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私を知る

自覚を中心に悟りのヒントを書いています。自覚とは「私」に意識を向け、一切は「私」の考えであることを自覚していくことです。

解脱の悟りと無明について

2014年08月18日 13時32分00秒 | 悟り
◇解脱の悟りと無明について◇

時々ネットを検索したりして、解脱の悟りや無明について語られているものはないかと探しているのですが、それらについて明確に語られているものがなかなか見つかりません。
(もしご存知の方がおられたらご教示いただければありがたいです。)
なので、僭越ではありますが、私(慧空)がそれらについて書いてみたいと思います。


解脱の悟りとは、「私」という存在に対する最終的な理解です。
それは、「私」という存在が抱え込んでいる最後のものに対する気づきであるとともに、その最後のものを抱え込んで彷徨ってきた自分自身の姿に対する気づきです。

最後とは、それ以外はすべて手放した後にそれだけが残っているという意味です。
その最後に残るものに対する具体的な感覚や感触は人それぞれなんだと思いますが、私はそれを一言で言えば「苦」なんだろうと思っています。
私の場合、それは、言葉ではうまく表現できませんが、不足感のような、もどかしさのような、不自由さのような、苦しさのようなもので、さらにそれに、なんとかしたい、なんとかしなきゃというせき立てられるような強い衝動を伴ったものでした。

その最終的な気づきのとき、自分はその最後のものを抱え込み、延々と彷徨っていたんだ、迷っていたんだという理解が起きます。
それと当時に、その理解が「私」という存在に対する最終的なものであるという理解が生じます。
そして、その最後に抱え込んでいたものが消え去るとともに、その最後のものを抱え込んでいた主体である「私」という自我が十分に滅せられ、それ以後、考えを握りしめることが無くなります。
もっと正確に言えば、それ以後は仮に何かの考えを掴もうとしても、一切掴めなくなります。

このような悟りのプロセスについて、「無明の迷い」あるいは「無明の煩悩」が落ちるなどと言います。


なお、原始仏教において無明とは、四諦の理を、あるいは縁起の理を知らないことであると定義されているようです。
そして、それはお釈迦さまによるものだとも言われているようです。
まさにその通りではあるのですが、私はこの定義はあまり好きではありません。(^o^)


<補足です(2014年8月21日)>
私は無明を、考えを握りしめていることだと定義したいと思います。


<補足です(2014年9月23日)>
上で書いたことは私の体験に基づくものであり、私の場合、自分が「苦」を握りしめ、それをどうにかしようと延々と奔走していたことに気づくことで無明の迷いが晴れました。
おそらく、お釈迦さまも私と似たプロセスだったんだろうと思っています。

しかし、解脱の悟りを得られる方の中には、どうやら、解脱の悟りを得る直前において、お釈迦さまや私(慧空)のように「苦」を握りしめてない方がおられるようなのです。
そのような方の場合、解脱の悟りを得る直前に握りしめている考えは、「苦」ではなく、何か他の考えなのです。

<補足と訂正(2017年5月8日)>
上に、「苦」を握りしめていない方がいるかのような記載をしていますが、それは私の誤解でした。
私という存在の根本に「苦」を握りしめていない方などいないのです。
この誤解は比較的直ぐに気づいたのですが、訂正するのを忘れて放置したままになっていました。

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読んで頂いてありがとうございました。

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コメント (8)
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