◇リンゴを使った考察◇
以前にもリンゴを使って同じような文章(リンクはこれです)を書きましたが、今日はちょっと別の角度から書いてみたいと思います。
第一の考察として、まず徹底的にやっていただきたいことがあります。
それは、目の前にあるリンゴ(PCでも景色でもなんでもいいです)について、それが本当に実体としてそこにあるのかどうかという点です。
リンゴは本当にそこに有るのでしょうか。
絶対にあると言えるのでしょうか。
有ると感じるのは自分がそう思い込んでいあるだけなのではないか。
自分がリンゴを目で見て認識したらか、あると思ってしまうのではないか。
手でリンゴに触れたとき、リンゴの感触を感じているが、それはリンゴがあるのではなく、リンゴの感触に対する認識が起こっているだけなのではないのか。
実際にリンゴを食べたときも、リンゴの食感や味に対する認識が起こっているだけでないのか。
リンゴが実体として存在しているという証拠はどこにもないのではないか。
存在しているという証明は不可能なのではないのか。
それでもリンゴが実体として存在していると信じていいのか。
第二の考察。
リンゴがテーブルの上におかれていて、あなたはいま、それを見ています。
そのとき、あなたはそのリンゴを目を通して認識しています。
そして、あなたはおそらく、リンゴは実体として目の前にあるんだと思われることでしょう(笑)。
では、あなたがリンゴが見えないように、クルッと後ろを向いたとします。
もうリンゴは見えていないはずです。
それで、私はあなたに質問したいと思います。
いま、あなたにはリンゴが見えていませんが、リンゴは存在していると思いますか?
存在していると思われる場合、そう思う根拠はなにですか?
根拠もなく存在しているという結論を出されるのですか?
第三の考察。
リンゴに視線を戻して、リンゴを見てください。
まずは、いつものように普通にリンゴを見てください。
次に、これ以上無いというくらいにリンゴに意識を集中しながら、リンゴを見てください。
徹底的に集中しながら、リンゴを見てください。
そのように集中しているとき、あなた自身に対する感覚や認識はありますか?
いま、あなたはどこにありますか?
リンゴに集中しているとき、リンゴに対する認識と、あなた自身に対する認識が共存できますか?
では、今度はあなた自身に意識を向けてみてください。
多くの方がそうであるように、あなたも、自分自身についてあまり疑うことなく何となく、自分はあると思っておられるのかもしれません。
あなたは、どういう点を根拠に、自分はあると思っておられるのでしょうか?
この機会に徹底的に、そこを追求してみてください。
自分があるとどうしてそう言えるのだろうか。
そもそも自分とは何なのだろうか。
コメント大歓迎です。気軽にお書きください。
読んで頂いてありがとうございました。
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以前にもリンゴを使って同じような文章(リンクはこれです)を書きましたが、今日はちょっと別の角度から書いてみたいと思います。
第一の考察として、まず徹底的にやっていただきたいことがあります。
それは、目の前にあるリンゴ(PCでも景色でもなんでもいいです)について、それが本当に実体としてそこにあるのかどうかという点です。
リンゴは本当にそこに有るのでしょうか。
絶対にあると言えるのでしょうか。
有ると感じるのは自分がそう思い込んでいあるだけなのではないか。
自分がリンゴを目で見て認識したらか、あると思ってしまうのではないか。
手でリンゴに触れたとき、リンゴの感触を感じているが、それはリンゴがあるのではなく、リンゴの感触に対する認識が起こっているだけなのではないのか。
実際にリンゴを食べたときも、リンゴの食感や味に対する認識が起こっているだけでないのか。
リンゴが実体として存在しているという証拠はどこにもないのではないか。
存在しているという証明は不可能なのではないのか。
それでもリンゴが実体として存在していると信じていいのか。
第二の考察。
リンゴがテーブルの上におかれていて、あなたはいま、それを見ています。
そのとき、あなたはそのリンゴを目を通して認識しています。
そして、あなたはおそらく、リンゴは実体として目の前にあるんだと思われることでしょう(笑)。
では、あなたがリンゴが見えないように、クルッと後ろを向いたとします。
もうリンゴは見えていないはずです。
それで、私はあなたに質問したいと思います。
いま、あなたにはリンゴが見えていませんが、リンゴは存在していると思いますか?
存在していると思われる場合、そう思う根拠はなにですか?
根拠もなく存在しているという結論を出されるのですか?
第三の考察。
リンゴに視線を戻して、リンゴを見てください。
まずは、いつものように普通にリンゴを見てください。
次に、これ以上無いというくらいにリンゴに意識を集中しながら、リンゴを見てください。
徹底的に集中しながら、リンゴを見てください。
そのように集中しているとき、あなた自身に対する感覚や認識はありますか?
いま、あなたはどこにありますか?
リンゴに集中しているとき、リンゴに対する認識と、あなた自身に対する認識が共存できますか?
では、今度はあなた自身に意識を向けてみてください。
多くの方がそうであるように、あなたも、自分自身についてあまり疑うことなく何となく、自分はあると思っておられるのかもしれません。
あなたは、どういう点を根拠に、自分はあると思っておられるのでしょうか?
この機会に徹底的に、そこを追求してみてください。
自分があるとどうしてそう言えるのだろうか。
そもそも自分とは何なのだろうか。
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読んで頂いてありがとうございました。

その手段は、私の体験では二つあります。
一つは、五感(正確には六根)の認識を徹底的に観察することにより、その六根の認識が絶えず移ろいゆく有様を腹の底から納得すると、すべては移ろいゆく幻だと納得できます。
もう一つは、滅尽定の体験です。
六根の認識を徹底的に観察すると、六根、あるいは六根に関する認識そのものが私という存在であり、意識(幻)であるということが附に落ちてきます。
その理解が附に落ちてきたところで、滅尽定に落ちると、意識もろとも、つまり世界もろとも、何にも無い完全な無に落ちてしまうのです。
そして、滅尽定から通常の意識に戻ってきたときには、何もかも一切のものが消滅していたことを認識することになります。
そうすると、すべては幻だということが否応なく、附に落ちてしまいます。
私は余り仏教のことを知らないのですが、おそらく仏教としても、その手段としては、私が上で書いた二つしか無いのではないかと思っています。
はい、質問大歓迎ですよ。
>リンゴが物質としてそこにある場合、認識しようがしまいが物質としてあると思われるのですがいかがでしょうか?
128号さんの仰りたいことは、常識的なものであり、とてもよく分かります。
私も悟りの道に入る前は、129号さんと同じような考えでした。
この現実世界や私という存在をどのように理解するかについては、正反対の2つの立場(世界観)があります。
一つは、唯物論的な世界観です。
この世界観では、私という存在よりも先に、物質世界が絶対的なものとしてまずあり、その物質世界中の要素によって私という存在も構成されているいるのだという考え方です。
この世界観では、物質的存在は絶対的なものであるため、私がリンゴ(物質)を認識するしないに関わらず、リンゴは常に存在しているものとして捉えられます。
もう一つは、私という自我が行う認識という機能を中心にして、物質世界を含めたすべての現象を捉えようという唯識的な世界観です。
この世界観では、私という自我の認識がすべてですから、私が認識しないものは、無い、あるいはあるかも知れないが無いも同然ということになる訳です。
この世界観では、私という自我の認識がすべてですから、私が認識しないものは、無い、あるいはあるかも知れないが無いも同然ということになる訳です。
丁寧な回答ありがとうございます。
まだ上手く表現できませんが、、
物質はあくまで物質。
私が現象を認識することで世界になる。認識とはそれぞれの囚われ、先入観、価値観。そこに物質的な要素は無いと考え?ました。認識の世界には私しかいません。
はいどうですね。
>認識とはそれぞれの囚われ、先入観、価値観。
ここは違います。
認識は単なる認識です。
>認識の世界には私しかいません
これは合ってますが、まだまだしっくりと来ておられないようですね。