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89年天安門事件における「虐殺」説の再検討 村田忠禧5---

2005-05-06 | 政治/歴史
5) 戒厳部隊の対立説について



 戒厳令が発布される前から、学生側からは軍内部に学生の主張に同情する向きがある、との宣伝がなされた。ことに5月20日に北京市の一部地域に戒厳令が発布された後、葉飛、張愛萍ら7名の軍元老が軍隊の北京入城を控えるよう呼びかける書簡を出した、とするビラがまかれ、軍内部で戒厳令の実施に抵抗する傾向が強くあるような印象を学生側は意図的に醸しだした。おそらく党内、さらには軍内にそのような見解を持つ人々が存在したことは事実であろう。しかし北京軍区を始め、主要な党、軍、地方政府、機関がすべて戒厳令支持を表明した時点で、すでに軍内部での戒厳令執行への抵抗というのは、学生側の夢物語に過ぎないしろものになってしまった。

 にもかかわらず6月4日以降、盛んに日本を含む西側のマスコミは戒厳軍の動きについて、軍隊内部での武力衝突が発生した、北京の南郊の南苑付近で砲撃音が聞こえた、というような情報がまことしやかに流された。また解放軍の派閥対立について、軍事問題に詳しいとする研究者がテレビに出演してあれこれ解説を加えていたが、それらの解説を聞いていると、中国があたかも軍閥混戦時代に舞い戻ったかのような印象を一般人に与えるものであった。中国の軍隊が共産党の強固な指導下にある、という基本的常識をまったく無視した解説を中国問題の専門家が平然と行っていることに、筆者は信じがたい気持ちでテレビを見ていた。

 戒厳部隊の内部対立という情報の発信源はアメリカの情報筋であったが、時間の経過とともに、どうやら軍隊内部の対立はなさそうだ、という方向に大方のマスコミや研究者の見解は固まっていった。

 しかるに事件から9ヶ月も過ぎた90年3月の段階にいたっても、加々美光行は学陽書房発行の『現代中国の黎明』(25頁)で「六・四虐殺事件の前後には、いずれも北京軍区に所属する部隊である二七軍と三八軍との間に対立があり、相互の交戦があったと伝える情報もあった。私は当時、そうした情報にはある程度の信憑性があると感じ、少なくとも軍内部に対立矛盾があるとの見方を示したが、この点は現在も変える必要はないと思っている」という見解に固執している。ただしそう主張する具体的根拠を彼は一向に明示せず、さまざまな憶測によってのみ文章を書いている。

 現実には6月4日のすぐ後の6月9日、小平は首都戒厳部隊の軍団以上の幹部を接見している。なおこの日に天安広場で国旗を再度掲揚する儀式が行われているので、基本的に6月9日をもって北京市の暴乱の平定が完了し、それを慰労する意味で小平の会見があった、と見るべきであろう。

 6月9日の小平の講話はこの事件の本質を研究する上で、非常に重要な内容を含んでいるが、当時の西側マスコミはむしろ戒厳部隊を慰労した小平の発言を捉え、彼が事態を掌握できていないかのように報道したし、加々美を始めとする多くの研究者がこの時の小平講話の持つ意味を重視しているとは言えない。

 小平は戒厳部隊の幹部を前にして、次のような話をする。「今回の風波は遅かれ早かれやって来るものである。これは国際的大気候と中国自身の小気候によって決定づけられたものであり、必ずやって来るものであり、人々の意思では変えることのできないものであり、ただ遅いか早いか、大きいか小さいかの問題でしかない。しかも現在やって来たことは、われわれにとってより有利なことである。最も有利なことは、われわれには多くの古参同志が健在であり、彼らは多くの風波を体験しており、事態の利害関係を理解しており、彼らは暴乱にたいして断固たる行動を採ることを支持していることである。一部の同志にはまだ理解しないものもいるが、最終的には理解するはずだし、中央のこの決定を支持するはずである」(『求是』89年13期)。さらに今回の事件の処理が難しかったのは「一撮みの悪人があれほど多くの青年学生やそれを取り巻いて見守る群衆の中に紛れ込んでおり、敵と味方の境目が明確に区別のつかない時があり、そのためわれわれは採るべき行動に着手することが難しかったことである。もしもわが党の多くの古参党員同志の支持がなかったなら、事件の性質すら確定することが出来なかったであろう。一部の同志は問題の性質を理解せず、ただ単純に大衆に対処する問題である、と見なしたが、実際には先方には是非のはっきりしない群衆だけでなく、一群の造反派と大量の社会のクズも存在したのである。彼らはわれわれの国家を転覆しようとし、われわれの党を転覆しようとしている。これが問題の実質であ。この根本問題を理解しないと、事態の性質ははっきりしない」。そして今回の事件の核心は「共産党を打倒し、社会主義制度を覆すものである」と規定した。

 そして善人と悪人が混在しているなかで暴乱平定を行わねばならない、という対処が非常に難しい問題にたいして、「今回の事件の処理はわが軍隊にとって深刻な政治的試練であったが、実践が証明していることは、わが解放軍は試験に合格したということである。もし戦車で押しつぶしでもすれば、全国に是非がはっきりしない事態を生じさせてしまったにちがいない。だから私は解放軍の将兵諸君が今回のような態度で暴乱事件に対処したことに感謝したい。〔将兵の〕損失は心痛むものではあるが、人民の支持をかち取ることができ、是非のはっきりしていない人々の観点を改めさせることができる。解放軍とは一体どんな人々なのか、天安門を血で洗うというようなことがあったのかどうか、流血したのは結局のところ誰なのか、ということを皆に見せるがいい〔ここで小平は当時すでに巷間で流布していた「天安門広場の虐殺」説への反論を行っている〕。この問題をハッキリさせれば、われわれは主導権をかち取ることになる。多くの同志を犠牲にしたことは非常に心の痛むことであるが、客観的に事件の過程を分析すれば、解放軍が人民の子弟兵であるということを、人々は承認せざるを得ないであろう」として、戒厳部隊が暴乱平定にあたって自制的対応をとり、その結果として軍に多数の死傷者を出してしまったことの積極面を述べている。戒厳部隊への慰問会見であるので、民衆の側についての死傷者についての言及はまったくない。そして今後は二度と他人に武器を奪われることがないようにすべきである、との教訓を指摘している。

 小平のこの講話を分析する限り、戒厳部隊に対立が存在しなかったことは明白であり、戒厳部隊は事件を平定するにあたって、可能な限り武器の使用を控え、自制的対応をとったこと、その結果として武装していながら民間の倍以上もの多くの負傷者や死者を解放軍側に出してしまったことが伺える。

 もし仮に加々美の見解が成り立つほど、当時、戒厳部隊内部の対立が深刻なものであったなら、そもそも小平が戒厳部隊幹部を接見することすら実現できなかったであろう。また中央軍事委員会主席としての小平がまったくでたらめな講話をしていることになり、軍隊を掌握できていないことを意味する。小平は自己の主張する通り、中央軍事委員会主席の地位をその後、江沢民に譲り渡したという事実は、彼が軍隊を掌握していたことを示すものであり、加々美の主張が根拠のないものであることを立証している。

 6月4日に広場から学生たちを排除した後も、北京市内はしばらくの間、安定していなかった。むしろ戒厳部隊の発砲をも含む予期せぬ「鎮圧」ぶりを目の当たりにして感情的になった一部群衆の、軍隊に対する報復が各所で盛んに行われた。この点は国務院スポークスマン袁木が6月6日の記者会見において指摘している。また6月5日、6日に「北京市人民政府および戒厳部隊指揮部の緊急通告(6~8号)が、暴徒たちによる殴打、破壊、略奪、焼き打ち、殺人などの破壊活動が止んでいないことを明示し、市民にそれら犯罪分子の摘発、告発に協力するよう呼びかけていることからもわかる。群衆の側からの攻撃があったからこそ、戒厳部隊や武装警察による摘発や反撃が発生し、戦車の移動など戒厳部隊のさまざまな動きが見られたのである。西側報道関係者は6月4日以降、取材行動を極端に制限されていたので、北京市の東側、建国門外周辺のことしか取材できず、戒厳部隊の動き全体を正確に把握することはできないまま、さまざまな憶測に基づいて(というよりもアメリカや香港から発せられた意図的なデマ情報に乗せられて)北京からリポートを送っていたのである。実際には戒厳部隊同士の対立はなかった、と見るのが常識というものである。



 6) 「民主化」要求運動の本質



 胡耀邦の死をきっかけに始まった学生のいわゆる「民主化運動」には、それが発生すべき社会的、政治的、思想的根源があったし、それについては今後も研究課題とすべきであろう。ことに57年の「反右派闘争」の拡大化と、今回の事件関係者への対処の異同を比較することは興味深い問題である。少なくとも中共中央は過去の経験から教訓を汲んで、今回の事件を処理するにあたっては、人民内部の矛盾を拡大解釈して批判の対象を拡大化することを避けるよう慎重に対応しているように思われる。いずれ両者の比較をきちんと行ってみたいと考えている。

 それは今後の課題として、今回の学生運動そのものについて言えば、いわゆる「対話」を要求してハンスト戦術を行った5月中旬ですでに方向性を見失っていた。この点については『天安門事件の真相』下巻で「一九八九年春の中国学生運動-対話要求顛末記」で明らかにしたつもりなので、本論では詳しく論じない。

 拙論を発表した後、項小吉とともに「対話代表団」の主要メンバーであった沈トウ(丹+彡)の回想録『革命寸前 天安門事件・北京大生の手記』(草思社 92年)を読み、この運動を担った学生がどのような意識で運動に関わっていたのかを、かなり明確に知ることができた。沈トウ(丹+彡)のように、一方でアメリカへの出国のためのビザ取得申請をしつつ、もう一方で対話要求運動のリーダー役を務めるという二足の草鞋を穿くような運動では、本当の意味で中国の大地に根ざしてその民主化実現のために戦っている、という評価はできない。米国行きに有利な条件作りをするのためのパフォーマンスをしているという側面があると思わざるを得ない。

 89年の中国の学生運動を一面的に美化することは問題である。そもそも自分たちの要求を実現させるために「ハンスト」という、生命を武器にして相手に譲歩を迫る方法は、とても民主的手続きを踏んだものではない。生命を武器に相手に自分たちの条件を飲ませる方法であって、一種の脅迫である。

 例えば、私自身が体験した日本の1968年~69年の東京大学における全共闘運動において、学生側(当時は私もその一人であった)は七項目要求を掲げ大衆団交を求め、全学バリケードストライキを行ったが、当時、要求した大衆団交の実質は、対等・平等・民主的な交渉ではなく、一方的に学生側の要求を大学当局に承認させることであり、大学側に全面屈伏を要求することを意味していた。今回の北京の学生たちがハンストという非常手段で対話を要求したのも、政府当局に自分たちの要求を全面的に認めさせようとするものであって、文革期にも行われた極左行動に他ならない。それを「平和的」「理性的」な行動であった、と持ち上げるのは、あまりに「お人好し」な評価といえる。



 7) 思い入れ先行の「研究」の危険性



 確かに六・四はショッキングな出来事であった。とりわけテレビを通じて全世界に映像を含むさまざまな情報がほぼリアルタイムに流しこまれたので、旧来の中国像、人民解放軍や中国共産党にたいするイメージ・ダウンを誰もが感じた。映像情報というものは文字情報と異なって、一過性のものであり、印象として人々の脳裏に焼き付くと、その呪縛からなかなか抜け出せないものである。とりわけテレビ映像は一日に何回も同じ映像および音声情報を繰り返し放映するので、知らず知らずのうちに人々の脳裏に刷り込まれてしまい、安易にそれを信じ込んでしまう。映像情報はたいへん魅力あるものだが、もう一方では非常に危険なものとなりうることをよく知っておく必要がある。そのような性質を持った、しかもショッキングな情報が、突如として89年6月にわれわれの世界に飛び込んできたので、われわれの中国革命像や人民解放軍に持っていたイメージと、六・四の軍隊の行動を合理的に理解することができない事態が生じたのは当然のことと思われる。

 しかし印象で事件を語ってはいけない。ましてや中国を研究対象とする人は、客観的・総合的に事態を分析する必要がある。「民主化」を要求した学生や知識人の主張に耳を傾ける必要もあるが、同時に、彼らの発言の背後にあるものをも読み取るしたたかさも必要であって、彼らが掲げ、主張するスローガンや発言の、表面的なものだけに依拠することはできない。

 とりわけ今回の事件に関連して書かれた日本の中国研究者の各種書籍に見られる傾向は、当局側の言動や発表した資料(公開・未公開を問わず)を分析・検討する作業を怠り、意図的に無視し、デマ扱いする対応が見受けられることである。前述した小平の戒厳部隊幹部と会見した際の講話のような、第一級の公開資料を分析することを放棄する、あるいは表面的な分析しかせず、安直な批判で片づける、という傾向は問題である。当局側の発言を何ら分析することなしに100%鵜呑みにすることが正しくないのと同様に、それに充分な分析も加えず無視するのは研究者として失格である。

 裏付けも定かでない伝聞情報を恰も真実であるかのごとく扱うことは、マスコミがよく犯す過ちであるが、同様なことを研究者が行って、しかもその後、誤った判断をしたことが明白になっても、自説に固執し、改めようとしないことは、研究者として恥ずべきことであり、過去の過ちに固執せず、誤った判断をした原因を究明し、是正する姿勢がぜひとも要求される。89年6月の事件を契機に社会主義中国の崩壊を予測した研究者は、その後の中国の経済発展を整合的に説明することができず、政治面での改革を棚上げしたまま、ただ経済面での改革・開放を推進している、と述べて現状分析をしているつもりでいるようだが、それでは本質的解明にはならない。もし本当に民心に反した血の弾圧が行われたのであれば、民衆の怨恨は長いこと深く残り、さまざまな形でのサボタージュが行われ、経済発展の足を引っ張ることは間違いない。現実にはそのような事態は発生していない。93年12月に北京を訪れ、学生運動のリーダーであったウルケシの出身大学である北京師範大学の某先生(彼は別に共産党の代弁者ではない)と雑談した際に、話がウルケシのことにまで及んだが、その先生はもう彼(ウルケシ)は完全に過去の人物ですね、と平然と述べていた。北京には「六・四後遺症」のようなものは見当たらなかった。このような現実を踏まえ、89年の事件にたいする日本人の認識を再検討することがぜひとも必要である。



 8) エピローグ



 本論は93年10月23日に神戸商科大学で開催された「日本現代中国学会」の全国学術大会で自由論題として報告した内容を踏まえている。

 筆者としてはその報告で二つの問題提起をしたかった。一つは中国研究者の「六・四」以降の対中認識の問題であり、それは本論で述べたような内容であった。この報告にたいして、天安門広場での虐殺の有無の問題は決着済の問題であって、いまさら取り上げるまでもないことではないか、というような主旨の反論を受けた。しかし筆者はとてもそのように楽観的に考えることはできない。まだまだわれわれは脳裏に刷り込まれた「虐殺幻想」を払拭できていないのである。

 もう一つ、筆者が問題提起をしたかったことは、学術報告の方法についてであった。あえて同業研究者の著書を取り上げ、論議を挑もうとしたこともその一部であるが、もっと大きな問題提起を狙っていた。それは従来の学会報告のスタイルがレジュメを配付し、口頭で報告する、というパターンに終始しているのをどうにか変革できないか、ということであった。ことに報告内容が映像に関することなので、映像を見せながら報告し、納得してもらうスタイルを取りたかった。そのために具体的にはパソコンとビデオを活用し、それらの画面をテレビで表示する、というプレゼンテーションの改善を試みた。筆者はこれまでにもOHPを使用して学会報告を試みたこともあったが、周囲を暗くしなければならないし、動きが表現できないという点でいささか物足りなさを感じていた。幸いなことにそのような目的に合致するマルチメディアパソコンとそれで動くByHANDというソフトウエアが存在していたので、未熟ながら新しいスタイルの学術報告を行うことができた。この点で、大型テレビ2台を用意してくださった神戸商科大学と、マルチメディアパソコンFM-TOWNSII一式を貸与してくださった富士通株式会社のご協力があったことをここに記して感謝の意を表したい。今回の経験で、事前に作っておいた報告主旨を、報告内容に合わせてパソコンのマウスをクリックさせながら順次、テレビ画面に表示させてゆく方法は、OHPのように部屋を暗くする必要もないし、報告を聞く人に問題点を集中させることができ、非常に有力な学術報告の仕方であることが判明した。報告内容の改善も、フロッピーに保存されているデータの一部を書き改めればよいだけなので、難しくない。今後、学会報告のみならず、大学の教育と研究の場においても大いに活用できるものとの確信を持てたことは、コンピュータと中国研究との結合を願っている筆者にとって大きな収穫であった。


89年天安門事件における「虐殺」説の再検討 村田忠禧4

2005-05-06 | 政治/歴史
4) 「虐殺」と称すべき事態が発生したのか



 前述した通り中嶋嶺雄は『中国の悲劇』(10頁)で「身に寸鉄を帯びず全く無抵抗・非暴力の『平和的請願』に徹していた民主化要求の学生や市民を、人民の軍隊であるべき人民解放軍が無差別的に銃撃し、装甲車や戦車が逃げまどう学生や市民をひき殺すという暴挙は、ヒトラーやスターリンさえなし得なかったこと」として、他に類例を見ない残虐行為であり「民主化を要求して整然と座り込んでいた学生や市民を、一方的に殺戮する行為」という表現を用いて、中国当局の措置を厳しく糾弾している。

 しかし結論を先に述べれば、実際には89年6月の北京では「残虐な殺戮」とか「虐殺」と称すべき事態は発生しなかった。この点について天安門広場での情況と、その他の場所における情況を検証してみることにする。



 A)天安門広場について



 6月4日未明の天安門広場における戒厳軍による学生たちの強制排除(当局側は清場と称している)過程において、当時、巷間で流された「虐殺」情報を中国当局は直ちに否定した。89年6月6日に国務院スポークスマンの袁木などが中南海で行った記者会見において、戒厳部隊某部政治部主任の張工(彼は当日、現場にいた)が発言し、6月4日の4時半から5時半、広場を正常化させる過程で、学生や大衆を一人も殺したことはない、と言明している。

 当時、日本のテレビなどの生々しい映像や現地リポートから衝撃を受けていたわれわれが、この当局側の発表に対してにわかに信じがたい気持ちであったことは事実だが、早くはアメリカのABCテレビが6月27日夜10時の番組で、天安門広場でのできごとを撮影したビデオフィルムを点検した限りでは「いわゆる大虐殺の事実はなかった」と報道している(『天安門事件の真相』上巻212頁、中江要介前掲書196頁)。アメリカの人権組織である「アジア・ウォッチ」のリサーチ・ディレクターであるロビン・マンローは9月23日の香港『サウス・チャイナ・モーニング・ポスト』紙に、自分自身が広場に最後まで居残り、そして学生とともに撤退していった様子を冷静に描写している。「そこにはパニックを示すようなものはなく、なにか虐殺が起こったことを示すような微かな兆候さえもなかった」(『チャイナクライシス重要文献』第3巻173頁)と。

 広場でのハンストに加わった4人の知識人の一人である侯徳健は8月17日に新華社記者のインタビューに答えるなかで「一人の学生も、一人の市民も、また一人の解放軍兵士も殺されたものは目撃しなかったし、戦車や装甲車が人の群れに突っ込んで行ったのは見ていない」(『チャイナ・クライシス重要文献』3巻167頁)と証言している。また同じくハンストをして居残っていた劉暁波も、「私は戒厳部隊が群衆に向けて発砲するのを見てはいない。彼らが発砲したのは、空に向けてか、スピーカーに向けてだけだった。また、私は一人の死者も見なかったし、まして天安門広場で流血が河を成したなぞということを見ていない」(同じく重要文献3巻169頁)と語った。侯徳健、劉暁波の証言を報道したのがいずれも『人民日報』など中国の国営報道機関であるために、西側マスコミ、あるいは「民主化運動」を支援する人々、そして中国研究者の大半から、検討するに値しないものであるかのように扱われ、無視された。

 日本でも89年12月4日の『読売新聞』夕刊において矢吹晋が、天安門広場における「虐殺」なるものが幻である、ということを明確に指摘した。さらに彼は90年6月に出版された『天安門事件の真相』上巻(蒼蒼社)で、さまざまな資料を元に、戒厳部隊の暴乱鎮圧過程を詳細に再現し、戒厳部隊の側の被害情況をも紹介するとともに、「テレビ画面に写った燃えあがる装甲車や銃弾の曳航、銃声から推察して、天安門広場の整頓過程において、大量の「虐殺」が生じたものと、多くの日本人(いや世界の人々)はイメージしたであろう。虐殺情報の発生源は学生側からのものが多い」(217頁)としたうえで、それらが信憑性に欠けるものであることを指摘した。同じく『天安門事件の真相』下巻の白石和良論文「『デマ』と『錯覚』の『天安門事件』」は実に詳細にわたって当時流された「デマや噂の真相」を解明した。筆者自身も『チャイナ・クライシス「動乱」日誌』(蒼蒼社)を編纂する過程において、同様な観点に立って日誌を作成した。また『天安門事件の真相』下巻に訳載されたロビン・マンローの論文も、天安門広場では虐殺はなかった、ということを立証している。ただし彼は広場以外、ことに北京の西側での「虐殺」に注目するよう問題提起している。この点は後述することにして、天安門広場での「虐殺」なるものが存在しないことは、事件発生後の一周年前にすでにさまざまな人から明白に主張されていたにも関わらず、その主張が正論として社会的に受け入れられることはなかった。

 事件の四周年にあたる93年6月3日9時30分、NHK総合テレビ「クローズアップ現代」は、当時、天安門広場に最後まで残って撮影を続けていたスペイン国営放送のレスト・レポ記者の映像と彼へのインタビュー、当時、広場に残って学生の平和撤退のために奮闘したシンガーソングライター侯徳健へのインタビューからなる番組を作成し、放映した。これによって天安門広場での虐殺の有無について決着が付けられたといえる。この時のインタビュー記事の内容は、取材にあたった加藤青延NHK北京支局長の解説とともに『蒼蒼』(蒼蒼社発行)51~52号に掲載されている。レスト・レポ記者が撮影した映像では、劉暁波が広場の労働者が保持していたライフル銃を打ち壊す場面が非常に印象的である。

 問題は89年の段階ですでに判明していた事実が、4年後にようやく世間一般に認められた、ということである。加藤青延らNHK側のスタッフが中国側の映像は一切利用せず、西側映像のみに頼って「空白の3時間」の再現に迫った結果、広場での虐殺はなかったと、日本の視聴者を納得させることができたのであるが、西側映像でなければ真相だと見なさない、中国当局の公式発表にたいする不信感が日本人の中に根強くあることは問題であると思う。

 広場での「虐殺」がなかったことについては、映像情報だけでなく、この民主化運動の当事者たちの回想録でも確認できる。前述した劉暁波の『末日倖存的独白 関於我和六・四』(台北 92年 時報出版公司)や、高新の『卑微与輝煌 一個「六四」受難者的獄中札記』(台北 91年 聯経出版事業公司)がそれである。彼らは前述した広場でハンストを行ったインテリ4人のメンバーであるが、その証言は自由の身になってからの発言であり、いずれも台北で出版されており、中国当局への配慮などまったく必要のない条件で、自分の思うがままに書いた文章である。

 高新の回想では、広場には当時、こん棒、鉄棒、チェーン、銃弾の込められたライフル1丁、機関銃1丁があり、その銃口は人民大会堂東門の兵士たちに向けられていた、と証言している(高新 前掲書325頁)。学生、労働者の側に一部の武器が奪われていたことは彼らの証言からも判るし、この他にもそれを立証する写真や映像資料がいろいろ存在する。

 つまり、もしこれらの武器が実際に広場で使用されたら、双方で撃ち合いが始まり、広場で流血の事態が発生した可能性は大きい。劉暁波らが学生や労働者に武器の放棄を説得し、侯徳健らが戒厳軍当局と交渉し、学生たちを広場東南の方角から撤退させることで合意が成立したため、平穏里に学生たちが広場から撤退していったのである。したがって彼ら4人の知識人が、最後の時点で貴重な役割を果たしたことは事実である。

 なお注目すべきは、戒厳部隊は天安門広場の包囲網を作るが、広場東南の側に学生の逃げ道となるよう、そこにだけ部隊を配置していなかったことである。後述する西長安街での、発砲をも含む強行突破による天安門広場への進駐や、東長安街周辺での群衆にたいする威嚇射撃を用いた強制排除は、指定された時間内に天安門広場の周囲を制圧し、同広場を北、東、西方向から圧倒的多数の部隊を一挙に繰り出し、居残る学生たちを威圧し、彼らを強制的に(ただし流血の事態を避けるようにして)絞り出す形で東南の方角に撤退させようとした、計画的な作戦であった、ということである。この作戦の詳細については『天安門事件の真相』上巻の矢吹晋の分析に詳しく載っている。

 天安門広場での「虐殺」が存在しないことは、以上で明白になったと言える。では他の場所で発生した死傷者の存在をどう見るべきであろうか。



 B)西長安街での衝突



 当時の戒厳部隊の主力は西長安街からやって来た。これは西側報道陣の予期に反したことで、彼らはほとんど東長安街にカメラやリポーターを集結させていた。そのため西長安街での衝突を再現する映像は、中国当局側が撮影した記録しかない。筆者がこれまでに見た中国当局側が作成したビデオ映像は『北京風波紀実』『驚天動魂的博闘』『北京風波五十天』であるが、いずれも類似した内容であり、中国当局の特定の意図の下に編集された宣伝品であることは間違いない。ただしだからといってそれらの映像に価値はない、と見なすことはできない。当日の実際に起こった出来事の一部分が記録されていることには変わりないのであり、西側カメラマンの撮影した映像と同様に貴重な歴史資料と見なすべきである。中国側は宣伝ビデオを作成するにあたって、西側カメラマンの撮影した映像をも積極的に利用している。中国側の撮影したものは使いたくない、見たくない、信じたくないという心情は、客観的に中国を分析しようとする信念の希薄さの表明以外の何者でもない。

 中国側が撮影した西長安街における映像には、群衆が武装警官や戒厳部隊に投石している場面や、バス、トロリーバスなどをバリケードにして戒厳部隊の進軍を妨げている場面、さらにはそれらに火を放ち、黒炎が猛烈な勢いで舞い上がっている場面、動けなくなった軍用トラック目掛けて群衆が雨あられのように投石を繰り返し、運転手の生命さえ危ぶまれる場面(中国語のナレーションでは運転席にいた2名が殺されたと述べている)、放送局に群衆が押しかけ、それを武装警官がこん棒を振り回して排除し、門の外に押し返す場面などが記録されており、中嶋嶺雄が述べるような「身に寸鉄を帯びず全く無抵抗・非暴力」な民衆像とは程遠く、戒厳部隊の進軍にたいしてさまざまな手段を用いて抵抗する群衆の姿が映っている。

 中でも注目すべきは、群衆(暴徒と称すべきであろう)が装甲車を占拠し、周囲に発砲している場面が、ビルの高所から撮影されていることである。群衆が装甲車を占拠して乗り回したことは90年2月に香港の広角鏡出版社から発行された写真集『北京風波真相』の113頁にも鮮明な写真で掲載されている。それによると乗っ取られた装甲車の番号は422号、場所は復興門立体橋一帯である。死傷者の一部分がこれらの発砲によっても発生した可能性は排除できない。もちろん、戒厳部隊が群衆の抵抗に耐えかねて発砲したことによって死傷者が出たことは、当局側が発行した各種回想録の文章でも認めている。戒厳部隊に随行した撮影記者李靖は「レンズに映った長安街」(解放軍文芸出版社89年10月発行『戒厳一日』下巻所収)の179頁で、「兵士は発砲して少数の暴徒を射殺した」と明確に戒厳部隊の兵士による射殺の事実を記録している。

 当局側は戒厳部隊の任務執行にあたって、群衆から激しい抵抗にあい、被害が続出したため、止むなく発砲して警告し、あるいは公然と戒厳部隊への攻撃を仕掛ける者については暴徒と見なして射殺し、天安門広場へ進軍する道を切り開いていった。その過程で死傷者が発生したのである。

 このような当局側の見解を裏付ける情報が、実は天安門広場の学生側情報にも記録されている。

 劉暁波の前掲書「末日倖存者的独白」224頁以下に当時の天安門広場の実況録音が再現されており、そこには柴玲が広場統一指揮部の名義で発する「第5号最厳令の命令」が紹介されている。柴玲は以下の通り発言する。

 「こん棒、瓶、煉瓦、さらには火炎瓶(原文は燃焼弾)を手にしているすべての学友諸君は、それらの役たたずの武器を手放してください。みなさん知っていますか。西長安街ではすでに死体が溢れ、血は川のごとく流れています(原文は屍体遍地、血流成河)。殺され、殴られたのはすべて物を投げた人達です。もしも個人としてなら、物を投げても構わないかも知れません。けれどひとたびあなたが物を投げれば、すべての学友たちがみな犠牲になってしまうということを考えたことがありますか。」

 この柴玲の武器放棄の命令の意味することは、これ以上、戒厳部隊に無益な抵抗をするな、すれば犠牲者がでる(現に衝突によって死者が出ている)、ということである。これは前述した中国当局が事件後に『戒厳一日』などの書籍で公表した、暴徒の抵抗にあったから止むなく発砲をしたとする当局側の見解と符合する。

 西長安街で死傷者が多数出たが、その多くは中嶋嶺雄や小島朋之あるいは加々美光行『現代中国の黎明』15頁で主張しているように「素手に等しい今回の民主化運動に対して、たとえそれが一〇〇万を越す大規模なものであったにせよ、戦車や装甲車を繰り出してまで、あれほどの無残な殺戮を加えなければならなかった」とか、中嶋嶺雄の述べるように「身に寸鉄を帯びず全く無抵抗・非暴力な市民・学生」ばかりではなかった。死んだ人には確かに巻き添えを食った一般市民もいるが、戒厳部隊に攻撃を仕掛けたがために発砲された、当局側からすれば暴徒の類もいるし、また戒厳部隊自体に死傷者、とくに負傷者が五千人以上と非常に多く出たことを忘れてはならない。



 C)東長安街での水平打ちについて



 西側報道陣は天安門広場に近く、東長安街に面している北京飯店を取材拠点にしていたのが多かった。そのため東長安街周辺での映像は比較的多く収録されているし、テレビなどで衝撃的事件として伝えられたものの多くは、天安門広場周辺から東長安街一帯の出来事である。

 映像では当初、空中に向けて銃弾が発射され、ついで水平射撃に変わった、とされている。空中を実弾が飛んでいる場面は確かに画面で確認できる。問題はその後の水平射撃である。6月4日未明の段階の東長安街の映像は、銃声と人々の叫び声の重なる混乱した場面がほとんどで、実際がどうであったのか、筆者には明確に確認ができなかった。ただ当時の報道などによれば、実弾が自分の周囲を音を立てて飛んでいった、とか、目の前にいた女性が血だらけになって倒れた、というリポーターの報告がある。報道関係者に死傷者が出たことも確かである。

 しかし子細に当時のビデオ映像を検討してみると、戒厳部隊の行動は天安門広場に集結しようとする群衆の強制排除を目的とする威嚇的行動であり、殺傷を目的とした水平射撃による無差別発砲ではない。ビデオ映像から、一部の兵士が実弾を発射していることは確認できるが、それはあえてすぐ近くの地面に向けて発射し、実弾の火花を示威している。ゴム弾ではないぞ、実弾だぞ、当たれば死ぬぞ、と群衆に知らしめ、脅迫しているのである。

 また白昼(6月4日午前10時前後か)、戒厳部隊の攻撃を受けて群衆が東長安街を東方向に逃げまどう場面が撮影されている。その時は射撃音が非常に多く聞こえるが、どうやら空砲の可能性が高い。もしも水平射撃であれほど実弾を発射したとすれば、もっと多くの人間が東長安街で相継いで倒れる映像が映っているはずである。地面に倒れている人の映像も数人かある。しかしそれらの人も、実は死んでいるのではなく、銃弾から身を守ろうとして、うつ伏せになっているのであって、必ずしも撃たれて死んだ人ではない。このことはビデオ画面を詳細に見ると、うつ伏せになっている彼らが戒厳部隊の動向を知ろうと体を動かす場面があることで確認できる。その場面では一人が確かに負傷するが、死んではいず、間もなく周囲から救いの手が差し伸べられ、自転車つきリヤカーに載せられて運び出されてゆく(以上の場面はNHK総合テレビのニュース番組のビデオから)。

 西側映像に映った東長安街での出来事でも、軍隊が狂気の沙汰で発砲しているのではなく、6月4日未明の段階では、天安門広場での学生たちを強制排除するために広場周囲の群衆を強制的に排除する目的で威嚇射撃(空砲、ゴム弾、そして実弾をも含む)が行われた。その後、広場からの学生排除が終わった後でも、群衆が再び広場への再結集を企て、小型バスに火を点けて戒厳部隊めがけて突入させるような抵抗も行った。それら群衆の報復措置にたいする対抗措置として、威嚇射撃を含む排除活動が行われたのである。

 長安街以外の場所での発砲についても本来は検討を加えるべきなのであろうが、映像資料が不足しているので、省略する。

 以上のような理由から、天安門広場以外の場所では、戒厳部隊が発砲したことにより、死傷者が発生したことは事実だが、発砲は限定された条件の下で行われているのであって、虐殺とか殺戮といった表現を用いることは妥当ではない、と筆者は考える。



 D)死者の数について



 この事件で北京での死者の数は何人になるのか、事件直後には中国紅十字関係者の話として二千六百人説が流されたり、五千人以上とか、一万人以上だとかさまざまな数字が飛び交った。6月6日に国務院スポークスマン袁木は事態の掌握がまだ完全にできていないので不完全な統計であるとして、軍側負傷者は五千人以上、学生・市民側は二千人以上、死者は双方合わせて三百人程度で、学生の死者は二十三人という数字を示した。その後、6月30日に北京市長陳希同が行った情況報告では、軍・警察・公安側の負傷者は六千人以上、軍側死者は数十名。一方、学生・市民側の負傷者は三千人以上、死者は学生三十六人を含む二百余人という数が公表された。いずれの報告も軍側の負傷者が民間側の倍である、という事実は注目すべきことである。89年9月17日に李鵬首相が伊東正義訪中団に伝えた死者の数は、双方合わせて三百十九人という(『天安門事件の真相』上巻222頁)。

 この三百十九人という数値を絶対的に正しいとする根拠は見当たらないが、中国政府を代表して外国の代表団に具体的数字を出して説明しているのである以上、それなりの根拠があって提示していると見るのが常識ではなかろうか。筆者が北京理工大学の関係者(彼は当日、アメリカにおり、帰国後、説明を受けたとのことだが)から聞いた話では、北京理工大学の学生は二名死んでおり、死んだ場所も即座に紹介してくれた。この例から判断するに、少なくとも三十六名の学生の死者については、どの大学の学生がどこで、どのようにして死んだのか、当局側は具体的に把握している模様である。同様に、三百十九名の死者について、当局側はそれぞれ具体的な死亡状況を把握しているものと思われる。

 89年6月の段階でアメリカのABCがビデオを再チェックして千人を越えることはなかろう、との判断を下しているし、中国紅十字関係者の二千六百人説なるものは「広場での虐殺」を前提とした推定であるので、天安門広場での死者がゼロとなれば、他の地域での衝突による死者に絞られるので、三百十九人説は信憑性の高いものと思われる。死傷者の数は永遠に判らない、というような不可知論的対応をとることは、研究者としての怠惰な言い逃れに過ぎない。三百十九人説が妥当でないとするなら、具体的な根拠を挙げて主張すべきで、ただ感覚的に無数の労働者や市民が殺された、と述べるのも、何の反論にもなっていない。


89年天安門事件における「虐殺」説の再検討 村田忠禧3

2005-05-06 | 政治/歴史
3) 中国共産党政権崩壊説の破綻



 事件が世界各国のマスコミ、とりわけ多数のテレビ局のカメラが映像を記録する中で発生したため、リアルタイムに近い形で日本人の一般家庭のテレビに北京の天安門広場から東長安街一帯の騒然とした光景が映し出された。

 中国の軍隊は人民解放軍と称する通り、人民の軍隊であると考えられており、それが民衆と対立し、発砲し、死者を出すといった事態の発生をまったく予期していなかった多くの日本人(その中には筆者も含まれる)はテレビを見て、驚き、悲しみ、憤るしかなかった。一体どうしてこんなことになったのか。軍隊の投入以外に他に採るべき措置はなかったのか。人民の軍隊としての人民解放軍の伝統はどこに行ってしまったのか。当時はそんな素朴な疑問が次々と湧くとともに、毎日、食い入るように放映されるニュース映像を追いかけたものである。

 しかし中国を研究する者として、ニュース報道を後追いするだけでは不充分であり、なぜ自分にとって理解不能な事態が生じたのか、その原因を究明すべく、筆者は他に抱えていた仕事を一切放棄して、矢吹晋、白石和良、中村公省ら各氏との共同研究に参加した。まずは多方面からの協力を得て資料の蒐集を行い、ことに天安門広場で配付された学生側の資料等を数多く蒐集し、同時に当局側の資料も丹念に集め、またテレビ映像なども分析対象に入れて真相把握に努めた。それらを整理、分析、翻訳して資料集『チャイナ・クライシス重要文献』全3巻を作成、89年の段階に蒼蒼社から出版した。さらにそれらをもとに論文集『天安門事件の真相』(上下巻、矢吹晋編)を同じく蒼蒼社から90年6月と9月に出版し、筆者は学生の対話要求運動の顛末についての分析を分担した。さらに今後、可能なかぎり原資料を利用して、より深い研究が進められるようにするためのツールとして『チャイナ・クライシス「動乱」日誌』という、典拠を明記した大事記を編集し、やはり蒼蒼社から90年8月に出版した。

 それらの作業をして得られた筆者のこの事件にたいする認識は、日本の世間一般で通用している同事件への見解とはかなり異なっていた。例えば『天安門事件の真相』下巻に収めた拙論「89年対話要求運動顛末記」の結論では、学生の運動を平和的で理性的なものと高く評価する通常の見解とはまったく異なった評価を下さざるを得なかった。同様に、本論で問題とする天安門広場での「虐殺」という表現は、事実に合わないし、そのような見解に囚われているかぎり、その後の中国情勢も正しく理解できない、という見解に達していた。

 しかし日本の言論界を広く支配している同事件についての観点はそのようなものではない。早くも89年8月21日に発行された中嶋嶺雄著『中国の悲劇』(講談社)は「猛り狂った戒厳軍兵士は鎮圧の手をそるめるどころかさらに凶暴化し、ついに五時三十分、天安門広場に学生たちが築いた『民主の女神』が打ち倒され、その周辺に最後まで残っていた勇敢な学生たちも十数台の機関銃の銃火を浴びて一斉に殺害された。こうして五十日間にわたって高揚した『人民の波』は完全に平定されたが、天安門広場には大量の血が流れ、無差別に銃撃された学生や市民の怒声と悲鳴が四方八方にこだまし、消えていったのであった」(同書9頁)と怒りの声をあげ、「身に寸鉄を帯びず全く無抵抗・非暴力の『平和的請願』に徹していた民主化要求の学生や市民を、人民の軍隊であるべき人民解放軍が無差別的に銃撃し装甲車や戦車が逃げまどう学生や市民をひき殺すという暴挙は、ヒトラーやスターリンさえなし得なかったことである」(同10頁)と厳しく中国当局者を糾弾している。そして「中国当局の状況認識はあまりに時代錯誤的であったがゆえに当面の鎮圧には成功し、『血の日曜日』の悲劇を招いたのであるが、やがていつの日か反・革命が再びより大きな権力批判、本物の反・革命となって、中国共産党の独裁体制を揺るがし、中国社会を大きく変革してゆくことになると思われる」(同39頁)と中国の現政権の崩壊を予測した。

 小島朋之著『さまよえる中国』時事通信社(89年11月10日発行)も「今回の事態は革命の近代史の系譜を逆転させる起点の一つであるかもしれない。一九〇五年のロシアの“血の日曜日”事件が十二年後の社会主義・一党独裁体制をもたらす起点であったように、今回の事態はその転覆をもたらす起点となり、第二の“血の日曜日”事件として記憶されるかもしれない」(40頁)とか「今回の虐殺事件は、わずか建国四十年で民衆の声に聞く耳を持てない“金属疲労”状態に陥った社会主義体制崩壊の起点として記憶されるかもしれない。」(同42頁)と、同様にこの事件を中国社会主義体制の崩壊の第一歩である、という認識を示した。

 中嶋嶺雄・小島朋之に代表される論調は、89年の六・四事件の血の弾圧を起点に、中国共産党の一党独裁体制がいずれ打倒され、中国の社会主義体制が崩壊して行くという説であり、東欧やソ連の社会主義政権が現実に崩壊したのに続き、中国も同じ運命をたどるという点で、いわゆる西側世界ではかなり通俗化している説である。

 しかしはたして中国の現実はその予測のように進んでいるのであろうか。

 93年9月16日に国連貿易開発会議(UNCTAD)が発表した「貿易と開発に関する報告書(一九九三年版)」(『朝日新聞』9月16日夕刊に要約されたもの)では「市場経済を志向する開発途上国の経済開発は時間をかけて進めれば成果をあげるが、東欧の旧社会主義諸国のように結果を急ぐショック療法では効果が期待できない、と指摘した。それによると、東アジアと東南アジアで経済的成功をおさめた国では、経済成長に大役を果たした企業と輸出に対する政府の支援が、政策ショックを与えないように秩序よく行われた。成功例のひとつの中国では、ショック療法を避けて改革が徐々に行われ、中央計画経済と市場経済、国有企業と市場志向の小規模企業が補い合うよううまく活用したと分析している。」として、東欧・ソ連の現状への否定的見解と引き換えに、中国の経済建設を成功例として高く評価している。

 91年から始まった中国の第八次五ヵ年計画では当初、GNPを平均年6%増加させるよう定めていたが、92年10月の中共第一四回全国代表大会での江沢民報告では、8~9%の増加は可能とされ、それを目標に掲げて前進するよう提起された。89年の六・四以降、出現した多くの西側研究者の予測に反して、中国経済は、アメリカや西欧諸国が中心となって発動した経済制裁措置をものともせず、非常な活況を呈している。それどころか大統領選挙戦において「人権問題」を掲げて中国非難の急先鋒の姿勢を示していたアメリカのクリントン大統領ですら、93年11月にシアトルで開かれたAPEC(東アジア・太平洋経済協力会議)の首脳会議に出席した中国の江沢民国家主席との会談を行うという様変わりである。アメリカが中心となって発動した対中「経済制裁」措置は完全に破綻した。

 中国国内の政治支配体制を見ても、江沢民を中核とする第三世代の集団指導体制は、89年以降のさまざまな難局を乗り越え、安定と団結を示しており、いわゆる民主化勢力が当面の打倒目標としている李鵬首相の地位も安泰である。

 80年代に急速に展開された改革・開放政策の下で、「一切向銭見」(すべては金次第)の傾向や、先進国崇拝の風潮が強まり、海外への脱出願望や、閉塞情況にある都市青年の憤りを描いた映画や文学が多く見られた。それらには改革・開放政策の急激な進展のなかで価値判断の基準を見失い、混迷する中国人の精神状態が反映されていた。

 天安門事件以降、政治・思想面での引締め政策が実施され、精神文明建設の重要性が再度強調され、「国情」教育や中国式社会主義建設の意義や中国革命史の教育が行われた。いわゆる「民主化運動」を組織した人々は、海外ではさまざまな論陣をはっているが、それらの主張が中国国内に強い影響を及ぼしているとは見受けられないし、地下レベルで非合法的に広まっているとも思われない。東欧やソ連の社会主義体制は相継いで崩壊したが、それが衝撃として中国に伝わることはなく、中国では比較的客観的・冷静に東欧・ソ連の変貌ぶりを見ており、ソ連型社会主義体制が崩壊したことをもって、中国の前途を悲観する傾向は、中国国内では主流を占めていない。この点、映画は大衆の心理をよく反映するものであり、例えば、批判精神旺盛な監督として名高い黄建新監督の新作『站直luo(口+羅)、別pa(足+八)下(「這いつくばっていないで、真っ直ぐ立つんだ」、日本の映画題名は「青島アパートの夏」)』(92年11月)に、90年代の中国の民衆の心情がよく反映されている。

 これらの事実から、次のようにことがいえる。

 89年6月4日の中国政府による戒厳部隊を動員してのいわゆる「天安門の暴乱鎮圧事件」は、その後のベルリンの壁崩壊のきっかけになったし、それ以降、東欧のいわゆる社会主義政権はドミノ式に崩壊し、総本山ともいえるソ連も結局は崩壊し、また93年に入りロシアではエリツィン政権の下、旧共産党勢力への武力弾圧まで行われた。いわばソ連型の社会主義体制は確かに崩壊し、それぞれ明確な前途を見いだせないまま、混迷した情況にあるが、それら東欧、旧ソ連の「社会主義陣営」の崩壊から、中国が衝撃を受け、動揺し、混迷しているとはいえず、アメリカのいわゆる「人権外交」の揺さぶりにも動ずることなく、自主独立の道を歩んでいる。広大な市場としての可能性を秘めている中国経済の目ざましい発展ぶりは、低迷する世界経済の牽引車的役割を果たしており、二十一世紀は東アジア、なかでも中国が大きな役割を果たすであろう、との予測がさまざまな方面から論じられている。

 つまり中嶋嶺雄や小島朋之に代表される、89年天安門事件を契機に社会主義政権が崩壊する、という予測が現実化する兆しはまったく現れていない。89年天安門事件を契機として、社会主義中国と中国共産党の一党独裁体制は崩壊するとの説は、破綻を来したと断定せざるを得ない。

 ではなぜそのような誤った予測がなされたのか。89年天安門事件そのものにたいする見方、事実認識に根本的な誤りがあることが一つの大きな要因である、と筆者は考える。




89年天安門事件における「虐殺」説の再検討 村田忠禧1、2

2005-05-06 | 政治/歴史
目次

 1)問題点の所在

 2)事件の概要

 3)中国共産党政権崩壊説の破綻

 4)「虐殺」と称すべき事態が発生したのか

 5)戒厳部隊の対立説について

 6)「民主化」要求運動の本質

 7)思い入れ先行の「研究」の危険性

 8)エピローグ



 1) 問題点の所在



 1989年6月23日から24日にかけて北京で開催された中国共産党第一三期中央委員会第四回全体会議についてのコミュニケは、同年4月以来の中国国内の情勢分析を行い、「ごく少数の者が学生運動を利用して、北京と一部の地方で計画的、組織的な前もって企まれた政治動乱を引き起こし、さらには北京でそれを反革命暴動にまで発展させたと指摘した。彼らが動乱と暴乱を策動した狙いは、ほかでもなく中国共産党の指導を覆し、社会主義の中華人民共和国を転覆させることにあった。この厳しい政治闘争において、党中央の行った政策決定ととった一連の重大な措置はいずれも必要かつ正しいものであり、全党、全国人民の支持を得ている。全体会議は、小平同志を代表とする古参のプロレタリア革命家が今回の闘争で果たした重要な役割を高く評価し、首都の反革命暴乱を平定する過程で中国人民解放軍、武装警察部隊、公安部門の幹部・警察が行った極めて大きな貢献を高く評価した」(『求是』89年第13号)との評価を下した。

 この評価は92年10月12日の中共第一四回全国代表大会における江沢民の報告でも「1989年の春から夏にかけて発生した政治風波に、党と政府は人民に依拠し、旗幟鮮明に動乱に反対し、北京で発生した反革命暴乱を平定し、社会主義国家の政権を防衛し、人民の根本的利益を保護し、改革開放と現代化建設が引き続き前進するのを保証した」(『求是』92年第23期)と変わっていないし、今日にいたるまで89年6月に北京で発生した事件を「反革命暴乱」と規定する中国共産党、中国政府の評価に変化は見られない。

 しかし、軍隊を投入しての同事件への処理について、アメリカ政府を筆頭にした先進諸国は、自由と民主を願う学生・市民の自発的運動を軍事力で鎮圧し、人権を無視した非人道的措置であるとして、中国政府非難の合唱と経済制裁の発動などを行い、今日にいたるまで同事件についての評価は中国政府・中国共産党のそれと真っ向から対立している。

 国内の紛争に警察・軍事力を投入することは、歴史上よく見られることである。ことに米ソ両超大国による世界支配の構図が消滅するに伴い世界各地で頻発しており、何も中国だけの専売特許ではない。なかでも93年10月3日にロシアにおいて、エリツィン大統領が議会に勢力を持つ反対派にたいして、中国と同様に軍隊を導入し、モスクワの通称「ホワイトハウス」(最高会議ビル)に立てこもった反対派に対して、戦車を用いた砲撃をしかけて鎮圧、投降させるという、中国以上に手荒な手法による「問題解決」を行った。しかしエリツィン大統領のこの措置について、アメリカ政府は極めて理解を示し、支持の態度を直ちに表明したことは人々の記憶に新しい。日本政府やマスコミ、あるいは研究者のロシアへの対応も、89年の中国への対応とは明らかに異なっている。

 本来、国内問題はそれぞれ国内の事情というものが主たる要因となって発生しているのであるから、それら内部要因について熟知せず、ただ自国もしくは個人の狭隘な知識や価値観に基づいて他国の内政問題に口を挟むことは慎むべきことである。対象となる国の政治動向や社会情勢を熟知している人々、例えば外交官、商社等の駐在員、大学等研究機関での研究者等が、それぞれの専門的見地から見解を発表することがありうるし、現実にさまざまな国際問題について、多くの研究者が専門的知識をもとに専門家として社会的啓蒙を行っている。専門家が専門家たる所以である。

 しかるに中国についてとなると、遠くは日本が中国への侵略戦争をした時代から、近くは文化大革命にいたるまで、中国研究者による冷静で客観的な情勢分析や研究というものがなされてきたとは言いがたい過去がある。とりわけ1989年に発生したいわゆる89年天安門事件をめぐっては、事件の展開そのものについての認識、さらにはこの事件が処理された後の中国の政治や経済の展開をどう評価するかという点についても、日本の中国研究者の一部には、現実とは大きくかけ離れた見解を発表しているのが見受けられる。

 それらは中国で発生する事態を、客観的な研究対象として事実に基づいて研究・分析するのではなく、自己の思い込みや根拠薄弱な情報(多くは香港や台湾などから流される政治的意図の込められたガセネタ、元駐中国大使の中江要介の表現を用いれば「玉石石石混淆」の情報〔中江要介著『残された社会主義大国中国の行方』KKベストセラーズ出版40頁〕)を元に、その内容について吟味することをせずにただ受け売りするとか、心情的にいわゆる「民主派」勢力への肩入れ・宣伝をするのみで、研究者としてなすべき作業を放棄した失格の対応がかなり見られた。本論では89年6月の北京への戒厳部隊投入による「問題解決」についての、日本の中国研究者の対応を検討することで、ささやかながら日本人中国研究者の現代中国認識の問題点の根源に迫ってみたい。



 2) 事件の概要



 89年の4月から5月半ばまでの学生の対話要求運動の顛末については、筆者はすでに90年の段階で詳細に検討し、論文を発表しているし、6月までの運動の流れについても、大事記を作成しておいたので、ここでは簡単に概況を紹介しておくに留める。詳しくは矢吹晋編『天安門事件の真相』(下巻)所収の拙論「一九八九年春の中国学生運動--対話要求顛末記」および村田忠禧編『チャイナ・クライシス「動乱」日誌』(いずれも蒼蒼社刊)を参照していただきたい。

 1989年4月15日の胡耀邦逝去に端を発した北京の学生運動は、胡耀邦の名誉回復を要求するなど、当初から政治的性格を帯びていた。中共中央の機関紙『人民日報』が4月26日に動乱への警戒を呼びかける社説を発表し、強行姿勢を示したことに威圧を受け、学生運動は5月4日の五四運動七十周年記念デモでもって一先ず授業ボイコットと街頭デモの戦術を転換し、正常化するものと思われた。しかし朝鮮訪問から帰国した中共中央総書記趙紫陽が5月4日にアジア開発銀行総会代表団一行と会見した際に、それまでの党中央の方針とは異なる、学生運動に理解ある態度を示す発言をしたことから、学生たちは運動の再構築に一縷の望みを抱くようになった。また同時期に発生した上海『世界経済導報』発禁処分に抗議する報道関係者など知識人層が「報道の自由」を要求して、学生運動と歩調を合わせる動きを見せた。このため退潮期に向かっていた運動は、一部の強硬派学生が「対話要求」を旗印に掲げ、天安門広場を占拠しハンガーストライキに突入するという強行路線を取り運動の再構築を図った。この戦術は一般市民の関心を集め、ハンスト学生への同情とともに、インフレへの不満や「官倒」に代表される権力層の不正・腐敗現象への憤りなど、改革・開放政策の進展のなかで発生していた諸々の歪みへの民衆の鬱積した不満が、洪水のごとく沸き上がった。

 ことに共産党内に学生運動への対処の仕方をめぐって、対話に応じて穏健に処理すべきとする非主流派(趙紫陽に代表される)と、4月26日の人民日報社説の方針通りに毅然たる対処をすべきとする主流派(小平・李鵬に代表される)の対立が存在することが明白になり、各機関・組織の党組織のうちの非主流派が、公然とそれぞれの所属単位の人員を動員して、ハンスト学生支持の行動の立ち上がった。当局内部でも、統一戦線工作部部長閻明復らは、学生との対話に応じてゴルバチョフ訪中前に事態の打開を図ろうと必死の努力をするが、党内では孤立した動きとならざるをえなかった。また学生側でも運動の主導権をめぐっての内部対立と、野次馬のごとく地方から上京した学生たちの下からのより強硬な要求の突き上げにより、理性的対話による解決は実質的に不可能な状態に陥っていた。おりしもゴルバチョフの訪中という、中ソ関係にとって歴史的出来事で世界各国からマスコミが北京に集結したが、中ソの歴史的和解劇は完全に天安門広場のハンスト学生の動向に左右され、学生運動指導者は世界のマスコミの寵児となった。

 北京の主要な党組織・機関は学生の対話要求への対応をめぐって実質的に分解し、組織として機能しなくなった。しかも北京の学生運動の動きはVOAなど海外の報道に助けられ、全国に波及する勢いを見せていた。一方、学生運動の指導者層も、地方や外部から次々と新参の勢力が入り込む予想外な発展ぶりに、広場からの撤退かハンスト堅持かをめぐって統制不能な状態に陥っていた。

 5月16日、趙紫陽がゴルバチョフと会見した際に、小平こそが中国の最高意思決定者であるという事実を意味ありげに公表したことにより、行き詰まりを見せていた運動は、憤懣のはけ口を小平に向けることとなり、小平の引退、李鵬打倒の要求を公然と掲げ、現政権打倒を目指す反政府運動へと性格を転換していった。

 しかしそれは本質的に見れば党内の意見対立の反映であったため、小平・李鵬ら中共内部の主流派(学生たちの掲げる要求をブルジョア自由化要求と見なし、強硬な態度で対処すべきとする見解で一致している)は、北京市に戒厳令を発動し、当局側の統制から外れた報道機関や発電所など保安部署への戒厳部隊の進駐を決定し、実行に移した。趙紫陽はこの時以降、党総書記の地位を実質的には解任された。戒厳部隊は当初、部隊の出動は学生に向けたものではない、として、学生への説得活動に重点を置き、彼らのバリケード等を築いての阻止行動にたいして、直ちに強行手段を用いて入城しなかったため、事態は膠着状態に陥った。

 学生運動の指導権は地方からやってきた新参グループに握られ、運動指導者内部での対立も発生した。労働者の中でもこれを期にポーランドの自主労働組合「連帯」のような在野組織を作ろうとする勢力が公然と活動を開始した。香港や台湾でも北京の学生を支援する集会等が組織された。北京の交通の要衝にバリケードが作られ、市内は無政府状態に陥った。各地で市中心部の指定された守備拠点に進駐しようとする戒厳部隊と、それを阻止しようとする群衆との衝突が発生するようになり、6月に入ると軍の武器・弾薬を積んだ車が群衆に包囲される事件まで発生し、公安の自動車や軍用車のナンバープレートが学生側に盗まれる事態も生じた。

 もはや事態の打開を説得工作によって理性的に解決できる状況にはなく、政府当局側としては強行手段を採るしかなくなっていた。5月末までに全国の中共各省委員会、省政府、軍区党委員会、中央重要機関は戒厳令発動支持の態度表明をしており、学生らが掲げる李鵬政権打倒の可能性が無に等しいことは明白であった。5月31日に小平は李鵬、姚依林にたいして、趙紫陽に代わって江沢民を中核とする新指導部の組織化を命じ、動乱平定後も改革・開放政策を実行すべきことを伝えた(『小平文選』人民出版社93年10月第3巻310頁)。全国7大軍区のうち成都、蘭州以外の軍区から北京への部隊の動員令が出された(矢吹晋著『天安門事件の真相』上巻、蒼蒼社90年6月、125頁の表による)。6月3日になり、天安門広場の清場を目的として北京郊外の東西南北すべての方向から戒厳部隊が出動した。主力部隊は西側マスコミ等大方の予想に反して西から進軍してきた。西長安街の革命軍事博物館を中継地点とし、天安門広場の東側にある人民大会堂のなかに戒厳部隊の指揮部が設けられた。

 6月4日未明の段階で、天安門広場には約3000人ほどの学生、市民らが居残っていた。そこにはそれまでに鹵獲した武器や自分たちで製造した火炎瓶や煉瓦や石ころなどの抵抗用の武器が用意されていた。戦車・装甲車などを動員した戒厳部隊が広場の学生たちを強制排除する際に、学生たちが用意したそれら武器類は、数や質の面からすればとるに足らぬものであったが、それでも彼らが手持ちの武器で応戦した場合には、戒厳部隊からの反撃を受けて死傷者が出る危険性があった。現に西長安街では戒厳部隊の進軍にたいして石や煉瓦が雨あられのように投げつけられ、トロリーバスやバス、車道と自転車道を隔てる柵などがバリケードとして使われ、しかもそれらに火が放たれた。戒厳部隊の進軍には投石などによる激しい抵抗が行われ、部隊のなかに死傷者、ことに多数の負傷者が出た。戒厳部隊はやむなく催涙弾、さらには銃弾を発砲することで、定められた時間内に天安門広場に集結するよう、強行突破の措置をとった。その過程で民衆の側にもかなりの数の死傷者が出た。街路上で空に向けて発砲して警告した際に、周囲のビルに実弾が当たり、無辜の民が死傷するといった事態も発生した。また逆にビルの上から鹵獲した銃などで戒厳部隊の兵士にたいして狙撃がなされることもあった。

 このような激しい戦闘が西長安街で展開されているとの情報は、天安門広場に居すわる学生たちにも伝わってきた。柴玲ら学生運動指導者は、戒厳部隊の全面進駐を前にして、無用な抵抗をしても勝ち目がないことは明白なので、広場での武器を放棄して無抵抗のすわり込みを堅持することを主張した。

 一方、当時広場でハンストをして居残っていた4人の知識人(劉暁波、周舵、高新、侯徳健)は、学生たちに武器を放棄させ、広場から撤退すべきことで意見が一致し、周舵と侯徳健が戒厳部隊の現場の指揮官との交渉に当たり、劉暁波らが広場の学生たちへの説得に当たった。この時すでに広場周囲は戒厳部隊によって完全に包囲された状況下にあったので、実際のところ他に選択の余地はなかった。戒厳部隊は広場東南の方角に学生の逃げ道を当初から用意しており、そこから学生たちはインターナショナルを歌いながら隊列を組んで退去していった。いわゆる天安門広場での虐殺とか、テントで寝ていた学生たちが戦車にひき殺された、と当時のマスコミで騒がれたような事態は発生しなかった。事件はこれで落着したわけではないが、ひとまずここまでで概況説明を終える。そして以下、本論で89年天安門事件として問題にする時には、6月初旬の戒厳部隊が天安門広場に向けて進軍し、いわゆる暴乱を平定する期間に限定し、問題を「虐殺」の有無ということに絞って検討することにする。