私を知る

自覚を中心に悟りのヒントを書いています。自覚とは「私」に意識を向け、一切は「私」の考えであることを自覚していくことです。

悟りの道中と苦楽観の変遷

2015年09月24日 20時58分01秒 | 悟り
◇悟りの道中と苦楽観の変遷◇

今日は悟りの道中と苦楽観の変遷について書いてみたいと思います。
多くの方はご理解も頂けないでしょうし、むしろ反発されることでしょうが、何かピンと来られる方だけにお読み頂ければそれで結構です。

まだ悟りを知らない普通の方は、肉体的又は精神的な楽(快でもいいですが)を求めて生きておられます。
そのため、そのような方が悟りの道に入られるとき、多くの場合、生きることに関連して起こる苦と何らかの形で向き合うこととなります。
苦と向き合う訳ですから、苦しみを感じる訳です。
そして、その苦しみと向き合う過程で小悟(明け渡し等)が生じることがあります。

なお、このときに向き合うことになる苦は、生きることに関連した苦であり、まだ表面的で浅いものです。
この段階で一切皆苦を悟る方がおられると思いますが、それは生きることに関連した苦に対する理解です。
つまり、生きることは苦であるということを理解したに過ぎません。

この段階を経ると、多くの場合、一時的に楽に対する感覚や理解が前面に出てくる段階が訪れます。
その楽に対する感覚や理解があまりに魅力的であるため、多くの方は、その感覚や理解を掴んでしまい、そこに留まってしまいます。

この段階の特徴は、生きることに関連して起こる過剰な雑念が軽減されるため、智慧が利くようになることです。
しかし、この段階で得られる楽に対する感覚や理解に溺れてしまうと、智慧も鈍ってしまいます。
そのような楽に対する感覚や理解に溺れることなく、またそれを掴まない方だけが、先へ進んでいくことになります。

そのような楽に対する感覚や理解を掴まなければ、それ程時間を経ずに、その段階を抜けていくことになります。
そうすると、前面に出ていた楽に対する感覚や理解はなりを潜め、ものごとを淡々と観、感じるようになっていきます。
中には、苦楽や良い悪い等を含めた二元の考えは、すべてものごとの一面を捉えたものであり、全体で観るとニュートラル(中庸)であるということに気づく方がおられるだろうと思います。

しかし、仮にニュートラルを理解しても、それで終わりではありません。
ニュートラルの理解も、まだ途中なのです。

ニュートラルの理解や深い観照意識が目覚めた階層をさらに進んでいくと、依然として苦しんでいる自分自身の姿に気づくようになります。
ここに到達して初めて、私という存在の根本である苦(存在苦と言ってもいいです)に気づくようになります。

そして、最終的には、私という存在の根本が苦であること、存在そのものが苦であることを理解するようになります。
この理解が、本当の一切皆苦の理解です。

私という存在の根本が苦であるということが本当に分かれば、苦をどうにかしようとする迷いの衝動が停止します。
これが最終的な悟りである解脱の悟りです。

ザッと書きましたが、これが悟りの道中の苦楽に対する感覚や理解の変遷です。
なお、多くの方の場合、ニュートラルの理解や深い観照意識が目覚めた階層から根本的な苦である存在苦に対する気づきが起こるまでのいずれかの過程で、観るものは観られるものの悟りである大悟、及び、一切は私の考えであることを悟る空の理解を得ることとなります。


◇「私」に意識を向ける自覚についてのご紹介は、例えばこの文章をお読みください(「自覚を始められる方へ」)。
◇セッションのご案内はこちらです。


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読んで頂いてありがとうございました。

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