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私が好きなものは全部ここにいる

★TECHNOLOGICAL SOUNDSCAPE 8

2005-09-09 | 音楽

第八回

 ゴットフリート・ミハエル・ケーニッヒ、ディック・ラーイメイカーズ、アンリ・プスール、ルネ・リンドブラッド。ここまで本稿では、もっぱらカールハインツ・シュトックハウゼンやピエール・アンリといった、よく知られた名前によって代表されがちな「初期の電子音楽」において、相対的にマージナルな位置に置かれてきた何人かの作曲家たちを紹介しつつ、彼らのさまざまな試みと、現在云うところの「電子音響」との関係性についても随所で触れてきた。
 しかしそれは、「電子音楽」の「歴史」におけるミッシング・リンクを露わにしようなどという、到底筆者の身に余るような、大それた意図を持ったものではないし、ただ単に「電子音楽」から「電子音響」へと、直線的に連なる系譜を示そうとしたわけでもない。
 むしろ必要なのは、継起的な因果律に縛られることのない、「非=クロノロジー」的な視線である。「電子音楽」と「電子音響」の連続性を単純にトレースするのではなく、長い歳月で隔てられながらも、50年代の作曲家と、90年代の音楽家とが、ほぼ同質の「問題」に対峙していたのだと考えてみることで、いわば両者の「等質性」と「反復性」を、多少とも明らかにしてみたいのだ。
 「作曲の進化というものを心理学的にではなく物質的な基準で判断する」(G・M・ケーニッヒ)ために、「音楽的-音響的な素材の最も微細な粒子」(H・プスール)にまで立ち戻り、「現代のエレクトロ・アコースティック、電子テクノロジーと、音楽との間の関係性」(D・ラーイメイカーズ)を探ろうとすること。これまで取り上げてきた、「歴史」の表層に露出することのなかった、マージナルな「初期の電子音楽」の担い手たちの企図は、このように整理できるだろう。では、そこに潜在し、そしてのちに「電子音響」において「反復」されることになった「問題」とは、果たして何なのだろうか?
 
 かつて「音楽」とは、「作曲家」の脳内で、唐突に鳴り響いて生まれ落ちたり、あるいは一定の時間を掛けて醸造されていくものだった。いや、それ以前から、無論ひとびとは「音楽」を奏でていたし、いまだそう呼ばれていなかったとはいえ、創造的な音楽行為、すなわち「作曲」を行ってもいた。だから云うなれば、まずはじめに「音楽」するひとびとの内から「作曲家」と呼ばれる存在が選別されてくるプロセスがあったのだというべきかもしれない。
 それと並行して、ひとびとが「音楽」する「道具」としての、「楽器」の誕生と発展という過程があった。「音楽」の、「作曲」の「歴史」において、「楽器」の果たしてきた役割は、非常にアンビバレントなものだと言える。「作曲家」の脳内で生まれた「音楽」を現実の音としてリアライズするために、「楽器」は発明され、次第に整備されていったわけだが、定まった形状や奏法を未だ持ってはおらず、さまざまな可能態を孕んでいた黎明期から、ある確定的なカタチへと収斂していくとともに、「楽器」はそれ自体として一種の「制度」と化していき、逆に「作曲」に対して、ある意味で拘束的に振る舞うようになっていったからである。
 ひとはたとえば、ピアノならピアノで演奏されるための曲を「作曲」するようになり、この世に存在していない「楽器」の音色や響きは、あらかじめ「音楽」の想像力から除外されていくことになった。かつて脳内で鳴っていた音は、ことによるともっと豊かで複雑であったのかもしれないのに、いつしか既にある「楽器」のアレンジメントの範疇の中にしか、あたかも「音楽」は存在しないかのような認識が共有されていった。「楽器」とはいわば「音楽」の鋳型のごときものであり、その型にいかに上手に音を流し込むか、という技術が要求されていった。むしろ、そうした技術に長けた者が「作曲家」と呼ばれるようになっていったのだった。
 もちろん、こうした「楽器」の「制度」に対する抵抗の「歴史」をも「音楽」は有している(この点については拙著『ex-music』所収の論文「メタ・インストゥルメンタル・ミュージック」、あるいはたとえば渡辺裕『音楽機械劇場』の幾つかの文章を参照してほしい)。だが、それが一面では紛れもないフレーミングとリミテーションであったとしても、にもかかわらず、やはり「楽器」という「制度」なくしては、けっして現在までに至る「作曲」の進化(?)は望めなかったろうし、逆に言えば「作曲」という、いまひとつの「制度」が精製されていくプロセスの中で、必然的かつ不可避的に「楽器」は「制度」化していかざるを得なかったであろうとも考えられる。
 だからむしろ、「作曲家」の音楽的なイマジネーションと、「楽器」という「制度」とのあいだに生じる、種々の摩擦や衝突にこそ、「音楽」を未来へと押し進めていくクリエイティヴィティが宿っていたのだと云うべきだろう。そして、「作曲家」と「楽器」とを繋ぐ一種の翻訳機であり、と同時に摩擦や衝突の舞台でもあるようなものとして、いわゆる「譜面」が発明された。「譜面」が、「楽器」とはまた別の意味で「音楽の鋳型」であり、更にもうひとつの「制度」でもあることは言うまでもあるまい。
 たとえば、ピアノを弾きながら「作曲」を行い、次いでそれを記譜するという行為において、「ピアノ」という「楽器」のスペックとパラメーターが確定されている限り、「作曲家」が、現実には鳴っていない音を、自らの音楽的なイマジネーションの内側で聴くことによって、実際に鍵盤を叩くという過程を省略し得る。優れた「作曲家」とされるひとびとは、「楽器」によるリアライゼーションを、いちいち必要とせずに、つまり具体的な「音」と、その「聴取」の関与なしに、「譜面」上に自らの「音楽」を築き上げることが出来る。言うまでもなく、「音楽」の「歴史」には、その作曲家の存命中には一度として演奏されたことがなく、ただ「譜面」のみという形で残されていた作品が、幾らでも存在している。「譜面」の登場によって、それ以前ならば、「作曲家」が脳内で鳴り響く「音楽」を外部に取り出すためには必須であった、直接的な演奏行為、「楽器」によるリアライゼーションが、必ずしも前提とはされなくなった。そして、それ以降、「音楽」の「歴史」、そして「作曲」の「歴史」は、「楽器」の「歴史」と「譜面」の「歴史」に、いわば逆規制されながら進んできたのだった。
 十二音音楽からセリー主義へ、という作曲法の展開は、上記のような互いに折り重なった複数の「歴史」が、ひとつの結節点を迎えつつあるという意識、更に云えば一種のデッドエンドが到来しつつあるという意識が、多くの「作曲家」たちに共有されたことを示している。そして、既に述べたように、その流れの果てに「電子音楽」が導き出されてくることになったわけである。
 
 なぜ、このようなほとんど常識に属する事柄を敢えて記してみたかといえば、「電子音楽」の登場という出来事は、くだんの「歴史」の発展過程の内に、ごく自然に収まりよく位置づけられるものというよりも、当の「歴史」自体を大きく変質させてしまうほどの強度のポテンシャルを備えた「事件」であったのであり、むしろそこで「歴史」は明らかに切断され、ほとんど別の何かへと変貌してしまったのだとさえ考えられるからだ。そしてそこには、テクノロジーというものが、決定的に関与している。
 「電子音楽」を可能にしたものは、疑いもなくテクノロジーの進化である。「初期の電子音楽」の舞台となった世界各国のスタジオが、第二次世界大戦終戦後の1940年代後半から50年代にかけて相次いで設立されたことは、けっして偶然ではない。アメリカの音楽史家・作曲家で、ニューヨーク大学で教鞭も執るエリック・ソーズマンは、20世紀の「音楽」の「歴史」を一望した大部の著書の中で、次のように述べている。

 第二次世界大戦後に広く使われるようになった道具やメディアには、たとえば、磁気テープ、LPレコード、新しい録音・再生技術(マルチ・トラックによる録音、2チャンネルあるいは4チャンネルによる再生など)、FM放送、各種の信号発生・変調装置、フィルター(特定の周波数帯域のみを通過させる濾過器)、などがある。このような新しい手段が開発され、それを新音楽の創作や紹介に利用できるようになったことは、文化全体にはかりしれない影響をもたらした。
『音楽史シリーズ6/20世紀の音楽』E・ソーズマン/松前紀男・秋岡陽訳(東海大学出版会)

 ソーズマンは、ここでいう「文化全体」に対する「はかりしれない影響」なるものを詳らかにしてはいないが、少なくともそのひとつは、「音」と「聴取」の復権ともいうべき事態であったのだと、筆者は考えている。そしてそれは、音楽的なイマジネーションと、「音楽」にかかわる「歴史=制度」とが保ってきた関係性を、根本的に変革するようなものだった。


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