◇「真我」という迷い◇
意図するか否かの別はありますが、悟りの道を進んでいくと、いずれ真我の覚醒を体験することとなります。
その真我の覚醒には、第一、第二の二つの段階があります。
第一段階の覚醒は、真我の外縁に触れるもので、一般に一瞥とか至福体験等と呼ばれるものです。
この第一段階の覚醒に伴い、すべては一つとか、至福、愛、感謝、喜び等の真我の外縁の感覚が得られるようになります。
それとともに、智慧(智慧)が出現し始め、自分がこの世界について持っていた固定観念等に対する幻想が晴れていきます。
第二段階の覚醒は、真我の完全覚醒(あるいは単に真我の覚醒)とか、あるいは空の悟りや、大悟と呼ばれたりするものです。
この第二段階の覚醒では、自我の大半を滅したことで、自我と真我の合一が始まります。
それに伴って、主体である私と客体である考えとの合一も始まります。
その主客の一体感を端的に表現した言葉として、「見るものは見られるもの」があります。
もしあなたが、あるとき突然、ほぼ四六時中、「見るものは見られるもの」という感覚になったら、あなたは大悟した人ということになります。
この段階での感覚は、平穏さや、静けさや、穏やかな幸福感や、ただ在るなどです。
しかし、上記のいずれの覚醒段階も、まだ迷いの中なのです。
真我の感覚は、第一、第二のいずれの段階も、幸せな感覚や満たされた感覚になりやすいのもあって、迷いを誘うのです。
滅すべき自我はまだしっかりと残っているのに、満たされた感覚に酔ってしまい、自我の存在に気づけなくなってしまうのです。
また、どんなときも主体性は常に自我にあるのに、真我こそが主体であり、実存だと思い込んでしまい、自らの主体性を見失い、真我の感覚の海で溺れてしまうのです。
また、そのような方々には、自分が都合よく自我を使っているのにかかわらず、自分の自我は滅せられたと思い込む方もおられます。
そして、そのように真我に迷われた方々は、真我の感覚に中に留まろうとしたり、自らの肉体が滅んだとき、自身の意識が真我や根源に溶け込んでいくんだと信じ込んだりします。
しかし、それが誰の意識であろうと、私という個の意識が真我や根源に溶け込むことはないのです。
その理由は簡単で、真我も根源も、私という自我の意識がつくった考えだからです(自我も考えですが、(^o^))。
そのような方々が肉体の死を経るとき、一瞬の意識の断絶を感じるかも知れませんが、その後直ぐに、生前の感覚と余り変わらない感覚で、自分の自我の意識が継続していることに気づかれるでしょう。
そして、自分の自我の意識が継続していることに対する驚きと大きな落胆を経験されるでしょう。
残酷ではありますが、それが彼らにとっての真実です(私(慧空)にとっては真実などどこにも無いのですが)。
「真我」の感覚に惑わされないで頂きたいのです。
「真我」の感覚に酔わないで頂きたいのです。
主体性は「真我」ではなく、常に「自我」にあることに気づいて頂きたいのです。
「真我」ではなく、「私」に意識を向け、主体性を持って歩んで頂きたいのです。
そうして歩んでいれば、自ずと迷いは晴れていきます。
コメント大歓迎です。気軽にお書きください。
読んで頂いてありがとうございました。
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意図するか否かの別はありますが、悟りの道を進んでいくと、いずれ真我の覚醒を体験することとなります。
その真我の覚醒には、第一、第二の二つの段階があります。
第一段階の覚醒は、真我の外縁に触れるもので、一般に一瞥とか至福体験等と呼ばれるものです。
この第一段階の覚醒に伴い、すべては一つとか、至福、愛、感謝、喜び等の真我の外縁の感覚が得られるようになります。
それとともに、智慧(智慧)が出現し始め、自分がこの世界について持っていた固定観念等に対する幻想が晴れていきます。
第二段階の覚醒は、真我の完全覚醒(あるいは単に真我の覚醒)とか、あるいは空の悟りや、大悟と呼ばれたりするものです。
この第二段階の覚醒では、自我の大半を滅したことで、自我と真我の合一が始まります。
それに伴って、主体である私と客体である考えとの合一も始まります。
その主客の一体感を端的に表現した言葉として、「見るものは見られるもの」があります。
もしあなたが、あるとき突然、ほぼ四六時中、「見るものは見られるもの」という感覚になったら、あなたは大悟した人ということになります。
この段階での感覚は、平穏さや、静けさや、穏やかな幸福感や、ただ在るなどです。
しかし、上記のいずれの覚醒段階も、まだ迷いの中なのです。
真我の感覚は、第一、第二のいずれの段階も、幸せな感覚や満たされた感覚になりやすいのもあって、迷いを誘うのです。
滅すべき自我はまだしっかりと残っているのに、満たされた感覚に酔ってしまい、自我の存在に気づけなくなってしまうのです。
また、どんなときも主体性は常に自我にあるのに、真我こそが主体であり、実存だと思い込んでしまい、自らの主体性を見失い、真我の感覚の海で溺れてしまうのです。
また、そのような方々には、自分が都合よく自我を使っているのにかかわらず、自分の自我は滅せられたと思い込む方もおられます。
そして、そのように真我に迷われた方々は、真我の感覚に中に留まろうとしたり、自らの肉体が滅んだとき、自身の意識が真我や根源に溶け込んでいくんだと信じ込んだりします。
しかし、それが誰の意識であろうと、私という個の意識が真我や根源に溶け込むことはないのです。
その理由は簡単で、真我も根源も、私という自我の意識がつくった考えだからです(自我も考えですが、(^o^))。
そのような方々が肉体の死を経るとき、一瞬の意識の断絶を感じるかも知れませんが、その後直ぐに、生前の感覚と余り変わらない感覚で、自分の自我の意識が継続していることに気づかれるでしょう。
そして、自分の自我の意識が継続していることに対する驚きと大きな落胆を経験されるでしょう。
残酷ではありますが、それが彼らにとっての真実です(私(慧空)にとっては真実などどこにも無いのですが)。
「真我」の感覚に惑わされないで頂きたいのです。
「真我」の感覚に酔わないで頂きたいのです。
主体性は「真我」ではなく、常に「自我」にあることに気づいて頂きたいのです。
「真我」ではなく、「私」に意識を向け、主体性を持って歩んで頂きたいのです。
そうして歩んでいれば、自ずと迷いは晴れていきます。
コメント大歓迎です。気軽にお書きください。
読んで頂いてありがとうございました。
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コメントありがとうございます。
感謝だなんて、そんな(^_^;)
私は書きたいと思うことをただ書いているだけです。(^^)
だから、慧空さんのこのブログが、千載一遇の出会いに思えます。
>誰もがみな、本当には、真実を見たくもないし聞きたくもない、まやかしの中にいる方が居心地がいいのかもしれない、と思ったのです。
そうですね、そういう気持ちはあるかも知れませんね。
過去の私にもあったのかも知れません。
ありがとうございます。
こちらこそ、コメント頂きありがとうございます。
迷いの中にいるのはわかります…
(ToT)
コメントありがとうございます。
>自我を滅する必要性がわかりません…
>迷いの中にいるのはわかります…
なぜ自我を滅する必要があるのかと言うと、端点に言えば、自我が迷いの衝動を起こしているからなのです。
自我が薄くなればなるほど迷いの衝動も薄れていきます。
そして、自我が十分に滅せられると、解脱の悟りに到達します。
一つの見方として、自我を、自我自身が握りしめている考え(固定観念や、思い込んでいるもの、信じているものなどです)の集合として捉えることができます。
自我が握りしめている考えが種となって、次から次へと延々と考えを掴む、迷いの衝動が連鎖的に起こっているのです。
そのような握りしめた考えを手放していくに従って、自我も薄くなり、迷いの度合いも小さくなっていきます。