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仏教の理念と温厚な理由

2023-08-10 14:46:09 | 話の種

[仏教の理念と温厚な理由]

「仏教についての当方の質問とChatGPTの回答」

User
■[仏教は他の一神教の宗教よりも温厚だと言われていますが]
ChatGPT
はい、仏教は一般的に他の一神教の宗教と比較して温厚な宗教とされています。以下にその理由をいくつか挙げます。

[非暴力と慈悲]: 
仏教は非暴力(アヒンサー)を重視し、他の生物への苦痛を与えないことを教えます。仏教の核心の教えである「四つの高尚な真理」の一つに「慈悲」があり、他の人々への思いやりと慈しみを育むよう促します。

[無差別の愛]: 
仏教では、全ての生命に対して平等で無差別な愛を持つことを奨励しています。他の人々に対して差別や偏見を持たず、思いやりと共感を持って接することが重要視されます。

[忍耐と平和]: 
仏教は内省や瞑想を通じて心の平穏と安定を追求することを教えます。個人の内なる平和と調和を追求することに焦点を当て、怒りや憎しみといった負の感情を超えるよう努めます。

[相互依存の理解]: 
仏教では、全ての存在が相互に依存しあっているという理念があります。個人の幸福や繁栄は他の人々や生物とのつながりによって支えられており、相互依存の関係を認識し、共生を促すことが重要とされます。

以上のような理由から、仏教は一般的に温厚で穏やかな宗教と見なされています。ただし、仏教の教義や実践方法は地域や宗派によって異なる場合があり、個々の信者や宗派の実践によっても異なる特徴が存在することを念頭に置いておく必要があります。


(とはいえ、仏教徒は戦争とは無縁と言うことはないだろうと思い、ChatGPTで検索したがエラーとなってしまう。多分この種の質問は受け付けないようになっているのだろう。従って、ネットでの検索にしたところ、次のような記事に行き当たった。)


■「仏教は暴力に結びつきにくい」のか:ロヒンギャ排斥を主導する仏教僧を突き動かすもの
(著者 六辻彰二 国際政治学者)
(以下要点のみ抜粋)

先日、ロヒンギャ問題の記事を読んだ知り合いから質問を受けました。それは「なぜミャンマーでは仏教僧が先頭に立って、ムスリムのロヒンギャを排斥しようとしてきたのか」というものでした。
同様の質問は他でも受けたことがありますが、そこには「仏教はその教義からして他者を受け入れるもので、歴史的にも宗教戦争はなかったのではないか」という疑問があるようです。言い換えると、この手の質問の前提には、キリスト教やイスラームなどと比べて、仏教に平和的なイメージがもたれていることがあると思われます。

しかし、後述するように、キリスト教やイスラームなどの一神教と仏教の間に、他の宗教・宗派に対する態度の違いはあるとしても、その他の宗教と同様に仏教もやはり暴力と無縁ではありません。
ただし、ここで注意すべきは、「(他の宗教と同様に)宗教としての仏教の教義そのものが暴力を導いているのではなく、仏教が政治的イデオロギーとなることで、暴力行為を行う特定の集団の主張を支える基盤にされている」ことです。

[仏教と一神教]

近代以降の日本を代表する哲学者の一人である和辻哲郎は、キリスト教やイスラームなどの一神教と仏教には、その伝播に大きな違いがあったと指摘します。つまり、在来の宗教や土着の習慣に対して、キリスト教やイスラームが「不寛容、非妥協的」であったのに対して、仏教は「寛容、妥協的」だったというのです。
歴史的に、キリスト教やイスラームの布教が少なからず戦争や侵略をともなうものだったことは確かです。そして、キリスト教あるいはイスラームに改宗する場合、それ以外の信仰は全く捨てなければならず、さらに他の神は「悪魔」にさえ位置付けられてきました
これに対して、紀元前5世紀頃にインドで生まれた仏教の普及は、常に平和的だったとは限らないものの、少なくともそれまでのものを捨てることを強制することは少なく、むしろ他の宗教や習慣を吸収していきました。

[世界に広がる条件]

念のために言えば、キリスト教やイスラームも布教段階で他の宗教や土着の習慣を全く無視したわけではありません。(以下略)

[融通無碍の自由さ]

とはいえ、他の宗教の神々や習慣まで取り入れてきた仏教が、キリスト教などと比べて、総じて「ゆるい」ことは確かです。
仏教学者で僧侶の山田明爾によれば、「仏教とは水みたいなもので、仏教という水を飲んだ人間がそれぞれ自由に行動するが、その行動のいちいちは規制しない」。(一夫一妻の)キリスト教や(一夫多妻を認める)イスラームと比べて、仏教には社会生活を拘束する側面が小さいことや、共通する経典がないことが、様々な宗教・宗派や土着文化との融合を可能にしたといえます。
言い換えると、明確な原理のなさこそが仏教の大きな特徴となります。冒頭で紹介したような「他者との共存」イメージは、明確な原理がないからこそ生まれたといえるでしょう。

それは社会とのかかわり方にも表れます。「諸行無常」というように、何かに拘泥することをむしろ戒める自由さは仏教の本質といえます。しかし、その「悟り」は良くも悪くも、何らかの目標を実現させる熱意とは無関係のものです。
欧米諸国におけるキリスト教会やイスラーム圏におけるイスラーム系団体と比べて、アジアの仏教寺院が社会活動などに関わることは稀です。「こうあるべき」という観念が弱いことは、「政治や社会のあり方を正そう」というモチベーションが小さくなりがちです。それは仏教徒の集団による慈善事業などだけでなく、テロ活動が少ないことにも結びついてきたといえるでしょう。

(以下は省略)
[仏教徒が他者を排斥するとき]
[ナショナリズムの一要素]
[「違い」が利害に結びつくとき]

(後半部分は省略したが、要点は、仏教徒が他者を排斥する場合、宗教思想によるものではなく、民族などの属性或いはナショナリズムなどにより、宗教を利用しているケースが多いということ。
この部分も非常に興味深い内容だったので、サイトを下記しておく)

Yahooニュース(2017.9.2)六辻彰二 国際政治学者


(以前、ユダヤ系アメリカ人に宗教の中で仏教が一番温厚だと思うがどうかと聞いたところ、彼も、私もそう思うと言っていた。どうもこのことは多くの人の共通の認識のようである。)

 

 


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