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TECHNOLOGICAL SOUNDSCAPE 7

2005-09-09 | 音楽

第七回

 1923年生まれのスウェーデン人ルネ・リンドブラッドRUNE LINDBRADは、美術一般を学んだ後(とともに化学技師の学校も卒業している)、絵画とグラフィック・アートの教師として青年時代を過ごした。彼が「作曲」という行為を始めたのは1953年、三十代になってからのことである。リンドブラッドは、エレクトロ・アコースティックな音の素材だけを用いて作曲を行った、スウェーデンにおける最初のコンポーザーとなった。
 1953年といえば、ドイツ、ケルンのWDRで、カールハインツ・シュトックハウゼンやヘルベルト・アイメルトやゴットフリート・ミハエル・ケーニッヒやアンリ・プスールなどが、最初期の電子音楽に取り組んでいた時期であり、またパリのRTFでは、ピエール・シェフェールとピエール・アンリが、ミュージック・コンクレートの研究に勤しんでいた頃である。すでに触れたように、前者は純粋に電子的に合成された音響を作曲に利用することを、後者は具体音や現実音の収集と組み合わせによる音楽形態を、それぞれ追求しており、「電子音楽」のはじまりにおいて、二つの大きな潮流を準備することになった。
 しかしリンドブラッドは、こうした同時期の世界的な動きを、まったく知らなかったのだという。彼はむしろ、それまで活動してきた絵画やオプチカル・アートの延長線上に、独自に「電子音楽」を見出したのだった。だが、にもかかわらず彼の作品は、WDR/RTFで発見されつつあった「電子音楽」の可能性と、多くの点で共振していた。
 リンドブラッドの電子音楽作品は、"DEATH OF THE MOON"と"OBJEKT-2"の2枚のCDによって、ほぼ年代順に聴くことができる。最初期から60年までに制作された楽曲をまとめた"DEATH OF THE MOON"の冒頭に、彼の電子音楽第一作にあたる「Party」(53年)が収録されている。この曲は、ラジオからのエアチェックらしき様々なサウンドをコラージュした、いわゆるミュージック・コンクレート的な作品だが、9分ほどの長さの後半になってから、テープを逆回転したり、いきなり加減速したりといった、かなり乱暴な操作がランダムに加わりはじめ、リスナーを奇妙な不安を陥れたまま終わっていく。続く第二作の「Manens Dod(Death of the Moon)」(54~55年)は一転して、オルガンとも管楽器とも判然としないオブスキュアな音が淡々と続く器楽曲、第三作「Fragment 0」(55年)は、やはり異様にこもった音質の楽器音と電子音が絡み合う作品である。
 リンドブラッドの音楽は発表当時、まったくと言っていいほど受け入れられなかったらしい。そもそも彼の作品を一般聴衆が聴く機会自体が皆無に近かったが、1957年に初の演奏会を行った際には、観客は金を返すことを要求し、批評家たちは「純粋な拷問」と断じたという。リンドブラッドは、この苦い経験によって、その後の長きに渡ってコンサート・ホールを拒絶し、ひたすらスタジオでの音響的な実験に没頭した。それはまた、光学的な実験でもあった。なぜならば、彼はその「電子音楽」の作曲に、映画のフィルムを援用していたからである。58年から60年にかけて、彼は6000フィートものフィルムを用いて、5曲の作品を「レコーディング」した。この時期の代表作が「Optica?」(59~60年)と「Optica?」(60年)である。リンドブラッドの特異な作風の完成形とも言われる後者は、先の2枚のCDには入っていないが、スウェーデンの電子音楽家の作品を集めたコンピレーション・アルバム"e 1999:1"で聴くことができる。
 「Optica?」は、黒い封蝋でコーティングされたフィルムが、35ミリ・キャメラを通過した後、三つの光電池を持った機械によってテープ・レコーダーに録音されるという、極めて特殊な手法によって制作されており、ピッチ・コントロールもその機械の操作で行われた。いわゆる「電子音楽」的なテクノロジーは一切使用されていない。フィルムという光学的かつ物理的な素材を「音」に変換するというアイデアは、ほとんどマッド・サイエンティスト的でさえあるが、その結果として出来上がったのは、たとえば同時期のシュトックハウゼンの「コンタクテ」(59~60年)と比べても何ら遜色のない、いや、こう言ってよければ、より刺激的な「電子音楽」だった。8分余りの長さの中で、刻々と音色が変化していくのだが、そのさまは、まさしく映画というメカニズムそのもののように、イメージ的であるともに非常にマテリアリスティックなのである。残念ながら、そのフィルムは火事に遭って焼失してしまったというが、幸いにも録音されたテープだけは残されたのだった。
 リンドブラッドは1991年に亡くなるまでに、200曲以上もの作品を制作したという。実際、彼の作品には曲名とは別に通し番号が付けられているのだが、"OBJEKT-2"の末尾に置かれている「Dimstrak」(87-88年)には「作品203番」とある。ちなみに、この曲は、アコースティック・ギターと笛のようなシンセサイザーのみによる、どこか懐かしい哀切なメロディを持った小品であり、これがリンドブラッドの生涯最後の作品であるとすれば、いささか出来すぎな気がする程である。しかし、このようなごく普通の印象を与える曲は、現在聴ける彼の音楽の中では明らかに例外的なものであり、ほとんどはアモルフで奇怪なエレクトロ・アコースティックである。
 リンドブラッドはスウェーデンのイエーテボリ大学で長年教鞭を執り、彼の下からはロルフ・エンストレム、オーケ・ペアメルードなど、国際的に著名な電子音楽家が育った。だが教師としてではなく、エレクトロ・アコースティック・コンポーザーとしての彼が影響を与えたのは、アカデミックな領域というよりも、むしろノイズ・ミュージックやアバンギャルド・ミュージック、そして現在言うところの「電子音響」に属するアーティストたちに対してだった。リンドブラッドの国際的な再評価を促すことになった"DEATH OF THE MOON"と"OBJEKT-2"は、1997年と98年にニューヨークのポーガス・プロダクションズによってリリースされたが、それらのコンパイルにも協力し、2001年にはストックホルムにおいてリンドブラッドの回顧展もキュレーションしたのが、カール・マイケル・フォン・ハウスウォルフである。
 CM・フォン・ハウスウォルフとしても知られる彼は、かつてはファウス(PHAUSS)名義で活動しており、ノイズ・シーンでは伝説的な響きを有するラジウム・レーベルを主宰していた。一時はアンビエント・テクノ的な作品などもリリースしていたが、90年代半ば以降は、スティルアップステイパが運営するファイヤー・インクや、本稿では度々登場しているベルギーのサブ・ローザ、池田亮司やフェネスのリリースで有名な英国タッチ傘下のアッシュ・インターナショナル、アメリカのテーブル・オブ・ジ・エレメンツ、カールステン・ニコライのラスター・ノトン、等々といった世界の有力レーベルからアルバムをリリースし、またサウンド・アーティストとしても、数多くのインスタレーションやパフォーマンスなどを発表している。日本にも、インターコミュニケーション・センターの「サウンド・アート音というメディア」展(00年)と、CCA北九州の「レッド・コード」展(01年)のために二度来日している。
 ハウスウォルフの音楽は、オシレーターやサイン・ウェイヴ・ジェネレイターによって作られたピュアな電子音を、何らかの手法で逐次的に変形していくことと、短波ラジオやその他の機器を用いて大気中に存在する音響を採集しリサイクルすること~そこにはEVP (Experimenting in the electronic voice phenomenon:電子的音声現象研究)のような、いささかオカルティックなアプローチも含まれる~の、二つの次元が混在している。"BASIC"(98年)や"strom"(01年)といったアルバムからは、ルネ・リンドブラッドからの影響が色濃く伺える。「Optica」連作や、細切れにされた声と電子音が怪しく戯れる「Plasibenpius」(68-69年)、純粋な電子音のみで織り成される、いずれもやたらとゴツゴツとした感触の「Halften av Nagonting」(70年)や「Frage」(72年)などの反響を、四半世紀以上も後に制作されたハウスウォルフのサウンドから聴き取ることができる。
 また、ハウスウォルフがキュレートしたリンドブラッドの回顧展の記録としてリリースされた"RL(RUNE LINDBRAD)"は、LPとCDに小冊子が付いた豪華な作品集で、ハウスウォルフと並ぶスウェーデンの代表的サウンド・アーティストであるサンズ・オブ・ゴッド~レイフ・エルグレンとケント・タンクレッドや、元ワイアー/ドームのエドワード・グラハム・ルイス、ハウスウォルフ、ルイスとともにOCSIDとしても活動するジャン・ルイ・ハフタ、タッチからアルバムをリリースしているハザードことB・J・ニルセンなどが、リンドブラッドへのトリビュート・トラックを提供している。電子音響的な作品だけではなく、テクノやダブといった、よりダンス・ミュージック的なスタイルも試みられている点が興味深い。
 ルネ・リンドブラッドは、作曲技法におけるセリー主義の限界を打破するものとして見出された「電子音楽」とは、まったく関係がない。だが、彼が作り上げたのは、紛れもなく、史上もっとも初期の「電子音楽」のひとつである。このことを正しく理解するためには、従来の歴史的な把握とは異なった視点が必要になってくる。


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