではなく、仏教が政治的イデオロギーとなることで、暴力行為を行う特定の集団の主張を支える基盤にされている」ことです。

[仏教と一神教]

近代以降の日本を代表する哲学者の一人である和辻哲郎は、キリスト教やイスラームなどの一神教と仏教には、その伝播に大きな違いがあったと指摘します。つまり、在来の宗教や土着の習慣に対して、キリスト教やイスラームが「不寛容、非妥協的」であったのに対して、仏教は「寛容、妥協的」だったというのです。
歴史的に、キリスト教やイスラームの布教が少なからず戦争や侵略をともなうものだったことは確かです。そして、キリスト教あるいはイスラームに改宗する場合、それ以外の信仰は全く捨てなければならず、さらに他の神は「悪魔」にさえ位置付けられてきました
これに対して、紀元前5世紀頃にインドで生まれた仏教の普及は、常に平和的だったとは限らないものの、少なくともそれまでのものを捨てることを強制することは少なく、むしろ他の宗教や習慣を吸収していきました。

[世界に広がる条件]

念のために言えば、キリスト教やイスラームも布教段階で他の宗教や土着の習慣を全く無視したわけではありません。(以下略)

[融通無碍の自由さ]

とはいえ、他の宗教の神々や習慣まで取り入れてきた仏教が、キリスト教などと比べて、総じて「ゆるい」ことは確かです。
仏教学者で僧侶の山田明爾によれば、「仏教とは水みたいなもので、仏教という水を飲んだ人間がそれぞれ自由に行動するが、その行動のいちいちは規制しない」。(一夫一妻の)キリスト教や(一夫多妻を認める)イスラームと比べて、仏教には社会生活を拘束する側面が小さいことや、共通する経典がないことが、様々な宗教・宗派や土着文化との融合を可能にしたといえます。
言い換えると、明確な原理のなさこそが仏教の大きな特徴となります。冒頭で紹介したような「他者との共存」イメージは、明確な原理がないからこそ生まれたといえるでしょう。

それは社会とのかかわり方にも表れます。「諸行無常」というように、何かに拘泥することをむしろ戒める自由さは仏教の本質といえます。しかし、その「悟り」は良くも悪くも、何らかの目標を実現させる熱意とは無関係のものです。
欧米諸国におけるキリスト教会やイスラーム圏におけるイスラーム系団体と比べて、アジアの仏教寺院が社会活動などに関わることは稀です。「こうあるべき」という観念が弱いことは、「政治や社会のあり方を正そう」というモチベーションが小さくなりがちです。それは仏教徒の集団による慈善事業などだけでなく、テロ活動が少ないことにも結びついてきたといえるでしょう。

(以下は省略)
[仏教徒が他者を排斥するとき]
[ナショナリズムの一要素]
[「違い」が利害に結びつくとき]

(後半部分は省略したが、要点は、仏教徒が他者を排斥する場合、宗教思想によるものではなく、民族などの属性或いはナショナリズムなどにより、宗教を利用しているケースが多いということ。
この部分も非常に興味深い内容だったので、サイトを下記しておく)

Yahooニュース(2017.9.2)六辻彰二 国際政治学者


(以前、ユダヤ系アメリカ人に宗教の中で仏教が一番温厚だと思うがどうかと聞いたところ、彼も、私もそう思うと言っていた。どうもこのことは多くの人の共通の認識のようである。)

 

 

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イスラム教の戒律と過激な行動について

2023-08-10 14:43:18 | 話の種

「イスラム教の戒律と過激な行動について」
(どうにも分かりにくいイスラム教の戒律と過激な行動についてChatGPTの回答を記述しておく)

User
■[なぜイスラム教の戒律は厳しいのか]
ChatGPT
イスラム教の戒律が厳しいとされる理由は、イスラム教の教えや信仰体系に根差しています。イスラム教は、ムスリム(イスラム教徒)に対して、神(アッラー)の意志に従って生きることを求める宗教であり、戒律はその神の意志を表す指針として捉えられています。

以下は、イスラム教の戒律が厳しいとされる理由の一部です:

[神への絶対的な服従]: イスラム教では、信者はアッラーに対して絶対的な服従を示すことが重要視されます。戒律は、アッラーの意志に従って生きることを示すために厳格に守られる必要があります。

[シャリア法の重視]: 
イスラム教徒は、シャリア法に従うことが求められます。シャリア法はイスラム法とも呼ばれ、個人の行動や社会のルールを詳細に規定しています。これにより、日常生活の多くの側面にわたって戒律が厳格に規定されます。

[堅持と訓練]: 
イスラム教では、信者は日々の実践を通じて戒律を堅持し、信仰を訓練することが求められます。これにより、個人の自己規律と信仰の深化が図られます。

[絶対的なモラル規範]: 
イスラム教の戒律は、慈善や正義などの高いモラル規範に基づいています。これらの規範を守ることで、個人と社会の発展と平和を確保しようとする意図があります。

ただし、イスラム教の戒律が厳しいと感じられることは、人々の個人的な見解や文化的背景によっても異なる場合があります。また、個々のムスリムが戒律を守る範囲や程度も異なることを考慮する必要があります。イスラム教の理念には多様性があり、個人の信仰のあり方も異なります。


User
■[なぜイスラム教では断食をしたり、一日に何回も礼拝したり、女性は顔を隠したりするのですか]
ChatGPT
イスラム教の断食や礼拝、女性の顔を隠す慣行は、イスラム教の教えや信仰体系に基づく宗教的な実践です。これらの実践は、ムスリム(イスラム教徒)に対してアッラー(神)への信仰、従順さ、自己規律、そして個人的な浄化を促す役割を果たしています。以下にそれぞれの理由を説明します:

[断食(サウム)]:
断食は、イスラム教の五本柱の一つであり、ロマダン(Ramadan)として知られる特別な月に行われる義務です。断食は、太陽の出ている間の飲食や肉体的な欲望を自制することで、霊的な成長やアッラーへの信仰を強化するために行われます。断食期間中には、共感や慈悲の気持ちを高め、社会的な連帯を感じる機会となります。

[礼拝(サラート)]:
礼拝は、イスラム教の五本柱の中でも最も重要な柱であり、一日に五回行われます。信者は特定の時間に礼拝を行い、アッラーへの敬意と感謝の気持ちを示します。礼拝は、日常生活の中で信仰を継続的に確認し、自己規律を持ち、心の浄化を促す重要な実践です。

[女性の顔の隠蔽(ヒジャーブやニカーブなど)]:
女性が顔を隠すことは、イスラム教における「謙遜」や「節度」を示すための行動です。一般的に、ヒジャーブ(頭部や体を覆う衣服)やニカーブ(顔を覆うカバー)は、女性の美徳と個人的な尊厳を保護する役割があります。この実践は、性別によらず個人の信仰心と自己規律を高めることを意図しています。

これらの実践は、イスラム教の教えや文化によって異なる程度や解釈が存在する場合があります。また、実践の方法や頻度についても個々の信者によって異なる場合があります。イスラム教の信仰は多様性を尊重し、個人の信仰心や理解に基づいて実践されることが重要視されています。


User
■[なぜイスラム教徒は過激な行動をするのですか]
ChatGPT
イスラム教徒が過激な行動をする理由は多岐にわたりますが、一般的には以下のような要因が挙げられます。

[政治的・社会的な要因]: 
過激な行動は、政治的な不安定さ、社会的な不公正、経済的な困難など、特定の地域やコミュニティでの深刻な問題に対する反応として起こることがあります。過激派団体は、これらの問題を利用して、人々の怒りや不満を操り、支持を受けることがあります。

[宗教的な解釈と熱狂]: 
イスラム教の教えの解釈は多様であり、極端な解釈や過激な理解を持つ個人や団体が存在します。一部の過激派は、宗教的な信念を盾にして自らの行動を正当化し、他者に対して暴力を行使する場合があります。

[極端なイデオロギー]: 
過激派団体はしばしば、極端なイデオロギーや過激な信念に基づいて行動します。彼らは異なる宗教や信念に対して敵対的な姿勢を取り、他者を敵視することがあります。

[社会的孤立と洗脳]: 一部の過激派は、社会的に孤立した個人や若者を洗脳して自己犠牲的な行動に駆り立てることがあります。これは過激派が新しいメンバーや支持者を獲得する手段の一つとなっています。

重要なことは、過激派の行動はイスラム教全体を代表するものではなく、極めて少数の個人や団体によるものです。過激な行動は一般的なムスリムの信念や行動とは大きく異なるものであり、多くのムスリムは平和的な共存を重視し、他者との対話や理解を求めています。

国際的なテロリズムや過激な行動は、全ての宗教や文化において見られる問題であり、過激派に対抗するためには、教育、社会的な統合、経済的な発展などの様々なアプローチが必要です。過激派の根底にある要因を理解し、対話と協力を通じてこれらの問題に取り組むことが重要です。


(イスラム教の戒律が厳しいのは、神への絶対的服従を求め、個人の行動や社会のルールを詳細に規定していること。それにより個人の自己規律と信仰の深化が図られるというもの。
イスラム教が出来たのは中東の砂漠地帯という厳しい環境の中だったので、これだけ厳しい戒律が必要だったと聞いたこともある。
イスラム教徒の過激な行動については、ChatGPTは一部の過激派によるものと述べているが、それには政治的な不安定さ、社会的な不公正、経済的な困難などが背景にあるとしている。
更に当方が思うには、戒律が厳格なだけに相手に対する行動も過激になってくるのではと言う気もする。(所謂、原理主義というもの)
尚、同じイスラム教国でも、サウジアラビアなどの中東諸国は戒律に厳しく、インドネシアなどの東南アジア諸国は戒律に緩いとされている。)

 

 

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キリスト教徒の神への信仰と進化論

2023-08-10 14:40:05 | 話の種

[キリスト教徒の神への信仰と進化論]

「キリスト教徒に対する当方の疑問とChatGPTの回答」

User
■[キリスト教徒は本当に神の存在を信じているのですか]
ChatGPT
キリスト教徒の中には、神の存在を確信して信じている人々が多く存在します。キリスト教の信仰において、神は実在し、信者との関係を持っていると信じられています。彼らは聖書や教義を通じて神の存在を理解し、経験や祈りを通じて神の存在を実感していることがあります。

ただし、キリスト教徒の中には信仰に疑問を持つ人や、神の存在についての確信が揺らいでいる人もいます。信仰は個人の経験や背景によって異なるため、全てのキリスト教徒が神の存在を絶対的に信じているわけではありません。

信仰は個人的なものであり、人々の思考や経験によって形成されるため、信仰に対する考え方は多様です。一部の人々は神の存在を信じるために科学的な証拠や論理的な推論に基づいている一方、他の人々は信仰を心の中で直感的に感じたり、個人的な経験や信仰共同体の体験によって裏付けられると感じることがあります。

したがって、キリスト教徒全体としては、神の存在を確信して信じている人々が多いと言えますが、すべての人が同じように信じているわけではありません。個人の信仰は多様であり、それぞれの人々が自分自身の信仰体験に基づいて神の存在を受け入れています。


User
■[神の存在を信じるということは科学的でなく進化論と矛盾しませんか]
ChatGPT
神の存在を信じることと進化論との関係については、個人の信仰や解釈に依存します。一部の人々は神の存在と進化論を矛盾させると考えるかもしれませんが、他の人々はそれらを調和させることが可能と考えています。

進化論は生物の多様性や種の変化を説明する科学的な理論です。進化論は生物学の分野で広く受け入れられており、多くの科学者によって支持されています。進化論は自然界のプロセスや生物の進化に関する説明を提供しますが、神の存在や宗教的な信仰とは直接的には関係しません。

一部のキリスト教徒は、進化論を神の創造の手段と考えることがあります。彼らは神が進化を通じて生命を形成し、自然の法則を働かせたと信じています。彼らにとって、進化論は神の創造との一致や神の計画の一部として理解されることがあります。

また、キリスト教徒の中には聖書の創造譚を直訳的に受け取り、進化論とは矛盾すると考える人もいます。彼らは神の創造を直接的かつ特別な行為として解釈し、進化論の説明とは異なる立場をとることがあります。

要するに、キリスト教徒の間では神の存在と進化論の関係について複数の見解が存在します。個々の信仰や解釈は人によって異なるため、一様に結論を出すことはできません。重要なのは、個人が自身の信仰や科学的な知識を総合的に考慮し、自分自身の信じる道を見つけることです。


User
■[科学者が神の存在を信じるというのはおかしくないですか]
ChatGPT
科学者が神の存在を信じるかどうかは、個人の信念や世界観に依存します。科学と宗教は、異なる領域であり、それぞれ異なる質問やアプローチを持っています。科学は自然界の現象を観察し、理解するための方法や理論を提供しますが、宗教は人間の信仰や霊的な領域に焦点を当てています。

科学者としての立場では、科学的な方法とエビデンスに基づいて研究や理論の構築を行います。科学は実証的な証拠や再現可能性に基づいて進行します。そのため、一部の科学者は神の存在を科学的に証明可能なものとは考えず、信仰の領域とは別個のものとして扱うことがあります。

ただし、科学者であっても宗教的な信念を持つことは可能です。一部の科学者は、科学と宗教を相補的な視点として受け入れ、両者を調和させる方法を見出しています。彼らは科学の知識と方法を用いながらも、宗教的な信仰や霊的な次元にも価値を見出しています。

したがって、科学者が神の存在を信じることは、科学的な立場とは異なる観点や領域における個人の信仰によるものと言えます。科学と宗教はそれぞれ異なる目的や方法を持っていますので、個人の信念や世界観によって、科学者が神の存在を信じることはおかしくないと言えるでしょう。


(ChatGPTの答えは、多くのキリスト教徒は神の存在を信じているということ。進化論との関係については、宗教と科学とは別の領域だとして対立するものではないとし、また進化論は神の創造の手段、計画の一部だと考えている人達もいるとのこと。)

 

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世界の三大宗教について

2023-08-10 14:35:17 | 話の種

「世界の三大宗教について」

なぜここで宗教を取り上げたかと言うと、歴史上、世界での戦争や紛争には宗教問題が関係していることが多く、現在でもイスラム教がらみの紛争などが続いており、それにしては当方宗教について知らないことが多過ぎるので、ここで一度宗教について整理してみようと思った次第。


■[世界の三大宗教]:

キリスト教(約24億人)、イスラム教(約17億人)、仏教(約5億人)

*これにヒンドゥー教(約10億人)、ユダヤ教を加えて世界の五大宗教という。
*ヒンドゥー教の方が仏教より人数は多いが、仏教の方が広まっている国が多いので、世界の三大宗教というと仏教が入る。

■[キリスト教やイスラム教と仏教との違い]:

キリスト教やイスラム教はどちらも同じ神様を信じている。
神は英語ではゴッド、ヘブライ語ではヤハウェ、アラビア語ではアッラーで、呼び方は違っていても意味は同じ。つまり、この世界を作った唯一絶対の神を信じているという点ではキリスト教もイスラム教も同じで、どちらも同じ神様を信じているということ。
そして、同じ神様を信じていてもキリスト教(1世紀)やイスラム教(7世紀)より昔からあるのがユダヤ教(紀元前13世紀)。

一方、仏教はインドのガウタマ・シッダールタによって開かれた宗教(紀元前6世紀)。
ブッダ(仏陀)は「悟りを開いた人」という意味の称号で(名前ではなく一般名詞)、ガウタマ・シッダールタが悟りを開いた後にこのように呼ばれるようになったもの。
(悟りを開いた人は他にもいるだろう、つまりブッダと呼ばれる人は何人もいるに違いないということで、ガウタマ・シッダールタはあくまでその一人と理解されている。
しかし、ガウタマ・シッダールタはブッダであり、シャカ族の出身だったので、後世の人は
ガウタマ・シッダールタのことを釈迦(お釈迦様)と呼ぶようになったもの。)
従って、仏教では一神教(キリスト教やイスラム教)のように、この世界を作った唯一絶対の神様がいるという考え方はせず、この世界を作ったのは誰かと言うことについては一切触れていない。仏教で拝むのは神様ではなく仏様(仏陀)ということになる。

*ちなみに仏教で悟りを開くとは、輪廻転生の輪の外に出ること。(心理に目覚めてこの世の苦しみを完全になくした者になること。)
*輪廻転生とは死んだら魂が生まれ変わるという考えで、私たちは今、人間道で生きているが、良い行いをしていたら、死んだ後、再び人間道或いは天道に生まれ変わり、悪い行いをしていたら地獄道に生まれ変わる。これを永遠に繰り返すという考え。このグルグルまわる輪の外に出ることを解脱という。(そうすれば、この世で苦しむこともなくなり、苦しみから逃れられるということになる。)解脱して二度と生まれ変わらない存在、これが仏教でいう仏様である。)

*キリスト教やイスラム教は一神教だが仏教は多神教でもなく、無神論的な要素を持っている。

■[イエス・キリスト(キリスト教)とムハンマド(イスラム教)]:

キリスト教ではイエス・キリストは「神の子」「救世主」とされているのに対して、ムハンマドはアッラー(神)からの最後の「預言者」とされている(つまり人間)。従ってキリスト教ではイエス・キリストは信仰の対象として拝むことはあっても、イスラム教ではムハンマドを拝むことはない。しかしムハンマドはイスラム教徒にとっては絶大な尊敬と敬愛の対象であり、彼の生涯と教えはイスラム教の倫理と行動の基盤となっている。

*ちなみにイエス・キリストのイエスが名前で、キリストは救世主という意味。(つまり救世主のイエス様ということ)
*イエス・キリストは紀元前4年頃に生まれ、十字架にかけられて亡くなった後、3日目に復活してあちこちで説教をして、それから天に昇って行ったとされている。

〇イエスとムハンマドの生誕地及び活動拠点

イエス(イエス・キリスト):
生誕地:ベツレヘム(イスラエルとパレスチナの国境に位置)とされている。
活動拠点:主に主にパレスチナ地域。

ムハンマド(預言者ムハンマド):
生誕地:サウジアラビアのメッカとされている。
(メッカはイスラム教の最も重要な聖地であり、毎年イスラム教徒の多くがハッジ(巡礼)を行っている場所。)
活動拠点:メッカを拠点にイスラム教の教えを広め、その後メディナ(サウジアラビア)に移り、初期のイスラム教国家を築いた。

■[聖書について]:

[旧約聖書]:
ユダヤ教の聖書で、ユダヤ教では「タナハ」と呼ばれており、モーゼを含む様々な著者による複数の本が集められたもの。

[新約聖書]:
キリスト教の聖書で、イエスとその弟子たちによる言葉や教え、イエスの生涯などが記されており、様々な福音書などが含まれている。
イエスの死後、キリスト教の考え方をまとめ、広めたのはパウロ(キリスト教の普及に最も力を尽くした伝道者)の力が大きかったと言われている。

[コーラン]:
預言者ムハンマドが7世紀初頭に啓示を受けたとされるアッラー(神)の言葉を記したもの。
イスラム教に於いては、神様がまず「聖書(旧約聖書)」を与えたのに人々がちっとも守らないので「新約聖書」を与えたが、それでも守らないので最後に「コーラン」を与えたということになっており、イスラム教徒はこの「コーラン」が一番大事だと考えている。

■[聖地について]:

「聖地」とは宗教の信仰者にとっての特別な場所であり、宗教的な行事や儀式、巡礼などが行われたりする場所のこと。
これらの場所は、その宗教の創始者や重要な人物の生誕地、教えを伝えた場所、奇跡が起こったとされる場所などが該当する。
従って、各宗教ともそれぞれ聖地があり、また聖地は一つとは限らない。

エルサレムはキリスト教、イスラム教、ユダヤ教の三つの聖地が同居する都市だが、それぞれの宗教にとって異なる位置づけと意味を持っている。

[キリスト教]:
キリスト教にとって、エルサレムはイエス・キリストの生涯において最も重要な場所のひとつ。エルサレムは、キリスト教の信仰においてイエスの死と復活が起こった場所とされている。特に「聖墳墓教会」は、キリスト教徒にとって最も神聖な場所の一つであり、イエスの受難、死、埋葬、そして復活を記念している。

[イスラム教]:
イスラム教にとってエルサレムは、アッラー(神)にとって三番目に聖なる場所とされている。コーランによると、預言者ムハンマドの夜の旅の出発地で、その時にエルサレムの岩(アル・サッカ)に立ち寄ったとされている。そのため、エルサレムのアル・アクサ・モスクやドーム・オブ・ザ・ロックはイスラム教徒にとって重要な聖所となっている。

[ユダヤ教]:
ユダヤ教にとってエルサレムは非常に重要な場所であり、聖書によれば、ユダヤ教の信仰において、エルサレムはアブラハムによる犠牲の供物(イサクの犠牲)やダビデ王の都としての意味がある。また、ユダヤ教の聖所として、かつてエルサレムの寺院が建てられた場所も重要視されている。

*これらの宗教におけるエルサレムの聖地としての位置づけと意味により、エルサレムは複雑で多様な宗教的な要素を持ち、宗教間の関係と政治的な緊張が絡み合う場所となっている。

[仏教]:
仏教徒にとって最高の聖地とされるのはインドのブッダガヤにあるマハーボーディ寺院。
ガウタマ・シッダールタは、後にこのお寺が建てられることになったこの場所にあった菩提樹の木の下で瞑想している時に悟りを開いたとされている。
マハーボーディ寺院は紀元前3世紀頃に作られたと言われ、その後何度も修復を重ねる中で建てられたのが現在ある高さ53メートルの塔。このお寺の中でも一番の聖地と言われているのが菩提樹の木。(ボーディ(菩提)と言うのは悟りという意味がある。)

日本での仏教の聖地で有名なのは和歌山県にある高野山。(高野山という山はなく、八つの山に囲まれた場所がそう呼ばれている。)ここは816年に弘法大師空海が修行のために開いた場所で、真言宗の総本山金剛峯寺がある。)

■[カトリックとプロテスタント]:

[カトリック]:
神父(信者達を導く立場の人)が、神様と人間達の間にいる。
教会施設は豪華で、ステンドグラスやイエスの像、イエスの母であるマリア像などもある。
神父間で位階と呼ばれる階級制度がある。(位階は責任の度合いとか役割の大きさで違ってくる。どちらが上とか下とかはないが、責任の度合いにより大司教、司教、司祭、助祭というようにあたかもピラミッドのように作られている。)

[プロテスタント]:
牧師(信者達を導く立場の人)が、人間界の中にいる。
プロテスタントが生まれたきっかけは、16世紀の宗教改革。
教会施設はシンプルで、装飾も簡素、十字架があるだけで、イエスの像やマリア像もないところが多く、ともかくお祈りをする場所があればよいという考え。
皆平等で牧師同士に階級はない。

■[シーア派とスンニ派]:

[シーア派]:
ムハンマドの従弟で娘婿だったアリーの血を引く者がイスラムの指導者になるべきとの考え。(信者の数は約15%)(イランが中心)

[スンニ派]:
ムハンマドの子孫でなくともよく、みんなで指導者を選んできた慣習を大切にしようとの考え。(信者の数は約85%)(サウジアラビアを中心にアラビア半島、アフリカなどに大きく広がっている。)

■[上座部仏教(小乗仏教)と大乗仏教]:

[上座部仏教]:
出家し厳しい修行を積んだ僧侶だけが救われるとの考え。
(タイ、ミャンマー、スリランカなど)

[大乗仏教]:
自分だけでなく、他人も救われるように導く努力をするとの考え。
(日本、中国、チベットなど)


(参考)
日本の「神道」はアニミズムになる。
アニミズムとは動物や自然、先祖などの霊を信じ祭ることで、自然界に満ちる霊、つまり目に見えぬ意識的存在を感じながら暮らす文化のこと。
アニマとはラテン語で「霊」「魂」のこと。

(参考)
以上の記述は下記をベースにまとめたもの。

・「知っているようで実は知らない世界の宗教」(池上彰 著、SB新書)
・ ChatGPT

 

 

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