◇解脱の悟りへ向かうルートについて◇
私は、解脱の悟りを得る際に、主に自分に起こってくる苦しみと向き合いならがら、言わば「苦」をツールとして利用して解脱の悟りに至りました。
この行程は、お釈迦さまが辿られた道とほぼ同じだと思います。
私の辿った道がお釈迦さまの道と同じだったということや、他の方がどういう道を辿ったかについての情報を知らないのもあって、解脱の悟りに至る道はひょっとすると、「苦」を入り口としたルートしか無いのかも知れないと思うようになっていたところがありました。
しかし、昨日ふと思うところがありまして、「苦」を入り口としない他のルートもあるのかも知れないと思うようになっております。
例えば、その一例というか手掛かりとして。
私という存在というか、意識は、断続的かつ連鎖的にパッ、パッと起こってくる考え(認識)そのものなのです。
それで、解脱の悟りというのは、そのように連鎖的に延々と起こってくる考えを一切掴まなくなることなのです。
だから、もし、起こってくる考えを一切掴まない意識状態に直接的に至ることができれば、「苦」等を使ったアプローチは不要な訳なのです。
私にそのような直接的な行程が可能だったかと言うと、そのようなことは難しかったのだろうと思います。
しかし、中にはそれが出来る方がおられるのかも知れないと思ったりしています。
<追記(2015年1月30日)>
上記の「苦」を使わないで、起こってくる考えを一切掴まない意識状態に直接的に至ることができるかについてですが、どうも、そのようなアプローチは困難というか無いようです。
最後に握りしめているものとして、「苦」はどうしても残るようです。
ですから、最後の手放しは「苦」がポイントになるのだろうと思います。
コメント大歓迎です。気軽にお書きください。
読んで頂いてありがとうございました。
スピリチュアル ブログランキングへ
私は、解脱の悟りを得る際に、主に自分に起こってくる苦しみと向き合いならがら、言わば「苦」をツールとして利用して解脱の悟りに至りました。
この行程は、お釈迦さまが辿られた道とほぼ同じだと思います。
私の辿った道がお釈迦さまの道と同じだったということや、他の方がどういう道を辿ったかについての情報を知らないのもあって、解脱の悟りに至る道はひょっとすると、「苦」を入り口としたルートしか無いのかも知れないと思うようになっていたところがありました。
しかし、昨日ふと思うところがありまして、「苦」を入り口としない他のルートもあるのかも知れないと思うようになっております。
例えば、その一例というか手掛かりとして。
私という存在というか、意識は、断続的かつ連鎖的にパッ、パッと起こってくる考え(認識)そのものなのです。
それで、解脱の悟りというのは、そのように連鎖的に延々と起こってくる考えを一切掴まなくなることなのです。
だから、もし、起こってくる考えを一切掴まない意識状態に直接的に至ることができれば、「苦」等を使ったアプローチは不要な訳なのです。
私にそのような直接的な行程が可能だったかと言うと、そのようなことは難しかったのだろうと思います。
しかし、中にはそれが出来る方がおられるのかも知れないと思ったりしています。
<追記(2015年1月30日)>
上記の「苦」を使わないで、起こってくる考えを一切掴まない意識状態に直接的に至ることができるかについてですが、どうも、そのようなアプローチは困難というか無いようです。
最後に握りしめているものとして、「苦」はどうしても残るようです。
ですから、最後の手放しは「苦」がポイントになるのだろうと思います。
コメント大歓迎です。気軽にお書きください。
読んで頂いてありがとうございました。
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いつも 拝見させていただいております。
シェアをありがとうございます。
>起こってくる考えを一切掴まない意識状態に直接的に至ること
はい、私たちは 意識ですから
もともと 何かに 侵される(影響される)ような
状態(在り方)ではないです。
とても
シンプル
です。
意識で 在る
ですね。
コメントありがとうございます。
>はい、私たちは 意識ですから
>もともと 何かに 侵される(影響される)ような
>状態(在り方)ではないです。
確かにそれはそうなのですが、殆どの方は、迷いの中にいます。
つまり、何かの考えを掴み続けているのです。
>意識で 在る
これもちょっと違います。
確かに私という存在は、意識なのですが、その意識自体も幻なのです。
そして、いずれ私という「意識」が「この意識の世界」からというか、「この意識の世界」と共に消えるときが来るのです。
お分かりでしょうか?^^
せっかくコメントを頂いているのに誠に僭越ではありますが、「意識で 在る」と仰る蓮さんは、「意識」や「在る」という考えを掴んでおられる可能性があります。
解脱の悟りとは、一切の考えを掴みませんから、「意識」も「在る」も掴んでいないのです。
ですから、解脱の悟りを得ている人は、その最終的な自身の理解について、何か具体的な概念を使って表現することは絶対にないのです。
そうですね。
直知・あるいは 即知 で
沈黙 ですね。
再びコメントを下さるとは、本当にありがとうございます。
>直知・あるいは 即知 で
>沈黙 ですね。
重ね重ね大変恐縮なのですが、それとも違うのです。
迷っている人は、やはり根本的に無知であり、知らないのです(これが無明です)。
沈黙についても、解脱の悟りの得た後、自然と沈黙の状態になったいく人もいるでしょうが、そうじゃない人もいますので。
私なんか、結構騒がしいですよ。(^o^)
それに、解脱の悟りの理解を誰かに伝えようとしたとき、やはり言葉を使うしかないのです。
以上です・・
ありがとうございます。
こちらこそ、ありがとうございます。
蓮さんとやり取りをさせて頂き、うまく表現できませんが、とても嬉しかったです。
もしよろしければ、ぜひまたコメント頂きたいと思っております。
もともと光の存在ですから、悟りを求める執着を手放し、自己主張も執着ですから。
コメントありがとうございます。
悟りのある段階において、仏生とか光という感覚というか理解が生じることがあるようですが(私も似たような道を通ってきました)、仏生も光も考えであり、幻想ですよ。
すべての考え(幻想)を手放した先に、最終的な到達地点があります。