本人戒烟中 我愛MIMIAO 我希望処ヲ件事儿能一様長久

私が好きなものは全部ここにいる

wii

2006-04-28 | 映画・アニメ
任天堂表示命名为Wii是来源于英文“We”的想象,符合这款游戏机的创作初衷--家庭娱乐。
任天堂公司的主页(做的真丑)有这广告片可看

好没创意是吧,相比大友克洋给碗面做的广告,真是没法比。人家是做吃的啊,还搞的那么前卫,你是做科技的啊,做出这么个东西出来,明显没下工夫嘛。
早先我看报道,已经有消息说业内人士对这款机并不看好。我看哪,唯一的卖点就是这个新感觉手柄 。





reading link

2006-02-18 | 映画・アニメ
周围的朋友们都在认真的生活着,比如L.
他是给我的生活以刺激的人,让我反思我到底应该选择什么样的生活道路,看他在做的事情总让我感到 羞愧和自责. 我应该重新审视自己,至少该有个总结,也该有个目标.

接下来贴一下这段时间搜集的一些网站,还会不断加的.
blog:
GNO: 
http://www.chinesenewear.com/gno/
and read list
http://www.bloglines.com/public/lawrencelry
幻雨空间旧
http://acidrain.yculblog.com/
 新:http://www.blogcn.com/u/3/21/acidrainspace/index.html
有人:
http://www.got1mag.com/blogs/got1mag.php
美術と本と映画好き...
http://blog.goo.ne.jp/lysander

低烧:
http://www.colordance.org/
吴伟明的知日屋:
http://www.cuhkacs.org/~benng/Bo-Blog/index.php

抓拍城市:
http://www.50mm.cn/index.php

閉門造音:
http://www.chinesenewear.com/wolfenstein/blog/
Sound Zafka
http://zafka.wordpress.com/
浮世畸零人
http://snowtea.tianyablog.com/


对牛乱弹琴 | Playin' with IT

http://blog.donews.com/keso/


所谓:
http://www.blogcn.com/User/guojiangtao/index.html
web
电影登堂:
http://inside.edimsum.net/
旧书场 :
http://oblog.odineast.com/blog.asp?name=talich
wnmna:
http://www.we-need-money-not-art.com/
art218:
http://www.art218.com/

Blog on DVD news:

eiga
CinemaScape-映画批評空間-
http://cinema.intercritique.com/
music:
J-music 543

http://bbs.music543.com/ournet.pl/music543/music543-3/J-music/articles/


前卫咖啡
http://www.sinologic.com/bbs/

Photo:
http://www.colordance.org/bbs/index.php

read:

21世纪
http://www.cuhk.edu.hk/ics/21c/index.html

书屋:
http://www.housebook.com.cn/



Photo:


Japan:
新民族主義運動
http://nippon-nn.net/




Japanese:

atsushi sasaki: 佐佐木 敦
http://www.faderbyheadz.com/a-Site/


Super sonic china
http://blog.livedoor.jp/ssc_staff/

Japanese news:
每日:http://www.mainichi.co.jp/
共同:http://www.kyodo.co.jp/
朝日:http://www.asahi.com/home.html

翻译/文字/语言.....
乔纳森

http://www.blogcn.com/user8/johnathan/index.html



Other:
桑格格桑格格
http://www.tianyablog.com/blogger/view_blog.asp?idWriter=1354839&Key=573417725&BlogName=sggsgg
昆明ひとり学生
http://blog.livedoor.jp/kunming/


美食:
raildog in the attic
http://railfan.chips.jp/blog/

だからアメリカ映画は面白い――トッド・ヘインズ監督『エデンより彼方に』by 蓮實重彦

2005-12-11 | 映画・アニメ
だからアメリカ映画は面白い――トッド・ヘインズ監督『エデンより彼方に』
蓮實重彦

とうとう第七騎兵隊まで派遣してしまった合衆国政府が中東地域で乱暴狼藉のかぎりをつくそうと、その国の映画を擁護する姿勢だけは断固として崩さぬつもりでいる。アメリカ映画はとうの昔に「国連決議」など無視して地球規模での一国支配を貫徹しているのだが、そのことさえ、映画のためにはよいことだと強弁する心の準備もできているつもりだ。にもかかわらず、誰が何といおうとアメリカ映画は面白いと断言するにふさわしい作品が、9.11以降あまり見あたらない。スコセッシやスピルバーグの新作も、こうした大言壮語を正当化しうるとはとてもいいがたい。

さいわいなことに、そんな当惑を爽快に晴らしてくれる作品がニューヨークから送りこまれる。より正確にはポートランド派と呼ぶべきトッド・ヘインズ監督の『エデンより彼方に』である。主演のジュリアン・ムーアばかりがやたらと評判がよいが、この作品を話題にしつつだからアメリカ映画は面白いと大っぴらに吹聴できるのは、ヘインズのあなどりがたい演出の力による。製作は、このところ話題独占といったかたちの女性プロデューサーのクリスチーヌ・ヴァション。ブラウン大学で映画記号論を専攻して以来の戦友であるヘインズとヴァションは、キラー・フィルムズという物騒な名前の独立プロを十年がかりで軌道に乗せ、満を持して発表したこの新作でついにハリウッドをひざまづかせた。

もっとも、東海岸的な精神風土の持主であるこの二人組にとって、そんなことはどうでもよろしい。題材をダグラス・サークからかりた50年代風のメロドラマを21世紀初頭にリメークするという企画のあざとさを、まれに見る真剣さで処理してみせた彼らの姿勢こそ、賞賛に値いするのだ。撮り方によっては爆笑もののコメディともなりかねない題材でありながら、構図を意識させないショットをなだらかにつなぎ、いざという瞬間には途方もないクレーン撮影や深いフェイドアウトで物語にアクセントをそえるという演出には、ポストモダン風の軽薄さなど影さえ落としていない。主題のあざとさは、演出の真摯さによって初めて人の心をうつ。ヘインズは、古典的ハリウッド映画の矛盾律がいまなお有効に機能しうることを、郷愁に足をすくわれることなく律儀に立証してみせたのである。

この映画が題名やエンドマークの書体までをもモデルとしている『天はすべてを許し給う』(55)は、50年代の地方都市を舞台にした未亡人の悲恋物語である。撮影時には同時代的な現象だった保守的な階級社会をシニカルに批判し、季節や樹木や動物の魅力をたくみにあしらったサークのメロドラマは、文句なしに素晴らしい。ただ、いささか艶めかしさに欠けるジェーン・ワイマンのヒロインにしっくりしないものを覚えていただけに、その役にジュリアン・ムーアを抜擢した監督には素直な喝采を送りたい。彼女がまとうドレスや髪型からインテリアの調度品、自動車にいたるまでの贅をつくした50年代調は、パロディーの一歩手前で踏みとどまる監督の自制心によって、『キャッチ・ミー・イフ・ユー・キャン』の無惨な失敗ぶりをあざ笑っているかのようだ。慎重なはずのヘインズが見せた数少ない落ち度は、寝室のダブルベッドと居間の脇の階段である。ここまで五〇年代風を気取るなら、ベッドはツインでなければならないし、階段のステップにはせめてあと十段ほどのゆるやかなカーヴが必要だろう。

旧作ではロック・ハドソンが演じた庭の剪定職人を黒人に、未亡人をホモセクシュアルの夫を持つ主婦に置き換えてみせたあざとさについていえば、真摯な演出によってそれぞれのおさまるべき場所を見いだしている。だが、ここで驚嘆すべきは、ジュリアン・ムーアが近所づきあいをしているご婦人たちの、いかにもそれらしい立ち居振る舞いのかしましさである。とりわけ、サークの作品ではアグネス・ムアーヘッドが演じた親友役のパトリシア・クラークソンの、本人以上にムアーヘッド然とした無意識の偽善者ぶりを、戯画に陥ることのない距離感とともに描いた演出には舌をまかざるをえない。

これほど多様な女優たちを苦もなく構図におさめてみせるのだから、トッド・ヘインズは、おそらくジョージ・キューカーのように、女性には真の興味を覚えることのない男性なのだろうが、それはまあどうでもよろしい。ここで重要なのは、『エデンより彼方に』が、戦争とも征服とも抗争とも無縁に自国の歴史を描いた数少ないアメリカ映画の一つだということだ。スピルバーグの新作は「時代劇」でしかなかったが、これはまぎれもない「歴史映画」なのである。ニコラス・レイやジョゼフ・ロージーを生んだ変容の一時期の歴史を、距離の意識をこめたメロドラマとして描いたトッド・ヘインズの大胆な繊細さには、深い驚きと嫉妬を禁じえない。




初出:『Invitation』2003年6月号(4号)。



Copyright (c) HASUMI Shiguehiko & MUBE

エリック・ロメール『グレースと公爵』――高貴さと卑猥さの嘘のような均衡 by蓮實重彦

2005-12-11 | 映画・アニメ
エリック・ロメール『グレースと公爵』――高貴さと卑猥さの嘘のような均衡
蓮實重彦


あられもない振る舞いだけがふと高貴さをのぞかせることがある。そうつぶやきながら、それが露呈される瞬間だけにキャメラを向け続けてきたのが、今年[2002]で82歳になる映画作家エリック・ロメールである。実際、彼の作品では、誰が見てもここで抱擁しあってはならないはずの成熟した男女が堂々と唇を求めあったりしながら(『恋の秋』[1998]を見よ)、そのあやうい状況は間違っても悲劇に行きつくことがない。それをあたかも自然な成り行きであるかに日常化してみせること。それがロメールの倒錯的なフィクションにほかならない。

1960年代いらい、ロメールは、「六つの教訓」「喜劇とことわざ」「四つの季節」などのシリーズを通して、好んで海辺の避暑地を舞台としながら、あと一歩で卑猥さの側に滑り落ちかねない愛の遊戯に視線をそそいできた。そこでは、高貴さと卑猥さが嘘のような均衡におさまり、フィクションとしか思えぬ「透明さ」で画面を震わせている。いつ崩れても不思議でないこの均衡が、ヒッチコックにさえ想像できなかった未知のサスペンスを映画に導入したことは、誰もが知っていることだろう。危険ではなく、その不在が煽りたてるサスペンス……。一度ロメールを見たら誰もが癖になるのはそのためである。

そんなロメールが、80歳という高齢を迎えようとするとき、コンピュータ・グラフィックを駆使してフランス革命期のパリを大がかりに再現し、そこにイギリス女性グレースを登場させてみる。映画は、この異国女性による回想録の忠実な翻案であり、いつもの休暇中の男女の戯れとはおよそ異質の世界が浮上してくる。何しろ、彼女がサロンでもてなすのは、れっきとした歴史上の人物オルレアン公その人なのだ。王家の血を引きながら従兄のルイ16世の処刑に進んで賛成したりした、あまり評判のよくない人物である。かつてはかなりきわどい関係にありながら、いまでは唇を求めあうほどの仲でもなくなっている二人だが、ときおり思い出したように出会うことの快楽だけはまだ放棄していない。

現代の避暑地における男女の遭遇から、革命期の歴史的な男女の邂逅へ。このロメールの変貌ぶりはいったい何なのかと誰もが驚かずにはいられない。これをライフワークとする野心を隠しながら、あえてミニマリズムに徹してきたというのだろうか。だが、そこに再現されたパリが、精巧にして華麗な背景というより、むしろ素朴な筆つかいで描かれた舞台装置のように見えてしまうことに、人はほっと胸をなでおろす。いかにもそれらしく再現された『グラディエイター』(2000)の古代ローマ帝国のコロセアムより、『グレースと公爵』に登場する「恐怖政治」時代のフランスの首都の表情のほうが、遥かにフィクションめいて見えるからだ。「真実」が、その種のフィクションを介してしか顕現しないことに、ロメールは充分すぎるほど意識的なのである。

すべては、趣味のよいクッキー入りの箱を彩る風景画のような構図の中で起こる。革命後の十数年を時代背景としながらも、そこでは「自由、博愛、平等」が叫ばれることも、「人権宣言」が謳歌されることもない。三色旗も翻らないし、「ラ・マルセイエーズ」さえ聞こえてはこない。オルレアン公が距離をたもちつつも同調している革命派に対して、グレースはまったくもって冷淡であり、並木道や広場を埋めつくす群衆も、貴族の首を切ることにしか熱狂しえない愚かな暴徒として、彼女の顔をそむけさせるばかりだ。人びとがフランス革命として知っている挿話など、この風景画には一つとして描かれてはいない。

グレースは、何が起ころうと、自分自身はいうにおよばず、親しい交渉をもつ上層階級の人びとの身分をいっときも疑ってみたりはしない。その揺るぎない確信において、彼女は、オルレアン公をはじめ、まわりの男たちにことごとく凡庸な策謀家の風貌をおびさせてしまう。そのグレースを演じるイギリス女優のリュシー・ラッセルが素晴らしい。その素晴らしさは、例えば『エリザベス』(1998)ではなく『ギフト』(2000)のケイト・ブランシェットのようだといえばよいだろうか。自分の予知能力だけを信じる南部女性に徹したこのオーストラリア女優のように、ここでのリュシー・ラッセルは、オルレアン公を演じる芸達者のジャン=クロード・ドレフュスをたじろがせるほどの迫力で、「手のつけられない王党派」として堂々と画面を横切ってゆく。いったい、何が彼女の毅然たる姿勢を支えているのか。

この世界には、目をそむけずにはいられない事態が着実に進行している。革命さえがまぬがれえないその醜悪さから瞳をそむけるには、その至近距離で生きねばならないだろう。そう自分に言い聞かせたとき、あられもない振る舞いだけが露呈せしめる高貴さが、奇跡のように彼女を恩寵でつつむ。実際、彼女は、ルイ16世の処刑現場に向けられた望遠鏡をしりぞけ、逮捕された彼女をなぜか解放するロベスピエールの処刑にも、かつては愛しあったオルレアン公の処刑にも立ち会いはしない。投獄されながらも偶然に処刑をまぬかれた彼女は、書き残した回想録を二百年後のロメールの手に託したとき、初めて微笑む。

そんな異国の女性の革命体験を描く『グレースと公爵』は、フランス革命批判をめざしているのだろうか。事態はより微妙な水準に推移する。グレースが外国人で、しかも女性だったという意味で、革命が奇妙な価値下落をこうむるのは間違いのない事実である。「自由、博愛、平等」に名をかりた大量殺戮から目をそむけていたい彼女は、遠ざかるのではなく、みずからその渦中に身を置くことで奇跡的にそれに成功する。その卑猥さと高貴さとのあやうい均衡に胸をつかれることなく、王党派グレースの振る舞いと、彼女にキャメラを向けるエリック・ロメールの姿勢とを「反動的」と呼ぶ鈍感な精神にとってのみ、これはフランス革命批判の映画として機能するだろう。だが、これが何かを批判しているとしたら、それはまぎれもなく映画そのものにほかならない。



初出:『Invitation』創刊0号、ぴあ、2002年。


Copyright (c) HASUMI Shiguehiko & MUBE



ジャ・ジャンクー『青の稲妻』 蓮實重彦

2005-12-11 | 映画・アニメ
ジャ・ジャンクー『青の稲妻』
――「表情の零度」または ポストモダン中国のハードボイルド
蓮實重彦

ジャ・ジャンクーの『青の稲妻』(2002)とともに、「傑作」の一語が不意に映画史の死語であることをやめる。これが傑作だからではない。傑作の範疇にはおさまりがつかぬ誇らしげな孤立ぶりによって、傑作の名にふさわしい作品がかつて存在したことを想起させずにはおかぬからだ。例えば、ルノワールの『ゲームの規則』(1939)を傑作として正典化したのは、ゴダールの傍若無人な『勝手にしやがれ』(1959)にほかならない。ところが、ジャ・ジャンクーの新作には、『勝手にしやがれ』はいうにおよばず、みずからの前作『プラットホーム』(2000)までをも傑作として正典化しかねない何かがまがまがしくみなぎっている。そのまがまがしい孤立への嫉妬を介して、人はかろうじて映画の「現在」と触れあう。

『青の稲妻』の誇らしげな優位は、しかし、後に生まれた者の特権からきているのではない。この映画が「現在」ととりかわす何ともあやうげな関係によって、それは決定されている。あやうげなというのは、文化革命時代の青春群像を描いてみせた『プラットホーム』と異なり、ここには現代中国の若者たちの風俗が生々しく息づいており、なるほど彼らはこんな風に生きているのかと誰もが思わず納得しかねないからである。だが、そんな納得が「現在」と触れあうはずもないと確信するかのように、ジャ・ジャンクーは若い男女の行き違った振る舞いに過酷な視線を向けつづける。そこに描きだされる光景は、ときに滑稽であり、甘美であり、痛ましい。彼らの無方向な存在の震えがふとしたきっかけで活気づける画面の豊かさに、見るものはただ息をのむしかない。

舞台は山西省の大同と呼ばれる都市に設定され、その繁華街の雑踏や、裏通りの泥道や、郊外の殺風景な空き地を、失職したばかりの19歳の青年が、親しい仲間とともにあてもなく彷徨う。処女作『一瞬の夢』いらい描きつづけた故郷の汾陽(フェンヤン)の町を離れたジャ・ジャンクーは、いきなり一まわりも二まわりも大きくなったかのようだ。洗いさらしの白いシャツをまとい、昼下がりの大通りをバイクで疾走するピンピンは、何かを思いつめているようにも見え、思考から見捨てられているようにも見える。暇を持てあましているようでもあれば、緊急の呼び出しにかけつけようとしているかにも見える。「表情の零度」ともいうべきこのひたむきな疾走ぶりを正面から捉えつづける導入部のキャメラが、文句なしに素晴らしい。青年の無表情をあたりの騒音から孤立させるこの長い移動撮影が、ハードボイルド的というほかはない緊迫感をフィルムの全域に波及させているからだ。

謎の事件もなければ、私立探偵も姿を見せぬポストモダン中国のハードボイルド。1ドルにどれほどの価値があるかも知らぬまま皺になった紙幣を仲間に見せびらかし、北京のオリンピック開催決定のニュースに無表情で立ち会い、中国のWTO加盟にわけもなく興奮し、海南島での米軍機事故を伝えるテレビ報道を茶の間で聞き流し、多くの負傷者をだしたらしい不穏な爆発音にも、彼らはことのほか驚いたりはしない。若さは、そこで謳歌されてもいなければ、詠嘆されてもおらず、もっぱら刹那を生きながら、そのことにさえ無自覚な青年たちを生み落とした社会が、真正面から批判されているのでもない。

ピンピンは、調子外れに『ラ・トラヴィアータ』を高唱する奇人(ジャ・ジャンクー自身が演じている)のわきをすりぬけ仲間と合流し、煙草をくゆらせながらむなしく時間をやりすごす。法輪講に凝っている母親とはいさかいが絶えず、北京行きを夢見る受験前の女子高生と不器用に恋を語りあい、兵役検査にもあっさり落ちる。ヘアースタイルに精一杯気をつかう仲間のシャオジーも、ときに迷彩服めいた衣装で粋がったりしながら、ピンピンの「表情の零度」を共有している。見る者は、豊かな表情を秘めながらそれを素描しえずにいる若者たちの無表情を介して、『青の稲妻』のはらむ「現在」に触れておののく。

シャオジーは、蒙古特産のアルコールで一儲けをたくらむやくざめいた男の情婦のチャオチャオにぶっきらぼうに近づき、とりまきの男たちと暴力沙汰を起こす。いかがわしいやりかたで金を稼いでもいるらしい「モンゴル王酒」のキャンペーン・ガール(資本主義!)の彼女は、蝶のブローチで胸を飾り、つめかけた男たちの前で媚びも見せず、人形じみたウィッグを振り乱して踊る。その曲が、作品の原題となった『任逍遙』である。題名からして『任逍遊』とも無縁ではないことは察しがつくが、シャオジーは、荘子はいうまでもなく、「胡蝶の夢」のことさえ聞いたこともないという。素肌の蝶の入れ墨を見とがめられて言葉少なに故事を説明するチャオチャオの深い諦念を、その手にかき抱かれた無表情な青年ははたして共有しえたのだろうか。

台湾よりも中国でヒットしたリッチー・レンの『任逍遙』は、その後、肝心なところで二度歌われる。まず、受験で忙しくなるからデートに誘わないでと恋人から告げられたピンピンが、薄汚いビデオールームでクリップにあわせて彼女の手を握り、二人して伏し目がちに歌う。また、警察に捕まり手錠をかけられたピンピンが、警官に促され、直立不動のまま真正面を向いて歌う。そのつど「表情の零度」がきわだち、目には見えない「現在」に彼らがからめとられてゆくさまが痛ましく画面を震わせる。

ピンピンがなぜ逮捕されたかについては、触れずにおく。『青の稲妻』がどんな終わり方をしているのかも、いまは書くまい。ただ、「傑作」を遥かに超えたこのフィルムに不意打ちされ、見終わってからしばし息もつけなかったことだけは記しておく。




初出:『Invitation』2003年3月号(創刊号)



Copyright (c) HASUMI Shiguehiko & MUBE

黒沢清『アカルイミライ』 by 蓮實重彦

2005-12-11 | 映画・アニメ
黒沢清『アカルイミライ』
蓮實重彦


『回路』(2000)で20世紀に別れをつげた黒沢清は、近年の彼には稀なことともいえる二年もの沈黙の後、『アカルイミライ』(02)をたずさえて21世紀に足を踏み入れる。一人、また一人と姿を消し、日本の首都からすっかり人影が絶えてしまった前作の最後を見とどけた者に、この題名はいささか奇妙に響く。勿論、黒沢が未来は「明るい」といっているのでなかろうことは誰にも察しがつく。だが、「暗い」はずの未来をあえて「明るい」と呼んでみせるシニカルな反語精神が彼のものではなかろうことも、たやすく予測できる。かくして、人は、ひとまずこの題名を宙に吊ったまま画面と向き合わざるをえない。

全篇がデジタル・カメラで撮影されたこの新作からは鮮やかな色彩が周到に排され、戸外と屋内とを問わず、いたるところに黒い影が拡がりだしている。その翳りをおびた空間の中心に小さな水槽が据えられ、半透明のクラゲがゆらゆらと揺れている。黒沢清は、そのまわりに二人の青年を配する。この海水産の刺胞動物を飼育しているのは、都心を離れた零細工場で働く青年(浅野忠信)である。彼は、悪夢にうなされる情緒不安定な年下の仕事仲間(オダギリジョー)に発作的な振る舞いを思いとどまらせようと、指の動きで行動の指針を示すことを提案する。その黙契をのぞけば、二人はごく普通の若者に見える。

クラゲの無時間的なたゆたいに見とれて思わず水中に指をさし入れようとする若い友人に、飼い主は触るなと穏やかに警告する。どうやら、それは毒クラゲであるらしい。黒沢清にふさわしい主題が視界に浮上するのは、その瞬間である。

実際、『回路』の作者にあってはいたるところで頑なに接触が禁じられており、男女が接吻しあうことも、抱擁しあうこともまずないといってよい。だが、それは、この映画作家の性愛に対する不信を意味しているわけではない。触れあうこともないまま何かが感染してしまうことの恐怖に、彼の演出は賭けられているのだ。『Cure』(97)がそうであるように、危険な存在と素肌で接しあったわけでもないのに何かが伝搬し、人々は思考と行動の自由を奪われてしまう。『回路』においても、そのようにして人間の消滅があたりに蔓延していったのであり、男も女も等しくその犠牲となるほかはない。しかも感染の過程は目に見えないので、何かが起こりつつあるという気配ばかりが画面を鈍く震わせる。黒沢が「恐怖映画」作家として分類されうるのは、その限りにおいてである。彼にあっては、あたかも機械のような反復がこの世界の原理であるかのように、誰もが、ふと他人の思考や行動を模倣し、それをそっくり自分のものにしてしまう。この心理を欠いた反復が、個人と社会との関係を視界から曖昧に遠ざけ(『カリスマ』〔99〕はポピュリズムの蔓延を正面から批判してはいない)、黒沢清をいきなり「善悪の彼岸」に位置づけることになる。

『アカルイミライ』の毒クラゲの飼い主も、「善悪」を超えた存在である。彼は、あるとき年下の友人にその飼育を託し、不意に姿を消す。残された青年は、工場で味わう日々の屈辱にたえきれず、上司の殺戮を思い立つ。だが、あたかもその凶暴な意志が他人に感染していたかのように、棍棒を手にその家にかけつけたとき、一家はすでに惨殺されている。そのとき友人の失踪の意味を理解する彼は、念入りに餌を調合し、クラゲが淡水でも生きてゆけるように、飼育に徹するだろう。姿を消した友人は逮捕され、指先を「行動せよ」のサインにふさわしく針金で固定し、獄中でみずから縊死する。その瞬間、現在のさ中にうがたれたブラックホールのように「未来」が螺旋状にせりあがり、残された青年は、黒々とした時間を自分のものにし始める。

自殺した友人の父親(藤竜也)と奇妙な共同生活を始める彼は、それが亡き友の意志だとも知らぬまま、発作的に毒クラゲを下水に放つ。暗さにまぎれて増殖した刺胞動物は東京の川という川に拡がりだし、不気味に赤く発光しながら白昼の水面を占拠する。ゆらゆらと海をめざすクラゲの大群に興奮した父親は憑かれたように堤防を疾走し、青年が不安げにその跡を追う。二人が河口にたどりついたとき天候は急変しており、冷たい雨があたりを濡らしている。思わず川に踏み込み、クラゲに触れて意識を失う父親を土手に引き上げる青年は、濡れた岸辺に二人して倒れこみ、動こうともしない。消耗だけが消耗を超えうるという確信が、縊死した青年から彼に感染したかのようだ。

頑なに接触を排してきた黒沢清は、いま、初老の失神者を胸元に抱えたまま川岸の草むらに横たわる青年にキャメラを向けている。象徴的な意味の重みでたわむこともなく、無償の審美性からも思い切り遠いこの単純な画面には、肯定へと人を誘う強度がみなぎっている。人は、何の脈絡もないまま、ペッキンパーの最後の西部劇やアルドリッチの晩年の活劇に漂っていた、あのニヒリズムには行きつくことのない徒労感に似たものをこの画面に感じ取る。勿論、『アカルイミライ』には、より新鮮なイメージと音響とがみなぎっている。それが「明るい未来」を約束するか否かは自分にもわからないと黒沢清はつぶやくに違いない。だが、彼の新作とともに、日本映画が「栄光の時代」(溝口、小津、黒澤明……)とはおよそ異質の世紀に足を踏み入れたことだけは間違いないと私には断言できる。



Copyright (c) HASUMI Shiguehiko & MUBE

この金髪の座頭市は、まぎれもなく宇宙人である

2005-12-11 | 映画・アニメ
この金髪の座頭市は、まぎれもなく宇宙人である

蓮實重彦

北野武監督・ビートたけし主演の2003年版『座頭市』の座頭市は、まぎれもないETである。朱色の仕込み杖を握っての歩行ぶりなどどこか人間めいてはいても、金髪頭で江戸時代にふらりと迷いこむところなどれっきとした宇宙人に違いなく、たかだか地球人にすぎないやくざの子分など束になったってかなうはずもない。

北野ともビートとも名乗って地表を闊歩するET=宇宙人の前に立ちはだかる強敵はといえば、それらしく扮装した作中のやくざなどではなく、むしろ生身の勝新太郎と三隅研次だろう。2003年版が『座頭市』と題されている点では勝新太郎監督主演の『座頭市』(89)が意識されているかに見えるが、あれにはどこかしら名誉ある撤退の身振りが漂っており、作品の強さという点では『座頭市物語』(62)に到底かなうものでない。40年も昔のあのモノクロ作品での勝新太郎と三隅研次の奇跡的な出会いがなければ、何ごとも始まらなかったはずだからである。ET=宇宙人もその功績は認めざるをえないが、いずれも故人であるだけに、そのイメージの神話性に闘いを挑んだところであまり勝目はない。

そこで、北野武はしばし考え込む。ビートたけしもまた考え込む。思案のはてにというほど深い思考と長い時間とが必要とされたかどうか地球人の知るところではないが、ET北野と宇宙人たけしとは、あるとき同じ結論に到達してうなずきあう。それは、立ちはだかる強敵にあえて闘いを挑んだりはしまいという結論だ。理由は単純きわまりない。監督としても役者としてもおいらが一番なのだから、あえて闘うまでもないのというのである。

かくして、おいらは強い、なぜならおいらが一番強いからだという地球の論理を超えた循環論法を肯定するために、宇宙的『座頭市』の撮影が始まる。こちらはヴェネチアで金獅子賞まで貰っているのにあちらは無冠だなどという人間社会の上下関係など、間違っても口にしたりはしまい。あたかも勝者の冠を戴いているかのような黄金の髪の毛が差異の標識として機能してくれれば、それで充分だろう。破滅型の役者勝新にもシニカルな審美主義者三隅にも敬意以上のものを覚えてはいるが、撮影に入ったらそんな負い目はきっぱり忘れ、この市とあの市とが同じ名前であることなど、ほんの偶然にすぎないといった風情で事態に対処すればよい。

思えば、大映の遠からぬ破産を予感しながら量産されていった『座頭市』シリーズは、とりわけ1960年代の後半、市の身体を作品ごとにサイボーグ化していった。かけがえのない友人平手酒造(天知茂)も血をわけた兄貴(城健三朗=若山富三郎)をもおのれの手で殺めねばならなかった勝=市は、もはや心など必要とはしていないからだ。岡本喜八の『座頭市と用心棒』(70)や安田公義の『新座頭市 破れ! 唐人剣』(71)では他流試合で最強が競われているが、2003年版『座頭市』の強さは、そんな地球規模での比較を遥かに超えている。香港風に軽々と宙を舞ったり、ハリウッド流に瞬時に無機質に変身したりすることなく、かりそめに地球の引力を受けとめつつも、これは宇宙最強の戦士なのだ。

ET=市の強さはもっぱら音響から来ている。実際、江戸時代を舞台としたチャンバラ映画にはあまり響いたことのない乾いた音が、2003年版『座頭市』の独特のリズムを刻んでいる。ぶっきらぼうなビートたけしは、勝新のように、見えないはずの目を無理やり上目遣いにして仕込み杖を抱え込み、慇懃無礼な口調で危険な自分から遠ざかれと説いたりはしない。乾いた音を響かせながら鉈で木の切り株を割り、それを放り投げて壁沿いに薪の束をうずたかく並べてしまうような呆気なさで、彼は群がる敵を倒す。ここでの殺陣は、視覚的である以上に音響的であり、畑を耕す村人までが振りおろす鍬の乾いた音で道行く市を歓迎している。そのリズムが最後のタップダンスの盆踊りにもつながっているのを見れば、この乾いた音が宇宙的な交信に必須な記号のようにも思えてくる。

だが、この乾いたリズムに同調しない人物が存在する。浅野忠信が凛々しげに演じている浪人である。北野武が自分の相手役に存在感のあるスターを配したのはこれが初めてだが、この対立はどのように推移するのか。素性の知れぬ金貸しとやくざに支配された山村には、座頭市とともに、放浪する二組の地球人カップルが姿をみせている。病身の女房を道づれに用心棒稼業で金をかせぐ問題の浪人と、女装した弟とともに旅芸者に扮して親の敵をつけねらう若い女性とである。女形の弟の舞にうっとりとする酔客を仕込み三味線で殺めてまわる旅芸者の姉弟は、乾いた弦の音でET=市のリズムに同調するから問題はない。厄介なのは浪人夫妻である。女房はたえず咳き込んでいるが、夫はむしろ寡黙で、その殺陣の視覚的な美しさで他を圧する。実際、浅野忠信の浪人は、表情といい身振りといい、役者として強さの極致を体現しており、ET=市にとっても侮りがたい相手となる。

その浪人浅野忠信に金髪のET=市が勝つというクライマックスの段取りは、はたして有効に機能しているか。おいらは強い、なぜならおいらは一番強いからという循環論法が、浅野忠信の殺陣の切れ味に対して充分に説得的かといえば、どうもそのようには見えない。そこには何かしら、仕掛けが必要だった気がする。ただ、ここで奇妙な逆転が起きていることに注目したい。最後の段階で、浅野忠信のほうが地球圏から軽やかに離脱し、村人にまぎれた金髪のET=市のほうが地球人と同調し始めたかのように見えることだ。とするなら、監督北野武は、真の勝利を役者浅野忠信に譲ったのだろうか。そのあたりをごく曖昧にしたまま、タップダンスの乾いたリズムがスクリーンを不気味に充たしていく。



初出:『Invitation』2003年10月号(8号)

『座頭市』ウェブサイト http://www.office-kitano.co.jp/zatoichi/

<SCRIPT language=JavaScript src="copyright.js"></SCRIPT>

北野武、または「神出鬼没」の孤児 by 蓮實重彦

2005-12-11 | 映画・アニメ
唐突

アメリカのスタンダップ・コメディーによく似た漫才の人気コンビを解消し、『その男、凶暴につき(Violent Cop)』(1989)でいきなり映画作家としてデビューしてみせた北野武は、『底抜けてんやわんや(The Bellboy)』(1960)を監督として完成させたジェリー・ルイスの場合とほぼ同じ唐突さでわれわれを魅了した。それは、クリント・イーストウッドの第一回監督作品『恐怖のメロディー(Play Misty for Me)』(1971) のもたらした唐突さの魅力にもどこかしら通じるものがあった。誰もが、これは一度だけの贅沢なお遊びだと高を括っていたにもかかわらず、彼らは揺るぎない映画作家として注目すべき作品を撮りつづけたのである。北野武をその第一回監督作品から評価するか否かは、だから、クリント・イーストウッドやジェリー・ルイスの場合と同様、優れて映画的な試練となる。実際、映画とは何かという本質を経由することなく、これは映画であるという生々しい現実だけが、彼らのフィルムをぶっきらぼうに躍動させている。

北野武が自分自身をみずからの活劇に登場させるとき、彼はクリント・イーストウッドのように、自分の肉体にしたたかな傷をおわせてみせる。かと思うと、彼自身をみずからの喜劇に登場させるとき、彼は、ジェリー・ルイスのように(おそらくウッディ・アレンにもまして)、自分の精神分析的な外傷をあばいてみせたりもする。肉体の、あるいは精神の傷と好んで戯れる北野武は、一作ごとに、自分自身の無意識が恐ろしいとつぶやいているかにみえる。

『Kids Return』をみると、彼自身の過ごした青春は、例えば、1980年代の侯孝賢の映画に描かれたように、喧嘩に明け暮れていたのではないかとつい想像したくなる。しかし、日本の首都の比較的名高い大学の工学部の入学試験にあっさり合格してしまうほど、彼は知的には安定した環境の中で生活を送っていたのである。たしかに、彼は、『Kids Return』に登場する不運な少年のようにタクシーの運転手をしていたこともあり、客を乗せての運転中に三島由紀夫の自殺をラジオで知り衝撃を受ける。だが、それは売れないコメディアンとしての少ない収入を補填するためで、必ずしも家計を支えるための職業ではなかった。いずれにせよ、彼自身の過去は、映画作家としての彼のキャリアとは無関係だと考えておいたほうがよい。

監督として注目を集め始めたとき、北野武は、あたかもジャン=リュック・ゴダールを模倣するかのようにバイクの事故で重傷を負い、再起不能をささやかれたこともある。ところが監督に復帰したとたんに、かつて黒澤明が受賞したヴェネチアの金獅子賞を獲得し、彼をテレビ芸人ビートたけしとしてしか知らずにいた多くの日本人を混乱に陥れた。さらに、処女作から十年しかたっていないのに、彼は、大島渚のようにイギリスの製作者ジェレミー・トーマスと組み、合衆国ロケによる英語作品を撮りあげることになる。これは、最盛期の黒澤明でさえ実現しえなった夢である。マラソンを短距離レースのリズムでかけ抜けるかのような危うさが北野武にまといついているのは、そうした理由による。北野武は、ジャン=ピエール・リモザンが彼に捧げたドキュメンタリー『kitano Takeshi l'Inprevisible』(1980)の日本語の題名通り、あくまで「神出鬼没」なのである。

突然変異

『その男、凶暴につき』(1989)から最新作の『Brother』(2000)にいたるまでの北野武の8本の作品は、勿論、ここに名前を挙げた映画作家の作品とはいかなる意味でも似ていない。われわれは、いうまでもなく、誰にも似ていない映画作家の思いもかけぬ登場にうれしい驚きを覚えたのである。その喜びには、しかし、ある種の戸惑いに通じるものがあったといわねばならない。

例えば、彼とほぼ同世代ベルナルド・ベルトルッチやヴィム・ヴェンダースなら、映画作家となるにあたり、どのような映画を見たことが決定的だったのかをある程度まで想像することができる。ニューヨークのインディペンデント作家ジム・ジャームッシュの場合でさえ、その系譜をたどることはまったく不可能ではない。ところが、北野武の場合、彼がどんな映画に強く惹かれたのかを知ることは、ほとんど不可能となる。例えば、『8 1/2』のフェリーニには大いに共感するが、しかし、映画監督の役を演じるマルチェロ・マストロヤンニのかたわらに、その演技を指導するフェリーニ自身を画面に登場させなかったことがこの映画の最大の弱点だと彼はいいはなつ。このように、過去の作品に対してきわめて醒めた視線をもつ北野武は、父親や叔父や兄貴に相当する映画作家を一人も持たない過酷なまでに孤独な存在であり、その限りにおいて、「ヌーヴェル・ヴァーグ」の伝統につらなるものではない。勿論、大学教授の親しい兄を持つ彼にとって、この孤独はあくまで映画作家としての孤独にほかならない。

ビートたけし名義で出版された『仁義なき映画論』(太田出版、1991年、現在は文春文庫)の中で、彼は、黒澤明の『夢(Yume)』(1990)など第一のエピソードを見ればあとは熟睡していて充分だ、とか、マーチン・スコセッシの『グッドフェローズ(Goodfellas)』(1990)の殴る場面は悪くないが、全編がいかにも長すぎる、とか、コッポラが『ゴッドファーザーPart III(Godfather Part III)』(1990)を、マイケル・チミノが『逃亡者(Desperate Hours)』(1990)を撮らねばならぬ時代のアメリカ映画は不幸だ、とか、そんな言葉を饒舌に書きつけている。だが、かつて、彼自身がどんな作品に熱狂したかについてはきわめて禁欲的で、多くを語ろうとはしない。そのことから、突然変異の怪物にでも出くわしたかのような不気味さの印象がきわだつのである。

寡黙

ある時期まで撮影所で育つことが当然視されていた日本の映画作家のほとんどは、どの映画作家に助監督としてついたかによって、ほぼその系譜を確認することができる。例えば、松竹撮影所で小津安二郎の最も怠惰な助監督だったという経歴が、逆説的ながら、今村昌平の位置を確定しているのである。だが、ながらく映画産業を支えてきた撮影所システムは、1970年代を通じてほぼ完全に崩壊したといってよい。刺激を欠いた1980年代の日本の映画的な光景を活気づけていた新世代の映画作家といえば、柳町光男と相米慎二の二人きりだった。にもかかわらず、『火まつり』の監督がシネフィル出身で、青年時代からひたすら映画を撮ることを目指しており、撮影所システムの崩壊を好機ととらえて登場した新しいタイプの作家であることはすぐにみてとれる。また、『ションべン・ライダー』や『台風クラブ』の監督の場合は、崩壊直前の日活で短い期間ながら助監督をしていた経験があり、その系譜をたどることも全く不可能ではない。それにくらべると、係累なしの映画作家北野武の孤独はいっそうきわだつ。

よく知られているように、北野武が『その男、凶暴につき』を監督したのは、たんなる偶然にすぎない。それは、ビートたけしを主役に迎え、深作欣二が監督にあたるはずの企画だったのである。深作が個人的な理由で監督を降板したとき、北野武はすでに完成していた脚本に思う存分手を加えるという条件で、その監督を引き受けることになる。この場合、脚本に手を加えることは、成瀬巳喜男がそうであったように、無駄な台詞をことごとく排除することを意味していた。テレビドラマの脚本家として、また小説家としても有名な野沢尚(さとし)が、作品完成後に、自分の脚本が改竄されたことに強く抗議したのも当然だろう。また、「『ランボー(Rambo)』(1982)の二番煎じみたいで、右手に拳銃、左手に機関銃、そんな感じの脚本」に手を加え、アクションの質についても変更を加えることになる。やくざ映画で名高い深作欣二が得意としためまぐるしい手持ちキャメラの動きによる乱闘シーンなどは、極力排されることになるだろう。こうして、テレビのヴァラエティー番組ではもっぱらその饒舌で人気をえていた芸人ビートたけしは、映画作家となるにあたって、ひたすら寡黙であることを選択したのである。

実際、この映画で誰もが覚えているのは、「凶暴」な刑事のビートたけしが無口で歩いたり走ったりするシーンばかりだ。『鬼火(le Feu Follet)』(1963)でも使用されたエリック・サティの音楽を緩やかな歩行のリズムにふさわしく編曲するという着想は、もちろん、ルイ・マルへのいかなるオマージュをも意味してはいない。同様に、無駄な台詞の削除を北野が成瀬から学んだのでないことも明らかである。それは、意識的な方法というより、ほとんど無意識の選択というに近い。その無意識に賭けること。それが北野武の唯一の方法的な身振りであり、その無意識が機能している限り、彼は映画を撮り続けることになるだろう。

海辺

例えば、ひとりの刑事が、長らく入院していた妹を病院に迎えにゆく場面をどう撮るか。すでに何度か「凶暴」さを発揮して警察署長をてこずらせていた『その男、凶暴につき』の刑事は、同僚との会話で妹の全快が近いことをさりげなく予告している。だが、北野武は、兄と妹との再会の瞬間にキャメラを向けたりはしない。彼は、精神を病んでいたらしい彼女が病院から去る光景を、細くて暗い廊下に設定する。主治医らしい男に先立たれて、兄と妹は、無言のまま、回廊風の廊下を進んでくる。

正面からとらえられた歩調は早くもなく遅くもなく、むしろ単調なリズムだといってよい。比較的低い位置に置かれたキャメラは、かなりの距離から三人の男女を暗がりに浮き上がらせ、無愛想な表情のビートたけしの律儀な歩行ぶりを正面から見据える。そのとき、主治医の左側をうつむき加減で進んでくる若い女性が妹であることを、人はかろうじて理解する。人混みにまぎれれば誰ともみわけがつかぬほど、彼女の表情は地味でとりとめがない。

直角に曲がっている廊下を右にまがり、同じ歩調で遠ざかってゆく彼らの後ろ姿を、キャメラはしばしとらえ続けている。ややあって、低い主旋律の緩やかな高まりとともに戸外に位置を変えたキャメラは、窓越しに三人の無言の歩行ぶりを横移動で追う。だが、われわれにとって見慣れた顔はビートたけしのそれだけなので、彼の無愛想な歩調の進め方を見て、思わず犯人護送の光景かと勘違いしそうになる。再び、長い廊下の正面からの固定ショット。斜めからの陽光が人物の表情をきわだたせてはいるが、そこにいかなる変化もみられない。彼らがキャメラに近づいたところでショットが代わり、玄関の階段を降りてキャメラから遠ざかる三人の後ろ姿が逆光で視界に浮き上がる。その瞬間、黒々とした人影の向こうに拡がる海の青さを目にして、人は、北野武の無意識にとって、妹の退院が海への歩み以外の何ものでもなかったことを理解する。彼らは、海のみえる空間へと単調に歩みつづけていたのである。

主治医と刑事との別れの言葉はごく素っ気ない。待たせておいたタクシーの中で、妹は沿道の祭りの光景を目にする。妹につきあい、神社の境内を散策する刑事。屋台で売られている風車の赤さが、午後の光にまぶしい。そして夕暮れの海。風車を手に、日の陰った大海原を見やっている妹を促して、刑事は決定的な言葉を口にする。「帰ろう」。だが、彼は、そして彼と妹は、帰るべき場所を持っているのだろうか。

異性

海が北野武にとって真の救いの場所でないことは、その後の作品が示している通りである。『あの夏、いちばん静かな海』の聾唖の青年サーファーを無造作にのみこんだことからもわかるように、海そのものの不吉さを北野武は熟知している。実際、『HANA-BI』(1998)の全身不随の同僚の車椅子の車輪を砕けた波が濡らす短いショットには、ヒッチコックのようなサスペンスがよぎる。水は、北野武の世界では、まぎれもなく危険な環境なのである。だから、『菊次郎の夏』(1999)での北野武は、ビートたけしをプールで溺れさせてみさえするだろう。

にもかかわらず、彼がくりかえし水際の砂浜にキャメラをすえずにはいられないのは、彼の登場人物たちが惹きよせられるように足を止めるその宙吊りにされた遊技の場で、事故として死が準備されるからにほかならない。実際、『3-4X10月』(1990)の海辺での即席の野球から、『ソナチネ』における紙相撲の模倣、そして唐突なロシアン・ルーレットや花火をへて、『HANA-BI』のラスト・シーンの空を舞わない凧揚げ、『Brother』の散策とフリスビーにいたるまで、ほとんど悲劇と境を接した透明な明るさがそこには漂っている。『その男、凶暴につき』の妹の退院の場面は、危険な手招きを送る海の主題をあらかじめ描いていたのだといえる。北野武は「浜辺のコンプレックス」ともいうべきものにとらえられた映画作家なのである。海が何ものをも救わないばかりか、むしろ存在の危機を露呈させているはずなのに、彼は海への歩みを歩まずにはいられないのである。

この場面が予告しているのは、海の主題ばかりではない。それは、北野武の作品における異性の相貌をも明らかにしている。彼にとって、あらゆる異性は妹でなければならない。妹であるかぎり、それは目を見張るような美貌の持ち主であってはならず、人混みにまぎれれば誰とも区別ができなくなるような、ごく普通の表情におさまっていなければならない。その点に関する限り、女優の選択において彼は徹底している。『その男、凶暴につき』の妹を演じた川上麻衣子がすでにそうであるように、もっとも目立たない役者をあえて選んでいるのである。

『HANA-BI』に描かれている妻も明らかに妹のヴァリエーションにほかならず、接吻や抱擁の対象となりうる相貌からはほど遠い、むしろコメディが得意な岸本加世子が選ばれている。事実、二人の間には子供がいない。アメリカに舞台を移しても事態はかわらず、最近作の『Brother』に登場する日本人娼婦など、とてもやくざの趣味とは思えないほど華麗さからは遠い女性である。北野武の世界では、異性は、その優雅さによって人目を惹きつけてはならないし、その性的な魅力によって男性を誘惑することができない。『ソナチネ』には例外的に現代の若者風俗にふさわしい女性が姿を見せるが、彼女が裸の胸を見せてもビートたけしは動揺する風もみせない。これは、しばしば指摘されるように、北野武における男の世界に同性愛的な雰囲気が漂っているからではなく、兄と妹の近親相姦的な風土によるものと理解されねばならない。北野武における異性は、ほとんど無意識に、ハワード・ホークスの『暗黒街の顔役(Scarface)』(1930)の世界に接近している。

ホークスがそうであるように、北野武は家庭を舞台にしたメロドラマを題材とすることがない。家庭用の住宅が登場することがあっても、『その男、凶暴につき』の冒頭におけるように、それは「凶暴」な刑事がその「凶暴さ」を発揮する場として設定されているにすぎない。あるいは、『HANA-BI』の場合のように、そこには病身の妻が横たわっているだけであり、放浪生活を始めるとき、二人は初めて生き生きとした表情を取り戻すことになるだろう。実際、駅の構内や街角をうろつきまわっている『Kids Return』の少年たちの行動には、家庭の影さえ落ちてはいない。『HANA-BI』の傷ついた友人の刑事の家族がそうであるように、親子という関係はいたるところで崩壊する。それどころか、『菊次郎の夏』がそうであるように、彼の作品は、両親という登場人物の不在によってむしろ活気づくのである。『その男、凶暴につき』の兄と妹とは、だから天涯の孤独であり、彼らは本質的に孤児なのである。それが『Brother』の異母兄弟に受け継がれているのは明らかだろう。LAで再会する孤児の二人がほとんど言葉を交わさないのも、『その男、凶暴につき』の退院のシーンと同様である。

刑事の兄が退院する妹を迎えに行く場面は、北野武におけるキャメラの位置についても多くのことを教えてくれる。二人が主治医に先導されて長い廊下を歩いている場面で、彼らの姿が正面からとらえられている限り、キャメラは動こうとはしない。彼らの歩行を移動撮影で追うのは、窓越しの横からのショットに限られている。『その男、凶暴につき』の冒頭の、橋をわたる刑事を正面から望遠気味にとらえた長いショットからも明らかなように、ここでの運動はその不在に還元され、持続ばかりが露呈される。それに対して、自転車を横からの移動撮影でとらえた画面を最大限に活用していた『Kids Return』は、持続を消滅させる。

北野武は、この持続の露呈と持続の消滅の独特な配合によって、いかにも時間が流れたという叙事詩的な印象を排除する。彼が作品の編集を他人にまかせられないのは、多くの編集者が、本能的に、ショットを叙事詩的な時間の流れにふさわしく配列させてしまうからだ。彼の作品が、その質の高さにもかかわらず多くの観客を動員せずにいるのは、そのことと関係しているかもしれない。誰一人として、流れる時間に身を委ねることができないのである。映画作家北野武が描く世界は、いまなお唐突なのだ。それは、生から死への移行の唐突さなのだろうか。それとも、生そのものの不条理なのだろうか。


初出:'Takeshi Kitano ovvero l'orfano inafferrabile' in "Il Cinema nero di Takeshi Kitano" (a cura di Luciano Barcaroli, Carlo Hintermann e Daniele Villa), Ubulibri, 2001.

Copyright (c) HASUMI Shiguehiko & MUBE

Technoise Materialism: meta-electronics music3

2005-09-14 | 映画・アニメ
特集: 音楽/ノイズ--21世紀のオルタナティブ
テクノイズ・マテリアリズム:メタ・エレクトロニクス・ミュージック

オヴァル ドイツ

 オヴァルことマーカス・ポップについては,本誌にも以前,短いテキストを書かせていただいたので,ベーシックな紹介はそちらを参照していただきたい(本誌23号pp.104-105).現在のエレクトロニクス/エレクトロアコースティック/テクノ・ミュージックの世界において,オヴァルという存在がきわめて貴重なものであることがおわかりいただけるだろう.

 ここではその時点では触れられなかったクリストフ・シャルルとのコラボレーション作品『ドク』について述べておきたい.日本在住であり,音楽,映像,メディア・アートなどについて研究を行なっているアーティスト,クリストフ・シャルルは,オヴァルと同じドイツの電子音響レーベル,ミル・プラトーよりソロ・アルバム『undirected』を発表している.このCDはCDエキストラになっており,膨大な映像やテキストのデータに加えて,サンプル自由のサウンド・ファイルが収録されていた.アルバム『ドク』における二人の共同作業は,『undirected』の音源を含むサンプル・ソースをシャルルがポップに渡し,ポップがそれらを加工して楽曲を作り上げるというものである.ここ数年,オヴァルは,トータスからピチカート・ファイヴpizzicatoまでに至る,かなりの数のリミックス・ワークをこなしているが,『ドク』はその次の段階にある作品と言えるだろう.彼は素材を選ぶ権利を完全に放棄し,しかし歴然としたオヴァルのサウンドを提出してみせた.なるほど《ドク》から聴こえてくるのは,CDスキップのような不思議なサンプル・ループがモアレのごとく重なりあった,あのオヴァルの音楽なのである.

 このようなプロセスによって明らかにされつつあるのは,もはやマーカス・ポップMarkus Poppにとっては,オヴァルとは彼自身の音楽的(あるいはそれ以外の?)才能を表出するためのものではなく,一種の方法論,プログラム,システムの名称になりつつあるのだということである.彼は現在,オヴァル・プロセスというソフトウェアの開発を進めており,それが完成すれば,誰もがごく簡便に,任意のサンプルを基にオヴァルのサウンドを生み出すことが可能になるのだという.オヴァル的な,ではない.オヴァルの,である.ポップは文字どおりオヴァルなるものそれ自体を,他者へと向けて解放しようというのである.


ノト(カーステン・ニコライ) ドイツ

 ノトことカーステン・ニコライは,自ら主宰するレーベル,ノートン(NOTON)を中心に,近年めざましい活動を行なっているドイツ人アーティストである.彼は美術家のオラフ・ニコライの実弟であり,彼自身もドクメンタなどにおいてヴィジュアル・アートやインスタレーションを発表している.ノートンは彼が実験テクノ・レーベル,ラスター・ミュージックのサブ・レーベルとして設立したものであり,ゴーム=ロエル・メールコップ&フランス・デ・ワードの『STUD STIM』と,M・ベーレンスの『FINAL BALLET』は,ここからリリースされている.

 ニコライが97年のドクメンタで行なった二つのプロジェクトについて紹介しておこう.まず《SPIN》は,それぞれ45秒で一回りする72のサウンド・ループを,100日間に渡ってカッセルの公共的な空間のあちこち――空港,駅,ラジオ,ショップなど――で流しつづけるというものである.音素材としては電話やファックス,信号音といった,あえて日常性に埋没してしまうようなものが選ばれており,カッセルの人々は,自分でも意識しない内にノトのサウンドを耳にしていることになる.もう一つの《SIGN》は《SPIN》のヴィジュアル版とも言うべきもので,ニコライのデザインによるロゴマークが,市内の思いも寄らぬ場所に続々と出現するというものである.

 彼はまた,かなりの数のドローイング,スカルプチャー,インスタレーションなどを発表している.最近,ニュールンベルクの美術館より出版されたカタログ『POLYFOTO』には,さまざまなフォーマットによるニコライの作品群が掲載されている.同書を一覧すると,ニコライの手法がかなり多岐に渡っていることがわかる.一貫しているのは,ドット,丸,球体といった形体への奇妙なほどのこだわりである.《SIGN》のロゴも円形であり,思えばレコードやCDも確かに丸い.サウンド・クリエイターとしてのノトの代表作と言える『∞』は,エレクトロニクス・サウンドのループを10インチ盤2枚組の両面に刻んだものであるが,ループもまた一種の円なのである.

 ノトのサウンドは,いわば電子音による抽象表現主義絵画,パルス・トーンで構成されたミニマル・アートである.CD『SPIN』(ドクメンタで使用された音源と同じものかは不明)と『∞』を併せると,1分足らずから数分までの長さをもった作品が実に96曲も収録されていることになる.それらはいずれもきわめてシンプルでありながら,予定調和的ではない斬新な響きを有している.その多くがあたかも接触不良を起こしているかのようなサウンドなのだが,メゴの場合とは違い,デジタルな感触は(たとえそうであったとしても)抑えられている.むしろ,より物質的な,モノ的な印象の,まるで手で触れることができそうな電子音響なのである.

 最近,カーステン・ニコライは,ドクメンタのプロジェクトと同題の『SIGN』というミニ・ブックを制作している.これは《SIGN》のロゴマークがどのようにして作られたかを,いわゆる「パラパラコミック」のスタイルで示したものである.黒い円の上に,白インクを垂らしていくと,極小のドットがいくつかランダムに現われ,やがて奇妙なマークが形作られる.ページをパラパラとめくることで,その一連の動きを再現することができるのだが,そのさまはどこかノトのサウンドを彷彿とさせるのである.SIGNとはニコライにとっておそらく,SINEでもあるのだ.
http://www.rastermusic.com

前のページへleft right次のページへ

誰の攻殼 之2

2005-09-09 | 映画・アニメ

續至完:

 

 

 

圖:巴克和塔克奇馬戰車

這裏有個大問題,一般而言,你把人的腦子變成位元之後,它應該就是
「回憶」吧。(這是片中的台辭,不是我提的疑問,確是片中角色提出
來的問題。),那麼,是不是「回憶就等同於人的靈魂」?(這句話,
也是片中的台辭)。

攻殼機動隊第二季的故事,初看之時,我一直以為只是個政治故事,以
為押井守又回到了當年機動警察的老路子去了,不料看到最後幾集才駭
然發現,原來押井守還在作解題的工作,他的野心恁是大得嚇人。
 
 
(這不過是部動畫片呀,押井守怎麼寫起論文來了?)
 

押井守不停地自問自答:「回憶」就是人的「ghost(靈魂)」嗎?
 
人的ghost(靈魂)究竟是什麼?可以完全量化嗎?
 
可以用數學模型加以解釋嗎?
 
當你要把靈魂電子化時,肯定得要有處理的過程,
 
是不是把回憶處理成位元後,那些位元,就是人的ghost(靈魂)?
 
一旦將記憶電子化之後,ghost是不是就有了分身,有了備份了?

再回頭看整個攻殼機動隊的創作過程吧,從一開始的「肉體拋棄」,士
郎正宗最早處理的問題只是:肉體要拋棄到多少的程度,人才不是人?

從這個命題出發,二十年來,歷經兩位大師的協手合作,經由三十多小
時的電視劇情和近三個多小時的電影劇情推演,我們看到了攻殼機動
隊,已經到了討論靈魂的界定,和生命本質的層次上頭。

 

在第二季的劇情中,作為反派主角的久世,終於在歷經長達二十多集的
劇情,最後,才說出來他的驚人想法,他要革命,他要把三百萬個難民
的ghost,轉移到「上層結構」去,這個上層結構有別於真實世界的上層
結構,而是指的類似網路的狀態,從此,脫離肉體的捆綁,成為更高層
次的生命體。

 
太驚人了,不管押井守扯了多少政治的,文化的,社會的議題出來,原
來他一心唸茲在茲的,就是這個結論,要讓人的肉體侷限性消失,成為
新的人種。最終完成人類最終的進化過程。

可惜在押井守作出結論之時,AI戰車阻止了劇情的推展,AI戰車以犧牲
自己,來交換三百萬難民的進化大實驗。故事因而有了一個幾近於悖論
的完美結局。

靈魂不需要shell,塔克奇馬戰車已經告訴我們了。但,人的靈魂是不是
真的能脫離shell而存在?這個,只有讓未來的薙子,在脫離肉身進入網
路後,才能告訴我們。

這,就是第二季電視版中,押井守的結語。

(可事實上,更早面世的電影版,薙子已經告訴我們答案)。

要問我的看法,整個攻殼機動隊的創作太有趣了,作為一個追蹤此創作
長達二十多年的讀者而言,我是相當滿足的,也許押井守說的對,也許
說的錯,也許士郎正宗參與創作得多,也許參與的少,都無所謂。

我終於看明白了電影和電視版的關係,並且,在押井守的冗長推論中,
得到相當程度的滿足和快感。那些支微的,跳亂的,看不明白的旁伸劇
情和劇情,在終於看完全套作品之後,我才發現,就總體而言,沒有一
段故事是失控的,都是缺一不可。相互為了印證彼此的合理性而存在。

 

攻殼機動隊,因此我能斷定,這絕對是一部傳世的經典,因為它深沉而
大氣,有讓人回味和思考的空間,在日本這種OVA盛行,電視卡通量產
驚人的國家,這麼多年,作為一個觀眾的我很高興,終於有攻殼機動隊
整套作品的完成。它不是單純的取觀眾的重覆性作品,它不是像剛彈
一樣,為玩具市場存活的裹腳布,相反的,它是有生命的,在這二十年
來不斷地自我完善。

而後,終於長成。

也許還會有下一季,下一版的攻殼機動隊,那我會十分期待,會像這次
一樣,用上幾個月,幾年的時間,慢慢將之搜集完整,並且看完。

若沒有下面的產品了,我也會很高興。

因為攻殼機動隊已經畫下了,完美的句點。


誰の攻殼 之一

2005-09-09 | 映画・アニメ

圖:第一代攻殼機動隊,電影版

  
誰人的攻殼?
 
感謝有emule這種玩意,終於在前後長達一年的時間裏,陸續把攻殼機動
隊一和二的電視版給搜集完整,好歹總算給看完了。而這中間,還夾雜
著電影版續集的上市。

漸漸地,我看出來了押井守可怕的野心,當初由士郎正宗所構建出的假
想世界,一個小小的,薄薄兩本單行本漫畫,一個關於「靈魂」和「身
體」相互牽扯的簡單疑問,在這麼些年不斷的努力後,終於完整地轉成
了押井守個人的私有物。整套攻殼機動隊,包括兩套五十多集的電視影
集,加上兩部完整長度的電影版故事,押井守成把士郎正宗提出的簡單
疑問,不斷演化推衍,最終作成了一道巨大的申論題,最終,也許不完
全,但,至少成就了一個非常工整的世界觀,這個世界觀,早己超脫士
郎正宗當初的軌道,激進地體現了押井守對於人類進化的大膽預言。

故事是這樣的,士郎正宗發明了兩樣東西,一個叫「ghost」,一個叫
「ghost shell」,在這裏,請忘掉「攻殼機動隊」這個奇怪的日本原名,
用英文來看會清楚許多,ghost,就是靈魂,ghost shell,就人包裹靈魂的
外殼,它可以是肉身,在未來的世界裏,它也可能是機械裝置,在漫畫
原作中,被稱作「義體」。

 

圖:義體中的人腦

 

整個漫畫故事的核心,就圍繞在靈魂究竟能不能脫離肉身而存在?靈魂
和人工化的身體,又能不能相合協調?因為在士郎正宗預想的未來世
界,人類身體的機械化愈來愈常見,而機械的義體是不可能精密到與人
的肉身相同,所以,作為一個身體已經部份,或全部義體化的人類,你
的腦子肯定會和你的機械身體發生不一致的矛盾,(不管是形而上的,
還是形而下的),而這些衝突就是整個劇情鋪陳的張力之所在。

腦子和義體不能協調時,就會導致失控和犯罪。

主角薙子是個全身都義體化的女人,她是非常早期的義體化實驗品,很
小的時候,當義體化還很少見的時代,她就完成了全身的改裝,只賸下
了腦子還是原來的肉身遺留物。也因此,她運用義體的能力舉世無人能
出其右,長大後,她成了警察。她是一個無堅不摧的超人,在面對各式
各樣的罪犯時,她根本不在乎他人的稱讚與畏懼,她甚至會喝酒,會到
船上賞月,而事實上,酒對她的身體不會起作用,她的身體因為比重的
關係,會沈到水裏,再也浮不起來。這些支微的情節,我們看到薙子刻
意地忽視自己的特殊性。

在某些層面上,她甚至是極其無情、冷酷而殘忍的。
 
在原版漫畫的設定中,故事線就是簡單的警察查案,一個個跟「義體
人」,跟「人工智能機器」,跟「生化機器人」等等相關的衝突被敘訴
出來,而這些短篇,起初讓人以為,士郎正宗只是集成了一個完整的近
未來世界想像。直到高潮出現,薙子遇見了一個超級犯人,最終發現這
個犯人,竟然只是一個程式,一個由政府寫作,不小心被溜走的程式。

薙子才第一次開始思考她的靈魂和肉體的關係。

漫畫到此嘎然而止。漫畫中,薙子許諾了這個程式,她將她的腦子向犯
人開放,讓這個程式與她融合,最終彼此相互交談,作出了冗長不堪的
討論結束,(事實上,留下了一個小小的尾巴,意指程式昇級了,變成
不一樣的存在,薙子私放了它,讓它繼續存在。),這是士郎正宗作品
的大毛病,因為多是建基在一個人的獨力創作之上,沒有助手,沒有工
作室,沒有太多的外力奧援,所以作品常常有一定的額度,兩本或三本
漫畫就是創作極限,而最終的結局,總要把沒來得及說完的故事量,全
部用說的了結。

雖然結局不佳,但,最終還是成就了八零年代的創世傑作。

圖:原版漫畫

 
這套漫畫,我們知道後來推動了駭客帝國的誕生。所有駭客帝國裏的元
素,在這部漫畫裏都能找到,尼歐就是薙子的下一版,全生化的人工
ghost,而病毒就是史密斯,史密斯一直想要融合消化尼歐,這樣的饑渴
感,跟攻殼機動隊中,傾慕薙子的病毒,如出一輒。

九零年代,押井守開始製作相關的影像化作品。押井守大膽益常,在攻
殼機動隊最早面世的電影版中,結局的安排,薙子竟然根本上拋棄了義
體,拋棄了自己原生的腦子,和程式結合,而後進入網路世界,成為第
一個只存在在網路上的人類新生命。

士郎正宗不敢明說的東西,押井守一次給你說到位了。

圖:薙子和病毒結合

 

押井守這樣絕然的創作態度,一度讓我們以為,攻殼機動隊的故事已經
說完,因為主角已經消失了,不存在人的外觀型象,而且,在網路上的
生命也是不可知解的,作為觀眾,真的很難想像這個故事還有續製的空
間。

所以,電影之後,後續的第一套電視版,果然把時間點往回推,押井守
退回到薙子警察生涯的早期,也就是薙子在電影版之前的生命歷程。這
套影集確實驚人,影像上保持了電影版至少百分之七十的華麗感,製作
極其精美,而且除了士郎正宗原著中的段子之外,還加進許多更驚奇有
趣的段子,比如劇中的坦克車,塔克奇馬。

第一季故事最終,塔克奇馬犧牲生命去拯救人類的場景,確實給人無比
的震憾。這條故事線的說服力,甚至超過了主線劇情的笑臉男人。(老
實說,一直到現在,我仍然不能說服自己完全理解了笑臉男人的故事到
底在說什麼。)

士郎正宗想說的東西,到了押井守的電影版,成了更激進的,一刀兩斷
式的結局,但,說到底押井守還是沒說清楚他的ghost邏輯。(要是能講
明白,士郎正宗不會不說明白的),所以,這成了攻殼機動隊的大麻
煩:包括後頭生產的電視版,第一季全部十數個小時的電視劇情,全都
說不清楚。這樣的問題一直持續到第二部電影版出來,還是不清楚。

押井守的野心明顯地失控,除了ghost和ghost shell的老問題之外,他還把
自衛隊存廢的政治問題,東亞的難民問題,中日美三國爭持的外交問
題,還有日本未來社會諸多可能發生的內政問題,全加到他的作品裏。
 
愈扯愈多。

我們因些必需忍受片中許多的長篇大論,在艱深的對白中,去找尋押井
守的微言大義,這個情形,尤其在沒有了主角薙子的第二部攻殼特攻隊
電影版中,最為害。幾乎片中每一句台辭,你都能找到出處,押井守
簡直是瘋狂了一般地,用盡了援引的手段,從各國詩人、政治家和作
家、哲學家的著作中,找出來奧妙無比的句字,粘貼一句句的對白,最
後完成這部續集電影。

而電影故事其實沒什麼了不起,劇情的主要陳述動力,也就是一個案
子:不良商人作的性玩具機器人中,用上了綁架來的真人ghost。把真人
的意識剝離,灌注到了機器人的記憶體中。

雖然電影的情節有些失控,題材之於劇情,也有過度承載的情形,但,
看完第二部電影版,我卻不免對接下來要登場的攻殼機動隊的第二季度
電視版,有了更高的期待,因為,押井守自己似乎正像片中的巴克一
樣,一步一步地驅近了問題的核心,從找到問題,到確定問題,到解開
問題,押井守的創作脈絡愈來愈清楚。
 
在第一部電影版中,押井守和士郎正宗其實是有衝突的。
 
原作中,士郎正宗說的很清楚,士郎正宗認為,即使你的身體是義體,
但,義體本身也有靈魂的存在,人的靈魂是不可能脫離它的載體而存
在。

士郎正宗的創作是有極限,正如他原來的漫畫劇情,薙子和程式作了所
謂的「融合」,這已經是離經叛道的行徑,(所以,薙子只把這件事和
巴克說,連巴克也驚嚇不已),薙子淡然地說道:「網路上可能多出了
一個新生命。」但,其實薙子自己也不確定,士郎正宗也沒有明講。整
個漫畫就這樣結束了。

而在押井守的電影版,押井守卻是一步衝出更遠,他認定了,靈魂可以
脫離載體,變成電子化而存在,這是一種大膽的論點,大膽到他自己都
沒辦法自圓其說,所以,押井守在第一代的電視版中,用塔可奇馬戰車
的AI人工智慧來作平行對比。

圖:薙子和塔克奇馬戰車

當戰車也有了高尚的情操和精神後,有了獨立自主的判斷後,甚至可以
為了拯救人類,主動去死的時候,你又如何能說這不是ghost?
 
而塔克奇馬的ghost,明明可以隨意地在各種硬體之間游走,不存在和單
一硬體的捆綁。在這樣的對比情節之下,若我們還堅持人類的靈魂不能
脫離腦子而存在,那就是一種人類沙文主義式的妄自尊大。
 
這是押井守的布爾什維克主義,一種正反合之後,經由辨證法推論出來
的,不得不其然的結論。

這是押井守的故事說法,就是平行對比,除了塔克奇馬人工智慧的戰
車,他還強化了士郎正宗原來創造的人工病毒情節,第一季電視版中,
押井守發明的「笑臉男人」,第二季是「孤獨的十一人」(英文原意是
「孤獨情結」)。

押井守用塔克奇馬戰車的獻身,來證明人工AI也有ghost,然後,押井守
告訴你,ghost與硬體之間,沒有必然的依存關係。

其次,押井守又說,人的靈魂是會被病毒改變的,甚至是能融合的,會
變成新生命的存在的。

就這樣,押井守完成了他對士郎正宗作品的進一步推演,解答了士郎正
宗漫畫中提出來的問題,ghost和ghost shell是可以剝離的,二者可沒有任何
關係,人的ghost,甚至可以離開人的肉腦。

圖:腦子離開義體,強迫讀取資料中。

好了,故事說到這個份上,押井守把自己弄到擂台的繩圈角落,他得面
對自己最強大的敵人,他最終要解決,並向觀眾交代的就是:脫離了肉
腦,人類的ghost變成電子化之後,那個ghost(靈魂)究竟是什麼?

FROM:YOLFILM
 

cowboybebop世界観説明 |

2005-08-22 | 映画・アニメ
cowboybebop世界観説明 |






































 舞台は2071年。人類は太陽系に散らばって生活しているが、更にその外側に行くほどまでには科学も精神もそれほど進化していない未来。その50年前……2022年にすべては始まった。地球上空で「位相差空間ゲート」の開発中、事故が起こり、地球と月に壊滅的なダメージを与えたのだ。地表は放射線に汚染され、人類は宇宙への脱出を余儀なくされた。皮肉にも、すべての原因である位相差空間ゲートの力を借り、人類は太陽系の各惑星へと飛び立ったのだ。 
国家はなし崩し的に無くなり、人種の混合が進む。 が、しかしそれは人種や文化の壁を取り払うことと同義ではなかった。ハイブリッド化と同時進行的に、む
しろ固有の民族はそれぞれの文化色を強く残したまま、各地でコミュニティを築き生活している。第二次世界大戦後の混乱期にも似た、奇妙な活気を帯びた時
代! 経済復興の一方、闇社会も勢力をのばし、貧富の格差も進んだことから、犯罪者も増加していった。この混乱期はのちに「ローリング・トゥエンティーズ
(激動の20年代)」と呼ばれ、さまざまなマフィアやヤクザが、違法ドラッグの取り引きなどで暗躍し、拡大していった。 やがて時が流れ、各惑星
や衛星は独立国家となり、地球を知らない世代が多くを占めるようになった。ゲート技術もすっかり安定し、人々の生活に無くてはならないものになった。各惑
星はI.S.S.P.(太陽系刑事警察機構)を結成し、国家の枠を超えた犯罪を取り締まるようになる。そして、そのI.S.S.P.と同時に設立されたの
が「賞金首制度」、通称“カウボーイ法”だ。申請して免許を得た者は、賞金首として手配された人間を逮捕する権限を得る。その犯人と引き替えに、あらかじ
め設定された賞金を手にすることができるのだ。かくして、無数の犯罪者を追う無数の賞金稼ぎ(カウボーイ)が太陽系を舞台に入り乱れることになる……(太
陽系には約30万人のカウボーイが存在する)。 2071年とは、そんな時代である。































 
飛行機、車、船、兵器、コンピュータ、etc……。それらは我々の暮らすこの世界とそう変わりはない。大きな違いがあるのは宇宙船の存在、すなわち
「MONO」の存在だ。Machine(機械)/Operation(操作)/Navigation(航行)/of Outer
Space(大気圏外)の頭文字をとったこのシステムは、大気圏外活動に必要な機体制御・位置確認・自動計算などの操作を一括したもので、基本的にこの世
界のすべての宇宙船が搭載している。また、これとは別に、各機体共通のコックピットスペースおよび脱出ポッドを「モノ・ポッド」と呼ぶ。 
すべての宇宙船は「MONO」システムを搭載しているため「モノ・マシン」と呼ぶが、限定的な呼称として、モノ・ポッドを搭載した小型~中型の宇宙船のみ
を指して「モノ・マシン」と呼ぶ場合もある。また、タイプ形状から「モノ・レーサー」「モノ・ボート」「モノ・キャリア」などの区分けがあるが、厳密では
ない。 TVシリーズでは主に民間のモノ・マシンばかりが登場したが、劇場版では軍用の機体も登場するようだ。


























惑星間航行漁船改/全長142m/全幅69.2m/全高45.6m/重量1567t ジェットが
中古で買い取り、賞金稼ぎ用に通信設備や推進機関を増強した。元はガニメデの海で使われていた惑星間航行漁船である(ガニメデの海で捕まえた魚をそのまま
宇宙に運び出す! シロモノ)。スパイクやジェットたちの根城。部屋数は豊富で、勿論それぞれの個室もある。しかしあまりに部屋数があり、当の本人達でも
把握してない部屋もあるようだ。


























高速戦闘機/全長13.8m/全幅13.3m/全高4.8m(銃部含む)/重量8.4t スパイクの
操るモノ・レーサー。元はレース用に開発されたものを改造、武装し、オリジナルの機体となっている。両翼に機銃を4挺、機体下部にレーザー発振器を1挺装
備。主機関は核融合エアロスパイクモーター、短距離用の推進機関にブースターノズルを搭載。スパイクの10年来の愛機で、元の持ち主はドゥーハン。


























高出力牽引機/全長21.5m/全幅12.3m/全高7.7m/重量15.3t ジェットの乗るモノ・ボート。宇宙漁船のキャッチャーボート(銛打ち船)だった機体に大型エンジンと推進剤タンクを増量し、機動力を強化。兵器は搭載していないがヘッドクロウやパワーヘッド、ウインチ付きアンカーロッドを搭載し、パワフルなマシンに仕上がっている。


























重火器搭載型VTOL機/全長8.6m/全幅7.2m/全高5.4m(銃部含む)/重量7.2t フェイの
搭乗するモノ・キャリア。大気圏内・圏外両用の三段階可変機能エンジン2基と核融合ロケットエンジンを1基搭載し、優れたVTOL(垂直離着陸)性能を持
つ。各種装備を付け替えることによって様々な用途に対応できる機体だが、フェイはもっぱら火力を強化。市販兵器はおろか、独自の武装まで施しているよう
だ。


































 
我々の住む世界が1/48秒の周期で“明滅”しているとする「明滅宇宙論」。この理論では、1/48秒周期で我々の存在自体も“消滅”しており、その消え
ている瞬間に現れる別次元の空間が「位相差空間」だという。その空間サイズは通常空間の1/240とされ、つまりこの空間内に進入することができれば、実
際の1/240で目的地に到達できることになる(通常空間から見れば240倍のスピードで航行しているように見える)。 そして、位相差空間に入るための装置が「位相差空間ゲート」。通過すると惑星間を飛躍的に短い時間(地球-火星間で13~24時間)で航行できるようになる。現在でいう高速道路のような存在で、ゲート自体は「ゲート公団」によって管理運営されている。 また、ゲートの発明によって大量の資材や太陽光線を地球より遠い惑星に“運ぶ”ことが可能となったため、各惑星を人類が暮らしやすいよう、比較的容易に改造できるようになった。この技術は「テラ・フォーミング」と呼ばれる。

溝口健二(十一)

2005-08-18 | 映画・アニメ
溝口健二作品年表
  
  1948年
夜之女
製作:松竹京都 原作:久松榮二郎 腳本:依田義賢 攝影:杉山公平
主演:田中絹代/高杉草苗/角田富江等
通過一個大阪妓女的命運,對戰後的場景和女人的悲情有完美的描繪。《電影旬報》「年度十大」排名第三。(有膠片留存)

1949年
我的愛在燃燒
製作:松竹京都 腳本:依田義賢/新藤兼人 攝影:杉山公平
主演:田中絹代/水戶光子/小澤榮太郎等
講述戰後女性運動中一個著名女性故事的。她出身外省貴族家庭,為了一個男人而來到東京,這個男人後來證明是一個間諜。戰後她嫁給了一個從事民主運動的男人,但感到幻滅,離開了他,而決心將此生投身於婦婦權利的運動。(有膠片留存)


1950年
雪夫人繪圖
製作:新東寶 原作:舟橋聖二 腳本:依田義賢/舟橋和郎 攝影:小原讓治 美術:水穀浩
主演:木暮實千代/上原謙/久我美子等
講述外省一個貴族家庭的沒落和女人對其婚姻的不滿。雖然溝口不滿意此片,但影片對被殘酷命運包圍的女人的自尊與優雅有優美刻劃。(有膠片留存)

1951年
阿游大姐
製作:大映京都 原作:穀崎潤一郎 腳本:依田義賢 攝影:宮川一夫 美術:水穀浩
主演:田中絹代/乙羽信子等
改編自穀潤潤一郎的小說,是溝口不滿意的一部影片。講述一個為妹夫所愛的寡婦的故事。(有膠片)

武藏野夫人
製作:東寶 原作:大岡昇平 腳本:依田義賢 攝影:玉井正夫
主演:田中絹代/森雅之/山村聰/轟夕起子等
情節劇,講述一個住在東京郊區的大學教授的妻子的故事。溝口想遵循《雪夫人繪圖》的路線拍攝,但失敗了。(有膠片留存)


1952年
西鶴一代女
製作:新東寶 原作:井原西鶴 腳本:依田義賢 攝影:平野好美 美術:水穀浩
主演:田中絹代/山根壽子/三船敏郎等
關於妓女的故事,改編自十七世紀的作家井原西鶴的小說。阿春由貴族人家的女子慢慢淪落為妓女。她是男人追逐錢財和性的犧牲品。以閃回的形式開始講述故事,攝影精妙。《電影旬報》「年度十大」排名第九。威尼斯電影節最佳導演獎。(有膠片留存)

1953年
雨月物語
製作:大映京都 原作:上田秋成 腳本:川口松太郎/依田義賢 攝影:宮川一夫
主演:京町子/田中絹代/森雅之/小澤榮等
美麗、幽玄的關於十七世紀製陶工的故事。他沈迷於一個女鬼的誘惑幾乎為此而死。溝口的電影結尾原計劃比後來完成的影片更悲情,但公司不允許。《電影旬報》「年度十大」名列第三。威尼斯電影節銀獅獎,意大利影評人大獎。(有膠片留存)


  祇園囃子
  製作:大映京都 原作:川口松太郎 腳本:依田義賢 攝影:宮川一夫
  主演:木暮實千代/若尾文子/河津清三郎等
  是1936年的《祗園姐妹》的重拍,但背景設定於戰後日本。溝口再次抱怨公司改動了劇本,令電影有一種未完成的感覺。(有膠片留存)
  
  
  1954年
  山椒大夫
  製作:大映京都 原作:森鷗外 腳本:八尋不二/依田義賢 攝影:宮川一夫
  主演:田中絹代/花柳喜章/香川京子等
  浪漫蒂克的完美和野蠻的現實主義的對比。十一世紀的一個貴族家庭由於政治原因而分開,後更加成為奴隸交易中的犧牲品。兒子掙扎求存,以實現其父的憐憫和平等的理想,在最後衹有放棄其新的政治權力的時候才能達成。威尼斯電影節銀獅獎。《電影旬報》「年度十大」排名第九。(有膠片留存)
  
  
  謠言中的女人
  製作:大映京都 腳本:依田義賢 攝影:宮川一夫 美術:水穀浩
  主演:田中絹代/大穀友右衛門/久我美子等
  講述一個在京都經營藝妓屋的女人的生活。(有膠片留存)
  
  近松物語
  製作:大映京都 原作:近松門左衛門 腳本:依田義賢 美術:水穀浩
  主演:長穀川一夫/香川京子等
  根據十七世紀近松門左衛門的文樂淨琉璃《大經師昔歷》改編。一個商人的女兒被誣與其父親工場中的一個男工人通姦。他們一路逃亡,成為真的情侶。後雙雙被抓住並處以極刑。強烈反封建價值的電影,聚焦於女性的地位,攝影精妙。《電影旬報》「年度十大」名列第五。(有膠片留存)
  
  1955年
  楊貴妃
  製作:大映東京 腳本:陶秦/川口松太郎/依田義賢/成沢昌茂 攝影:杉山公平 美術:水穀浩
  主演:京町子/森雅之/山村聰/小澤榮等
  講述發生中國盛唐時期著名的楊貴妃故事。溝口的首部彩色電影。(有膠片留存)
  
  
  新平家物語
  製作:大映京都 原作:吉川英治 腳本:依田義賢/成沢昌茂/辻久一 攝影:宮川一夫 美術:水穀浩
  主演:市川雷藏/久我美子等
  基本上是時代劇格局,沒有典型的溝口的元素。反映十二世紀沒落的貴族階級和新興的武士階級的矛盾。(有膠片留存)
  
  1956年
  赤線地帶
  製作:大映京都 原作:芝木好子 腳本:成澤昌茂 攝影:宮川一夫 美術:水穀浩
  主演:京町子/若尾文子/木暮實千代/三益愛子等
  溝口的最後一部影片,集中了他喜愛的主題:妓女。對幾個妓女的艱難狀況和造成她們如此的原因(有的為了孩子的上學,支持失業的丈夫,為讓父親出獄等等)有極敏感的描繪。(有膠片留存)

溝口健二(十)

2005-08-18 | 映画・アニメ
溝口健二作品年表
  
  
  滿蒙建國的黎明
    製作:同上 原作:三上於菟吉/直木三十五 腳本:上島量/増田真二 攝影:青島順一郎 /中山良夫
    主演:入江高子/中野英治/松本泰輔等
    宣傳片,稱頌政府的侵略政策.拍於滿洲裏事件發生時.(沒有膠片,負片或腳本留存)
    
    1933年
    瀑布之白絹
    製作:入江製作公司 原作:泉鏡花 腳本:東坊城恭長/館岡謙之助/増田真二/清涼卓明 攝影:三木茂
    主演:入江高子/岡田時彥/村田宏壽等
    內容沈重但拍攝非常精美的情節劇.講述一個玩水上魔術的女孩愛上了一個窮學生,並供他上學.後來她被迫殺了一個高利貸者,被她的已成為法官的情人判有罪.她判了死罪,他自殺.<電影旬報>"年度十大"排名第二.(有膠片留存)
    
    祇園祭
    製作:新興電影公司 原作:川口松太郎 腳本:溝口健二 攝影:三木稔 美術:水穀浩
    主演:森靜子/岡田明彥/鈴木澄子等
    另一部內容沈重的情節劇.一個商人女兒與其父的一個雇員戀愛.其父的生意失敗,女兒的情人勸她嫁給一個有錢人以挽救她的家庭.有錢人的情婦殺死了這個年輕人.為配合夏天的祗園祭時間,電影拍了不到三個星期.不是溝口想拍的題材,是公司的授意.(沒有膠片,負片或腳本留存)
    
    神風連
    製作:入江製作公司 原作:十一穀義三郎 腳本:溝口健二 攝影:三木稔 美術:水穀浩
    主演:入江高子/月形龍之介/小杉勇/中野英治等
    發生在明治時代的故事.講述一群失去特權的武士起義,采用的是一個美麗的玩水上魔術的藝人的視點.這也是溝口被授意拍攝的影片.(沒有膠片,負片或腳本留存)
    
    
    1934年
    愛憎峽
    製作:日活多摩川攝影所 原作/腳本:川口松太郎 攝影:田達之
    主演:山田五十鈴/夏川大二郎/鈴木傳明等
    故事發生於明治時代的情節劇,講述一個自由黨的支持者和在山峽遇見一個巡回演出女藝人之間的愛情故事.(沒有膠片,負片或腳本留存)
    
    人人來建設
    製作:第一映畫社 原作:久米正雄 腳本:川口松太郎 攝影:酒井宏
    主演:鈴木傳明/月田一郎/中野英治等
    原書無評述,電影資料據JMDB補上.(譯註)
    
    折鶴阿千
    製作:第一映畫社 原作:泉鏡花 腳本:高島達之助 攝影:三木稔
    主演:山田五十鈴/夏川大二郎等
    講述妓女生活的影片,這是溝口喜歡的主題,但他感覺自己未能很好地表達主題.(有膠片和負片留存)
    
    1935年
    瑪麗亞的阿雪
    製作:第一映畫社 原作:川口松太郎 腳本:高島達之助 攝影:三木稔
    主演:山田五十鈴/原駒子/夏川大二郎等
    講述具有金子般心靈的妓女的故事.(有膠片和負片留存)
    
    
    阿嬢阿吉
    製作:第一映畫社 原作/腳本:川口松太郎 攝影:內炭吉四郎/酒井宏
    主演:山田五十鈴/梅村蓉子等
    原書無評述,電影資料據JMDB補上.(譯註)
    
    1936年
    虞美人草
    製作:第一映畫社 原作:夏目漱石 腳本:高柳春雄 攝影:三木稔
    主演:夏川大二郎/月田一郎等
    原書無此片資料,現據JDMB資料補上.(譯註)
    
    
    初姿
    製作:第一映畫社 原作:小杉天外 腳本:高柳春雄 攝影:三木稔
    主演:月田一郎/大倉千代子/梅村蓉子等
    同上
    
    浪華悲歌
    製作:同上 原作:溝口健二 腳本:依田義賢 攝影:三木稔
    主演:山田五十鈴/大倉千代子/大久保清子等
    溝口以現代女人為題材的首部電影,第一次與依田合作,也是他的現實主義電影的開始.一個年輕的電話接線員的命運因為對於金錢的天真渴求而被毀了.她的老闆佔有了她,那人的妻子到她的家裏發泄怨恨,她的未婚夫無能地聽之任之.<電影旬報>"年度十大"排名第三.(有膠片留存)
    
    祗園姐妹
    製作:同上 原作:溝口健二 腳本:依田義賢 攝影:三木稔
    主演:山田五十鈴/梅村蓉子等
    以現實主義面貌表現的反映京都祗園的傳統的富有魅力的藝妓世界.姐姐嚴肅而傳統,妹妹是現代的機會主義者,從一個個男人之中獲取錢財,最終悲劇收場.<電影旬報>"年度十大"排名第一.(有膠片留存)
    
  1937年
  
  愛怨峽
  製作:東京大泉攝影所 原作:川口松太郎 腳本:依田義賢/溝口健二 攝影:三木稔
  主演:山路富美子/河津清三郎等
  溝口持續以現實主義的手法聚焦女人生活.一個在溫泉旅館工作的女孩愛上了東京男人並隨他去了東京.男孩的父親帶走了他,剩餘她和生下的小孩度日.她隨一個巡回演出的團體到處演出,途中再次遇上了他.他的父親阻止他們兩人的複合,她回到了巡回演出團體與她喜歡的藝人一起生活.<電影旬報>"年度十大"排名第三.(有膠片留存)
  
  1938年
  露營之歌
  製作:新興映畫 腳本:田本秋一 攝影:青島順一郎 美術:水穀浩
  主演:河津清三郎/山路富美子等
  溝口被迫執導的影片,他不斷抱怨,後來退出了拍攝.(無膠片、負片及腳本留存)
  
  啊,我的故鄉
  製作:新興映畫 原作:小出英男 腳本:依田義賢 攝影:青島順一郎 美術:水穀浩
  主演:河津清三郎/山路富美子等
  溝口想拍當大商業侵入小鄉鎮時,女人對壓力的抗拒。一個經營溫泉旅館的男人強迫他的女兒嫁給一個富人,但她試圖她在美國留學的未婚夫回來。他回來了,卻娶了別的女人。女孩和其父親回到了東京。《電影旬報》「年度十大」排名第九。(無膠片或負片留存;有腳本)
  
  1939年
  殘菊物語
  製作:松竹京都攝影所 原作:村松梢風 腳本:依田義賢 攝影:三木滋人/藤洋三
  主演:花柳章太郎/森赫子等
  發生於明治時代的感傷的情節劇。一個從傳統歌舞伎世家逐出的年輕演員在女傭的幫助下學習如何完美自己的技藝。當他成名後,他的家庭後來接納了他,但不斷鼓勵他的女傭,卻死了。對無情、勢利的歌舞伎世界有深刻的刻劃。溝口認為通過這部電影終於創製了他獨一無二的手法。《電影旬報》「年度十大」排名第二。(有膠片留存)
  
  浪花女
  製作:松竹京都 原作:溝口健二/依田義賢 腳本:依田義賢 攝影:三木滋人 美術:水穀浩
  主演:阪樂好三郎/田中絹代/高田浩吉等
  講述大阪民間藝人之間的競爭。對一個好勝心強的妻子的個性有極出色的描繪。(無膠片、負片或腳本留存)
  
  
  1941年
  藝道一代男
  製作: 松竹京都 原作:川口松太郎 腳本:依田義賢 攝影:杉山公平 美術:水穀浩
  主演:中村扇雀/中村芳子等
  反映歌舞伎世界的一部影片,中村雁治郎的角色由其兒子扮演。講述了他的歌舞伎藝術生涯。(無膠片、負片或腳本留存)
  
  元祿忠臣藏
  製作:松竹京都 原作:青山真果 腳本:原健一郎/依田義賢 攝影:杉山公平 美術:水穀浩
  主演:河原崎長十郎/中村翫右衛門/河原崎國太郎/嵐芳三郎/阪東調右衛門/助高屋助蔵等
  分前後兩篇內容狂放的影片。溝口被迫拍攝的作品,響應上頭的要求拍攝稱頌封建忠誠價值和自我犧牲的內容以配合軍隊的侵略戰爭的國策。(有膠片留存)
  
  1944年
  團十郎三代
  製作:松竹下加茂 原作:加賀山直三 腳本:川口松太郎 攝影:三木滋人
  主演:河原崎権十郎/京町子/田中絹代等
  溝口被迫拍攝的影片,內容是關於一個著名的歌舞伎家庭。(無膠片、負片或腳本留存)
  
  宮本武藏
  製作:松竹京都 原作:菊池 腳本:川口松太郎 攝影:三木滋人
  主演:河源崎長十郎/田中絹代等
  溝口說他喜歡拍攝這類電影,講述一個封建時代著名武士的故事。不管它包含的封建倫理價值觀念,對人物的描繪是成功的。(有膠片留存)
  
  1945年
  名刀美女丸
  製作:松竹京都 腳本:川口松太郎 攝影:三木滋人
  主演:花柳章太郎/山田五十鈴等
  主題像上面的《宮本武藏》,焦點放在鑄劍師的妻子身上。(有膠片留存)
  
  必勝歌
  製作:松竹京都 原作:田阪具隆 腳本:清水崇/岸松雄 攝影:三木滋人等
  主演:佐野週二/澤村貞子等
  溝口記得岸松雄的腳本是講述鐵路掃雪工的生活的,但他並沒有表現出集體主義的工作精神。岸松雄同意這一點。影片拍出後遭到評論抨擊。(無膠片、負片或腳本留存)
  
  
  1946年
  女性的勝利
  製作:松竹大船 腳本:野田高梧/新藤兼人 攝影:生方敏夫
  主演:田中絹代/桑野通子/高橋豐子等
  按佔領軍的意思拍攝的反映女性解放的故事。一部學窮氣兼靜態的電影。看不出女主角在其孤獨的勝利中獲得了什麼有意義的東西。(有膠片、負片留存)
  
  歌磨和他的五個女人
  製作:松竹京都 原作:邦都完二 腳本:依田義賢 攝影:三木滋人
  主演:田中絹代/阪東好太郎等
  關於政府審查和妒忌女人的故事,故事基於十九世紀浮世繪畫師喜多川歌磨的生平。溝口私下向佔領軍當局讓也拍攝時代劇,經由這部電影他走出戰爭衰退期。
  《電影旬報》「年度十大」排名第七。(有膠片留存)
  
  
  女優松井須磨子之戀
  製作:松竹京都 原作:長田秀雄 腳本:依田義賢 攝影:三木滋人
  主演:田中絹代/山村聰等
  雖然這部講述第一位現代舞臺上的女演員的故事在商業上獲得了成功,溝口並沒有覺得它有多好。(有膠片、

溝口健二(九)

2005-08-18 | 映画・アニメ
溝口健二作品年表
    
  人間前後篇
    製作:日活大將軍 原作:鈴木善太郎 腳本:田本秋一 攝影:田達之
    主演:中野英治/岡田嘉子等
    改編自獲獎小說,一個年輕人懷揣著夢想來到京城,結果事事不順,不得己在幾個城市間漂泊,最後和一個富人的女兒結婚,然而恥於自己的過去,最後回到自己的家鄉。(沒有膠片,負片或腳本留存)
  
  海國男兒
    製作:同上 原作:山本嘉次郎 腳本:武田晃/小林正/山本嘉次郎 攝影:田達之
    主演:廣恒美/根岸東一郎等
    廣是出身海運學院的新面孔,溝口受命為拍攝一部電影.劇情講述畢業於海運學院的男孩在漁村贏得老闆女兒的芳心,且除暴安良,為漁村立下大功.(沒有膠片,負片或腳本留存)
    
    金錢
    製作:同上 原作:三游亭丹朝 腳本:田本秋一/武田晃 攝影:田達之
    主演:小泉嘉輔等
    喜劇,講述一個貧窮但樂天的壽司店男孩子於發薪日發生的故事.(沒有膠片,負片或腳本留存)
    
    1927年
    皇恩
    製作:同上 原作/腳本:田本秋一 攝影:田達之
    主演:市川春衛/高木永二等
    應軍方命令拍攝的電影.寡婦獨自撫養兩個孩子成人,小的一個參加了日俄戰爭,而大的一個誤入歧途.傷殘的小弟復員回家,身殘志堅,申斥大哥的墮落.溝口說本片受到軍方的審查.(沒有膠片,負片或腳本留存)
    
    阿裏山俠兒
    製作:同上 原作:巖崎秋良 腳本:田本秋一 攝影:伊佐山三郎
    主演:淺岡信夫/小杉勇等
    原書無任何評述,現據JMDB資料補上.(譯註)
    
    
    慈悲心鳥
    製作:同上 原作:菊池 腳本:田本秋一 攝影:田達之/中山良夫
    主演:山本嘉一/中野英治等
    關於復仇的情節劇.一個女孩有兩個求婚者,其中一個是律師,而她所嫁的那一個,則與一宗腐敗案在牽連.律師讓他進了監獄,挽救了其妻.但她永不原諒他,他孤獨地死去.<電影旬報>"年度十大"排名第七.(沒有膠片,負片或腳本留存)
    
    1928年
    人的一生
    製作:同上 原作:岡本一平 腳本:田本秋一 攝影:田達之
    主演:小泉嘉輔/津島律子等
    改編自岡本一平的漫畫的電影,共有三篇,溝口說它是"俄國式喜劇".(沒有膠片,負片或腳本留存)
    
    
    娘可愛
    
    製作:同上 原作:溝口健二 腳本:溝口健二/田本秋一 攝影:田達之
    
    主演:小泉嘉輔/北原夏江等
    
    原書無評述,現據JMDB資料補上.(譯註)
    
    
    
    1929年
    
    日本橋
    
    製作:日活太奏攝影所 原作:泉鏡花 腳本:溝口健二/近藤經一 攝影:田達之
    主演:岡田時彥/梅村蓉子/酒井米子/高木永二/夏川靜江等
    講述藝妓世界的愛情悲劇.一個年輕人尋找他的妹妹,她以成為別人的情婦的代價來供他上學,隨後消失了.他愛上了一個藝妓,其老闆漸走下坡路.全片充斥狂熱氣氛,自殺的企圖,不斷的分手和重聚.溝口對此片改編自他最喜愛的作家泉鏡花的作品而頗感自豪.(沒有膠片,負片或腳本留存)
    
    朝日之光輝
    製作:同上 原作:大孤朝日新聞 腳本:木村千胥男 攝影:溝口健二/伊奈精一
    主演:中野英治/入江高子等
    為朝日新聞報社成立十週年而拍的宣傳片,聚焦於兩位新記者及其朋友們的生活.(沒有膠片,負片或腳本留存)
    
    東京進行曲
    製作:同上 原作:菊池 腳本:木村千胥男 攝影:松澤又男/田達之
    主演:夏川靜江/小杉勇/入江高子等
    溝口說這是一部大製作,宣傳聲勢浩大.一個富人有私生女成了藝妓,被垂涎她美麗的男人們不斷凌辱.暗含溝口的社會批判.(僅存不完整的膠片)
    
    藤原義江
    製作:同上 原作:森巖雄 腳本:如月敏 攝影:田達之等
    主演:藤原義江/夏川靜江等
    原書無評述,現據JMDB資料補上影片資料.(譯註)
    
    
    都會交響曲
    製作:同上 原作:片岡鐵兵/淺原六朗/林房雄/岡田三郎 腳本:岡田三郎/畑本秋一/ 小林正
    主演:夏川靜江/小杉勇/入江高子/高木永二等
    溝口被命令製作另一部<東京進行曲>.溝口製作的第一部完整的"傾向電影",沒有告知公司改編自一些左翼作家的作品.一對貧窮的男女青年勞工被一個富人調戲玩弄,決心展開對資產階級的報復.片中還插入了有關警察的情節,全片放映時被剪掉2000英尺.<電影旬報>"年度十大 "名列第十.(沒有膠片,負片或腳本留存 )
    
    1930年
    唐人阿吉
    製作:同上 原作:十一穀義三郎 腳本:田本秋一 攝影:田達之/伊佐山三郎
    主演:山本嘉一/梅村蓉子/島耕二等
    根據報紙上的連載小說改編,講述十九世紀中葉,出身貧窮的女孩進行傳統藝術教育的故事.經訓練後她成了藝妓,隨後,在違背自己的意願下,成了一個美國領事的情婦,那人逼她的情人和她分手.這個女人被譽為<殘菊物語>的悲劇女主角的前身.(沒有膠片,負片或腳本留存)
    
    1931年
    然而他們要走了
    
    製作:同上 原作:下村千秋 腳本:田本秋一 攝影:田達之
    主演:梅村蓉子/峰吟子等
    溝口稱這部作品為一部"傾向電影",講述的是東京紅燈區妓女的悲慘命運.故事的重頭戲是一個做藝妓的姑娘不斷被男人欺騙,但也變得更堅強.(沒有膠片,負片或腳本留存)
    
    1932年
    屬於男人時刻
    製作:同上 原作:菊池 腳本:田本秋一/小林正 攝影:田達之
    主演:島耕二/夏川靜江等
    喜劇,講一對喜歡爭吵的夫妻的故事.(沒有膠片,負片或腳本留存)