負けるな知的中高年◆本ときどき花のちコンピュータ

「知の崩壊」とかいって、いつの間にか世の中すっかり溶けてしまった。
「知」の復権に知的中高年よ、立ち上がれ!

実業で成功する人は芸術家の夢はほどほどにしか採用しない

2005年06月03日 | 詞花日暦
言い度い事を言い、したい事をして、
もちろんそれが出来る人は沢山あるには違いないが、
しかし不幸にもそういうタイプの人は大概落伍している
――小林一三(事業家)

 小林一三は明治二十六年に「十等手代として」三井銀行に入社して以来、阪急電鉄、宝塚少女歌劇、東宝映画などを手がけた。その足跡から見ると、堅実な銀行員ふうのワクをはみ出し、やりたいことを奔放に実行した印象がある。そんな彼が、いいたいことをいい、したいことをする人間は、大概ビジネスの世界から落伍するという。予想外のことばではないか。
 しかしこれが小林一三の本音であり、事業手法だった。宝塚少女歌劇の前身少女唱歌隊をつくったのは、大阪三越で評判だった少年音楽隊の先例を模倣し、少女に限ったのは男女共修を「危険である」と考えただけである。まさに本人もいう「イージーゴーイング」からの出発にすぎない。
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 宝塚少女歌劇の指導を依頼したのは、グループ企業三井物産の重役令嬢の夫君・安藤弘だった。彼はオペラに対する野心を持ち、十五、六歳の女の子だけでなく男性も一緒に養成すべきだと主張していた。
 一三は「安藤先生の野心は、ややもすれば理想に走って」と考え、安藤の「芸術家として燃ゆるがごとき信念」を退けてしまった。したいことをしようとした青年の夢を実業家・小林一三はもののみごとに拒絶したのである。
 のちの一三は書いた。「これは宝塚の失敗であったかもしれないが、営利会社の経営者としては、恐らくこの程度で満足することの安全なるに如かずとあきらめて居ったのである」。
 これを実業家・小林一三の英知とでもいうべきなのだろう。けっして落伍することなく、七十九歳でもまだ事業の夢を追った彼は、「言い度い事を言い、したい事を」するのとは別種の経営者だった。戦前の財閥という強固な基盤をもった時代の経営者だったせいだろうか。