◇涅槃の体験は解脱の悟りに関係無しか◇
以前このブログに、涅槃の体験は解脱の悟りを得るときの重要な手がかりになっている可能性があるという記事を書いたことがあると思います。
しかし一昨日、その考えは間違っている可能性が高いことが分かりました。
今日は、このことについて記事を書こうと思います。
なお、涅槃とは深い瞑想等により得られる完全な無我の状態のことで、この状態になると意識や感覚は完全に断絶し、気絶状態となります。
解脱の悟りとは、端的に言えば、一切の考えを握りしめなくなることなのです。
あるいは、自我が握りしめている考えをすべて捨て去ることなのです。
ただそれだけのことなのです。
例えば、これは絶対だ等として信じていることや、こうであるべきだと思い込んでいることなど、そう言った囚われがすべて無くなれば、それで解脱の悟りなのです。
本当にただそれだけなのです。
握りしめた考えがあるからこそ、それが種になって次から次へと新たな考えを握りしめる衝動(衝動も考えです)が生じてしまうのです。
そして、その考えを次から次へと握りしめてしまうことが、延々と続く迷い行程そのものなのです。
一切の考えを握りしめなくなれば、解脱の悟りなのですから、そこに涅槃の体験の有無は関係ないのです。
一切の考えを握りしめなくなることと、涅槃の体験とは直接的な関係は何もないのです。
涅槃の体験のない方、どうぞ心配されることなく、安心して道を歩んで頂きたいと思います。(^^)
以下、補足です。
また上記に関連して、コメントしたいことがあります。
仏教系の経典に、解脱の悟りを得た人について、涅槃の体験を得た後で解脱の悟りを得た人と、その体験を得ることなく解脱の悟りを得た人とを分けて捉える記述があるようですが、このような分類には意味が無く、誤りである可能性が高いと思います。
解脱の悟りは、一切の考えを握りしめなくなることなのですから、そこに違いなどあるはず無いのです。
ただ、解脱の悟りを得るときに涅槃の体験が間接的な意味で何らかなの影響があることはあるのだろうと思っています。
それは、涅槃の体験があると、自分自身を含めたこの世界そのものが幻であることが腑に落ちやすいので、握りしめている考えも手放しやすくなる傾向があると思われるからです。
しかしその反対に、涅槃の体験が解脱の悟りを得るときの邪魔になることもあるのだと思います。
涅槃も私という自我がつくる考えであるのにかかわらず、涅槃の体験を得たことにより、それをあたかも絶対的なものとして握りしめてしまい、そのことが解脱の悟りの邪魔になることがあるのだろうと思います。
コメント大歓迎です。気軽にお書きください。
読んで頂いてありがとうございました。
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以前このブログに、涅槃の体験は解脱の悟りを得るときの重要な手がかりになっている可能性があるという記事を書いたことがあると思います。
しかし一昨日、その考えは間違っている可能性が高いことが分かりました。
今日は、このことについて記事を書こうと思います。
なお、涅槃とは深い瞑想等により得られる完全な無我の状態のことで、この状態になると意識や感覚は完全に断絶し、気絶状態となります。
解脱の悟りとは、端的に言えば、一切の考えを握りしめなくなることなのです。
あるいは、自我が握りしめている考えをすべて捨て去ることなのです。
ただそれだけのことなのです。
例えば、これは絶対だ等として信じていることや、こうであるべきだと思い込んでいることなど、そう言った囚われがすべて無くなれば、それで解脱の悟りなのです。
本当にただそれだけなのです。
握りしめた考えがあるからこそ、それが種になって次から次へと新たな考えを握りしめる衝動(衝動も考えです)が生じてしまうのです。
そして、その考えを次から次へと握りしめてしまうことが、延々と続く迷い行程そのものなのです。
一切の考えを握りしめなくなれば、解脱の悟りなのですから、そこに涅槃の体験の有無は関係ないのです。
一切の考えを握りしめなくなることと、涅槃の体験とは直接的な関係は何もないのです。
涅槃の体験のない方、どうぞ心配されることなく、安心して道を歩んで頂きたいと思います。(^^)
以下、補足です。
また上記に関連して、コメントしたいことがあります。
仏教系の経典に、解脱の悟りを得た人について、涅槃の体験を得た後で解脱の悟りを得た人と、その体験を得ることなく解脱の悟りを得た人とを分けて捉える記述があるようですが、このような分類には意味が無く、誤りである可能性が高いと思います。
解脱の悟りは、一切の考えを握りしめなくなることなのですから、そこに違いなどあるはず無いのです。
ただ、解脱の悟りを得るときに涅槃の体験が間接的な意味で何らかなの影響があることはあるのだろうと思っています。
それは、涅槃の体験があると、自分自身を含めたこの世界そのものが幻であることが腑に落ちやすいので、握りしめている考えも手放しやすくなる傾向があると思われるからです。
しかしその反対に、涅槃の体験が解脱の悟りを得るときの邪魔になることもあるのだと思います。
涅槃も私という自我がつくる考えであるのにかかわらず、涅槃の体験を得たことにより、それをあたかも絶対的なものとして握りしめてしまい、そのことが解脱の悟りの邪魔になることがあるのだろうと思います。
コメント大歓迎です。気軽にお書きください。
読んで頂いてありがとうございました。
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頭の中がくるくるパーになってる状態なのでは
ないでしょうか?。至福感とか多幸感とか・・。
悟りとは実相を洞察する知恵なのだそうですから、
それらとは関係ないものと思われます。
私も一度でいいからくるくるパーになってみたいです。
コメントありがとうございます。
そんな大したもんじゃないですよ。^^
コメントありがとうございます。
>涅槃三昧もニルバーナとかも、脳内物質の影響で
頭の中がくるくるパーになってる状態なのでは
ないでしょうか?。
涅槃は、脳の活動と余り関係ないと思いますよ。
>悟りとは実相を洞察する知恵
実相も考えであり幻です。
洞察すべきは、実相ではなく、私という自我の方だと思います。
そうですね。自我がなければ認識作用もないですからね。
>自我がなければ認識作用もない
はい^^
私は、あなたと同じくらいの時期に私のしっくりくる言い方で表現すると、
悟りを開いて解脱しました。今まで一般社会で働いていたのが、まさかと思いました。わたしの変容の仕方が、今までの思い込みが取れ、本当の自分の人生楽しく生きようと思ったら、自己消滅してしまい、これが私の悟り後の修行かぁ、
とただいま引きこもり中です。体を癒し中と思っていますが、これが私の知る位置なんだと受け入れてます。
それで先がよめず、なんだかなぁと思うときもあるので、あなた様も似た状況かなぁと勝手に思いましたので。
コメントありがとうございます。
>私は、あなたと同じくらいの時期に私のしっくりくる言い方で表現すると、
>悟りを開いて解脱しました。
なんと申し上げればいいのか言葉がございません。
そうですかとしか、しか申し上げられません。
すみません。
>とただいま引きこもり中です。体を癒し中と思っていますが、これが私の知る位置なんだと受け入れてます。
>それで先がよめず、なんだかなぁと思うときもあるので、あなた様も似た状況かなぁと勝手に思いましたので。
はい、私も全く先が読めない状況です。(^o^)
このまま死ぬまでそうなのかとも思っています。(^o^)
解脱の悟りに限らず、悟りの道を進んでいくとき、それまでの社会的な生活や日常的な生活に大きな変化が生じることはよくあることだろうと思います。
ありがとうございました。