私を知る

自覚を中心に悟りのヒントを書いています。自覚とは「私」に意識を向け、一切は「私」の考えであることを自覚していくことです。

私の体験談(大悟後から解脱の悟りまで)(1)

2014年11月26日 22時01分42秒 | 私の体験
◇私の体験談(大悟後から解脱の悟りまで)(1)◇

今回から何回かに分けて、大悟の後から解脱の悟りを得るまでの私の道のりについて書いてみたいと思います。

2013年4月の初めに天界の悟り(小悟)を得てから、同年10月19日に大悟を得るまでは、時間はそれなりにかかったのですが、悟りの道を進んでいるという実感もあり、比較的順調だったのではないかと思っています。
そう思うのは、天界の悟り階層では比較的自覚がやりやすく、スムーズに進んだからだろうと思っています。
例えば、天界の悟り階層では、多くの方がそうであるように、私自身もそれなりの数の考え(執着)を握りしめていましたので、自覚を通じて捨てるものがそれなりにあり、手放しを実感できたのです。
また、「私」に意識を向けることで、しっかりと「私」を捉え、実感することができたので、自分は自覚をやれているいうしっかりとした手応を得やすかったのです。

それに対して、大悟を得てからの行程については、自覚がやりにくくなったというか、難しくなり、あちこちで迷ってしまい、大変な行程だったという印象が残っています。
実際に、大悟後は、「私」に意識を向けようとしても、天界のときのような「私」を捉えているというしっかりとした手応えは余り無く、自覚がやりにくくなっていました。
そのため、天界のときにやっていた、「私」にぐいぐいと食い込んでいくような自覚や、「私」を焼き払うような自覚も出来なくなっていました。
また、握りしめている考え(執着)も既に大分少なくなっていたので、それまでのような考えの手放しも殆ど起きなくなっていました。
そのため、自分がやっていることが合っているのかどうかを判断できる手掛かりが少なく、暗がりの中を手探りで進んでいったような感じでした。
それでも、悟りに対する発心は続いてましたので、当時の私の様子を表現すると、暗がりの中をがむしゃらに突き進んだという感じでした。

このため、大悟の後から解脱の悟りを得るまでの私の道のりは、きれいなものではなく、ぐちゃぐちゃとした感じになっています。
例えば、このブログの記事や自分の悟りノートを見ると、解脱の悟りを得る直前まで、「無我」への拘りの様子が見えますし、自分でもよくそれで解脱の悟りに至れたものだと思っています。

それでは、前置きはここまでにして、解脱の悟りに至る私の道のりについて書いていきたいと思います。
少し分かりにくくなるかも知れませんが、私の道のりをぐちゃぐちゃしたままの状態で書いてみたいと思います。


大悟に伴って、私には主に二つの理解というか感覚が生じました。
一つは、私という自我は、連鎖的に起こってくる考えそのものというか、スポットライトのように移り変わる考えそのものであるという理解や感覚です。
この理解は、大悟とほぼ同時に起こってきたもので、この理解には、自我である主体と、その対象である考え(客体)との統合感、つまり「見るもは見られるもの」という感覚や理解が伴っていました。
もう一つは、私という存在は自我(個の意識)と真我(全体意識)の二面性があるという感覚や理解です。

一つ目の「連鎖的に起こってくる考えそのものが私という自我である」という理解については、大体のところは前回の体験記事に書いた通りです。
この理解や感覚は、解脱の悟りに向かう道中において、悟りの進展に伴って形を少しずつ変えながら、あるときは私を惑わし、またあるときは私のヒントになりながら、解脱の悟りまで一緒に歩みました。

二つ目の「私という存在は自我と真我の二面性がある」という理解については、その当時のブログ記事に理解の内容を何度か書いていますが、改めてここで簡単に説明したいと思います。
私の執着や誤解も絡んでいて説明しにくいのですが、無理ヤリやってみたいと思います。(^o^)

この二つ目の理解(「理解」ではなく、むしろ「誤解」と言った方がいいくらいなのですが、笑)は、大悟から2、3週間くらい経ってから私の中で明確になってきたように思います。
このような理解(誤解)が私の中に生じてきたのは、大悟後に私の意識の状態が少しずつ変化していったことと関係があるのだろうと思っています。

その変化がどういうものかと言いますと、大悟の直ぐ後くらいから、私の意識が特に何も意識することなく、自然と一種の瞑想状態に入ってしまうようになったのです。
瞑想をしようなどの意図はまったくないのに、何もせずぼーっとしていると、いつのまにかすーっと吸い込まれるように、深い瞑想状態のような状態に入ってしまうようになったのです。
朝、職場に出勤するのですが、仕事はもう全くやっていませんでしたので、このブログの記事を書いたり、ネットを閲覧している他は特にやることがなく、帰宅する夕方までぼーっとしていることが多かったのもあり、日によっては、職場にいる時間の大半の時間を瞑想状態で過ごしているようなこともありました。

それで、大悟した月の翌月の11月に入ったあたりからだったと思うのですが(定かではありません)、自然と起こる瞑想状態の中で、私という自我の意識が限りなく薄くなったり、完全に落ちて気絶状態になったりするようになったのです。
私は、その意識が完全に落ちている状態を自分が「真我」になっている状態と誤解してしまったのです。
そして、私という存在は自我と真我の二面性があるんだと思ってしまったのです。
そしてさらには、「自分はとうとう自我と真我の統合に成功したんだ(あるいは、成功しつつあるんだ)」などと思ってしまったのです。

どうしてそのような考えに嵌まってしまったのかはハッキリは分かりませんが、大悟前に読んでいたウパニシャッド系の書籍の影響等により、私には「真我」や「統合」という考えに囚われているところがありましたので、そのような考えに嵌まりやすかったのだろうと思います。

この「自我と真我の統合」という考えは当時の私にとってとても魅力的であり、翌2014年2月に解脱の悟りを得る少し前の1月ころまで、この考えに囚われていました。
具体的には、自我と真我の統合がより完全に得られれば解脱の悟りが得られるのではないかとか、そのためにはより完全に自我を滅して無我を実現する必要があるのではないかと思ったりしていました。

このため、解脱を目指す実践も、真我や無我に囚われる余り、どうすれば完全に自我を滅することができるのか等、自我を滅することばかり考えていました。
そして、いまから考えると馬鹿らしく思えるような無茶な実践方法を考え出し、それをやってみたりしていました。
例えば、自我が顕在化してくる切っ掛けの一つとして分別があることが自覚を通じて分かったので、分別を滅すれば完全な無我に至れるのではないかと思い、分別を完全に放棄しようとしてそれに取り組んだりしていました(もちろん、そんな実践がうまくいくはずはありませんでしたが、笑)。

そんな「無我」をめぐる思考錯誤の日々の中、私はもう一つ、拘りを持ってやっていたことがありました。
それは、真我(正確には無我)の中にダイブすることでした。
この実践は私に意外な理解と、解脱の悟りへの導きをもたらしてくれました。

次回は、その無我へのダイブの実践とその周辺のことについて書いてみたいと思います。


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読んで頂いてありがとうございました。

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