本人戒烟中 我愛MIMIAO 我希望処ヲ件事儿能一様長久

私が好きなものは全部ここにいる

中国政府へのネット統制批判、事実と異なる 外交部

2006-06-02 | ニッキ
今日、BLOGLINESあけるとこんなニュースが入った。

 外交部の劉建超報道官は1日の定例会見で、国際報道協会(IPA)が中国政府に対 し、インターネット上の報道管制を停止するよう求めている件について質問を受け、次のように答えた。

  われわれは、すでに何度も中国政府の立場を詳述してきた。いくつか数字を挙げて、このシンプルな事実を説明したい。

  中国のインターネット利用者は、すでに1億1千万人を超えている。中国の人民はインターネットを通して、彼らに必要な情報、重要な情 報を得ることができる。この情報ルートは滞りなく開かれている。概算統計によると、中国のインターネットには130万余りの掲示板があり、誰もが日常的に アクセスし、さまざまな観点を目にすることができる。中国政府は、これらの観点を決して統制していない。中国政府がインターネットを統制しているとの一部 の非難は、事実と異なる。もちろん、ポルノ、暴力、社会安定の破壊などにかかわる情報については、中国政府が必要な管理を行う。西側諸国を含む他の国々で も、このような手法が取られている。こうした措置は、法律の枠内で実施されている。報道の自由についても、数字を示したい。中国には現在、新聞が2千紙以 上、雑誌が8千~9千誌ある。これだけ多くの報道媒体には、さまざまな観点がある。われわれは、メディアによる監視は、政府活動や社会発展にとって有益と 考える。もちろん、報道は法律の枠内で行われなければならない。

無言。。。。


最近、広州の天気は毎日の大雨だ。蒸し暑くて、たまらないよ。
蚊も出てきた
生活はとても苦しいよ
天候の方はやはりふるさとのセッコウ省いいだ

今の広州はまるで梅雨の季節に入ったようだ、選択した衣類はなかなか乾かない。

広州に長期滞在する予定があるかたがた、覚悟しておいた方がいい!


wii

2006-04-28 | 映画・アニメ
任天堂表示命名为Wii是来源于英文“We”的想象,符合这款游戏机的创作初衷--家庭娱乐。
任天堂公司的主页(做的真丑)有这广告片可看

好没创意是吧,相比大友克洋给碗面做的广告,真是没法比。人家是做吃的啊,还搞的那么前卫,你是做科技的啊,做出这么个东西出来,明显没下工夫嘛。
早先我看报道,已经有消息说业内人士对这款机并不看好。我看哪,唯一的卖点就是这个新感觉手柄 。





bloglines andslsk

2006-04-24 | ニッキ
98年から、私のネット生活はもう8年間だ!この8年間の中に印象的、私を影響したのはslsk,とbloglinesだけだ。

slskは2年前、夢中に使っていたが、大量のmp3フォーマットの音楽が交換することがslskを使ってできた、音楽情報がなかなか手に入りにくい中国においてる私たちの音楽を聞きたい気持ちを果たし
た。2年前のslskのユーザもすごいだな、上世紀50年代60年代のLPをmp3のフォーマットに変えて、貴重な音楽を全世界のミュウッジクファンにきかせた。
このニッキを読んでる貴方がその嬉しさが理解できないかもしれない。

slskはわたしのネット生活を変わった。友たちのパソコンはいヶ月間シャットダンウンと言う記録があった。或いは、毎日DLしてりる、他のユーザにDLをさせてると言うことだった。

bloglines

今 使っている、2年前のslskと同じような感じがあるんだ。情報量が大量的、圧倒的、ただ、お前がどの位の情報が受けられる次第だ。
bloglinesとslsk同じ所だと思う
私のフイードの数が361となり、一日bloglinesを使わないと、未読の文章量はどんどん増える、2000以上越える。もちろん わたしがRSSしたの多くはニュースだった。一日中しても、読み尽くしないでしょう。これはslskと同じだ。slsk使うと、毎日DLということだけ楽しんでる、DLすぎて、音楽を聴く時間全然作れなくて、全く、slskを使う本意にはずしてしまった。


でも、なんといっても、ないよりあるの方がよいね

ニッキ 今日からだ

2006-04-23 | ニッキ
自分から自分へのニッキだらから、敬語一切しない。

昨日楽しかった、久しぶりにカメラをもって、郊外の山の所へ飯を食ってから、写真をとった。私にとってちょっと2ヶ月カメラを触らなかった、やはり写真を取ることが楽しいだな~

昨日食事の場所もなかなかいいところよ、山の中であり、車がないと、とても無理だよ。さすが バングー(番禺)の金持ちが多いだ、レストラン前の駐車場で車がたくさん

あのレストランはなかなかいいところ、料理がうまいと思うよ、私たち8人で280元位、安い安い。

場所は金山大道の路上で、探し易い。










諦めようと思ってさ、諦めないですね

2006-03-03 | ニッキ

これから、ここで日本語でニッキを書きます。ものすごく下手な日本語ですけどこのブログを読んでいるの日本側の皆さんはよろしくお願いします。どこか正しいではない日本語の場合があれば、遠慮しないで、私に教えてください。コメントでもいい、メールでもいいですよ。

今日はちょっとイライラしてますね。

先、ESWNの英語記事を日本語に訳したいですが、もちろん オンライン翻訳ウェブを使ってやりたいですが。。。。

最初、ウェブで出来た内容はそのまま使えるじゃないですかと思って、後見たら、全然だめですよ、なおしなければならない。

直せれば直すほど、メチャクチャ難しいですね。

やはり これは私に対して、難し過ぎますよね。私今の日本語レベルに対してさ。

恥ずかしいですね。

嫌ですね!

でも まず、彼らと同じような書き方を勉強しましょう

 

きっと 出来ますよね!がんばれ。。。。


reading link

2006-02-18 | 映画・アニメ
周围的朋友们都在认真的生活着,比如L.
他是给我的生活以刺激的人,让我反思我到底应该选择什么样的生活道路,看他在做的事情总让我感到 羞愧和自责. 我应该重新审视自己,至少该有个总结,也该有个目标.

接下来贴一下这段时间搜集的一些网站,还会不断加的.
blog:
GNO: 
http://www.chinesenewear.com/gno/
and read list
http://www.bloglines.com/public/lawrencelry
幻雨空间旧
http://acidrain.yculblog.com/
 新:http://www.blogcn.com/u/3/21/acidrainspace/index.html
有人:
http://www.got1mag.com/blogs/got1mag.php
美術と本と映画好き...
http://blog.goo.ne.jp/lysander

低烧:
http://www.colordance.org/
吴伟明的知日屋:
http://www.cuhkacs.org/~benng/Bo-Blog/index.php

抓拍城市:
http://www.50mm.cn/index.php

閉門造音:
http://www.chinesenewear.com/wolfenstein/blog/
Sound Zafka
http://zafka.wordpress.com/
浮世畸零人
http://snowtea.tianyablog.com/


对牛乱弹琴 | Playin' with IT

http://blog.donews.com/keso/


所谓:
http://www.blogcn.com/User/guojiangtao/index.html
web
电影登堂:
http://inside.edimsum.net/
旧书场 :
http://oblog.odineast.com/blog.asp?name=talich
wnmna:
http://www.we-need-money-not-art.com/
art218:
http://www.art218.com/

Blog on DVD news:

eiga
CinemaScape-映画批評空間-
http://cinema.intercritique.com/
music:
J-music 543

http://bbs.music543.com/ournet.pl/music543/music543-3/J-music/articles/


前卫咖啡
http://www.sinologic.com/bbs/

Photo:
http://www.colordance.org/bbs/index.php

read:

21世纪
http://www.cuhk.edu.hk/ics/21c/index.html

书屋:
http://www.housebook.com.cn/



Photo:


Japan:
新民族主義運動
http://nippon-nn.net/




Japanese:

atsushi sasaki: 佐佐木 敦
http://www.faderbyheadz.com/a-Site/


Super sonic china
http://blog.livedoor.jp/ssc_staff/

Japanese news:
每日:http://www.mainichi.co.jp/
共同:http://www.kyodo.co.jp/
朝日:http://www.asahi.com/home.html

翻译/文字/语言.....
乔纳森

http://www.blogcn.com/user8/johnathan/index.html



Other:
桑格格桑格格
http://www.tianyablog.com/blogger/view_blog.asp?idWriter=1354839&Key=573417725&BlogName=sggsgg
昆明ひとり学生
http://blog.livedoor.jp/kunming/


美食:
raildog in the attic
http://railfan.chips.jp/blog/

good bye 2005

2005-12-31 | ニッキ

 


だからアメリカ映画は面白い――トッド・ヘインズ監督『エデンより彼方に』by 蓮實重彦

2005-12-11 | 映画・アニメ
だからアメリカ映画は面白い――トッド・ヘインズ監督『エデンより彼方に』
蓮實重彦

とうとう第七騎兵隊まで派遣してしまった合衆国政府が中東地域で乱暴狼藉のかぎりをつくそうと、その国の映画を擁護する姿勢だけは断固として崩さぬつもりでいる。アメリカ映画はとうの昔に「国連決議」など無視して地球規模での一国支配を貫徹しているのだが、そのことさえ、映画のためにはよいことだと強弁する心の準備もできているつもりだ。にもかかわらず、誰が何といおうとアメリカ映画は面白いと断言するにふさわしい作品が、9.11以降あまり見あたらない。スコセッシやスピルバーグの新作も、こうした大言壮語を正当化しうるとはとてもいいがたい。

さいわいなことに、そんな当惑を爽快に晴らしてくれる作品がニューヨークから送りこまれる。より正確にはポートランド派と呼ぶべきトッド・ヘインズ監督の『エデンより彼方に』である。主演のジュリアン・ムーアばかりがやたらと評判がよいが、この作品を話題にしつつだからアメリカ映画は面白いと大っぴらに吹聴できるのは、ヘインズのあなどりがたい演出の力による。製作は、このところ話題独占といったかたちの女性プロデューサーのクリスチーヌ・ヴァション。ブラウン大学で映画記号論を専攻して以来の戦友であるヘインズとヴァションは、キラー・フィルムズという物騒な名前の独立プロを十年がかりで軌道に乗せ、満を持して発表したこの新作でついにハリウッドをひざまづかせた。

もっとも、東海岸的な精神風土の持主であるこの二人組にとって、そんなことはどうでもよろしい。題材をダグラス・サークからかりた50年代風のメロドラマを21世紀初頭にリメークするという企画のあざとさを、まれに見る真剣さで処理してみせた彼らの姿勢こそ、賞賛に値いするのだ。撮り方によっては爆笑もののコメディともなりかねない題材でありながら、構図を意識させないショットをなだらかにつなぎ、いざという瞬間には途方もないクレーン撮影や深いフェイドアウトで物語にアクセントをそえるという演出には、ポストモダン風の軽薄さなど影さえ落としていない。主題のあざとさは、演出の真摯さによって初めて人の心をうつ。ヘインズは、古典的ハリウッド映画の矛盾律がいまなお有効に機能しうることを、郷愁に足をすくわれることなく律儀に立証してみせたのである。

この映画が題名やエンドマークの書体までをもモデルとしている『天はすべてを許し給う』(55)は、50年代の地方都市を舞台にした未亡人の悲恋物語である。撮影時には同時代的な現象だった保守的な階級社会をシニカルに批判し、季節や樹木や動物の魅力をたくみにあしらったサークのメロドラマは、文句なしに素晴らしい。ただ、いささか艶めかしさに欠けるジェーン・ワイマンのヒロインにしっくりしないものを覚えていただけに、その役にジュリアン・ムーアを抜擢した監督には素直な喝采を送りたい。彼女がまとうドレスや髪型からインテリアの調度品、自動車にいたるまでの贅をつくした50年代調は、パロディーの一歩手前で踏みとどまる監督の自制心によって、『キャッチ・ミー・イフ・ユー・キャン』の無惨な失敗ぶりをあざ笑っているかのようだ。慎重なはずのヘインズが見せた数少ない落ち度は、寝室のダブルベッドと居間の脇の階段である。ここまで五〇年代風を気取るなら、ベッドはツインでなければならないし、階段のステップにはせめてあと十段ほどのゆるやかなカーヴが必要だろう。

旧作ではロック・ハドソンが演じた庭の剪定職人を黒人に、未亡人をホモセクシュアルの夫を持つ主婦に置き換えてみせたあざとさについていえば、真摯な演出によってそれぞれのおさまるべき場所を見いだしている。だが、ここで驚嘆すべきは、ジュリアン・ムーアが近所づきあいをしているご婦人たちの、いかにもそれらしい立ち居振る舞いのかしましさである。とりわけ、サークの作品ではアグネス・ムアーヘッドが演じた親友役のパトリシア・クラークソンの、本人以上にムアーヘッド然とした無意識の偽善者ぶりを、戯画に陥ることのない距離感とともに描いた演出には舌をまかざるをえない。

これほど多様な女優たちを苦もなく構図におさめてみせるのだから、トッド・ヘインズは、おそらくジョージ・キューカーのように、女性には真の興味を覚えることのない男性なのだろうが、それはまあどうでもよろしい。ここで重要なのは、『エデンより彼方に』が、戦争とも征服とも抗争とも無縁に自国の歴史を描いた数少ないアメリカ映画の一つだということだ。スピルバーグの新作は「時代劇」でしかなかったが、これはまぎれもない「歴史映画」なのである。ニコラス・レイやジョゼフ・ロージーを生んだ変容の一時期の歴史を、距離の意識をこめたメロドラマとして描いたトッド・ヘインズの大胆な繊細さには、深い驚きと嫉妬を禁じえない。




初出:『Invitation』2003年6月号(4号)。



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エリック・ロメール『グレースと公爵』――高貴さと卑猥さの嘘のような均衡 by蓮實重彦

2005-12-11 | 映画・アニメ
エリック・ロメール『グレースと公爵』――高貴さと卑猥さの嘘のような均衡
蓮實重彦


あられもない振る舞いだけがふと高貴さをのぞかせることがある。そうつぶやきながら、それが露呈される瞬間だけにキャメラを向け続けてきたのが、今年[2002]で82歳になる映画作家エリック・ロメールである。実際、彼の作品では、誰が見てもここで抱擁しあってはならないはずの成熟した男女が堂々と唇を求めあったりしながら(『恋の秋』[1998]を見よ)、そのあやうい状況は間違っても悲劇に行きつくことがない。それをあたかも自然な成り行きであるかに日常化してみせること。それがロメールの倒錯的なフィクションにほかならない。

1960年代いらい、ロメールは、「六つの教訓」「喜劇とことわざ」「四つの季節」などのシリーズを通して、好んで海辺の避暑地を舞台としながら、あと一歩で卑猥さの側に滑り落ちかねない愛の遊戯に視線をそそいできた。そこでは、高貴さと卑猥さが嘘のような均衡におさまり、フィクションとしか思えぬ「透明さ」で画面を震わせている。いつ崩れても不思議でないこの均衡が、ヒッチコックにさえ想像できなかった未知のサスペンスを映画に導入したことは、誰もが知っていることだろう。危険ではなく、その不在が煽りたてるサスペンス……。一度ロメールを見たら誰もが癖になるのはそのためである。

そんなロメールが、80歳という高齢を迎えようとするとき、コンピュータ・グラフィックを駆使してフランス革命期のパリを大がかりに再現し、そこにイギリス女性グレースを登場させてみる。映画は、この異国女性による回想録の忠実な翻案であり、いつもの休暇中の男女の戯れとはおよそ異質の世界が浮上してくる。何しろ、彼女がサロンでもてなすのは、れっきとした歴史上の人物オルレアン公その人なのだ。王家の血を引きながら従兄のルイ16世の処刑に進んで賛成したりした、あまり評判のよくない人物である。かつてはかなりきわどい関係にありながら、いまでは唇を求めあうほどの仲でもなくなっている二人だが、ときおり思い出したように出会うことの快楽だけはまだ放棄していない。

現代の避暑地における男女の遭遇から、革命期の歴史的な男女の邂逅へ。このロメールの変貌ぶりはいったい何なのかと誰もが驚かずにはいられない。これをライフワークとする野心を隠しながら、あえてミニマリズムに徹してきたというのだろうか。だが、そこに再現されたパリが、精巧にして華麗な背景というより、むしろ素朴な筆つかいで描かれた舞台装置のように見えてしまうことに、人はほっと胸をなでおろす。いかにもそれらしく再現された『グラディエイター』(2000)の古代ローマ帝国のコロセアムより、『グレースと公爵』に登場する「恐怖政治」時代のフランスの首都の表情のほうが、遥かにフィクションめいて見えるからだ。「真実」が、その種のフィクションを介してしか顕現しないことに、ロメールは充分すぎるほど意識的なのである。

すべては、趣味のよいクッキー入りの箱を彩る風景画のような構図の中で起こる。革命後の十数年を時代背景としながらも、そこでは「自由、博愛、平等」が叫ばれることも、「人権宣言」が謳歌されることもない。三色旗も翻らないし、「ラ・マルセイエーズ」さえ聞こえてはこない。オルレアン公が距離をたもちつつも同調している革命派に対して、グレースはまったくもって冷淡であり、並木道や広場を埋めつくす群衆も、貴族の首を切ることにしか熱狂しえない愚かな暴徒として、彼女の顔をそむけさせるばかりだ。人びとがフランス革命として知っている挿話など、この風景画には一つとして描かれてはいない。

グレースは、何が起ころうと、自分自身はいうにおよばず、親しい交渉をもつ上層階級の人びとの身分をいっときも疑ってみたりはしない。その揺るぎない確信において、彼女は、オルレアン公をはじめ、まわりの男たちにことごとく凡庸な策謀家の風貌をおびさせてしまう。そのグレースを演じるイギリス女優のリュシー・ラッセルが素晴らしい。その素晴らしさは、例えば『エリザベス』(1998)ではなく『ギフト』(2000)のケイト・ブランシェットのようだといえばよいだろうか。自分の予知能力だけを信じる南部女性に徹したこのオーストラリア女優のように、ここでのリュシー・ラッセルは、オルレアン公を演じる芸達者のジャン=クロード・ドレフュスをたじろがせるほどの迫力で、「手のつけられない王党派」として堂々と画面を横切ってゆく。いったい、何が彼女の毅然たる姿勢を支えているのか。

この世界には、目をそむけずにはいられない事態が着実に進行している。革命さえがまぬがれえないその醜悪さから瞳をそむけるには、その至近距離で生きねばならないだろう。そう自分に言い聞かせたとき、あられもない振る舞いだけが露呈せしめる高貴さが、奇跡のように彼女を恩寵でつつむ。実際、彼女は、ルイ16世の処刑現場に向けられた望遠鏡をしりぞけ、逮捕された彼女をなぜか解放するロベスピエールの処刑にも、かつては愛しあったオルレアン公の処刑にも立ち会いはしない。投獄されながらも偶然に処刑をまぬかれた彼女は、書き残した回想録を二百年後のロメールの手に託したとき、初めて微笑む。

そんな異国の女性の革命体験を描く『グレースと公爵』は、フランス革命批判をめざしているのだろうか。事態はより微妙な水準に推移する。グレースが外国人で、しかも女性だったという意味で、革命が奇妙な価値下落をこうむるのは間違いのない事実である。「自由、博愛、平等」に名をかりた大量殺戮から目をそむけていたい彼女は、遠ざかるのではなく、みずからその渦中に身を置くことで奇跡的にそれに成功する。その卑猥さと高貴さとのあやうい均衡に胸をつかれることなく、王党派グレースの振る舞いと、彼女にキャメラを向けるエリック・ロメールの姿勢とを「反動的」と呼ぶ鈍感な精神にとってのみ、これはフランス革命批判の映画として機能するだろう。だが、これが何かを批判しているとしたら、それはまぎれもなく映画そのものにほかならない。



初出:『Invitation』創刊0号、ぴあ、2002年。


Copyright (c) HASUMI Shiguehiko & MUBE



ジャ・ジャンクー『青の稲妻』 蓮實重彦

2005-12-11 | 映画・アニメ
ジャ・ジャンクー『青の稲妻』
――「表情の零度」または ポストモダン中国のハードボイルド
蓮實重彦

ジャ・ジャンクーの『青の稲妻』(2002)とともに、「傑作」の一語が不意に映画史の死語であることをやめる。これが傑作だからではない。傑作の範疇にはおさまりがつかぬ誇らしげな孤立ぶりによって、傑作の名にふさわしい作品がかつて存在したことを想起させずにはおかぬからだ。例えば、ルノワールの『ゲームの規則』(1939)を傑作として正典化したのは、ゴダールの傍若無人な『勝手にしやがれ』(1959)にほかならない。ところが、ジャ・ジャンクーの新作には、『勝手にしやがれ』はいうにおよばず、みずからの前作『プラットホーム』(2000)までをも傑作として正典化しかねない何かがまがまがしくみなぎっている。そのまがまがしい孤立への嫉妬を介して、人はかろうじて映画の「現在」と触れあう。

『青の稲妻』の誇らしげな優位は、しかし、後に生まれた者の特権からきているのではない。この映画が「現在」ととりかわす何ともあやうげな関係によって、それは決定されている。あやうげなというのは、文化革命時代の青春群像を描いてみせた『プラットホーム』と異なり、ここには現代中国の若者たちの風俗が生々しく息づいており、なるほど彼らはこんな風に生きているのかと誰もが思わず納得しかねないからである。だが、そんな納得が「現在」と触れあうはずもないと確信するかのように、ジャ・ジャンクーは若い男女の行き違った振る舞いに過酷な視線を向けつづける。そこに描きだされる光景は、ときに滑稽であり、甘美であり、痛ましい。彼らの無方向な存在の震えがふとしたきっかけで活気づける画面の豊かさに、見るものはただ息をのむしかない。

舞台は山西省の大同と呼ばれる都市に設定され、その繁華街の雑踏や、裏通りの泥道や、郊外の殺風景な空き地を、失職したばかりの19歳の青年が、親しい仲間とともにあてもなく彷徨う。処女作『一瞬の夢』いらい描きつづけた故郷の汾陽(フェンヤン)の町を離れたジャ・ジャンクーは、いきなり一まわりも二まわりも大きくなったかのようだ。洗いさらしの白いシャツをまとい、昼下がりの大通りをバイクで疾走するピンピンは、何かを思いつめているようにも見え、思考から見捨てられているようにも見える。暇を持てあましているようでもあれば、緊急の呼び出しにかけつけようとしているかにも見える。「表情の零度」ともいうべきこのひたむきな疾走ぶりを正面から捉えつづける導入部のキャメラが、文句なしに素晴らしい。青年の無表情をあたりの騒音から孤立させるこの長い移動撮影が、ハードボイルド的というほかはない緊迫感をフィルムの全域に波及させているからだ。

謎の事件もなければ、私立探偵も姿を見せぬポストモダン中国のハードボイルド。1ドルにどれほどの価値があるかも知らぬまま皺になった紙幣を仲間に見せびらかし、北京のオリンピック開催決定のニュースに無表情で立ち会い、中国のWTO加盟にわけもなく興奮し、海南島での米軍機事故を伝えるテレビ報道を茶の間で聞き流し、多くの負傷者をだしたらしい不穏な爆発音にも、彼らはことのほか驚いたりはしない。若さは、そこで謳歌されてもいなければ、詠嘆されてもおらず、もっぱら刹那を生きながら、そのことにさえ無自覚な青年たちを生み落とした社会が、真正面から批判されているのでもない。

ピンピンは、調子外れに『ラ・トラヴィアータ』を高唱する奇人(ジャ・ジャンクー自身が演じている)のわきをすりぬけ仲間と合流し、煙草をくゆらせながらむなしく時間をやりすごす。法輪講に凝っている母親とはいさかいが絶えず、北京行きを夢見る受験前の女子高生と不器用に恋を語りあい、兵役検査にもあっさり落ちる。ヘアースタイルに精一杯気をつかう仲間のシャオジーも、ときに迷彩服めいた衣装で粋がったりしながら、ピンピンの「表情の零度」を共有している。見る者は、豊かな表情を秘めながらそれを素描しえずにいる若者たちの無表情を介して、『青の稲妻』のはらむ「現在」に触れておののく。

シャオジーは、蒙古特産のアルコールで一儲けをたくらむやくざめいた男の情婦のチャオチャオにぶっきらぼうに近づき、とりまきの男たちと暴力沙汰を起こす。いかがわしいやりかたで金を稼いでもいるらしい「モンゴル王酒」のキャンペーン・ガール(資本主義!)の彼女は、蝶のブローチで胸を飾り、つめかけた男たちの前で媚びも見せず、人形じみたウィッグを振り乱して踊る。その曲が、作品の原題となった『任逍遙』である。題名からして『任逍遊』とも無縁ではないことは察しがつくが、シャオジーは、荘子はいうまでもなく、「胡蝶の夢」のことさえ聞いたこともないという。素肌の蝶の入れ墨を見とがめられて言葉少なに故事を説明するチャオチャオの深い諦念を、その手にかき抱かれた無表情な青年ははたして共有しえたのだろうか。

台湾よりも中国でヒットしたリッチー・レンの『任逍遙』は、その後、肝心なところで二度歌われる。まず、受験で忙しくなるからデートに誘わないでと恋人から告げられたピンピンが、薄汚いビデオールームでクリップにあわせて彼女の手を握り、二人して伏し目がちに歌う。また、警察に捕まり手錠をかけられたピンピンが、警官に促され、直立不動のまま真正面を向いて歌う。そのつど「表情の零度」がきわだち、目には見えない「現在」に彼らがからめとられてゆくさまが痛ましく画面を震わせる。

ピンピンがなぜ逮捕されたかについては、触れずにおく。『青の稲妻』がどんな終わり方をしているのかも、いまは書くまい。ただ、「傑作」を遥かに超えたこのフィルムに不意打ちされ、見終わってからしばし息もつけなかったことだけは記しておく。




初出:『Invitation』2003年3月号(創刊号)



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黒沢清『アカルイミライ』 by 蓮實重彦

2005-12-11 | 映画・アニメ
黒沢清『アカルイミライ』
蓮實重彦


『回路』(2000)で20世紀に別れをつげた黒沢清は、近年の彼には稀なことともいえる二年もの沈黙の後、『アカルイミライ』(02)をたずさえて21世紀に足を踏み入れる。一人、また一人と姿を消し、日本の首都からすっかり人影が絶えてしまった前作の最後を見とどけた者に、この題名はいささか奇妙に響く。勿論、黒沢が未来は「明るい」といっているのでなかろうことは誰にも察しがつく。だが、「暗い」はずの未来をあえて「明るい」と呼んでみせるシニカルな反語精神が彼のものではなかろうことも、たやすく予測できる。かくして、人は、ひとまずこの題名を宙に吊ったまま画面と向き合わざるをえない。

全篇がデジタル・カメラで撮影されたこの新作からは鮮やかな色彩が周到に排され、戸外と屋内とを問わず、いたるところに黒い影が拡がりだしている。その翳りをおびた空間の中心に小さな水槽が据えられ、半透明のクラゲがゆらゆらと揺れている。黒沢清は、そのまわりに二人の青年を配する。この海水産の刺胞動物を飼育しているのは、都心を離れた零細工場で働く青年(浅野忠信)である。彼は、悪夢にうなされる情緒不安定な年下の仕事仲間(オダギリジョー)に発作的な振る舞いを思いとどまらせようと、指の動きで行動の指針を示すことを提案する。その黙契をのぞけば、二人はごく普通の若者に見える。

クラゲの無時間的なたゆたいに見とれて思わず水中に指をさし入れようとする若い友人に、飼い主は触るなと穏やかに警告する。どうやら、それは毒クラゲであるらしい。黒沢清にふさわしい主題が視界に浮上するのは、その瞬間である。

実際、『回路』の作者にあってはいたるところで頑なに接触が禁じられており、男女が接吻しあうことも、抱擁しあうこともまずないといってよい。だが、それは、この映画作家の性愛に対する不信を意味しているわけではない。触れあうこともないまま何かが感染してしまうことの恐怖に、彼の演出は賭けられているのだ。『Cure』(97)がそうであるように、危険な存在と素肌で接しあったわけでもないのに何かが伝搬し、人々は思考と行動の自由を奪われてしまう。『回路』においても、そのようにして人間の消滅があたりに蔓延していったのであり、男も女も等しくその犠牲となるほかはない。しかも感染の過程は目に見えないので、何かが起こりつつあるという気配ばかりが画面を鈍く震わせる。黒沢が「恐怖映画」作家として分類されうるのは、その限りにおいてである。彼にあっては、あたかも機械のような反復がこの世界の原理であるかのように、誰もが、ふと他人の思考や行動を模倣し、それをそっくり自分のものにしてしまう。この心理を欠いた反復が、個人と社会との関係を視界から曖昧に遠ざけ(『カリスマ』〔99〕はポピュリズムの蔓延を正面から批判してはいない)、黒沢清をいきなり「善悪の彼岸」に位置づけることになる。

『アカルイミライ』の毒クラゲの飼い主も、「善悪」を超えた存在である。彼は、あるとき年下の友人にその飼育を託し、不意に姿を消す。残された青年は、工場で味わう日々の屈辱にたえきれず、上司の殺戮を思い立つ。だが、あたかもその凶暴な意志が他人に感染していたかのように、棍棒を手にその家にかけつけたとき、一家はすでに惨殺されている。そのとき友人の失踪の意味を理解する彼は、念入りに餌を調合し、クラゲが淡水でも生きてゆけるように、飼育に徹するだろう。姿を消した友人は逮捕され、指先を「行動せよ」のサインにふさわしく針金で固定し、獄中でみずから縊死する。その瞬間、現在のさ中にうがたれたブラックホールのように「未来」が螺旋状にせりあがり、残された青年は、黒々とした時間を自分のものにし始める。

自殺した友人の父親(藤竜也)と奇妙な共同生活を始める彼は、それが亡き友の意志だとも知らぬまま、発作的に毒クラゲを下水に放つ。暗さにまぎれて増殖した刺胞動物は東京の川という川に拡がりだし、不気味に赤く発光しながら白昼の水面を占拠する。ゆらゆらと海をめざすクラゲの大群に興奮した父親は憑かれたように堤防を疾走し、青年が不安げにその跡を追う。二人が河口にたどりついたとき天候は急変しており、冷たい雨があたりを濡らしている。思わず川に踏み込み、クラゲに触れて意識を失う父親を土手に引き上げる青年は、濡れた岸辺に二人して倒れこみ、動こうともしない。消耗だけが消耗を超えうるという確信が、縊死した青年から彼に感染したかのようだ。

頑なに接触を排してきた黒沢清は、いま、初老の失神者を胸元に抱えたまま川岸の草むらに横たわる青年にキャメラを向けている。象徴的な意味の重みでたわむこともなく、無償の審美性からも思い切り遠いこの単純な画面には、肯定へと人を誘う強度がみなぎっている。人は、何の脈絡もないまま、ペッキンパーの最後の西部劇やアルドリッチの晩年の活劇に漂っていた、あのニヒリズムには行きつくことのない徒労感に似たものをこの画面に感じ取る。勿論、『アカルイミライ』には、より新鮮なイメージと音響とがみなぎっている。それが「明るい未来」を約束するか否かは自分にもわからないと黒沢清はつぶやくに違いない。だが、彼の新作とともに、日本映画が「栄光の時代」(溝口、小津、黒澤明……)とはおよそ異質の世紀に足を踏み入れたことだけは間違いないと私には断言できる。



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この金髪の座頭市は、まぎれもなく宇宙人である

2005-12-11 | 映画・アニメ
この金髪の座頭市は、まぎれもなく宇宙人である

蓮實重彦

北野武監督・ビートたけし主演の2003年版『座頭市』の座頭市は、まぎれもないETである。朱色の仕込み杖を握っての歩行ぶりなどどこか人間めいてはいても、金髪頭で江戸時代にふらりと迷いこむところなどれっきとした宇宙人に違いなく、たかだか地球人にすぎないやくざの子分など束になったってかなうはずもない。

北野ともビートとも名乗って地表を闊歩するET=宇宙人の前に立ちはだかる強敵はといえば、それらしく扮装した作中のやくざなどではなく、むしろ生身の勝新太郎と三隅研次だろう。2003年版が『座頭市』と題されている点では勝新太郎監督主演の『座頭市』(89)が意識されているかに見えるが、あれにはどこかしら名誉ある撤退の身振りが漂っており、作品の強さという点では『座頭市物語』(62)に到底かなうものでない。40年も昔のあのモノクロ作品での勝新太郎と三隅研次の奇跡的な出会いがなければ、何ごとも始まらなかったはずだからである。ET=宇宙人もその功績は認めざるをえないが、いずれも故人であるだけに、そのイメージの神話性に闘いを挑んだところであまり勝目はない。

そこで、北野武はしばし考え込む。ビートたけしもまた考え込む。思案のはてにというほど深い思考と長い時間とが必要とされたかどうか地球人の知るところではないが、ET北野と宇宙人たけしとは、あるとき同じ結論に到達してうなずきあう。それは、立ちはだかる強敵にあえて闘いを挑んだりはしまいという結論だ。理由は単純きわまりない。監督としても役者としてもおいらが一番なのだから、あえて闘うまでもないのというのである。

かくして、おいらは強い、なぜならおいらが一番強いからだという地球の論理を超えた循環論法を肯定するために、宇宙的『座頭市』の撮影が始まる。こちらはヴェネチアで金獅子賞まで貰っているのにあちらは無冠だなどという人間社会の上下関係など、間違っても口にしたりはしまい。あたかも勝者の冠を戴いているかのような黄金の髪の毛が差異の標識として機能してくれれば、それで充分だろう。破滅型の役者勝新にもシニカルな審美主義者三隅にも敬意以上のものを覚えてはいるが、撮影に入ったらそんな負い目はきっぱり忘れ、この市とあの市とが同じ名前であることなど、ほんの偶然にすぎないといった風情で事態に対処すればよい。

思えば、大映の遠からぬ破産を予感しながら量産されていった『座頭市』シリーズは、とりわけ1960年代の後半、市の身体を作品ごとにサイボーグ化していった。かけがえのない友人平手酒造(天知茂)も血をわけた兄貴(城健三朗=若山富三郎)をもおのれの手で殺めねばならなかった勝=市は、もはや心など必要とはしていないからだ。岡本喜八の『座頭市と用心棒』(70)や安田公義の『新座頭市 破れ! 唐人剣』(71)では他流試合で最強が競われているが、2003年版『座頭市』の強さは、そんな地球規模での比較を遥かに超えている。香港風に軽々と宙を舞ったり、ハリウッド流に瞬時に無機質に変身したりすることなく、かりそめに地球の引力を受けとめつつも、これは宇宙最強の戦士なのだ。

ET=市の強さはもっぱら音響から来ている。実際、江戸時代を舞台としたチャンバラ映画にはあまり響いたことのない乾いた音が、2003年版『座頭市』の独特のリズムを刻んでいる。ぶっきらぼうなビートたけしは、勝新のように、見えないはずの目を無理やり上目遣いにして仕込み杖を抱え込み、慇懃無礼な口調で危険な自分から遠ざかれと説いたりはしない。乾いた音を響かせながら鉈で木の切り株を割り、それを放り投げて壁沿いに薪の束をうずたかく並べてしまうような呆気なさで、彼は群がる敵を倒す。ここでの殺陣は、視覚的である以上に音響的であり、畑を耕す村人までが振りおろす鍬の乾いた音で道行く市を歓迎している。そのリズムが最後のタップダンスの盆踊りにもつながっているのを見れば、この乾いた音が宇宙的な交信に必須な記号のようにも思えてくる。

だが、この乾いたリズムに同調しない人物が存在する。浅野忠信が凛々しげに演じている浪人である。北野武が自分の相手役に存在感のあるスターを配したのはこれが初めてだが、この対立はどのように推移するのか。素性の知れぬ金貸しとやくざに支配された山村には、座頭市とともに、放浪する二組の地球人カップルが姿をみせている。病身の女房を道づれに用心棒稼業で金をかせぐ問題の浪人と、女装した弟とともに旅芸者に扮して親の敵をつけねらう若い女性とである。女形の弟の舞にうっとりとする酔客を仕込み三味線で殺めてまわる旅芸者の姉弟は、乾いた弦の音でET=市のリズムに同調するから問題はない。厄介なのは浪人夫妻である。女房はたえず咳き込んでいるが、夫はむしろ寡黙で、その殺陣の視覚的な美しさで他を圧する。実際、浅野忠信の浪人は、表情といい身振りといい、役者として強さの極致を体現しており、ET=市にとっても侮りがたい相手となる。

その浪人浅野忠信に金髪のET=市が勝つというクライマックスの段取りは、はたして有効に機能しているか。おいらは強い、なぜならおいらは一番強いからという循環論法が、浅野忠信の殺陣の切れ味に対して充分に説得的かといえば、どうもそのようには見えない。そこには何かしら、仕掛けが必要だった気がする。ただ、ここで奇妙な逆転が起きていることに注目したい。最後の段階で、浅野忠信のほうが地球圏から軽やかに離脱し、村人にまぎれた金髪のET=市のほうが地球人と同調し始めたかのように見えることだ。とするなら、監督北野武は、真の勝利を役者浅野忠信に譲ったのだろうか。そのあたりをごく曖昧にしたまま、タップダンスの乾いたリズムがスクリーンを不気味に充たしていく。



初出:『Invitation』2003年10月号(8号)

『座頭市』ウェブサイト http://www.office-kitano.co.jp/zatoichi/

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北野武、または「神出鬼没」の孤児 by 蓮實重彦

2005-12-11 | 映画・アニメ
唐突

アメリカのスタンダップ・コメディーによく似た漫才の人気コンビを解消し、『その男、凶暴につき(Violent Cop)』(1989)でいきなり映画作家としてデビューしてみせた北野武は、『底抜けてんやわんや(The Bellboy)』(1960)を監督として完成させたジェリー・ルイスの場合とほぼ同じ唐突さでわれわれを魅了した。それは、クリント・イーストウッドの第一回監督作品『恐怖のメロディー(Play Misty for Me)』(1971) のもたらした唐突さの魅力にもどこかしら通じるものがあった。誰もが、これは一度だけの贅沢なお遊びだと高を括っていたにもかかわらず、彼らは揺るぎない映画作家として注目すべき作品を撮りつづけたのである。北野武をその第一回監督作品から評価するか否かは、だから、クリント・イーストウッドやジェリー・ルイスの場合と同様、優れて映画的な試練となる。実際、映画とは何かという本質を経由することなく、これは映画であるという生々しい現実だけが、彼らのフィルムをぶっきらぼうに躍動させている。

北野武が自分自身をみずからの活劇に登場させるとき、彼はクリント・イーストウッドのように、自分の肉体にしたたかな傷をおわせてみせる。かと思うと、彼自身をみずからの喜劇に登場させるとき、彼は、ジェリー・ルイスのように(おそらくウッディ・アレンにもまして)、自分の精神分析的な外傷をあばいてみせたりもする。肉体の、あるいは精神の傷と好んで戯れる北野武は、一作ごとに、自分自身の無意識が恐ろしいとつぶやいているかにみえる。

『Kids Return』をみると、彼自身の過ごした青春は、例えば、1980年代の侯孝賢の映画に描かれたように、喧嘩に明け暮れていたのではないかとつい想像したくなる。しかし、日本の首都の比較的名高い大学の工学部の入学試験にあっさり合格してしまうほど、彼は知的には安定した環境の中で生活を送っていたのである。たしかに、彼は、『Kids Return』に登場する不運な少年のようにタクシーの運転手をしていたこともあり、客を乗せての運転中に三島由紀夫の自殺をラジオで知り衝撃を受ける。だが、それは売れないコメディアンとしての少ない収入を補填するためで、必ずしも家計を支えるための職業ではなかった。いずれにせよ、彼自身の過去は、映画作家としての彼のキャリアとは無関係だと考えておいたほうがよい。

監督として注目を集め始めたとき、北野武は、あたかもジャン=リュック・ゴダールを模倣するかのようにバイクの事故で重傷を負い、再起不能をささやかれたこともある。ところが監督に復帰したとたんに、かつて黒澤明が受賞したヴェネチアの金獅子賞を獲得し、彼をテレビ芸人ビートたけしとしてしか知らずにいた多くの日本人を混乱に陥れた。さらに、処女作から十年しかたっていないのに、彼は、大島渚のようにイギリスの製作者ジェレミー・トーマスと組み、合衆国ロケによる英語作品を撮りあげることになる。これは、最盛期の黒澤明でさえ実現しえなった夢である。マラソンを短距離レースのリズムでかけ抜けるかのような危うさが北野武にまといついているのは、そうした理由による。北野武は、ジャン=ピエール・リモザンが彼に捧げたドキュメンタリー『kitano Takeshi l'Inprevisible』(1980)の日本語の題名通り、あくまで「神出鬼没」なのである。

突然変異

『その男、凶暴につき』(1989)から最新作の『Brother』(2000)にいたるまでの北野武の8本の作品は、勿論、ここに名前を挙げた映画作家の作品とはいかなる意味でも似ていない。われわれは、いうまでもなく、誰にも似ていない映画作家の思いもかけぬ登場にうれしい驚きを覚えたのである。その喜びには、しかし、ある種の戸惑いに通じるものがあったといわねばならない。

例えば、彼とほぼ同世代ベルナルド・ベルトルッチやヴィム・ヴェンダースなら、映画作家となるにあたり、どのような映画を見たことが決定的だったのかをある程度まで想像することができる。ニューヨークのインディペンデント作家ジム・ジャームッシュの場合でさえ、その系譜をたどることはまったく不可能ではない。ところが、北野武の場合、彼がどんな映画に強く惹かれたのかを知ることは、ほとんど不可能となる。例えば、『8 1/2』のフェリーニには大いに共感するが、しかし、映画監督の役を演じるマルチェロ・マストロヤンニのかたわらに、その演技を指導するフェリーニ自身を画面に登場させなかったことがこの映画の最大の弱点だと彼はいいはなつ。このように、過去の作品に対してきわめて醒めた視線をもつ北野武は、父親や叔父や兄貴に相当する映画作家を一人も持たない過酷なまでに孤独な存在であり、その限りにおいて、「ヌーヴェル・ヴァーグ」の伝統につらなるものではない。勿論、大学教授の親しい兄を持つ彼にとって、この孤独はあくまで映画作家としての孤独にほかならない。

ビートたけし名義で出版された『仁義なき映画論』(太田出版、1991年、現在は文春文庫)の中で、彼は、黒澤明の『夢(Yume)』(1990)など第一のエピソードを見ればあとは熟睡していて充分だ、とか、マーチン・スコセッシの『グッドフェローズ(Goodfellas)』(1990)の殴る場面は悪くないが、全編がいかにも長すぎる、とか、コッポラが『ゴッドファーザーPart III(Godfather Part III)』(1990)を、マイケル・チミノが『逃亡者(Desperate Hours)』(1990)を撮らねばならぬ時代のアメリカ映画は不幸だ、とか、そんな言葉を饒舌に書きつけている。だが、かつて、彼自身がどんな作品に熱狂したかについてはきわめて禁欲的で、多くを語ろうとはしない。そのことから、突然変異の怪物にでも出くわしたかのような不気味さの印象がきわだつのである。

寡黙

ある時期まで撮影所で育つことが当然視されていた日本の映画作家のほとんどは、どの映画作家に助監督としてついたかによって、ほぼその系譜を確認することができる。例えば、松竹撮影所で小津安二郎の最も怠惰な助監督だったという経歴が、逆説的ながら、今村昌平の位置を確定しているのである。だが、ながらく映画産業を支えてきた撮影所システムは、1970年代を通じてほぼ完全に崩壊したといってよい。刺激を欠いた1980年代の日本の映画的な光景を活気づけていた新世代の映画作家といえば、柳町光男と相米慎二の二人きりだった。にもかかわらず、『火まつり』の監督がシネフィル出身で、青年時代からひたすら映画を撮ることを目指しており、撮影所システムの崩壊を好機ととらえて登場した新しいタイプの作家であることはすぐにみてとれる。また、『ションべン・ライダー』や『台風クラブ』の監督の場合は、崩壊直前の日活で短い期間ながら助監督をしていた経験があり、その系譜をたどることも全く不可能ではない。それにくらべると、係累なしの映画作家北野武の孤独はいっそうきわだつ。

よく知られているように、北野武が『その男、凶暴につき』を監督したのは、たんなる偶然にすぎない。それは、ビートたけしを主役に迎え、深作欣二が監督にあたるはずの企画だったのである。深作が個人的な理由で監督を降板したとき、北野武はすでに完成していた脚本に思う存分手を加えるという条件で、その監督を引き受けることになる。この場合、脚本に手を加えることは、成瀬巳喜男がそうであったように、無駄な台詞をことごとく排除することを意味していた。テレビドラマの脚本家として、また小説家としても有名な野沢尚(さとし)が、作品完成後に、自分の脚本が改竄されたことに強く抗議したのも当然だろう。また、「『ランボー(Rambo)』(1982)の二番煎じみたいで、右手に拳銃、左手に機関銃、そんな感じの脚本」に手を加え、アクションの質についても変更を加えることになる。やくざ映画で名高い深作欣二が得意としためまぐるしい手持ちキャメラの動きによる乱闘シーンなどは、極力排されることになるだろう。こうして、テレビのヴァラエティー番組ではもっぱらその饒舌で人気をえていた芸人ビートたけしは、映画作家となるにあたって、ひたすら寡黙であることを選択したのである。

実際、この映画で誰もが覚えているのは、「凶暴」な刑事のビートたけしが無口で歩いたり走ったりするシーンばかりだ。『鬼火(le Feu Follet)』(1963)でも使用されたエリック・サティの音楽を緩やかな歩行のリズムにふさわしく編曲するという着想は、もちろん、ルイ・マルへのいかなるオマージュをも意味してはいない。同様に、無駄な台詞の削除を北野が成瀬から学んだのでないことも明らかである。それは、意識的な方法というより、ほとんど無意識の選択というに近い。その無意識に賭けること。それが北野武の唯一の方法的な身振りであり、その無意識が機能している限り、彼は映画を撮り続けることになるだろう。

海辺

例えば、ひとりの刑事が、長らく入院していた妹を病院に迎えにゆく場面をどう撮るか。すでに何度か「凶暴」さを発揮して警察署長をてこずらせていた『その男、凶暴につき』の刑事は、同僚との会話で妹の全快が近いことをさりげなく予告している。だが、北野武は、兄と妹との再会の瞬間にキャメラを向けたりはしない。彼は、精神を病んでいたらしい彼女が病院から去る光景を、細くて暗い廊下に設定する。主治医らしい男に先立たれて、兄と妹は、無言のまま、回廊風の廊下を進んでくる。

正面からとらえられた歩調は早くもなく遅くもなく、むしろ単調なリズムだといってよい。比較的低い位置に置かれたキャメラは、かなりの距離から三人の男女を暗がりに浮き上がらせ、無愛想な表情のビートたけしの律儀な歩行ぶりを正面から見据える。そのとき、主治医の左側をうつむき加減で進んでくる若い女性が妹であることを、人はかろうじて理解する。人混みにまぎれれば誰ともみわけがつかぬほど、彼女の表情は地味でとりとめがない。

直角に曲がっている廊下を右にまがり、同じ歩調で遠ざかってゆく彼らの後ろ姿を、キャメラはしばしとらえ続けている。ややあって、低い主旋律の緩やかな高まりとともに戸外に位置を変えたキャメラは、窓越しに三人の無言の歩行ぶりを横移動で追う。だが、われわれにとって見慣れた顔はビートたけしのそれだけなので、彼の無愛想な歩調の進め方を見て、思わず犯人護送の光景かと勘違いしそうになる。再び、長い廊下の正面からの固定ショット。斜めからの陽光が人物の表情をきわだたせてはいるが、そこにいかなる変化もみられない。彼らがキャメラに近づいたところでショットが代わり、玄関の階段を降りてキャメラから遠ざかる三人の後ろ姿が逆光で視界に浮き上がる。その瞬間、黒々とした人影の向こうに拡がる海の青さを目にして、人は、北野武の無意識にとって、妹の退院が海への歩み以外の何ものでもなかったことを理解する。彼らは、海のみえる空間へと単調に歩みつづけていたのである。

主治医と刑事との別れの言葉はごく素っ気ない。待たせておいたタクシーの中で、妹は沿道の祭りの光景を目にする。妹につきあい、神社の境内を散策する刑事。屋台で売られている風車の赤さが、午後の光にまぶしい。そして夕暮れの海。風車を手に、日の陰った大海原を見やっている妹を促して、刑事は決定的な言葉を口にする。「帰ろう」。だが、彼は、そして彼と妹は、帰るべき場所を持っているのだろうか。

異性

海が北野武にとって真の救いの場所でないことは、その後の作品が示している通りである。『あの夏、いちばん静かな海』の聾唖の青年サーファーを無造作にのみこんだことからもわかるように、海そのものの不吉さを北野武は熟知している。実際、『HANA-BI』(1998)の全身不随の同僚の車椅子の車輪を砕けた波が濡らす短いショットには、ヒッチコックのようなサスペンスがよぎる。水は、北野武の世界では、まぎれもなく危険な環境なのである。だから、『菊次郎の夏』(1999)での北野武は、ビートたけしをプールで溺れさせてみさえするだろう。

にもかかわらず、彼がくりかえし水際の砂浜にキャメラをすえずにはいられないのは、彼の登場人物たちが惹きよせられるように足を止めるその宙吊りにされた遊技の場で、事故として死が準備されるからにほかならない。実際、『3-4X10月』(1990)の海辺での即席の野球から、『ソナチネ』における紙相撲の模倣、そして唐突なロシアン・ルーレットや花火をへて、『HANA-BI』のラスト・シーンの空を舞わない凧揚げ、『Brother』の散策とフリスビーにいたるまで、ほとんど悲劇と境を接した透明な明るさがそこには漂っている。『その男、凶暴につき』の妹の退院の場面は、危険な手招きを送る海の主題をあらかじめ描いていたのだといえる。北野武は「浜辺のコンプレックス」ともいうべきものにとらえられた映画作家なのである。海が何ものをも救わないばかりか、むしろ存在の危機を露呈させているはずなのに、彼は海への歩みを歩まずにはいられないのである。

この場面が予告しているのは、海の主題ばかりではない。それは、北野武の作品における異性の相貌をも明らかにしている。彼にとって、あらゆる異性は妹でなければならない。妹であるかぎり、それは目を見張るような美貌の持ち主であってはならず、人混みにまぎれれば誰とも区別ができなくなるような、ごく普通の表情におさまっていなければならない。その点に関する限り、女優の選択において彼は徹底している。『その男、凶暴につき』の妹を演じた川上麻衣子がすでにそうであるように、もっとも目立たない役者をあえて選んでいるのである。

『HANA-BI』に描かれている妻も明らかに妹のヴァリエーションにほかならず、接吻や抱擁の対象となりうる相貌からはほど遠い、むしろコメディが得意な岸本加世子が選ばれている。事実、二人の間には子供がいない。アメリカに舞台を移しても事態はかわらず、最近作の『Brother』に登場する日本人娼婦など、とてもやくざの趣味とは思えないほど華麗さからは遠い女性である。北野武の世界では、異性は、その優雅さによって人目を惹きつけてはならないし、その性的な魅力によって男性を誘惑することができない。『ソナチネ』には例外的に現代の若者風俗にふさわしい女性が姿を見せるが、彼女が裸の胸を見せてもビートたけしは動揺する風もみせない。これは、しばしば指摘されるように、北野武における男の世界に同性愛的な雰囲気が漂っているからではなく、兄と妹の近親相姦的な風土によるものと理解されねばならない。北野武における異性は、ほとんど無意識に、ハワード・ホークスの『暗黒街の顔役(Scarface)』(1930)の世界に接近している。

ホークスがそうであるように、北野武は家庭を舞台にしたメロドラマを題材とすることがない。家庭用の住宅が登場することがあっても、『その男、凶暴につき』の冒頭におけるように、それは「凶暴」な刑事がその「凶暴さ」を発揮する場として設定されているにすぎない。あるいは、『HANA-BI』の場合のように、そこには病身の妻が横たわっているだけであり、放浪生活を始めるとき、二人は初めて生き生きとした表情を取り戻すことになるだろう。実際、駅の構内や街角をうろつきまわっている『Kids Return』の少年たちの行動には、家庭の影さえ落ちてはいない。『HANA-BI』の傷ついた友人の刑事の家族がそうであるように、親子という関係はいたるところで崩壊する。それどころか、『菊次郎の夏』がそうであるように、彼の作品は、両親という登場人物の不在によってむしろ活気づくのである。『その男、凶暴につき』の兄と妹とは、だから天涯の孤独であり、彼らは本質的に孤児なのである。それが『Brother』の異母兄弟に受け継がれているのは明らかだろう。LAで再会する孤児の二人がほとんど言葉を交わさないのも、『その男、凶暴につき』の退院のシーンと同様である。

刑事の兄が退院する妹を迎えに行く場面は、北野武におけるキャメラの位置についても多くのことを教えてくれる。二人が主治医に先導されて長い廊下を歩いている場面で、彼らの姿が正面からとらえられている限り、キャメラは動こうとはしない。彼らの歩行を移動撮影で追うのは、窓越しの横からのショットに限られている。『その男、凶暴につき』の冒頭の、橋をわたる刑事を正面から望遠気味にとらえた長いショットからも明らかなように、ここでの運動はその不在に還元され、持続ばかりが露呈される。それに対して、自転車を横からの移動撮影でとらえた画面を最大限に活用していた『Kids Return』は、持続を消滅させる。

北野武は、この持続の露呈と持続の消滅の独特な配合によって、いかにも時間が流れたという叙事詩的な印象を排除する。彼が作品の編集を他人にまかせられないのは、多くの編集者が、本能的に、ショットを叙事詩的な時間の流れにふさわしく配列させてしまうからだ。彼の作品が、その質の高さにもかかわらず多くの観客を動員せずにいるのは、そのことと関係しているかもしれない。誰一人として、流れる時間に身を委ねることができないのである。映画作家北野武が描く世界は、いまなお唐突なのだ。それは、生から死への移行の唐突さなのだろうか。それとも、生そのものの不条理なのだろうか。


初出:'Takeshi Kitano ovvero l'orfano inafferrabile' in "Il Cinema nero di Takeshi Kitano" (a cura di Luciano Barcaroli, Carlo Hintermann e Daniele Villa), Ubulibri, 2001.

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娃娃写真

2005-10-31 | 写真
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当然,我个人最喜欢的还是这张

10月30日DVD SHOPPING

2005-10-31 | Weblog

 

 

10月30日DVD碟报

青山真治 - 狂野的生活
矢崎仁司 - 三月的狮子
松山善三 - 母亲
佐佐木 康 - 迎春花  (伪满时期电影作品)
小林正树 - 夺命剑
山中貞雄 Sadao Yamanaka - 人情纸风船
今井 正 - 何日再相逢
林 海象 - 迷失天使
Emile de ANTONIO - 猪年

 


套装
成濑巳喜男 作品集2 6DVD(山之音, 流浪记, 放浪记, 女人上楼梯时,乱云, 成濑的世界)
小栗康平 作品集 5DVD(泥之河, 为了伽倻子, 死之棘, 沉睡的男人, 小栗访谈)
吉田喜重(6DVD爱情+虐杀 ,再见吧,夏天的太阳 英雄炼狱, 女优的告白,性欲+虐杀)
Bela Tarr 社会写实三部曲 3DVD(家庭公寓, 局外人, 预制人生)
侯麦 (侯爵夫人,柏士浮,狮子星座,双妹奇遇,大树,市长和文化宫 巴黎的约会)


小结:
青山 真治的最新电影<湖畔杀人事件>看得我大倒胃口,这是青山准备进军商业片的首部作品,可以称得上是完败作品,毫无创造性可言.青山又扭扭捏捏的不想完全放弃以前拍艺术片的习气,这种商业掺杂文艺气质的电影实在让人对青山火冒三丈,失望之极.要知道,这是我非常喜欢的日本导演之一啊.

成濑巳喜男

这次买的是他第二辑的套装了.成濑的电影以前看不出个所以然来,最近看了几部成濑的作品,觉得越看越有味道,成濑的御用女主角 高峰秀子 真是个大美女,要是原节子和高峰秀子让我挑选,我当然会选择高峰秀子,原节子虽然美丽,可是传统味道太重,高峰秀子就现代多了.

侯麦
这次购碟最大的收获便是侯麦的套装了,我看过侯麦的电影只有手头的四季和沙滩上的宝莲.这几部都不是侯麦最厉害的时候拍的电影,但我已经喜欢的不得了,这次一次买到6张,质量大,大部分在侯麦的黄金时代拍摄.真是要感谢牛比无比的盗版商人.