本人戒烟中 我愛MIMIAO 我希望処ヲ件事儿能一様長久

私が好きなものは全部ここにいる

10月30日DVD SHOPPING

2005-10-31 | Weblog

 

 

10月30日DVD碟报

青山真治 - 狂野的生活
矢崎仁司 - 三月的狮子
松山善三 - 母亲
佐佐木 康 - 迎春花  (伪满时期电影作品)
小林正树 - 夺命剑
山中貞雄 Sadao Yamanaka - 人情纸风船
今井 正 - 何日再相逢
林 海象 - 迷失天使
Emile de ANTONIO - 猪年

 


套装
成濑巳喜男 作品集2 6DVD(山之音, 流浪记, 放浪记, 女人上楼梯时,乱云, 成濑的世界)
小栗康平 作品集 5DVD(泥之河, 为了伽倻子, 死之棘, 沉睡的男人, 小栗访谈)
吉田喜重(6DVD爱情+虐杀 ,再见吧,夏天的太阳 英雄炼狱, 女优的告白,性欲+虐杀)
Bela Tarr 社会写实三部曲 3DVD(家庭公寓, 局外人, 预制人生)
侯麦 (侯爵夫人,柏士浮,狮子星座,双妹奇遇,大树,市长和文化宫 巴黎的约会)


小结:
青山 真治的最新电影<湖畔杀人事件>看得我大倒胃口,这是青山准备进军商业片的首部作品,可以称得上是完败作品,毫无创造性可言.青山又扭扭捏捏的不想完全放弃以前拍艺术片的习气,这种商业掺杂文艺气质的电影实在让人对青山火冒三丈,失望之极.要知道,这是我非常喜欢的日本导演之一啊.

成濑巳喜男

这次买的是他第二辑的套装了.成濑的电影以前看不出个所以然来,最近看了几部成濑的作品,觉得越看越有味道,成濑的御用女主角 高峰秀子 真是个大美女,要是原节子和高峰秀子让我挑选,我当然会选择高峰秀子,原节子虽然美丽,可是传统味道太重,高峰秀子就现代多了.

侯麦
这次购碟最大的收获便是侯麦的套装了,我看过侯麦的电影只有手头的四季和沙滩上的宝莲.这几部都不是侯麦最厉害的时候拍的电影,但我已经喜欢的不得了,这次一次买到6张,质量大,大部分在侯麦的黄金时代拍摄.真是要感谢牛比无比的盗版商人.


 


奇人発見伝

2005-10-09 | Weblog

奇人発見伝

 

現時、内容は少ないけれども、結構面白いサイトじゃない。

「史に名を残す人物たちは、偉人、天才、聖人、はたまた大悪人といろいろな呼ばれ方をする。彼らに共通するのはその時代において世間の人たちとは全く異なった人生を送ったことだろう。英雄と呼ばれた者が悪魔と呼ばれるようになることもあれば、誰にも認められず絶望の中で一生を終えた貧乏画家の絵がのちに巨額で取引されることもある。現在を生きているあなたももしかしたら遠い未来では名を残す人物になっているかも知れないのだ。そんな人々の生きざまを奇人発見伝として紹介していくものである。」

 

こんなことをするのは、俺の夢のひとつだ、その小人物のこと、世の中の人にはよく知られていなっかた小人物の物事も魅力的ではないか。

念のため、バックアップする このブログに。


情報家電市場は花開くか-- IPODとLIVEDOORが放送局を買う理由

2005-08-19 | Weblog

ソース:http://hotwired.goo.ne.jp/original/fujimoto/050308/

つ い先日まで景気の牽引役として、薄型大画面テレビ、DVDレコーダー、デジカメと新三種の神器などともてはやされていたデジタル家電景気の雲行きが、早く も怪しくなってきている。急激に価格下落が進み、各メーカーが利益を出せなくなってきているというのがその大きな理由である。

この価格下落を主導したのは韓国勢とも言える。韓国勢の強みのひとつは、サムソンを筆頭に強気の設備投資を続けてきたことで半導体メモリー、液晶な どデジタル家電の主要部品で世界的に高いシェアを持っており、彼らの部品における価格競争力はとても強い。主要部品で競争力があれば、完成品でも価格の リードが可能になり、日本勢の予想を上回る攻勢をかけてきている。

アナログ時代は各企業が職人的な技術で微妙な製品の性能の差を持つことが可能であったが、デジタル時代の商品は所詮誰でも手に入る部品の組み合わせ でしかない。逆に言えばデジタル時代はオープンな規格を広げることの方が重要であり、一社だけ排他的な商品を出すわけにも行かない。

そうなるとソニーのように薄型大画面テレビ市場の参入に出遅れた企業は主要部品も外部企業から調達しており、価格競争になれば、かつてのように性能 での優位性をアピールすることもできず、そのまま自社の利益が圧迫される構造になっている。一方シャープのように自社で部品である液晶の競争力がある会社 はまだまだ高い利益をほこっている。ソニーもサムソンと合弁で液晶の工場を作ったり、戦略的なセルという半導体を作るなど、こうした状況を打開する手は 打ってはいるが、まだそれらが花開くまで時間がかかり現状は苦戦を強いられている状況である。

このようにデジタル家電はアナログ時代の競争戦略を大きく変えてしまったわけであるが、逆に現状のようなハードウェア商品単体として利益を出すビジ ネスモデルそのものが問題とも筆者は考える。本来情報家電に期待されているのはネットワークとハードウェアとサービスが一体となったものであり、そのトー タルなサービスでの収益の分配モデルこそが本来の情報家電ビジネスだと考える。そのためには、市場全体の生態系を見極めながら自社のポジションを探る新し い考え方に切り替える必要があるだろう。




ソニーに地団駄を踏ませているもうひとつのサービスがある。ご存じ好調を続けるipodである。日本ではipodはHD&メモリー型音楽プ レーヤーであるから、先のデジタル家電のようにハードウェアとして儲かっていることは間違いないのであるが、欧米ではipodというハードウェアと iTunesミュージックストアというインターフェイスに優れたソフトウェアと音楽ダウンロードサービスを組み合わせたトータルなビジネスモデルで高い収 益をあげている。

そもそもウォークマン以来、CD-ROM、MDと媒体を変えつつも、携帯音楽プレーヤー市場を自ら創造したブランド力からも圧倒的な強さを誇ってき たソニーが完全にシェアを奪われている状況である。しかも、ソニーは長らく、コンテンツ市場にも力を入れ、レコード会社自身も経営するなど、多くのコンテ ンツ権利まで持っているにも関わらずのこの状況がますます悔しさを倍増させている。

では何故ipodはここまで成功したのであろうか?その要因をここで分析してみたい。

1) クローズでシェアが小さかったこと

ネットワークを利用した音楽サービスはこれまでにも多数ベンチャー含めて挑戦されてきた。しかし、Windowsプラットフォームの上では違法コ ピーの問題があり、P2Pソフトの問題も拡大している中では問題が起きた時の影響が大きすぎるため、レコード会社等も本格展開には慎重な状況であった。し かしMacのシェアは米国では5%程度であり、しかも専用ハードウェアをベースとすることで特定の範囲のクローズなサービスであると認識され、音楽業界の 支持を得られやすかった。(実験するには丁度よい場であったということでもある)その後、成功を見た後でアップル側もWindowsでも利用できるように 移行し、両社ともにWin-Winな関係で一気に市場を拡大させることができた。

2) PCメーカーであったこと

独自OSを採用しているMacであるが、今やPCの世界ではほとんどの技術がオープンなデファクトスタンダード技術の上に成り立っている。今や Macも実際のところ利用されている技術はオープンな技術であり、部品や主要ソフトウェアはWindowsでも利用されているものがほとんどである。その 結果として水平分業の効果でMacも低コスト化な商品を出せるようになっている。ipodも独自圧縮技術を推奨しているものの、MP3など他の標準的な圧 縮技術に対応しており、中身はPCベースの既存技術の組み合わせに過ぎない。そのことが展開を容易にしたと言えるだろう。

3) 利用者からはトータルサービスに見えたこと

技術的には水平展開されているPC市場のプレーヤーであるが、利用者から見たときにMacはWindowsとは異なるプラットフォームである。アッ プルが出すipodは利用者から見ればやはり独自のコンセプトであり、そのサービスはとてもオリジナルに見える。音楽を購入してダウンロードから iTunesというアプリケーション上でのインターフェイス、そしてハードウェアとしてのipodのデザインとインターフェイスまで利用者はアップル社が 提供するトータルな世界観の中で過ごすことができ、裏側の技術などを知る必要はない。さらにそのことで「好きな音楽を一曲聴く」という価値を提供したので はなく、「ipodという音楽を聴くスタイルが楽しい」という価値を提供できたことが何よりも最大の成功要因と言えるだろう。

このようにアップルの成功は多くの示唆を与えてくれる。PCの世界のプレーヤーでありながら、オープンなインターネット技術を使いこなす優れたハー ドウェアを出す、家電メーカーの振る舞いをもすることができたからである。そしてそれを表すキーワードはサービス業としての顧客へ最終的にどのような価値 を提供するかを素直に創り上げたことではないだろうか。

現状情報家電分野へはPC系と家電系の争いとも言われているが、双方難しさはある。例えばPCのWindows陣営の方は各水平プレーヤーが強く、 OSやアプリケーションからマイクロソフトはアップルのようにみせたいが、メーカーであるデルやHPもそうみせたいし、MPUのインテルも狙っていればイ ンターネットサービス企業のアマゾンも狙っているだろう。このように各階層のプレーヤーが独自に主導権を取ろうとして行くほど利用者の混乱は膨らむばかり である。一方の家電メーカー陣営は垂直統合で自社のハードウェア中心に展開することを試みるだろうが、前述した通りデジタルの世界ではそれは非常に難し い。あくまでハードウェア中心で進めば中途半端なサービスが提供されることになる。

アップルの成功から示唆されるように、今後の情報家電ビジネスにおいて、何より重要なことはサービス業であることを提供企業が再認識することであろ う。そのためには何よりも顧客からの見え方が重要になる。自分がサービスを受けている相手をどれだけ意識してもらえるか。そのブランドにロイヤリティをか んじているか。そのサービスに対価を払って良いと考えているか。そうしたポイントが重要になる。

こうした意味では携帯電話業界はもうひとつ参考になるだろう。日本においては通信事業者主導で市場が形成されたため、端末のハードウェアも通信事業 者主導で価格が低価格で提供され、メーカー色は薄まっている。iモードに代表されるネットワークサービスも通信事業者の意向が強く反映されている。

こうした現状には批判もある。通信料金が高い、端末メーカーが儲かりにくい。コンテンツ事業者がしばられていると。しかし、こうした顧客から見たと きに統一的なイニシアティブをとれるプラットフォームプレーヤーの存在は安心感がある。対価を支払う相手としてサービス水準を保証するブランドこそがプ ラットフォームプレーヤーであるからである。またプラットフォーム間の競争が適正に行われれば、利用者の選択肢と利便性は確保されるだろう。iモードも様 々な批判はあるにせよようやく国際展開が進みつつある。プラットフォームが広がれば、メーカーやコンテンツ提供事業者もそのチャンスは拡大するというメ リットもある。




それでは今後の勝負はどうなるであろうか、前述したプラットフォームプレーヤーにどこがなれるのかという戦いでもある。デジタル家電の主役が薄型大 画面テレビであるように、やはりテレビは情報家電の主役になる可能性が高い。だとすれば放送局は中心的なプレーヤーになるポテンシャルが高いプレーヤーと 言えるだろう。

しかし、一方的な放送に慣れた彼らには顧客と直接リレーションをにぎれるか難しい。放送法の既得権益に守られている部分としばりを受けている部分が あり、残念ながら現状ではipodのようなイノベーションを自ら生み出すことは難しいであろう。かろうじてテレビショッピングは直接顧客と対話するのでそ こから発展する可能性はあるかも知れない。また米国ではCATV局が注目のプレーヤーであるため、その成功モデルが出来たあとで国内でようやく重い腰をあ げることになるシナリオはあるかも知れない。

一方、この放送局の買収で話題のライブドアをはじめ、Yahoo、楽天などインターネットサービス企業もにわかに有力プレーヤーになりつつある。 Yahooはすでに独自のテレビ放送も提供しているし、インターネット上ですでに多様なサービスを提供しており、統一的なブランドで顧客に価値を提供して いく流れから、情報家電分野にその戦いの場を移すのは自然の流れである。M&A力が高いところも有力視できる材料であり、ここで記述している他の 分野のプレーヤーを飲み込んでプラットフォーム化する可能性は大きい。

ISPを含む通信事業者も候補ではある。すでに100万単位の顧客から毎月対価を確実にとっている基盤は強みである。何よりも日本ではNTTは光 ファイバーという最強兵器を使い大逆転を虎視眈々と狙っている眠れる?獅子である。前述した通り、携帯電話事業者は携帯という市場で利用者の生活の一部を すでに握っており、携帯の枠を飛び越えた瞬間にかなり有力プレーヤーになる。

アップル、マイクロソフトは日本ではなかなか厳しいかも知れないが、世界的な展開力を背景に日本での戦いを挑んでくることは間違いない。ipodが映像分野で攻勢をかけてきた時は面白い展開が期待できるだろう。

では冒頭で苦戦している現在デジタル家電を提供しているメーカーはどうであろうか?松下やシャープなどはやはり韓国勢に優位にたてる部品をしっかり 握るハードウェア中心に、上記の様々なプレーヤーとのアライアンスに戦略を移していくことになるだろう。もはや家電メーカー自体が主役になることは幻想に なる。

しかしソニーはもちろん意地でも市場で戦いを挑むことは間違いない。実際ISPのSo-NetやICカード、携帯などで電子マネーフェリカなどを展 開し、顧客を握るアプローチも行っている。そういう意味ではこれまでの戦いは前哨戦であり、いよいよソニーの本格的な戦いが幕をあけると言えるだろう。

大容量なネットワークとユビキタス化の進展は生活者の家庭を中心とする様々な行動における価値ある「サービス」を提供可能とする大市場である。PC でないデジタルなハードウェアを販売するという市場はほんの予行演習にすぎない。まさにデジタル市場のK-1である本格的な異種格闘技戦の幕が開こうとし ている。


ネット音楽配信ビジネスは今度こそ立ち上がるか from hotwired japan

2005-08-19 | Weblog

http://hotwired.goo.ne.jp/original/fujimoto/050712/02.html

アップルのiTunesによる音楽ダウンロードサービスiTMS(iTunes Music Store)が早ければ8月にもついに日本でもスタートすると言われている。すでに発売されているハードウェアのipodはプレー


ヤーとCDから入力する ソフトウェアの提供だけでも国内で好調な販売を続けており、全世界で累計4億曲販売した実績の楽曲販売のスタートに対する期待は大きい。すでに先行してい る携帯電話会社auが提供している「着うたフル」の累計ダウンロードも、2004年11月にサービスを開始して以来先日累計1000万曲のダウンロードを 突破した。いよいよ日本も本格的な音楽ダウンロードサービス市場の立ち上がりを迎えようとしている。

インターネットの商用利用がスタートしてからおよそ10年、音楽のノンパッケージ販売はもっとも期待されたインターネットビジネスのひとつであり続 けてきたが、そこにはいつもは大きな壁が存在してきた。1995年に米プログレッシブネットワーク社がリアルオーディオの提供を始めた時あたりから、イン ターネットユーザーにはインターネットが音楽ビジネスの歴史を変えると誰もが予想したに違いない。しかし、パッケージ流通により成り立っている音楽業界に とっては、瞬間的に地球の裏側にもコピーしてしまうデジタル技術に対しては慎重にならざるをえなかった。コピー防止技術や著作権処理の技術、業界の思惑の 中で標準化の話し合いについて時間は費やされた。

国内の音楽業界もおそるおそるではあるが、2000年には現在国内で最大の音楽ダウンロードサービスを提供しているモーラの提供会社であるレーベルゲートをレコード会社各社が共同で設立し、少しずつ準備を始めた。

しかし同じ頃ナップスターというP2P技術を利用したファイル交換アプリケーションの登場で音楽業界は衝撃を受ける。MP3フォーマットに変換され た音楽データはまたたくまに世界中を駆けめぐり始めた。時をあわせるようにCDの販売も減少をはじめ、売上減少のやり玉にP2Pソフトがあげられ、提供会 社と利用者に対する起訴合戦がスタートすることになる。

iTMSはまさにそうした激動の中の2003年に1曲99セントという画期的な価格設定でサービスをスタートした。成功の要因としては本連載の第10回の情報家電のコラム でも分析したように、アップルのシェアの小ささ、PCメーカーが出したハードだったこと、ハードからソフト、コンテンツ販売までのトータルサービスであっ たことなどの理由があると思われるが、その後順調にサービスが世界各国で立ち上がり、参入するプレーヤーも増えて、音楽業界もこれまでの慎重論からビジネ スとしてのチャンスという見方に一気に方向転換することとなった。

同じ頃日本ではやはりCDの売上が減少し、その理由として携帯の通話料・パケット料に若者のCD購入費を奪われているという見方まで出ていたが、そ の敵であったはずの携帯の着メロの著作権使用料が、なんとJASRACのCDの売上の減少分をまるまる補うという状況になったことで、iTMSとは別に微 妙に音楽業界の見方に変化が出た。着メロでは作曲家の著作権収入が中心で商売にならなかった楽曲の原盤権を所有しているレコード会社もこの状況から、携帯 の3G化に合わせて本格的に携帯に音楽を配信する着うたサービスに力を入れることになった。そしていよいよ2005年日本でのiTMSサービス開始への期 待が高まっているところである。

iTMSに期待がある一方で、日本ではうまくいかないという見方もある。ひとつは前述で解説した通り、日本では欧米と異なり携帯による音楽利用が進 んでいる。携帯は確実に課金できる仕組みもあり、コピーされる心配もほとんどない。携帯での着うたにレコード会社が力を入れている状況で、iTMSに提供 される楽曲の数が揃わないのではないかとの意見もある。仮に揃ったとしても洋楽中心で、若者に対する瞬発力のある売れ筋商品であるJ-POPが揃わないな どの状況も予想されている。

確かに日本でのライフスタイルを考えた時に携帯のアドバンテージは大きいとは考えるが、筆者は大事なのは「ipod」か「携帯」かという議論ではなくノンパッケージの音楽ビジネスそのものの新しい利用スタイルをいかに作ることではないかと考える。

まず音楽の価値を分析してみたい。従来のパッケージのLPなりCDの価値というのは
(1)「パッケージ」デザインなど飾っておきたい価値
(2)「コンテンツ」音楽そのものであり聞くことができる価値
(3)「コンテクスト」曲順や選曲、アーティストの価値

の3つのバリューで構成されていると考えられる。

現在のネット配信モデルでは1曲づつ購入するモデルであり、基本的には100円から300円程度の価値として購入してもらうというところが基本であ り、上記の価値で言うと(2)の価値が中心である。しかし、LP時代から使われているアルバムというのは、言葉通り様々なアレンジや順番含め複数の曲を トータルで構成したひとつの作品であり、一曲一曲のシングル版とは明らかに異なる価値を持つ。

一昨年あたり「タイムスリップグリコ」などで、なつかしのシングル版がジャケット写真毎8cmCDになって復活して人気になったことを思い出していただいてもわかるとおり、「音楽を買ってしまう」欲望を喚起させるためには、(1)や(3)の価値も大きな比重を占めている。

残念ながら、デジタルのノンパッケージでは(1)の所有できる価値は喪失しているため、それを利用するのは難しいが(3)の価値はパッケージから解 放されるからこそ再発見できる要素は多分にあると考えられる。現在の(2)のモデルではコンテンツの価値を重視し、著作権というコンテンツ価値に属する権 利を売買することをビジネスモデルの基本においている。確かにマイクロペイメントなどの少額課金決済技術の進展は、こうしたコンテンツ価値に対して多様な 決済方法を提供することにもなり、少額の課金、回数制限方式、定額方式などの実用化を促している。

しかし、近年のCDの世界のオムニバスアルバムやベスト版の流行など、音楽の聞き手も一曲一曲に思い入れを入れているというよりは、癒されたい、カフェの気分を味わいたい、青春時代の想いに耽りたいなど、利用者はコンテキストの価値に対価を払っていると言える。

実際ipodのシャッフル機能がウケているが、これは一定量の音楽の中からのランダムな選曲が楽しいという価値を提供している。同じくiTunes の中でプレイリストという機能がある。これもDJ気分で自分で音楽を選曲する楽しさであるが、このプレイリストを交換したり、有名人が作ったプレイリスト を入手するなどを楽しむ人たちがすでに登場している。これは新しいビジネスモデルを予感される。

例えば、あなたが1万曲の音楽データを手に入れたとしても、CDと異なり、その中から今日聞く音楽を選ぶことは大変な作業になる。しかし、自分の曲 の好みや過去の選曲傾向などから、今日のおすすめの20曲だけを選曲し、インデックスデータを配信してくれるサービスがあったとして、それが有料でもあな たは利用するかもしれない。この場合、あなたにとって重要な価値は20曲のコンテンツ以前に、「自分のために選んでくれた20曲の選曲情報」というコンテ クスト価値である。同様に自分と同じ趣味や価値観の人、80年代のAORが大好きな人たちが最近よく聞いている曲などを教えてくれるサービスが存在したら とても便利であろう。

膨大なコンテンツや商品が街に溢れ容易に次々と消費される現代においては、コンテンツを商品と見た場合には普通の商品と同様に、自分の生活をより豊 かにしてくれるかどうかが、購買意欲を刺激する意味でも重要なファクターになっており、もはや商品そのものが必要かどうかは重要ではなくなってくる。これ は相対的にコンテンツ価値からこうしたコンテクストの価値が高まっていることを意味し、今後のデジタルコンテンツのビジネスモデルを議論する時には忘れて はいけない重要な要素であると考えられる。

このように携帯音楽配信とiTMSは音楽の楽しみ方の幅を大きく広げてくれるだろう。それは今まで売ることが難しかった古い曲や眠っていた曲などに 価値を与える可能性もある。携帯にもハードディスクが搭載され、いつでもどこでも膨大な音楽を持ち歩くことができるようになれば、そもそも着うたの本質的 な欲求である「人に自分のお気に入りを聞かせたい」ということを自然にどこでもできるようになる。

音楽は完全にコミュニケーションの道具であり、友人と乗っている自動車の中はDJブースになることは間違いない。近い将来自動車でのドライブデート は選曲センスの戦いとなるだろう。音楽は一曲一曲よりも大量の曲の中でどのように楽しむかがノンパッケージ時代のキーワードになる。

今後どんなに万能な著作権管理システムと課金システムが完成したとしても、デジタルコンテンツの購買欲望を喚起する仕掛けが用意されていなければ、 欲しくなる人が少なく、ビジネスとしてうまみはなくなる。デジタルコンテンツは音楽業界全体としては新しいビジネスチャンスであることは間違いないと思わ れるが、従来のパッケージビジネスにおいても、カラオケやラジオのチャート番組などの別のビジネスモデルの中で音楽に触れ、聴く機会が存在するという連動 された複合型モデルで成立していたことを忘れてはいけない。

一人に年間数枚のCDを売ることを考える時代から、一人の年間音楽エンジョイ費を月数百円とるモデルへのパラダイムシフトこそが、市場全体のパイを 広げる鍵である。音楽関係者には街で回りを見渡して欲しい。目の前を歩いているここ数年CDを買ったことの無い膨大な人々が、この大いなる市場の潜在予備 軍である。巨大な新しいエンターティメント市場である音楽ビジネスは今度こそiTMSとともに幕を開けようとしている。



中国で絵画バブル、5年で価格5倍に 230万ドル落札も

2005-08-17 | Weblog
 中国で現代絵画ビジネスが活況を呈している。人気作家の作品は、この5年間で6倍以上にも値上がりしているほか、香港のオークションで中国人画家の油絵作品が230万ドル(約2億5300万円)で落札されたケースもある。経済発展に伴う投機の手段として絵画を購入する人が増えており、昨年の北京の現代絵画市場は5000万ドル(約56億円)にも達した。

 エーシャン・ウォールストリート・ジャーナルによると、中国の現代絵画市場が関心を集めてきたのはここ数年。特に、20代から40代の若手の中国人画家が育ってきたことが背景にある。

 新中国建国当時に多く見られた、労働者などを描いた「革命画」をモチーフにした力強いタッチの現代絵画や、中国伝統の書画を取り入れた古風なタッチの水墨画のような絵画。これは墨を使ったように、白と黒の2色で描かれている。また、ピカソのような抽象画の画風を取り入れた作品などさまざまだ。

◆2大都市に画商

 これらの画家の作品を扱う画商は、北京と上海に集中している。両市合わせて約30人の画商によって、人気のある若手画家の作品が取り扱われている。これらの画商が才能が豊かな若手画家を見つけ出して、絵画市場に送り込む。

 こうして発掘された画家の1人、趙無極氏の絵画が昨年、香港のクリスティで、中国人画家の油絵としては史上最高値の230万ドルで落札された。趙氏の作品はもともとが高額ということもあって、この5年間での値上がり率は4倍程度だが、中国人の若手画家の作品のなかには5倍から6倍に値段が跳ね上がっているのも珍しくない。

 これらの画家の作品は北京と上海の市場で競売にかけられるが、昨年の北京市場の成約総額は5000万ドルで、これは5年前の10倍以上に膨れ上がっている。

◆欧米でも注目

 最近は北京や上海の市場で売られた作品がニューヨークやパリ、ロンドンなど欧米諸国で売られることも珍しくない。このところ世界の絵画市場では、中国人画家の作品に注目が集まっており、10万ドル(約1120万円)以上で取引されるケースも珍しくなくなっている。

 ニューヨークの画商で、中国の絵画を専門に扱っている「チャイナ・アバントギャルド」のハワード・ファーバー社長は、「中国では最近、才能豊かな若手の画家が育ってきており、従来の欧米の画風とは違って極めて新鮮で心を打つ作品が多い。今後も中国の現代絵画は世界中の注目を集めることになろう」と、絶賛している。

成巳喜男(六)

2005-08-15 | Weblog
閃電

1952年,成回到他最拿手的反映窮苦勞工階層生活的題材,做得是相當成功的。他拍出了最容易為人理解的《母親》,隨後對下一步該拍什麼充滿自信。這次又是改編林芙美子的小說,主演是他最欣賞的演員高峰秀子。《閃電》中她飾演的這個女人可以說是成作品裏所有女主角類型的集大成,從执拗的自立到倔強的堅強,滿足了他自己想要的即描绘那些可以控制自己命運的女人的願望,也是他想要觀眾對那些軟弱和受凌辱的女人的要求。片中母親和不同的男人生了四個孩子,她一直對自己的處境沒有任何覺悟,一味聽天由命逆來順受。清子是家中的小女兒,她試圖突破母親的這種人生困局,她的二姐光子則很像母親,卻缺乏母親的勇氣;另一個姐姐縫子,從低處一步步向上爬,其所使用的手段後來的今村昌平作品的女主角也使用過,也就是以其性魅力为跳板,引誘男人而凭此掙錢。清子的兄弟嘉助則對家中其他成員的問題不聞不問。他打彈子球,酗酒,任由操心的母親在家守候他。同一個家庭裏並存著各種性格的成員,當然無可避免會引發衝突,成利用精巧組織的分景劇本和田中澄江编写的意味深長的對話來刻畫家庭的緊張關係。

清子已到23歲的適婚年齡,她的職業是觀光汽車售票員,她和母親母親及失業的弟弟嘉助在貧窮地生活在鬧市區。清子的邋遢的姐姐縫子(她的丈夫做生意失敗),走來跟清子商量一樁婚事:對方是一個中年的麵包師岡吉。清子雖然對縫子很冷淡,卻知道縫子想從岡吉身上榨點錢來使用。此時清子的另一姐姐光子的肥胖丈夫突然死了,光子沈浸在震驚和哀痛中,她會得到一筆保險賠償金。家庭中的成員於是人人都在打這筆錢的主意,這時一婦人帶著孩子前來,對光子說她是光子過世丈夫的情婦,她提出要給她一筆錢維生。加倍震驚的光子開始拒絕接受,但在對方威脅要采取法律手段時,她不顧清子的勸告,接受了對方的要求。麵包師岡吉不斷地糾纏清子,與此同時也為縫子開溫泉旅館提供金錢上資助,從此從縫子無能的丈夫身邊贏得了她的芳心,同時她還成了光子新開的咖啡店的老主顧。清子對她的家庭的種種行為和利用她作誘餌勾引岡吉的念頭感到無比惡心,因此一句話也沒有對家中人講,就搬到了一個高貴優雅座的寡婦經營的學生旅館居住。就在她開始感到輕鬆愉快並享受和新結識的往在隔壁的一對兄妹的友誼時,母親卻突然找上門來了,絮絮叨叨說縫子帶帽的丈夫搬來和她一起住了,光子由於縫子妒忌她和狡猾的麵包師的關係而不知跑到哪裏去了。作為一個拋棄了負債纍纍的父親的人,阿世卻大談其作為母親的責任,清子很生氣,告訴她不應該讓四個孩子有四個父親,自己也不願意在這種情況下生出來。母親被清子刻薄的話氣哭了,女兒於是安慰她。

這部電影正是城戶四郎狠加批評並讓成走人的那種類型:它拒絕劇情推進和戲劇性的高低潮,而是以角色的日常對話來揭示劇情,並帶給人一種涉足於污水中的泥濘感覺。其結果正如成所有沒有結論的婚姻電影一樣,處理的是同樣狹窄的、實際上是靜止的家庭世界,這也是小津描繪的主題。但成的處理的卻和小津大異其趣甚至可以說采用完全相反的方向。適婚的女兒不肯與要她結婚的社會要求妥協,拋棄這個厭惡的前景出走。

清子不像小津電影中作女兒的天真地說婚姻是生活的墳墓,卻因為岡吉對她不懷好意的騷擾並且引誘她的兩個姐姐而憤然說出「男人是野獸」的話。清子選擇了獨立,不願再趟家中渾水。成電影的底層氣息適與小津電影相反:家庭成員彼此互無好感,沒有溫良恭儉讓,他們之間衹有小氣、自私、妒忌、心胸狹窄,和對金錢的患得患失。母親不去安慰喪夫的女兒光子,反而叫她拿出保險金來為嘉助做一套像樣的行頭以便他容易找工作。

然而成也表明家庭關係從來不是非即白那麼簡單,不管人際關係變得如何惡劣,總還有溫情殘留。就是這種溫情,令一個人對其他人負上了責任,就是這些困住了每個利己主義者。這種觀念超越了林芙美子原作苦時差的結局:原書在清子最一次對母親譴責控訴時加以總結:「是誰以這種方式將我帶到世上,令我不能像其他人一樣結婚的?」芙美子的小說以狂亂的怨恨收尾,所有人都譴責清子的幽閉恐怖症的变态和被生活背叛的感受,而她將這些擲還給了母親,因為她有那麼多的丈夫。成將小說加以引申並軟化,且為角色加添了容和他們行為的動機,令清子在生活中有超越於正常婚姻的另一種目標.然而成拒絕消減對於人類總體狀況的無望感。電影的結尾母親和女兒爭論著,清子說快點喫飯,她到車站為母親送行,且不打擾房東。母親慢慢地停止哭泣:

母親:我一直認為你是我最好的女兒。。。。。你又是最壞的。。。。。你把媽氣哭了。
清子(照鏡):媽媽,我的眼睛好看嗎?
母親:我怎麼知道?
清子(從抽屜中拿出存摺):媽媽,猜猜我有多少錢?
母親(留意):多少?給我看看!
清子(不給她看):4500元。。。。。我原有70000元。但我買了一些罐頭和褲子。
母親:真的?
清子:媽媽,我要給你買一件夏天穿的衣服。。。季末大減價時挑一件。
兩人都笑了。
清子:媽媽,留下來過夜吧?
母親:不,我要走了。。。。光子現在應該回家了。
隔壁傳來鋼琴聲。晚上的街頭。閃電劃過夜空,母女併肩行走。
母親:她現在應該回來了,我相信。。。。。。光子她從小就怕打雷,打雷的時候她會走過來緊緊抱住我。

鋼琴持續地在清子耳邊響起,成還在電影的最末加了一個幽默的筆觸,這是原先的劇本上沒有的。在朦朧的燈光下,阿世彎腰在地上拾起一個看起來像50分的硬幣,但衹是一個啤酒瓶蓋。兩人笑了。清子記起她拿父親的紅寶石戒指去鑒定,結果是真的。她母親看起來挺高興,「真的?」她說,「所以你的父親沒有撒謊,你知道了吧。」然後兩人走向遠處。在電影結尾通過諷刺性的幽默、溫柔和自嘲兩人達成和解,完全減輕了林芙美子小說結尾主角因痛苦而孤立無援的狀況。成的角色由於他們的自相矛盾而益顯真實。

成電影中的氣氛有許多是用非語言效果及以精煉的表演來呈現細節的。其中一個例子就是當光子在家人乘她之危想拿走她的保險金時的反應。她溜出家跑向小巷,恐懼地蹲下,導演以客觀的長鏡頭顯示,這時她聽到貓的叫聲,一時間她忘記了環繞在她身邊的醜惡的人事,她向貓呼喚---好像它的反應會減輕的痛苦一樣。設計這個孤獨、充滿壓力的女人從貓身上找到伴侶的感覺,在成作品中很常見而又非常有效的,它也出現在《飯》和早期的《與君別》和《流》中,人們常常評論在中年藝妓的房子裏,貓比人受到更多的關注,成就是以這些設計表明人的幸福與溝通的不可能。

像貓、民間小調孤獨的聲音、小孩在巷子中的打鬧、街頭小販的叫賣聲這類筆觸,構成了成的世界和電影。這是鬧市的氣息--貧窮的、擁擠的、傳統的氣息--導演在其中成長並在根據林芙美子作品改編的電影中重現。這種氣息同時安慰著被它拘困著的窮人、沒有受過教育的人、風俗習慣的觀察者。像清子這個角色,為了認清自己,脫出鬧市氣息而投入開敞的空間,鋼琴的聲音代替了原先的三味線和小販叫賣的聲音。但家庭義務的大網還是以習慣和溫情罩住了他們,對於自己的執倔和對宿命的自覺構成了成電影中最不能承受的生存實相。

アート・問題・計画者 6

2005-08-15 | Weblog
 

菲利浦·沃尼:

让流行与娱乐解构"严肃"


  菲利浦·沃尼(Philippe Vergne),法国人,现任美国明尼那波利斯沃克艺术中心(the Walker Art Center)视觉艺术策划人。1994年至1997年,他曾任法国马赛当代艺术博物馆(Galeris Contemporaines des Musees de Marseile)馆长。他最近策划了大型的展览"让我们一起娱乐:生活的负罪快感"(Let's Entertain:Life's guilty Pleasures)。其出版的论著有:《艺术表演生活--M.库宁汉姆,梅勒迪斯·芒克和比尔·T.琼斯》和《身体艺术》。现在,他正准备策划一个关于来自第三世界文化大国(中国、日本、印度、土耳其、南非和巴西)的展览(2003年)。

  2001年4月28日晚,北京三里屯南街某酒吧,黄笃与菲利浦·沃尼进行了短暂的访谈。


  黄笃:菲利浦·沃尼先生,很高兴在北京见到你,谢谢你送给我你策划的展览图录《让我们一起娱乐--生活的负罪快感》。我粗略看了一下题目和内容,觉得展览展览很轻松和有趣。请谈谈"让们一起娱乐--生活的负罪快感"展的概念原由?它针对的文化问题?

  菲利浦·沃尼:当我还在法国马赛工作的时候,我曾与"激浪派"的艺术家一起工作和讨论相关的艺术问题,我发现了"激浪派"的招贴广告是古典戏剧,以此吸此大量观众来欣赏他们的活动,然而,他们来到这里所看到的是完全不同的东西--前卫艺术。这些艺术家以这样特殊的方法吸引观众在于他们借用"古典的空间" 反对"空间的艺术",更深层的指向就是博物馆/美术馆体制系统。在这样的基础上,我开始思考以娱乐方式来吸引观众,与此同时,也反对娱乐,这就如同古希腊 "特洛伊木马"典故。因此,这样的艺术是没有历史的关联,而是艺术家的自由表达。当然,也有人持批评的观点:认为安迪·沃霍、杰夫·昆斯代表了商业化的艺术,并认为他们太有讽刺笥、在商品了!我的观点与这种看法恰恰相反。他们作品的观念具有批判性的价值,与时代语境密切相关。在这个展览中,作品基本分析了社会的谎言,以及充满着异化的权力(alienating power)。因为我们社会实质上就是一个空的梦,正不断地安慰着大众--具体地反映在电视、快餐和时尚等领域。艺术家以独特视野分析了为什么是空的?现在,从博物馆专业从员到美术界的人们,都反驿娱乐,认为它没有什么根本的东西。但是,我认为在娱乐中的快感是非常重要的。其实,美术界的人太过于严肃,就不能接受这一观点。我不赞同这种普遍的态度。博物馆/美术馆存在着一个自相矛盾的想法,认为美术馆应该选择娱乐,但它却拒绝流行。我也在反复地思考,既然那些大师都已经故去了,美术馆为什么不吸引年轻的艺术家呢?应该接纳流行文化的语言。如有的艺术家挪用迈克尔·杰克逊的形象,具有一种评论之意。我强调在娱乐中的感受快感,就像巨型炸弹(blockbuster)引起许多了艺术人士的不快或不安。在这个意义上,我不要判断展览好与坏,而交给观众自己来判断。例如,《向拉斯维加斯学习》一书就是强调,后现代主义社会就一定有娱乐的东西,这的确是现实。因此,这个"让我们一起娱乐--生活的负罪快感"展最终有点让人难过。为什么呢?我想,艺术家分析了这个社会的梦--空的。

  黄笃:那么,这个展览直接涉及到在文化和艺术领域中"教条"(dogma)、"越轨"(transgression)、"诱惑(seduction)"、"声誉"(celebrity)之间矛盾和冲突的敏感问题?

  菲利浦·沃尼:可以说,它直接地破坏了"严肃"的界限。如果回顾一下历史,我们就会发现,现代主义时期的艺术是反对社会内部的系统,而后现代主义的艺术则注重娱乐性,不是反对娱乐而是利用娱乐的机会。比如说,游戏有规则,一般的游戏规则就是要嬴。所以,我认为,这样的游戏太战争化了,而游戏还应该有另外一种的目的方式,像意大利艺术家毛里兹·卡特兰(Maurizio Cattelan)的装置作品"足球场",利用了现成品式的足球游戏机来"玩游戏"。艺术家所实施的观念就是他邀请了两个足球队进行比赛:一个是意大利人(白人);另一个是移民(人)。人的赞助商--RAUSS公司,语的意思是"不要"、"擦掉"、"外地人"之意。显然,足球代表着国家和民族。这两个队的"玩"所包含的"娱乐性"带有鲜明的社会批判性。所以,我策划这个展览再现了现实世界的矛盾和冲突。

  黄笃:在这个"让我们一起娱乐--生活的负罪快感"的展览中,你是怎样选择艺术家的?从艺术家作品的风格看,你显然采用分类学方法进行了分析。那么,它有什么样的构成特点?

  菲利浦·沃尼:对我而言,最重要的并不是把艺术家对号入座,即我有一个箱子,把艺术家都入箱子,而是从整个艺术现象或走向中探讨"娱乐"美学的转向。娱乐方式始于1979年,当时,欧美出现了MTV,CNN的传媒,艺术家也就开始运用这些媒体进行创作。以艺术家作品,我更加关注的是他们的作品是不是具有国际性。所以,其中选择的来自日本、韩国和巴基斯坦的艺术家,他们都探讨人类的现代性的普遍性和差异性的问题。整个展览基本由三个部分组成:第一个部分是 "反讽",在具体实践中可以看出挪用编码和形象(appropriate of Codes and Images),例如,以辛迪·舍曼(Cindy Sherman)和理查·普瑞斯(Richard Prince)为代表的"反讽的距离。"第二部分是"快乐主义"(hedonistic)的特征。快乐主义涵盖了流行文化、性、时尚、荣誉、技术和设计。主要的代表艺术家如Takashi Murakami、Minako Nishiyama和Rineke Dijkstra等。第三部分是"忧郁、无奈和难过"的特点。忧郁(Melandcholy)包含了丢勒一幅画中描述了一个两对科学家无奈之窘。因此,第一、二部分与流行文化和观念艺术有密切联系,作品的语言和形式都非常好看。第三部分,忧郁和无奈让人感到了作品的空的梦境。所以,第三部?quot;挪用 "已不能再现现实和创造新的形象。于是,用一些电影理论来创造新的视觉语言,像一些艺术家对意大利新现实主义电影大师安东尼奥尼电影理论语言的吸收。这样的代表性的艺术家有:道格·艾肯(Doug Aitken)、若迪尼·格拉汉姆(Rodney Graham)、菲利浦·帕勒诺(Philippe Parreno)、皮埃尔·胡盖(Pierre Huyghe)和吉里安·沃尔瑞(Gillian Wearing)。

  黄笃:你们计划于2003年在沃克艺术中心策划一个来自6个国家的当代艺术的展览,从文化的角度看,它们属于第二世界或第三世界的大国,那么,为什么会有这样想法?

  菲利浦·沃尼:这个想法是由集体决定的。可以说,最早的理念产生是考虑到全球化和国际化的问题。但它们又是一个什么样的现象呢?沃克艺术中心在国际艺术领域中与评论家、策划人、学者等保持着良好关系,于是,我们就把7位视觉艺术、电影、戏剧、舞蹈领域的学者和专家邀请到我们中心来一起讨论问题。诸如,国际化、变化的政治、信息化与策划人的关系。其实,欧洲人和美国人一直坚持认为,他们的历史就是中心的历史,因为在他们看来自30年代以来艺术史的现代性来自西方。因此,我们就是想以这个展览来解构这种传统观念。具体而言,开会、对话就是一种最佳的交流方式之一,而最好的方法就是能够组织一个大型的展览。我希望以霍米·巴芭《文化定位》的理论为出发点进行更深入的思考,可以进?quot;文化再定位"所以,在筹划的这个展览中,我们设想"跨学科性或多学科性就是另一种文化再定位",这就是我们的基本想法。


アート・問題・計画者 5

2005-08-15 | Weblog
 

南条史生:

"大浪潮"与个人艺术判断


  南条史生(Fumion Nanjo),生于日本东京,独立策划人和艺术评论家。1997年,他任纽约古根海姆博物馆"胡高·博斯奖"(hugo Boss Prize)评委。他策划的主要展览有:"威尼斯双年展·开放展"(1988年)、"卡耐基国际展"(1991年)、"80年代日本艺术"(奥地利和国)、"超国度文化"(1995年,威尼斯双年展)、"威尼斯双年展·日本馆"(1997年)、"台北双年展"(1998年)、"悉尼双年展" (合作策划人之一,2000年)、"横滨三年展"(合作策划人之一,2001年)等。他还在日本和国际的杂志上发表了许多有关当代艺术的文章。

  黄笃:1995年,在威尼斯双年展上你策划的"超国度文化"展(Trans Culture),推出了两位艺术家,一个是华裔的艺术家蔡国强;一个是伊朗裔的艺术家纳莎特(Sheri Nashet)。由于中国艺术界已很熟知蔡国强,就不用多提问了。但是纳莎特时隔五六年后才引起当代国际艺坛的普遍关注和认同,她的作品包含了伊朗伊斯兰文化语境和震撼力的视觉语言--一种第三世界或边缘的艺术声音,对自我身份与伊朗文化的分析和思考。那么,您是如何发现她的?当初,你觉得她的艺术潜质在哪些方面?

  南条史生:当时,纽约的一位同事向我推荐看看纳莎的作品。我策划的"超国度文化展"的观念就是展现艺术家和他们的作品所构筑的不同文化之间桥梁。因此,她的作品完全适合这一展览主题。她不仅表现了她自身的文化,而且诉说了有关民族(特别是女性)与现代西方文化之间的冲突。自此以后,她以录像艺术的形式更多地发展了她的观念,并且以非常微妙的手法来处理和控制伊朗民族和该国异国情调的形象。结果就是非常现代的艺术制作中夹杂了富有许多异国情调的影像。我以为从非西方国家来的最成功的艺术家就是这种类型。我并不知道是对还是错,但它是事实。

  黄笃:横滨三年展即将举行。2000年11月,我在北京见到建 皙先生,他给我看了选择的艺术家名单,被选择的艺术家很有意思。我想知道,为什么要举办"横滨国际三年展"?它的主题是什么?与韩国的"光州双年展"比较,"横滨国际三年展"有什么样的特点和作用?

  南条史生:2001年"横滨三年展"的主题是"大浪潮"(Mega Wave),这是因为我们的社会正处在激烈的变化之中,所以就以这个题目作为变化的巨浪的象征。由于20世纪末的信息技术革命,变化具体地体现在社会体系、科学、哲学和技术,以及我们的生活方式等等领域。这种信息技术带来了信息的新情形和互联网文化,改变了政治和经济,并最终改变了我们已了解的生活方式。现在,同一科技浪潮已经延伸到遗传科学和生命科学。这些新的发展向我们提出了诸多发人深省的问题:生命的意义是什么?人是什么?每一个体的身份是什么?在思考这些问题的时候,我们试图发现艺术家反映我们现实的新的远见。这个展览另一个关键点就是合作和跨学科性。策划的实验性就在于我们要求大多数艺术家为"横滨三年展"创作新作品,这样做的动机是为了使国际上的观众即便看到一些非常熟知的艺术家的名子,也会来参观"横滨三年展"。

  展览的意图就给予当地的日本观众第一次观看最前沿的艺术状况的机会。过去20年以来,日本的每个地方政府都建设了众多的博物馆,却很少展示当代艺术。他们说当代艺术很难理解,普通百姓也不喜欢它。然而,我们真切地需要让普通的日本人认识到,在艺术的表现中,存在着大量的观念和对现实视觉的见解。当代艺术在某种意义上是国际语言,它可以是理解其他文化,用批评的精神审视事物并灵活思考的一种方式。我认为通过展现当代艺术来唤醒人们休眠的大脑是极其重要的。

  "横滨三年展"的目标首先是作为一个地方上的事件要取得一定成功,这意味着它充分地被普通公众所承认和接受,在财政上收支平衡,人们乐于参与。"三年展 "将以此为起点举办第二届延续传接下去。在我们古老的文化之外,"三年展"将创造一种新的视觉文化。因此,我们必须寻找新时代的新的创作方法。

  黄笃:当代国际艺术发展呈现多元化,西方中心似乎也不断被解构,这具体地反映在非西方的双年展或艺术事件多。请你以全球视野谈谈欧美与亚洲之间当代艺术的互动关系?

  南条史生:我认为,当代艺术最初是源于西方,而现在它作为全球的或国际性的语言正在发展,任何人都可以参与,并提出一种新的语言。尽管欧美的新闻媒体、市场和理论仍起着支配的作用,非西方国家的艺术家还是有大量的空间和机会被重视和添了新的视点。现在,我真的并不关注它是否是亚洲的、非洲的或西方的,但我喜欢看到差异。当然,构筑这些差异的手段之一就是大型的国际展览,如"双年展"和"三年展",这些实践当代艺术的大型展览无疑会对展览当地的居民产生良好的影响。但也有许多其他的方法可以创造小的桥梁,诸如:出版、互联网主页、传输争论及艺术家和理论家的交流。现在,我有了一些视觉文化的预见,五十年后,会有更频繁的艺术、艺术家和信息交流,文化身份会成为艺术作品的重要因素之一。在艺术作品中,艺术家并非始终表现他们的地域文化而是利用其他的地域文化,就好像是他们自己特有文化的一部分。在这种文化再混合的方式下,视觉文化则更具丰富性、综合性和娱乐性的特点。我推想,那时艺术将成为人类生活和思维方式更为重要的组成部分。

  黄笃:在策划大型展览过程中,你是如何处理展览主题、赞助、艺术家、空间之间的关系?请结合具体举例加以阐述。

  南条史生:展览主题常常非常主观地解释。因此,有时,有些作品的选择看上去不适合主题。但是,我认为这可以接受,因为这种"不适合"或"不可理解"造成了展览的复杂性和神秘感。观众去问,它为什么在那儿?空间是展览选择的另一个重要因素。它应该和既定的物理空间有密切关系,但两者间又有一种游戏的趣味。这样空间里的展览,会使你当时对其的身份体验更有说服力。希望艺术家有才能以空间为娱,并表现出他的有趣、灵活、和创造性。关于赞助,赞助在我的想法里,是和展览的内容相对分开的,而且应该是这样。比如,当我于1995年在"威尼斯双年展"组织"超国度文化展"时,展览由著名的Benesse Corporation赞助,但当时我还是从日本基金会找来了一些资金。在这种情况下,展览就更为正式化了,而不仅有一个发起者。因此,我就有把握避免策划受到一个公司的影响和左右。只有一家赞助是一种冒险性的障碍。另外一点是在募集资金铁时候,如果你提出要求某个展览,潜在的赞助方常常不能理解意图;但是,如果你提出某个艺术家的大的计划,然后去要求实现这个计划的赞助,对方往往会被打动。这是一种技术策略,但我的经验就是如此。


アート・問題・計画者 4

2005-08-15 | Weblog
 

雷尼·布洛克:确实是如此,但是这两个作用对他来说都是同等重要的,是相辅相成的。

  黄笃:试问,博伊斯的艺术观念是否与国人文主义的精神,如海格尔存在主义哲学,或国传统的浪漫主义精神有着关系?

  雷尼·布洛克:当然,博伊斯确实受国哲学思想尤其是19世纪浪漫主义思潮的影响。19世纪哲学对他的影响要比20 世纪哲学的影响更深,因为在20世纪他不需要哲学了,他自己就已创造了一种哲学。

  黄笃:博伊斯是反对艺术上的神话的,可是他自己后来变成了一个神话,对于这个问题,你怎么看待?

  雷尼·布洛克:其实,博伊斯出生于一个传统的基督教家庭,他的作品充满着基督教的色彩。然而,他从来没有这种看法,即他是否被看做神话或被广大媒体和群众接受的问题。他自己是有非常清晰的思路的:一方面是历史性的;另一方面是现实性的。但是教会对他来说是一种政治权力,他必须找一种与之对立的东西来抗衡。然而,对于一个普通的人来说,他接受了一些基督教的思想;从政治角度看,他本人又是教会权力的反对者。

  黄笃:博伊斯的思想和观念深深地影响了后来很多国年轻的艺术家,如托马斯·鲁夫(Thomas Ruff)、托马斯·施楚斯(Thomas Struth)、托马斯·曼(Thomas Demand),以及卡特琳·弗利希(Katharina Fritsch)等艺术家,他们大约四十多岁。尽管有些艺术家使用了摄影作为媒介进行创作,或他们创造了介乎装置与建筑之间跨学科式的作品,充满强烈的个性特点。您如何看博伊斯之后的这些艺术家?

  雷尼·布洛克:博伊斯当然对这些艺术家产生了影响,这种影响体现在他们在艺术形式上更具鲜明而独特的个性。他不喜欢那种一味模仿他的艺术家。所以,博伊斯只接受那种能够独立思考和创新的学生,因为他认为这些学生与他不是同一代人,他们应该有不同的问题。

  黄笃:去年,在纽约的P.S.1,我看到了一个来自柏林题为:"柏林的孩子"的展览。参展的艺术家与我们提及的那一代艺术家完全不同,他们的年龄非常小,他们的作品基本表现出了感性化的特征。

  雷尼·布洛克:你所指的"柏林的孩子"这个展览,并不能作为国新艺术的代表。它具有文化政治的意图,人们试图把它看做传达国艺术现象的中介。这种艺术是很自由的,没有什么限制,很开阔的。当然,柏林即有这样的艺术家,也有其他形形色色的艺术家。每个策划人都从他自己的角度来策划展览,要表达他个人的想法和观念。但我想说是,柏林现在的艺术远远超出了这个展览所表现的,柏林现在的艺术远远不止这些,更何况这个展览在国受到了很多批评。我也看过这个展览,我非常失望!

  黄笃:现在我们来谈另一个问题。我也看过很多展览,当代的文化受到法国哲学思想的影响,尤其冷战结束之后,艺术由政治话语转向了日常生活话语,实际上,就是通过日常话语,通过物质的发现来解构社会话语或者权力话语。你是如何认识这个问题?

  雷尼·布洛克:我个人并不是欣赏解构主义的观念的,我们实际上需要建立结构的东西还很多,我们应该去建构这个社会,而不是分解。当然,对于这样的问题,我们还要进一步讨论,人们总要对世界的两极进行讨论,然后匆匆取出一种。

  黄笃:两年前,您在卡塞尔策划的一个展览,涉及到第三世界的女性艺术家,特别是居住欧洲的来自第三世界的女艺术家。这个展览的观念,或是美学上的背景是什么?

  雷尼·布洛克:这里有两个方面的背景,一个是我个人的生活背景,还有一个是政治背景。因为我自己一直对第三世界很感兴趣,实际上,60年代初激浪派也是这样做的,一个是西方的官方艺术,还有一些第三世界艺术家艺术,直到博伊斯、白南准形成他们自己的中心之后。这实际上是很有趣的现象,一个是中心艺术,一个是边缘艺术,将二者的位置掉换也很有意思。另一个是从地理角度阐述,我被邀请策划"悉尼双年展"和"伊斯坦布尔双年展",但是相对欧洲来说,这两个地方都是边缘地带,而且它们都有不同的文化和历史。所以,为此我必须构思两个不同的主题。在伊斯坦布尔的时候,我发现了一个非常有意思的现象,女性艺术家在她们作品中表现的思想更激进一些;所以当时我策划的"伊斯坦布尔双年展"的主题,是以伊斯坦布尔为中心,包括周边一些地区。以男人为主或中心的社会是土耳其国家的普遍现象,在这样的社会中,女性就更需要勇气才能突出和表现她们的价值,所以,她们需要采取比较大胆、激进的做法。

  现在回到卡塞尔(Kassel)的话题。卡塞尔每年五月举办一次国际"文献展"(Documenta),实际上,它一直都是以欧洲为中心的,很少提供与其他国家对话的机会。即使1997年卡特琳·大卫(Catherine David)所策划的第十届"文献展",尽管她声称要把其他一些边远地区的国家纳入"文献展"的视线范围,但是这个展览给人总体的感觉,仍体现了以欧洲艺术为中心。在传统意义上讲,弗里利卡博物馆一直是表现西方传统艺术的象征。所以,在担任该博物馆长的四年以来,我想改变一下原来的策略或方向,我在任四年之中一直致力于与边缘地区艺术家建立一种对话和联系,从艺术内涵的角度,我也努力建立对话关系或接触。我在这里策划的展览题目叫做"回声",我邀请了9 位女性艺术家,她们最初都是来自边缘地区的艺术家,其中包括了中国的女性艺术家秦玉芬。

  黄笃:这些艺术家生活在欧洲,而她们又有欧洲的身份和背景,又接受了西方文化的影响,因此,这个展览的宗旨有没有探讨霍米·巴芭(Homi K.Bhabha)所称之的一种"混杂文化",或者"第三空间"的意图?

  雷尼·布洛克:这种现象或这种促进也是现实的。我没有必要去想或构思表现什么,作品本身的就是现实。对我来说,并非要表现什么意识形态,而就是反映这种现实。

  黄笃:你在关心西方艺术的同时,也很关注边缘艺术。随着冷占结束,意识形态发生了很大变化,全球化把意识形态的对立变成了经济力量的冲突、流动资本和文化的信息化,全球化和区域加剧了,也预示着文化是漂移的文化,不是固定的文化。您是怎样看待个人与民族性,以及国际性与个人这样的关系?

  雷尼·布洛克:实际上,在艺术领域里一切都是可能发生变化的。对一些艺术家来说,很难找到一种自己行得通的道路,这种现象已经存在有几年了。"伊斯坦布尔双年展"当时命名为"东方"(Orientation),展览主题具有两层做含意:一是指东方;一是指在调整之意,调整我们现在所处的位置。这就是为什么我在卡塞艺术博物馆策划展览时选择了来自非西方女性艺术家的理由。英语、国和法语?quot;东方"都用Orient。"东方"这个词本身已经含有了边缘的意思,实质上是在玩文字游戏。

  黄笃:也有不少策划人做过中国的展览。如1993的威尼斯双年展(波尼托·奥里瓦策划的"东方之路")、1999年威尼斯双年展(哈罗·塞曼策划的"全部开放"选择了几十个中国艺术家)。然而,在西方,一些研究中国艺术的学者持另一种态度,批评他们在打中国的牌,明确地指出他们所选择的艺术家具有异国情调而讨好西方的趣味。如果你看过这两个展览的话,您有何感想和看法?

  雷尼·布洛克:我对这个问题不好回答,因为我对中国艺术现状不很了解。我没有出席1993年的威尼斯双年展,我只能说说1999年的威尼斯双年展。塞曼先生选择那么多中国艺术家参加威尼斯双年展,我也是没有想到的,但是从这些作品中我看到很多信息,我本身也感到很好奇。当然,这些作品不是代表很典型的中国当代艺术,而且它们也不应该是典型的中国当代艺术,前卫艺术从来就不具有典型性。

  黄笃:最近,我在《新闻周刊》上看到一篇文章,美国一位专栏作家 谈到一个观点,20世纪末,所有的"主义"都死亡了,现在突现的是民族的冲突,它涉及到文化的问题,以及以后我们如何看待文化的问题、价值观的问题。当代艺术领域是否存在着这种现象?

  雷尼·布洛克:实际上,这是一个很有趣的现象和分析。冷战之后,资本主义、社会主义在新的解体和新的变革之后,世界又面对新的文化冲突。实际上,这种文化、民族之间的冲突是没有必要存在的,都是人为造成的,也就是少数人为了个人的利益争权夺势制造了这样的结果。我深信人们还是希望在和平的环境下生存。在韩国的"2000年光州双年展"上,一位土耳其女艺术家卡拉姆斯塔法(Gulsun Karamustafa)的作品就非常有意思,她的作品的题目是"我脑海中的格子"(Trellis of My Mind),它也曾出现在我在卡塞尔博物馆所策划的展览里。她的作品就是把伊斯兰教历史的再现,而且这三种宗教起源于东方。如果人们把三种图片穿插来看的话,冷眼一看并不能分辨出哪一种图片反映哪一种文化或宗教,这是很有趣的现象,即一百年前并不存在文化、民族和宗教间的冲突,它们相互是和平共处的,只有你在仔细看每幅图片下面的文字时,有希伯来文、犹太文和阿拉伯文,才能通过文字醒悟过来它所表现了哪一种宗教文化历史。实际上,在一百多年以前,人们也尝试寻找能够代表所有文化、所有种族、所有宗教的共同使用的语言,然而,我们又从这种文化和语言中游离出来。今天,又是通过全球一体化,通过因特网的方式,人们转了一圈,回到了历史的起点。


アート・問題・計画者 3

2005-08-15 | Weblog
 

雷尼·布洛克:

"激浪派"·博伊斯·策略与方向

  雷尼·布洛克(Rene Block)现任国卡塞尔弗里利卡博物馆馆长。六七十年代,他曾是参与"激浪派"(Fluxus)运动的组织者之一。先后策划的展览有:"悉尼双年展 "、"伊斯坦布尔国际双年展"和"光州双年展"等。他曾在纽约建立了雷尼·布洛克画廊(Rene Block Gallery),并于1974年邀请和安排了约瑟夫·博伊斯(Joseph Berys)惟一一次美国之行。在他的画廊,博伊斯实施了著名的带有浓厚政治色彩的行为观念艺术"郊狼:我爱美国,美国爱我"。时至今日,它在当代艺术史中仍被广泛评论。

  2000年5月黄笃与雷尼·布洛克在北京哥学院的办公楼进行了访谈。姚仲珍女士担当了访谈的翻译,郭西萌录音整理。

  黄笃:很高兴与雷尼·布洛克先生在北京相遇。久闻你策划了许多重要的当代艺术展览。众所周知,你很早就介入了"激浪派"运动,并且是这一运动的评论家和参与者之一。这里,我受《今日先锋》的委托,对你进行一下采访。首先提出你熟知的"激浪派"问题,然而,对中国艺术家或艺术爱好者来说,它的观念和艺术价值至今仍具重要的现实意义。因此,请你谈谈"激浪派"运动产生的背景和针对的问题及美学转向。

  雷尼·布洛克:我想,对于"激浪派"一直存在着普遍的误角。这种误解就在于人们认为有一组"激浪派"的艺术家,实际上,从来就没有存在这样一个艺术家的组合,也不存在他们共同遵循的准则、标准或者宣言。然而,在我的论述中,我会提到一些从事激浪派运动的艺术家,给人的感觉好像他们就是一个小组。但是我们必须搞清一个问题,即他们每个艺术家都是独立的,而且他们每人从事的范围也是不尽相同的,他们各有各的方法和风格。还有一点是,这些艺术家并非皆来自国,而是来自世界各地。因此?quot;激浪派"运动应被看做是全球性的艺术运动。"激浪派"不能被视为如表现主义、新表现主义那样的一种派别,而应看做是一种对思想运动的反思。

  那么,"激浪派"运动是怎么产生的呢?60年代初,艺术家有这样的想法,能否脱离传统的想法,或者,是否能够找到艺术发展和变革的新的可能性?他们希望脱离过去的艺术流派。但是,艺术市场有一个固定的准则,每个艺术家都应遵守这样准则,而"激浪派"艺术家希望创造与这些准则不相符的东西。当时,这个运动基本集中于两个中心:一个是美国的纽约,一个是国的科隆。当时,像科隆作为一个艺术中心,艺术家创办了一本杂志,很多艺术家把他们的想法和观念都发表在该刊物上。与此同时,在纽约,乔治·马茨那斯(George Maciunas)也创办了一本杂志,杂志以"激浪派"命名。"激浪派"这个词来自拉丁文,指的是流畅的、没有边界的、无界之意。所以,也可以这样解释,比如音乐家可以创造绘画,画家也可以创造音乐。但实际上,他们只是试图在艺术上把这种想法表达出来。然而,到底是什么将这些艺术家联系在一起呢?究其原因就是他们都有一种共同的倾向,反对艺术市场中的规范,他们选择了其中最简单的一种形式使他们彼此联系在一起。他们还选择了书面的形式,这就是文字的形式,以文字来表达思想,这种艺术也就开始起源。乔治·马茨那斯曾尝试?quot;激浪派"下一个定义,或者固定下来的概念,但随后几年,艺术家并没有追随他的想法从事艺术创作。在马茨那斯的思想里,艺术应该是无名的。他把很多人的作品集中在一起,但并没有个人的名字,许多作品被以"激浪派"命名。实际上,他确实想尝试建立一个艺术家小组,这个小组就以"激浪派"命名,所以,每个独立和个体的艺术家的意义相对于"激浪派"而言就不那么重要了。但是,对乔治·马茨那斯来说,一些艺术家坚持走自己的路,而渐渐地脱颖而出了。比如艺术家有博伊斯、白南准(Nam June Paik)、约翰·凯奇(John Cage)。

  黄笃:事实上,现代艺术运动或当代艺术发展都是与当时的文化环境和社会语境中有着密切的关联。那么,"激浪派"是否与60年代的政治运动以及哲学思潮有很大关系?

  雷尼·布洛克:你说的是非常正确的。当"激浪派"产生时候,欧洲的政治确实正处于变革过程之中。现在,我只谈谈国的情况,因为我对国斩观察较为具体。当时,行为艺术还不被称之为行为艺术,它是一种偶发的或概念艺术。艺术家沃尔夫·沃斯泰尔(Wolf Vostell)在他的作品中表现出一种政治的影响,他希望把这种政治影响传达到观众头脑中去。另一方面是博伊斯,他当时任杜塞尔多夫艺术学院教授,他每天与年轻的学生打交道,就不可避免地谈到现实政治。实际上,当时博伊斯已与传统的"激浪派"脱离,而且在他的作品中更尝试与政治产生联系。也就是说,这些艺术家和学生是有联系的。但是问题是,学生领袖们对这种新的艺术运动还没有认同,或将它看做是具有举足轻重的力量,只是认为他们有一些政治上的幻想,比如偶发艺术能不能产生政治的偶发性来与学生们探讨呢?因此,学生领袖们并没有把他们当做艺术家来看待,而作为一种政治工具,通过他们来反映一种他们自己的理想。有短暂的接触,而后又各奔东西。惟一一直在政治领域比较活跃诉就是博伊斯。很有意思的是博伊斯曾是国绿党的创始人之一,现在的绿党已进入了国议会。但是博伊斯作为艺术家,也把他的政治理想通过艺术手段表达出来,不过,他与政治还是保持了一定距离,有时他也开一些政治家的开玩笑,他在观察这些政治家。

  黄笃:是否博伊斯的最大贡献反映在两个方面:一方面是他在艺术语言上的个性化的创造和发展;另一方面则是他把艺术理念即"社会雕塑"带进了政治生活?


アート・問題・計画者 2

2005-08-15 | Weblog
黄笃:时至今日,当代中国艺术似乎在古巴"哈瓦那国际双年展"上还未露面。按理说,既然中国与古巴保持着友好关系,文化也应当有密切友好的交流。然而,实际上,两国在当代艺术方面的交流却不多。那么这是什么原因造成的?是否双年展的策划人在政治或经济方面存在着某种障碍?还是策划人有着独立于政治之外的思考?

  墨斯凯拉:我不了解造成这种情况的原因。在我看来,中国当代艺术是今天最激动人心的实践之一。作为一个策划人,我深深地被它的自由、独特和活力所吸引。我相信,中国年轻的艺术家在古巴会受到欢迎。古巴的情况和中国其实有些类似,但是,两国相距遥远,我认为中古两国的文化当局不会安排中国的当代艺术家来古巴作展览和表演,或是古巴的年轻艺术家访问中国。

  黄笃:古巴与中国有相似性,它们的社会制度和意识形态都是社会主义。据说古巴领导人卡斯特罗非常支持古巴现代艺术,而且古巴当代艺术很受国际关注,许多古巴艺术家的作品开始被西方画廊收购。社会主义的国家意识形态似乎成为西方社会的集中关注目标。当然,尽管中国与古巴有着相同的意识形态,但是二者的文化传统不同。因为属于西班牙语系的古巴仍是拉丁文化的传统特征,你如何看待这种现象?

  墨斯凯拉:的确有重要的历史和文化的区别。现代艺术在古巴兴起于19世纪20年代,当时的对立面是自19世纪以来的以哈瓦那为中心的学院传统。现代主义艺术参与了古巴所有的重要运动,它支持民族主义和社会平等,反对美国的新殖民主义政策,也与左翼思潮息息相关。现代主义艺术的几个关键人物是成立于1929年的古巴共产党的成员。当时有现代主义倾向的知识分子们在审视欧洲形势的同时,也关注着古巴国内的和通俗的文化。

  1959年的革命虽然激进,并不意味着文化上的断裂。在古巴,没有强制的官方政策,也没有疯狂地执著于改变文化的生活的梦想的塔特林或罗琴科们(Tatlins of Rodchenkos)。现代主义艺术编织了部分的自由主义传统,它坚实地矗立在文化和政治的领域里,频繁地呼吁着民族平等和社会改良。革命接受了现代艺术,现代艺术也随着它自己的进程而自然发展。"革命,就是一切,不革命,什么都不是"(With the Revolution,everything;ortside the Revolution,nothing)的口号奠定了古巴政权文化政策的基本声音。它是卡斯特罗在毛泽东"百花齐放,百家争鸣"政策的感召下,于1961 年提出的,到今天仍然成立。它的优点是游戏规则非常清楚:在不与革命对立的前提条件之下,在文化艺术领域内可以做任何事。它的问题是,决定文化活动是否" 反革命"的是古巴政权本身,包括它的文化机构和国家安全部。政策的宽窄取决于当时的时代、机构和官员。70年代是个例外,政府从未干涉艺术和审美的问题,而是关注政治抗议。艺术家们绝大部分时间的格言是达摩克利斯之剑。另一方面,这样的法令也给了艺术家对付行政人员的一种方法。取其利扬其害,我们用这样的口号来保护创作自由和对付体系本身导致的文化艺术的僵硬局面。事实上,古巴革命维持了社会主义阵营里,也是古巴国家历史上最不受约束的文化政策。

  另一个注意的方面是古巴建立了它独特的社会主义模式,与前苏联及其同盟迥然不同,而和美国近似,两国都对其国家进行强力控制。在50年代,反对巴蒂斯塔专制的革命和变革并不是由古巴共产党,而是由七·二八运动和其他社会组织领导的。这些组织的早期实践没有一个马克思主义的纲领。古巴政权甚至到70年代还维持着从中国和前苏联圈子的独立。

  基于古巴的历史和传统,前卫艺术实践通常很容易被接受。在古巴,没有中国所谓的"地下艺术",因为古巴艺术家可以参加国家艺术构构的展览、巡回展,还会受到资助。从80年代中期开始,古巴艺术越来越有针对性地讨论国家的危机。这个过程从视觉艺术开始,发展到各个领域,迫使政府虽然并没有放松对媒体的控制,但在这些领域还是越来越宽容。国家对激进的和明显的社会批评的内容的审查仍然非常严厉,一个极端的例子是一位年轻的艺术家因为在展览开幕式上排便而被捕入狱六个月。

  黄笃:你已经参与或介入了许多展览,那么,策划的哪个展览最令你满意?

  墨斯凯拉:1992年在古巴举行了盛大的纪念哥伦布到达美洲五百年的活动。欧美的机构策划了几个大型的拉丁美洲艺术展。即使是他们最严肃和最彻底的努力仍然使我深感愤怒,原因如下:
  1. 这些展览往往是以全方位的、简单的观点来反应一系列复杂的国家、文化及其文化实践。
  2. 它们总是从北美和欧洲的文化视角来组织的。
  3. 它们常常为对拉美文化的过时的偏见所左右。
  4. 正如通常的情况,我们自己也常常陷入"抱怨文化"(culture of complaint)不能自拔,而没有采取主动措施。
  因此,我决定与卡罗琳娜·蓬塞··莱奥(Carolina Ponce de Leon)和拉切尔·威思(Rachael Weiss)一起策划"关于美洲"(Regarding America)。这个展览展示的当代艺术家的作品,主要关注美洲的文化和社会,以拉丁美洲作为出发点。这是第一个在"南边"发生、组织、策划和赞助并后来巡回到"北边"的关于拉丁美洲艺术的展览。从1992年到1994年,这个展览去了波哥大、加拉加斯、纽约、旧金山、圣地亚哥、罗伦斯和圣·何塞。"关于美洲"包括了来自加勒比区域的艺术家,奇卡诺人(Chicano)、努约里肯人(Nuyorican)、美籍非洲后裔和印第安后裔,打破了通常的地缘理解。在那之前名不见经传的艺术家,如道里斯·萨尔塞多(Doris Salcedo)、何塞·安东尼奥·荷拉兹狄亚兹(Jose Antonio Herrandez-Diezand)、玛利娅·弗拉达·卡罗布索(Maria Ferranda Carobso),都是在那次展览上初次受到国际瞩目。

  黄笃:我于1999年在卡耐基三年展上看到了现居纽约的墨西哥艺术家加布里埃·欧罗兹库(Gabriel Orozco)的装置作品"乒乓球桌",我感到它强调了艺术作品与观众之间互动关系。请问,你如何评论他的艺术?另外,与之相反,古巴艺术家克乔(Kcho)则把自然的东西转化成了宠大的纪念碑性。你如何评论这个艺术家的艺术?

  墨斯凯拉:加布里埃·欧罗兹库里一位很细腻的艺术家。他的艺术可以说是和杜尚的"超轻松"想法有关。作品用日常工作中被忽视的和弃置的物件构建出人意料的诗意美感。他也是拉丁美洲艺术家中丝毫不表现他的文化语境的绝好例子。至于古巴艺术家克乔 ,刚好相反,语境就是一切,虽然他把语境表达得很个人化。他是一个性情中人,天分极高,是后现代艺术中的巴斯奎特(Basquiat)。也许他的事业兴起太坟迅速,现在他只是在重复自己。我希望他能够克服这种状态。

  黄笃:我于1999年在卡耐基三年展上看到了现居纽约的墨西哥艺术家加布里埃·欧罗兹库(Gabriel Orozco)的装置作品"乒乓球桌",我感到它强调了艺术作品与观众之间互动关系。请问,你如何评论他的艺术?另外,与多相反,古巴艺术家克乔(Kcho)则把自然的东西转化成了宏大的纪念碑性。你如何评论这个艺术家的艺术?

  墨斯凯拉:加布里埃·欧罗兹库是一位很细腻的艺术家。他的艺术可以说是和杜尚的"超轻松"想法有关。作品用日常工作中被忽视的和弃置的物件构建出人意料的诗意美感。他也是拉丁美洲艺术家中丝毫不表现他的文化语境的绝对好例子。至于古巴艺术家克百,刚好相反,语境就是一切,虽然他把语境表达得很个人化。他是一个性情中人,天分极高,是后现代艺术中的巴斯奎特(Basquiat)。也许他的事业兴起太过迅速,现在他只是在重复自己。我希望他能够克服这种状态。

  黄笃:我代表《今日先锋》感谢您在百忙中能抽出宝贵的时间耐心回答这些问题。


アート・問題・計画者 1

2005-08-15 | Weblog
 

今天,艺术策划人已成为热门话题。这是因为当代艺术潮流的动向与博物馆、美术馆策划人或独立策展人有着密不可发的关系。一种普遍的观点认为,任何有影响的当代艺术展览,都体现了策展人的纯粹理念。虽然这种看法有言过其实和夸大策划人之处,但它确实反映了策划人在艺术发展中充当的重要角色和作用。事实上,杰出的艺术策划人,无论从理论到实践,还是从实践到理论,他们必须有宏观的全球视野,也应有微观的具体把握--既要关注全球化下社会、政治、经济、文化、中心、边缘、多元主义,民族和身份等议题,又要保持对艺术语言和形式的独立判断力,还要重视跨学科的问题。基于此,在组织当代艺术展览的过程中,策划人不仅必须具备克服各种各样技术(包括运输和保险等)问题的能力,而且还要与艺术家、博物馆、画廊经纪人和收藏家之间反复谈判和协商相关的艺作品。此外,他们必需考虑如何提供给艺术家的材料、技术支持和空间安排,如何应付和处理在各种复杂社会体制下棘手而敏感的法律和道问题,及怎样寻找展览的资金等等。实际上,策划人在艺术家、展览与公众之间起到了一种"桥梁"式的对话和交流作用。

  因此,策划人组织的展览可以概括为这样几种形态:一种类型是集中突出策划人理念的展览;一种类型是反映策划人与艺术家之间对话和互动的展览;一种类型是强调艺术家创造力的展览。

  然而,当代艺术策划研究在中国仍是一门新兴的学科,它在大学和博物馆中尚未建立。尽管如此,在过去的二十余年中,许多艺术策划人结合了中国具体的现实,经过坚持不懈的实践,摆脱了资金和制度的种种限制,并积累了丰富而宝贵的经验,为推动中国前卫艺术的发展付出了极大的精力和心血。与此同时,也有一些移居海外的策划人为把当代中国艺术带入国际艺术领域的"双年展"、"三年展"、"文献展"及"专题展"做出了巨大的努力和贡献。

  这里,《今日先锋》邀请当代艺术策划人、著名评论家黄笃与四位国际著名的策划人进行了访谈,这无不具有迫切的现实针对性。四位著名国际策划人来自不同体制、区域和不同文化传统,针对的文化问题也完全不同。所以,读者从这一组精彩的访谈中能够了解到策划人的艺术观点和态度及他们对当代艺术观念转向的精辟分析和诠释。

 

哥拉多·墨斯凯拉:

"革命,就是一切,不革命,什么都不是"

  哥拉多·墨斯凯拉(Gerardo Mosquera),生于古巴首都哈瓦那。现任纽约新当代艺术博物馆资深策划人,国际知名的当代艺术策划人、评论家、教授。"哈瓦那双年展" (Havana Biennial)创建人之一。他曾策划了许多重要的国际当代艺术展。1992年,他在哈瓦那策划了关于当代拉西美洲艺术的展览"关于美洲",并在世界许多城市巡展。同时,他还是《第三文本》杂志的编委之一。他出版和发表了很多关于当代文化和艺术的论著及文章,其中以《超越幻想:拉丁美洲当代艺术批评》(伦敦,国际当代艺术研究所出版)一书为代表。2001年6月上旬,黄笃与墨斯凯拉的访谈通过互联网完成。

  黄笃:据我所知,你来自古巴,曾是著名的"哈瓦那国际双年展"的创建人之一。现在,你大部分时间在纽约的机关报当代艺术博物馆任策划之职,同时又常穿梭于纽约、墨西哥和哈瓦那之间。很显然,作为策划人,你的研究方向集中于当代拉丁美洲艺术,也有着丰富的实践经验。对中国艺术家而言,他们?quot;哈瓦那国际双年展"所知甚少,非常期盼了解它的更多文化信息和艺术动态,您能否谈谈哈瓦那国际双年展诞生的文化背景?在这个双年展中,请谈谈你是如何运作?与其他国际双年展(威尼斯双年展、圣保罗双年展)相比较,它在当代艺术发展中的特点是什么?或者它主要针对什么文化问题?

  墨斯凯拉:委佛莱多·林(Wifredo Lam 1902-1982)是著名的古巴艺术家,他是中国广东移民父亲和古巴拉美血统母亲的儿子。林曾为毕加索和布列东所高度称赞,并因为在现代主义运动中表现拉美文化内容而被公认是重要的拉丁美洲艺术家。1983年,林逝世于巴黎。古巴政府为了纪念他,在哈瓦那建立了委佛莱多·林中心(Wifredo Lam Center in Havana)。该中心的宗旨是研究和弘扬来自第三世界国家的现代艺术。作为体现这一宗旨的一部分,林中心自1984年起开始组织哈瓦那双年展(Havana Biennial)。

  第一届哈瓦那双年展着重于拉丁美洲和加勒比海区域的艺术家。从第二届起,它成为一个包括亚洲、非洲、拉丁美洲、加勒比海地区、吵东和欧美移民的艺术家的大型展览。如果我们考虑到这个展览比1989年蓬皮杜艺术中心举办的"大地魔术师"(Le Magiciens de la Terre)还早三年,就会了解哈瓦那双年展的先锋地位。它是向环球艺术巡展所做的第一次大规模的努力。更重要的是,它把重点放在先锋美术的实践上,而不倾向于"原始主义化"或"民间工艺化"。它为以往只能在地方上活动的边缘艺术家们创造了一个独特的展览空间,也让来自这些国家和地区的艺术家、批评家和策展人有了互相了解的机会,进了"南南"和"南北"之间的交流。自创立以来,哈瓦那双年展也举办国际研讨会、讲座和外围展。
委佛莱多·林中心的创立和哈瓦那双年展是古巴政府针对第三世界的文化举措。冷战结束之前,古巴与前苏联一道,曾与中国竞争第三世界的思想和政治领袖的位置。但是,当时对文化没有什么深层兴趣的古巴政权,只是确立了林中心,哈瓦那双年展和其他文化机构的宗旨,并没有建立一个严整的文化政策和艺术家的动作方式。所以,这些机构得以保持作决定和行动的自由。

  委佛莱多·林中心的班子一直策划哈瓦那以年展。在双年展的类型里,它仍然是惟一的专注于第三世界现代艺术的大型活动。但是,近年来的几届哈瓦那双年展越来越少邀请来自非洲、亚洲和中东的艺术家,越来越多是西方的主流明星,对研讨会、讲座和工作室甚少重视。双年展是围绕主题的,但是近年的主题却流于过时、简单和保守,尽量避免冲突和政治文化上的敏感问题。有一届展览的主题?quot;漂流和迁徙",却只展出了在古巴的移民艺术家的作品,虽然事实上战后的古巴历史其实是放逐和移民的历史,美术的迈阿密几乎是第二个古巴城。受古巴的当前形势所限和旅游业的影响,哈瓦那双年展正在失去它的激进特色,渐国成了为国际策展人设置的展示边缘艺术家的橱窗。


日本漫画とアメリカ漫画

2005-08-14 | Weblog
說到美式的漫畫,和日式的最大不同,就在裏面的悲劇性。

我們隨便來舉美式的漫畫英雄,來看他們身上共通的特徵吧,比如說超人,超人的母星球被毀,他無處容身,來到地球,那是異鄉人的恐懼。我記得有一集漫畫裏,就有公眾媒體在質疑超人手段的正確與否,在質執超人會不會犯錯,比如,他用快速動作,在曼哈頓的街上,蓋了一個監獄,當場把兩個銀行劫匪關在裏面。

同樣的例子,蜘蛛人也有,蜘蛛人有次因為天氣熱,竟然出現幻覺,幻想自己把整條街上的汽車全掀翻了,就為了他受不了被困在沒有空調的車裏,而且,蜘蛛人的存在主義色彩太濃了,那是人和蟲的替換,他一直有個擔憂,就是自己什麼時候,會完全變成一隻沒有人性的蜘蛛。

要再有例子,說蝙蝠俠,蝙蝠俠的父母被暗殺,還有,暗俠的毀容,巨人的父子之爭,閃靈殺手的死亡,這一切的一切,都有希臘悲劇的色彩,都是一個人和命運,和非可控力的天道違背相爭,比較特殊的例子,比如說奪命判官,那個判官也一直在漫畫中被作者自己質疑暴力的尺度,為了反暴力而使用暴力,其後果為何……。判官在漫畫裏,動不動就和這樣的尺度在爭論,我記得有一篇,是他想抓蝙蝠俠,兩個人爭吵起來,後來打得不可開交,還好是第三個壞人出現,蝙輻俠給跑了,才留下一個open ending,這個open ending,其實也就是作者的無可奈何,他不知道該怎麼去作出合適的結論。

你看到這裏,八成以為我亂說,認為這是瞎派,其實不然,這個對美國漫畫的討論,行之有年,早有一堆文章,要討論美式漫畫裏的希臘悲劇傳統,最好的反證,就是日本漫畫。

日本漫畫裏,就沒有這樣的東西,反而是日本人自已的恐懼和困擾,比如說奧特曼和酷斯拉,都是身形幾十丈,一邊拯救城市,一邊破壞城市,那是根植於日本人的「原爆受害情結」,那樣的,整個城市毀滅的景像,是他們的,真實的回憶和惡夢,在冷戰時期,用日式的超人和怪獸來排解。

一些另類的超人,比如說仮面超人,則多是逃出一個大企業,或是逃出國家實驗室的,被施以實驗的平凡人,他們無辜地被大企業或國家拘禁,然後,被改造,為了追求自由,出逃,一路上,就為了還自己的真實面目,以及自身的自由而被無止盡地追捕和戰鬥,這,是和日本社會習習相關,是他們對國家、對日式社會結構,對政經制度的反動,而無路可逃,則又是和他們的島國環境有關。

總之,用希臘悲劇來看美式漫畫人物,一點也不誇張,那,本來就是美式漫畫的精髓,同理,要看日式漫畫,一定要看時代性,看他們的社會變遷,不信,你到日本東京地鐵,在上下班時間,看那些上班族,人手一本漫畫,你當能明瞭,我這樣的理論不是胡說。

若你說,漫畫不能當作一個正經事物來分析,來看待,就跟拉麵說,托爾金的小說沒有文學上的價值一樣,是對世俗消費性文化產品的蔑視。拿希臘神話來解讀巨人,也許你覺得過了,但,同樣的,在漫畫迷的眼中,你們這種蔑視的態度,也正確不到哪去……。

就像古人說的,大小便裏,也能看出道理。同樣,漫畫裏,也能看到希臘悲劇,也能看到冷戰遺緒,也能看到一整個國家人民的戰爭傷痕……。

没有错 talich - 2003-7-16 0:40

美式漫画都有悲情成分,有道的不确定感。我同意。其实我看漫画很少,所以说不清,我是觉得summer pop-corn的电影会淡化这种矛盾。电影要求的是正邪两立,比如Hulk明明是冷战时期核武器威胁下的产物,这种矛盾有切实的深度。但是到了电影里,就不能这么做,首先时代变了,你要反应新环境,新变化,影片中的时间设定都是当前。很多可以勾起美国观众内心里的反应的前提不存在了。所以李安才说这是一个父子戏。就是要时代感

关于summer pop-corn电影对漫画的改编,最明显的是我刚看的LXG,本来是Alan Moore的漫画小说,拍的真烂。举nytimes上一篇文章说,里面人物设定都简单化,美国大片化了。比如Conery演的Quartermain,漫画里是英雄迟暮,吸毒成瘾,可是Conery演的如同完美的英国绅士。这队人马里每个人几乎都有道的双重性,都有正的一面和邪的一面,所以看原小说你根本分不清谁会倒向哪一方,那个吸血鬼Mina,根本不知道自己是谁,这才是真正可怕的地方,影片里她只是个美丽的好吸血鬼。类似的还有Nemo船长,一个恨死了英国人的印度人要为英国人打仗,本来是很矛盾的事情,片子里仅一句话就解决了矛盾...

没办法,我想李安想在这里折腾出东西来也会被那些制片狠狠的制约的。

說個外話。 yolfilm - 2003-7-16 0:50

我小時候,台灣的電影還氣力旺盛,也拍了一堆這種超人片,本來想在這帖子後頭,傳上一些圖片,都是那些電影的報紙廣告,是同齡的哥們傳給我搜集的,可惜,胡胡梯拿掉了貼圖的功能,其實,這些片子,全都是台式的超人片,(裏頭甚至有一部叫武聖關公,也就是廟裏的神像變成奧特曼式的超人……)這些片子,我小時候也愛看,可惜就我這麼好的記憶力,現在再回想,一部也想不起來,根本不記得裏頭演了什麼……。

相反的,我卻能記得小學一年級去看的,宇宙飛龍無敵號,酷斯拉的逆襲一類的日本怪獸片,為什麼?為什麼台式的,我就記不起來,日式的,我卻歷歷在目?

要說為什麼,就是台式的超人沒有底蘊,不管這底蘊有多低階,但,我就是想不出來劇情內容,這些台式超人片,跟美式超人,日式超人一比,問題也就太清楚了,就因為裏面沒有希臘悲劇一類的因子。

電影會過時,超人也會過時,拍超人飛來飛去的特技也會過時,
只有裏頭的因子會永世流傳……。

日本人中国人 YOL

2005-08-14 | Weblog
不因人廢言,日本人的專注,拼命,敬業,那是無可置疑的可怕。不跟別人比,上一代日本人,跟這一代,被稱為草莓族的日本人一比,當下立現。

像畫漫畫的鳥山明,早二十年前,第一部作品「機器娃娃與怪博士」,就已經讓他變成巨富了,但他還不斷繼續畫,畫出七龍珠第一系列的東西出來,又畫了十幾二十年,換作中國人,到他那程度,只有迅速敗壞其性。開始作人生的享受,有幾個能在功成名就後還堅持創作的?

光是堅持創作,這就利害了嗎?…不見得,如果你多看兩本日本原版的模型雜誌,一直到現在,鳥山明還很喜歡作模型,常會用塑土作一些怪異的小東西投稿,跟他的漫畫無關,而是純然的興趣。這個,換作中國人,又有幾個檯面上的人物能作到?……

中國人,只要一旦成名,外務庶務雜務,交相湧來,虛名空名幻名,把握不住,立馬能將一個人身上的純真本質,毀棄到一絲絲不剩。

中國人就是太不安靜,又不守成,又不進取,又好擺高姿態,沒有激清,不善作義舉,沒有天然的面目。你看中國那些成名作家,一旦成名,全部立刻穿上唐裝,拿起毛筆寫字,開始滿嘴的仁義道,全部成了憂國憂民的「制式儒生」。不要說日本人,就連馮小剛表現出一些天然的血性,講兩句真話,都有人要從後頭追剿,說他「牛b烘烘」。說他這不應該,那不應該。操,我們愛看馮小剛電影,就是因為裏面的酸辣,可是,又容不得他在真實世界裏酸辣。中國人這些兩面性,虛偽無比,有時真叫人扼腕呀……。

我們什麼時候,才能有日本人那樣的純真?日本人的純真,就反映在他的色情電影工業上頭,那絕不是虛假作派,而是順其自然,因為人性有需要,我就作,而且,是好好的作,對色情演員,也儘量不持譏諷鄙視,至少還能保持個起碼的尊重。就像喝醉了酒,醉漢在路邊拉一泡尿,因為那是真實的人性,所以,總保持一個諒解的態度。反觀中國人,中國人是沒喝酒,穿著西裝打著領帶,又找不到公廁,找到了,裏頭髒死,公共場所,比如街邊的餐廳,又不讓人免費排水,於是,找個暗處一泡解決。這,都無所謂,可是,尿完尿的中國人,又會回過頭來罵日本人下流,隨地小便,罵日本人無恥,又會去偷看日本人拍的色情錄像……。

這,就是中國人的假,假到不能再真心,也不再懂得真心,不再有創作真心作品的能力。觀眾,當然也不再懂得欣賞真心的,有激情的作品的能力。

說回日本這些年輕的一輩,當代的,所謂的「草莓族」,我們中國人還是差之甚遠,例子很好舉。你看中國現在的個人網站,多如牛毛,數以十萬、百萬計。可是,有特色的站在哪裏?……就說軟體站好了,現在國內的盜版軟體站,全是一模一樣,都是偷、盜、竊、弄了,還在後頭強調,這裏面的東西是我搜集來的,誰來盜鏈、盜竊,誰就該死祖宗三代!完完全全地失控,不知行事為人的準則為何?反觀人家日本小孩,不但不盜,還自已給你寫,寫出來,免費要人下載來用。

這,就是戰鬥精神,自尊,自傲,這些,都是根植在他們身上的。你看多一些綜藝節目就知道了,日本人拍的電視,硬是不學你美國,反而叫你美國來學我。連續劇也是,同一個歷史人物,比如說豐臣秀吉,他可以硬是要拍n個版本,每個版本都不同。不比場面大,而是比誰的故事說得不一樣,誰能把歷史解構重組到合理。那是一種精神,一種可敬的精神。

我說日本人好,當然不是祟拜,而是尊重。不是要誰去尊重,而是你不得不尊重。

老話不是常說嗎:
要尊重你的敵人(當然,前題是,你真要把日本人當敵人的話)。

[music]tujiko noriko

2005-08-08 | Weblog
乐评最方便!

很难说这是广告还是乐评,发在了B6的版子上。介绍的除了些地下大牌其他都没听闻过,倒是有人回

乱七八糟写什么都不知道,一股摇滚的八股歌霉味。

文/voiceweekly

  这里说的石榴(Guava)和唐伯虎无甚关系,它其实是大陆首家逐字逐句灌输电子音乐的子厂牌,老妈是著名的摩登天空。而山水(shanshui),这个由东北传奇青年孙大崴一手操持的电子厂牌,伙同北京设计师ZaOYin创立的bedzoo,已成为近2年国内成功独立厂牌首推之选。ZaOYin设计的封面还将出现在“Landscape In Love”(山水恋)的封壳上——这张集中表现Breakbeat、Drum n Bass,并融合中国古典元素的电音唱片刚从国内新晋电音厂牌音色时代(Muzicolor)杀青上市。其实说到国内这2年的电子音乐,的确是小火一把有滋有味,subjam厂牌下的718(Experiment Ambient/microsound)和Aitar(电子噪音)的唱片变成铅字挂在了著名摇滚杂志Wire的碟评版上,而北京、上海、广州、杭州这几年玩的小圈子电音派对,不能不说已经国际化——来访的Zbigniew Karkowski、Francisco Lopez等岂止是区区的电子乐门徒?更为关键的,那些从摇滚乐手过渡而来的电子乐人——王磊、丰江舟、虎子、张荐、孙大崴、楼南立等,无一不是在这门新手艺里赢得了更有分量的尊重。才没几年,以上几位已经在国内电音界划地为门,开分出细致的院系。这里的派系,当然不包罗学院派、严肃电子乐学者——那些过于严肃的学院主任。无非说起国内电子音乐源头,必须追溯下武汉音乐学院,提起下吴粤北、刘键等沪、鄂等地学院派电音老师的大名——当然还有中国学院派电子音乐泰斗、曾留学法国的张小夫(1993年中央音乐学院成立中国现代电子音乐中心,张先生任中心主任)。问题是一年到头全国出没的演出家是前面提到那几位,国内电子音乐的第一位洋务老师Jean Michel Jarre(1982年他分别在上海和北京举行了两场音乐会)点名暖场的是B6(楼南立)——这位在家靠P2P、blog、Mofile、nuendo 3传播电子音乐,结交天下电友的“干净才子”。大家现在对B6都很熟悉了,也相应了解了B6、CY、MHP、Susuxx等沪上电子符号人的各种组合拳。当然,就连哈尔滨、深圳、桂林这种没有摇滚气氛的城市也成为了国内电子音乐的重要城镇——张君刚、王长存、林志英、周沛、宋林波和摇滚有什么关系?
  多产的SK(李骏驹)曾经从他的众多作品里发行了一张Trip Hop专辑《糖果商店》,仅次而已,云南能和电扯上点关系的本地乐人稀缺了几千年。按说昆明的舞曲已经够普及,精力旺盛的露膊男和哈韩女不日不夜地挤在新闻路、拓东路和白塔路舞厅里蹭虚汗已不止一两年光景。但DJ——不听两只蝴蝶的DJ有几个?昆明如此风和日丽,但一切都暗的氛围下变得异常别扭和俗崴。这里的音乐正在混为一谈,无外乎朋克还原为金属,金属恢复为流行,再走一步都难。当年尚义街也堆满了The Chemical Brothers,建设路也偶有人因为发现了Air而开心5秒钟,但是Warp、Leaf、Type、City Slang、Kitty-Yo、Morr Music、Sonig、Raster-Noton、Asphodel、Quatermass、Mego的尖货真不知道藏在哪家的打口仓里。The Orb、Mixmaster Morris(The Irresistible Force)、Pete Namlook、David Toop算大路货了吧,还是少有人眷顾。
  不努力关心资讯,在昆明可能也就因此把李渭给错过了。李渭,原名李琨波,生于1983年,云南思茅景东人,云南大学在读大四学生,主修美术批评专业。以前和广大高中生一样从事电吉他乱弹运动,今年突然就在Noise Box(低调到没有宣传的云南独立厂牌)挂上了8首IDM、Ambient风格的电子作品。又是思茅人?对的,思茅(SiMao)挤身云南摇滚重镇,和朱婧的超级女声无关,实际情况是因近年金属乐队的突然繁荣而让思茅以及衍生的普洱、景谷、景东等地名在云南摇圈里风生水起。思茅艺术学院和景谷一中贡献了众多苦练吉他的学生。九号仓、泥、Bsha、分解(后更名水银和Mercury)、虹、镜头、变速器、沙、尸虫、第二张脸,以及去年一次纪念演出中出现的浮游生物、禁与速、凶案现场等乐队构成了这个区域的摇滚乐图景。赵永江、叶志强、董明辉、俸雷组成的葬——又一支愤怒的死金——已经有小样上传网络供人鉴赏,其实这群80年代中期出生的孩子还是种子、遂草木、刑尸、文科班、神鸦杜鼓等思茅老乐队曾经的主脑。尽管思茅曾出现过“哀牢摇滚”、“无量金属”的民间戏谑,现实的情况却是,景谷地区一直比景东地区相对热闹。随着景东指环的主音吉他万磊和无形的一拍即合从而生成了具有民族元素的堂客,以及李雪松、高四、李渭等人个人作品的涌现,思茅摇滚正从量上往另一个高度慢慢迈进,虽然这个进步趋向于零,但是有人愿意乱想和瞎搞,无疑比在井底发呆要强。
  “Black Plume”和当年译乐队如出一辄,脉波以舒缓的节拍左右点头,偶尔的不露生色放开胆子在轻描淡写,不High,相反冷静,透出北回归线附近稀有绿洲的自然飘扬。色的羽毛,但绝对不是乌鸦和天鹅,前者巫后者重,它是纯粹的轻。“The Moon”更轻,电子鼓机在控制住了健康的呼吸系统,它痛恨太极拳的傲慢,它的慢充满小的智慧和顺路的停顿,不断采样的连击鼓声空谷穿声,修长连绵无尽,然后就断在无人问津的石头缝里。“Blue”和色彩有什么关系呀?聪明的喘息节拍称,不让人昏沉,一条干净的声线油光可鉴。“The dowmward spirl”醇到没有退路,虽然它的没变化和突然断气的恶疾让人痛心不已。“Temple”的想法倒是手到擒来,那种佛龛与布幡的随风夜行剥夺了让我自己想像的权利。“The City”一样直接通透,当然这座城市不是昆明——那种充满危机感的警铃会阻碍昆明人吃洋芋的热情。“Dream”是醒过来嘴里的涩甜,梦到的和明天发生的突然相遇,暗示还是命中遭劫,而这一切被聪明的回旋音色轻推慢移。“口香糖”却动用了糙的和更为生动的变化音阶,这里李渭举例说明了自己的音色——电子乐人的贴身标志——那种用茶叶熬制的寸草音,小打小闹,不革命,不犯规,非常乖,标准的普洱香。
  就像对于Noise Box一样,我们对于李渭的认知仅限于此。如果他用LeeWai或者更好玩却难认的符号来代替汉字,似乎更有谱些。电子音乐绝对时尚,不一定要处处干净,但是内心要透彻明亮。李渭并不孤独,如果他想流行下去,可以像超级市场一样,戴上奇夸的头灯,低调出没的夜色匆匆的昆明club(这也通向两条路:继续IDM地聪明下去,或者成为短路青年的House领袖);如果有潜力研究哲学、美学甚至空间学,太好了,王凡、姚大钧和李剑鸿可以做他现成的老师。有一点毋庸置疑,Ambient之后功课依旧繁多,Glitch、Minimal、Psychedelic Trance、static、microwave、lowercase里,他从别人身上,或者我们从他身上都有极大的可能找到新的知音。

注:Noise Box厂牌主页:www.nbmusic.cn