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アメノチハレ

都志見隆の果てしない日々の日常

梅雨入り

2013-05-29 | 音楽♪
早いもので今月ももう残すところあとわずか。

一秒前が過去で一秒後が未来なら
結局は過去も未来もその前後を含めて「今」という考え方が
今の自分にとっては一番しっくりくる。
10年前も10年後も今という空間の中に過ぎないかも知れない。

今年は例年に比べると割とバランスよく
身体と頭の両輪をうまく動かせている感じがする。

腰や背中の筋肉もだいぶ固くなり五十肩もひどいが
脳みそだけは柔軟にという気持ちで仕事が出来ている。


<久々に訪れた太平洋クラブ御殿場コース>

梅雨入り前の一日 お誘いを受け楽しいゴルフをさせて頂いた。
幸いに、雨にも降られず古巣のコースはコンディションも良く
カートは遠慮してできるだけ歩いた。

鮮やかなグリーンと低く空を塞いだ雲の隙間に
霊峰富士が見える。
こういう見え方も珍しい。
噴火前の火山の火口は膨張するらしいのだが
富士も実は膨張しているという事実がある。
もちろん肉眼ではわからないレベルでだ。

昔は絶対に買わなかった緑色の洋服。
歳を取ると色の好みまで変わるのかな。
最近ではその緑(といってもあまり濃くない鮮やかなミントグリーン系)を
よく着るようになった。

若い頃は黒系の洋服も多かったが、今はまったく着たくない色の一つだ。
たまに見る黒尽くめの人がカラスに見えて仕方ない。

一年程前に宮城県の女川の中学生徒さん達と交流を持たせていただいたご縁で
今年、修学旅行で東京に来られた生徒さんの一部が
私の仕事場にやって来た。
音楽の仕事とはどういうもんかという事を実際の仕事場で見て頂くという取り組み。
社会見学のようなものだ。
色んな質問を受け最後のほうでAKBには曲書いてますかという質問を受けた。

私がどんな作家かを知るための彼等の目安は まずAKBを書いているかどうだった。
そっか。。AKBは書いていないけれど、なんだかふと
こんな若人達に知って唄ってもらえる曲を書きたいななんて
ひさしぶりに思った日だった。
そこに居る生徒さんは1998~1999年生まれだと
改めて知る。今年の中学の新入生にいたっては2000年生まれだ。
ついこの間生まれたばかりじゃないか。

ここ数年、広島の実家の母の話を聞いていると
つくづく、ちゃんとした医者はそんなにいないという印象がある。
そもそも医者はちゃんとしているという前程でものを言っているので
医者にとっては甚だ迷惑な話しかもしれないが。

薬を出しすぎる医者 合わない薬も平気で出す医者
完全に老人を舐めきっている医者
今後の治療方針を説明しないでいきなり歯を抜く医者
返事を曖昧にしてあとで不正請求しようとする医者
たまたまかも知れないが、母の話しを聞いていると
怒鳴り込みたくなるような薮医者によく当たる。
患者側がしっかりしないからという母自身の責任もあるよとは伝えたが
それにしても生まれ育った地元の医者だから余計に腹が立つ。

近藤誠著書の「医者に殺されない47の心得」を送った。
いいか悪いかの選択チョイスは自分ですればいいが
こういう実態もあるという事を知った上で
医者や薬と向き合ってゆくことは
まず患者自身が意識していなければダメだ。

実際の話だが、動物 たとえば犬などについても昔より食べ物に関する情報が細かく
たとえばこれはダメ あれはアレルギーになりやすい などと
人間が安全に食するものでも犬にはダメですよっていう事が沢山ある。

私が飼っている犬どもを長年看てくださっている大変信頼している動物病院の先生も
「本来は犬に与えるものは人間も食する事ができて当然。人間が食べれないドッグフードは
実はとても粗悪なものも多い」とおっしゃる。
色んな情報を流し加工品に意識を向かせるのも
それはドッグフード業界を守る為もあると何かの本で読んだ事もある。

世の中が便利になるほど、選択肢も多く そして優劣の差も広がる。
品格の格差 技術の格差 
格差はあらゆる世界で広がっているように思う。
こんな時代だからこそ、ハッキリと明確に自分の意志や考え方に基づいて
行動する事がとても大事だとつくづく感じる。

最後にひとつ
最近目につく歩きタバコは圧倒的に若い女が多い。
片手にスマホ 片手にタバコ
いかにその姿がみっともないかを、誰か伝えてやってくれ。

先日お亡くなりになられたサンミュージックの相澤秀禎会長。
今までも何度かお目にかかった事がある中で
丁度2年前の2011年5月に発売された西郷輝彦さんの
「オリオン急行」という楽曲のレコーディングの際に
スタジオに来られたのを思い出す。
訃報のニュースを聞いて「えっ、嘘だろ」って。。
あのスタジオでの元気なお姿が今でも目に焼き付いている。

背筋がシャンとして、腰が低く いつお会いしても
同じ笑顔で接して頂いた。
最後まで人を思いやり生きていたいと思う。




エージヒット

2013-05-24 | 音楽♪
この梅雨前のさわやかな時期がもっと長く続けばいいと思う。
特に、犬どもがまだスヤスヤと寝息を立てて眠っている早朝の
シンとした音と空気に触れると
空を見上げては 今朝も大きく深呼吸。

昨日の出会い、出来事 いいも悪いもすべて含めて
ありがたい気持ちになる なんだか最近。

もう先月の事だが、同じ作曲家の鈴木キサブローさんの
還暦記念のパーティーに行って来た。
個人的にも昔から作家同士での集まりに参加する気質の人間ではないし
当然一緒に飲み食いする機会もないのだが
氏とはご縁あり、お誘いを受けた。

昨年の春頃だったか、メーカーのロビーやスタジオで何度か偶然お会いし
とてもなつかしく、一度軽く一杯やろうと集まった。
キサブロー氏とは特に80~90年代 同じアーティストの作品で
よく御一緒した。当然その頃は自分にとっては敵のような感覚だったが
月日が経ってみると、同じ時代を共に生きた仲間とでも言うのか
そんな感覚で懐かしさが一杯。

中森明菜の「Desire」というシングルがキサブロー氏で
「LA BOHEME(ラ.ボエーム)」という自分の曲が
カップリングだった当時の制作の話などは
色んな面白いエピソードもあり、とにかく
いい歌がどんどん世の中に生まれていた時代。
当時ワーナーで明菜のディレクターだった藤倉氏を交え三人で
深夜まで盛り上がった。

そんな経緯もあり、今回ご招待頂いた。
氏も様々なヒット曲と共に時代の一部を築いた作家だ。

パーティーには、とても素敵な顔をした
氏のシンパとも言うべき各界の仕掛人達が
大勢来られていた。
若き時代もいいが、大人ってのも中々いいもんだなあと最近思う。
大きな山を二つも三つも越えて来たような人達ばかりだ。
集まっている場は、もちろん病気や健康の話も多いが(笑)。


そこには今は亡き作詞家の故.大津あきらさんの写真もあった。
キサブローさんとのコンビで言えば何と言っても徳永英明の「輝きながら」や
高橋真梨子の「For you」などはその時代の傑作だろう。

私も大津さんには大変可愛がっていただいた。
もしまだご存命なら、今の時代にどんな作品を書かれただろうか。
作品だけは何十年経った今も多くの人々の心にちゃんと生きて
そして歌われていますよ、大津さん。

私の友人も、フリーランスでとりあえずまだ仕事をしている私の事を
たまに褒めてくれるが、そんな自分の作品を世に出す下支えとなって頂いている
メーカーや事務所の方々の存在と力あってこその作家なのである。

自分もそんな方々に支えられて今年で55歳を迎えるわけだが
還暦まで元気でいられるか、そして果たして
この音楽業界自体が存在しているかどうかは真なる疑問である。
何れにせよ、お役目あるうちは全力でヒットを目指すのみである。

敬愛するゴルファーのジャンボ尾崎がエージシュートを成し遂げた。
エージシュートとはゴルフの1ラウンド(18ホール)ストロークプレイを、
自身の年齢以下の打数でホールアウトすること。
御歳66歳のジャンボが1ラウンドを62という驚異的なスコアでホールアウトしたのだ。
あっぱれ! 
老いとともに人知れず静かにクラブを置くどころか
ますます技に精神に磨きがかかってきている。
YAZAWAもいつかのライブで、ある曲のキーをオリジナルより上げて唄っていたほどに
歳を重ねても声は艶を増し、音楽家として性根は恐ろしいほど輝いている。
年齢による肉体的衰えは当たり前だが、それを違うエネルギーでカバーしながら
日々の鍛錬で作り上げるジャンボ尾崎も矢沢永吉も
もうその存在自体が作品である。

いい手本は周りにいっぱいあるのだ。

私も無論 目指すはエージヒットである。
もっぱらヒットの場合は年齢を上回る事が前提だが。
それぐらいの気概を抱いてこだわり続けることが
音楽を仕事にするという事だと言いたいわけである。

才能あるスタッフ、そして才能あるアーティストと共に
今でも密かに狙っている。 エージヒットだ!




春麗らかに

2013-04-06 | 音楽♪
今年の桜は早かった。

東京で開花宣言のあとも故郷の広島ではほとんど桜見えず。

関東でも、実はよ~く見ると咲いてない桜の木も多かった。
毎年桜の時期と同時にスタートするいつもの仲間とのゴルフシーズンだが
そのゴルフ場の桜も殆ど咲いていない。
もう葉桜かと聞けば今年は異常に花芽が少なく哀れな程の
ハゲ桜ですわとゴルフ場の人。
かと思えば、仕事場のある目黒川沿いの桜道には
多くの人と車を立ち止まらせる満開の桜。

格差社会は桜の木にまで影響しているのか。

ともあれ、冬の間閉じていた人間や動物達が一斉に芽吹きはじめるこの季節は
実に気持ちがいい。

さて。
どんな職業であれ、日々色んな人達と向かい合いながらの連続。
仕事とはそういうものだ。
色んな人がいるから多様な世界に導いていただける。

なるべく人間関係でのストレスを感じないように生きたいもんだが
相手あって全ての人間界だ。そうもいかない場合も多く
時には怒りを露(あらわ)にしたほうが人間らしいと思う時もある。

そんな時にある方がメールにこんな事を書いて送ってくれた。

「そうだね~。もしまた我々がその人とチームを築きたいと思うなら
その時はまたこちらから握手の手を伸ばしましょう。
不器用な人はこちらが先に手を伸ばさないと
近寄ってこれないから。だからその時は改めて鍛えてあげましょうね~(笑)。」

作家の繊細な心の内側を分かってほしいあまりに、
粗雑で大ざっぱな人種にイライラする事も多いが、
このメールを頂いて、実はこちらのほうも
自分の立場でしかモノを考えていなかったのかなと反省した。

「いい作品はほっておいても必ず自分で芽を出します。
もし世の中に出なかったとしても、作家の心の中で、ちゃんと。」

いい言葉。 

いい作詞家というのは本当に柔らかい。

いや作詞家に限らずか。

心が柔軟だから強い。まだまだ学ぶこと多し。

いつか機会あらば後輩達にこの同じ言葉を借りて言ってやるぞ。


先日、仕事場のFAXに一枚の手紙が。
いつぞやかブログにも書いた、これまで一度もお会いした事のない
20年来の私の楽曲のファンで居てくださる方だった。

昨年リリースされたある歌手の方の曲を
毎朝起きる時に聴いて頂いているらしい。
「いつもこの曲のイントロから私の一日が始まります」と
書かれていた。
毎年の年賀状のやり取りだけでは足りない想いを
そっと伝えてくださったように思う。
おそらくご高齢で
CDも誰かに頼んで手に入れておられるような様子だったが
そんな暖かい手紙を受け取る度、感謝の気持ちと共に
気が締まる。

新しい曲を楽しみに、そして大事に大事に聴いてくださっている方達の
想いに背かぬよう、また新しい作品の芽を育ててゆかねば。

春麗らかに花木の新芽にまたそっと勇気をもらう。

空と樹

2013-02-25 | 音楽♪
あれこれと書き溜めておいたブログのテーマも
何だか旬なネタというものがあるようなのだが
その感覚は仕事の締め切りにも似ていて
相手に聴かせるまではどこで終わりの線引きをするかは自由なので
公にする場がなしでは永遠に決定稿が出来上がらない。

つまりこれは読んでいただく為に書いている以外の何ものでもないわけだから
ブログにアップした時点で作品なわけである。。
な~んて大げさ過ぎる言い方だが、そんなこんなで
一度アップしたものを下げる事だけはしたくないので
書いては捨て、捨てては書きで、中々の時間が過ぎた。

このひと月の間に小さな旅へ二ヶ所程。

三年振りに伊勢神宮へお伊勢参りに。
今年は遷宮年(遷宮(せんぐう)とは神社の神殿を改築しご神体を移す事。
つい先日発表があったようだが、今年の10月2日.5日に決まったという事。)にあたり
その建築工事も大詰めを迎えているようだった。

お参りしたのは約3年振りだったが、平日もあってかスムーズに各所を参拝できた。
今年の秋口から一年は、おそらく人、人、人だらけでしょうなと
タクシーの運転手さんが笑っていたが、本当にシーズン中は車も動かないほどの
大渋滞だ。

古い神殿を解体した材で新しく鳥居を組んだりと
その歴史、その中身はとても興味深い。
何故か不思議に本当に気持ちのいい場所なのである。
訪れるたびにそう思う。


<空と樹>

 さて、もう一つは仕事を兼ねた沖縄への旅。
沖縄は5年振りであろうか。

沖縄在住のあるアーティストのプロモーションビデオの撮影が行われている時期に
メーカーのご好意もあって、ちょいと顔出し。

何度か訪れている沖縄だが、いつもイメージがいい。

ゆったりとした時間の流れの中に身を置くと
先ではこんな場所で生活したいという想いと、
果たしてこの場所で生活出来るだろうかという寂しさと
交互に自問自答している自分が居た。

生まれ育った場所から離れたくない想いと
仕事のために上京して仮にでも住処を構えなければならない現実との狭間で
想い揺れるアーティストと種類は違えど
なんだか胸の内は一緒な気がした。

現実的にも、ここ数年の自分の流れを観察してみると
レコーディング等の時だけ東京の街に居れば
仕事面ではほとんどの事において事足りる。

あとは広島に居ようが伊勢に居ようが沖縄であろうが
なんら不自由はなさそうだ。

問題はその場所で仕事以外の生活の充実や
心の安定や刺激が得られるかどうかかな。
(特に飲み仲間やゴルフ仲間と頻繁に集えないのは寂しい限りだが。。)

このまま東京の住人として一生過ごすつもりはないけれど
この先どんな場所でどういう風に人生が歩んで行くかは
Who Knows 神のみぞ知るのだろうか。

そういえば沖縄滞在中に連れて行って頂いたフランス料理店のシェフが
なんと私の弟(同じく料理人)の事もよく存じていて頂いていてびっくり。

もしかしたらそんな些細な事だって、
実はそこに住む大きな理由になるかも知れないのである。
色んな出会いや何かの出来事は、どんな小さな事でも
何かのメッセージな気がするね。昨今 特に。

さて、もう春。

少し明るい色の洋服を着て、街を歩きたくなる季節。

ではまた。

2013-02-11 | 音楽♪
一週間くらい、Aメロについて考える。
え~と、いわゆる歌の始まりの序章とでも言いましょうか。

出口は入り口次第。これ、私の口癖。
曲は入り口。
この「つかみ」が上手くゆけば曲はほぼ出来たも同然。

人によっては、一曲にそんなに時間をかけてられないよっていう意見もあるし、
ただまあ、それが自分の楽曲と向き合うスタンスなので、とりあえずも人は人。
グチュグチュと考えながら一曲の完成に延べひと月なんて費やすのもザラなんです。

何と言うのか、
それはそれは苦しい日々も続く。

<Chiro>

その代わりに、まさしく天(そら)と繫がったと錯覚を起こす程に
泣きながら笑いながら曲を歌いながら何故涙がでるのだろうかという瞬間も最近多い。

歳をとったんだろうか。それゆえ、涙もろくなったんだろうか。
本当のところはわからないけれど、それはおそらく違うと思う。

ある一人の敬愛する先輩の作詞家が
「都志見くん、お互い長年やってきたけれど
この歳でまだ越えたい壁があるなんて幸せだよね」って
電話の向こうで微笑ってくれた。

形のない光り輝くイメージをどうしたら音符として歌として表現出来るんかね。
そのたびに、壁。壁。壁。

だけど、当然だよな。だってもしかしたらそのアーティストの一生の財産になるかもしれない歌を
作らせてもらう そんな素敵な事を仕事にしているのだからね。

曲を書いてると越えなきゃならない壁がどの瞬間だってある。

そして、その壁を壊せた時 どうしてだか涙が出るんだ。

歳をとったんだろうか。それゆえ、涙もろくなったんだろうか。
本当のところはわからないけれど、
どんなに悲しいメロだって、泣けないものもあるのです。

背中の裏がジンとするような曲にしたい。

それもおそらくそうだと思う。

そんな事くらいしかまだまだわかっていないけれど。


Ending

2012-12-29 | 音楽♪

我が身に起る日々の諸行を書き連ねれば 毎日でも事欠くことはないにしろ
時として 吐き出すよりも様々な事を受け入れる事に重きを感ずる季節に
そっと静かに身を委ねている事も 我が身には尊き時間なりにけり 
で ありまして 少しご無沙汰しておりました。


「2012 心揺さぶられた12月のいつの日かの夕暮れ」太平洋相模コース

先日、久しぶりに馴染みのガソリンスタンド(この街に住み始めてからずっと)に車を乗り入れました。
このところ基本的な移動手段は電車か徒歩なので車の出番は買い物かゴルフかというくらいの
頻度ですが。
実際には、エンジンをかけ左右を確認し車をここからある場所に移動すること事態が億劫で、
駐車場を探す手間、酒が飲めない手間 などなど考えると自由な行動範囲を確保するには
クルマは思いもよらず不便だと感じる、これは年齢のせいでしょうかね。

  余談ですが、一週間前に運転免許証の更新を済ませ、
  さあこれから三年間は絶対無事故無違反を貫くぞと思っていた矢先、
  本日、信号待ちの車中で母と電話していたら目の前にお巡りさんが突然表れ
  ピーピーと笛を吹き始めた。やっちまった。減点1 罰金6000円。毎度あり。
  いよいよスマホにするか。

さて、翌日のゴルフを前に久々に洗車とガス補給に馴染みのスタンドに寄ったところ、
そこにはよく知る従業員の方々は誰一人見当たらず。。

「ちょっと、あの人とあの人も最近見ないけれどもしかして辞めたの?」
と恐る恐る尋ねてみたのだが。。
そしたら、結果的にはみんな退職していたというわけさ。
その理由だが、後任の上司にみなついてゆけなくてと
後続の同僚が残念そうに語っていた。

今年の夏頃にちょうど、百田尚樹氏の「海賊と呼ばれた男」
という本を読み上げたばかりだったので余計に、
新任の上司について行けなくて
そのスタンドで働いていた私の顔見知り従業員全員が退社したという事実は、
心の隙間にしばしの間冷たい風が吹いた感じでした。

出光興産をモデルにしたほぼノンフィクションの小説であるが
その内容や創業者の心意気はこうでさなどと友人に伝えながら
いつの間にかまた自分も自然に涙してしまう程に、
たとえば今のどんな政治家も持ち得ないかもしれない志(こころざし)の強さや
何があっても首を切らないという経営者の信念に感銘を受け
人間の器というものについて考えさせられた本だった。

そんな矢先だったこともあってか、今時 会社の言う事に従わない主任を左遷させ
新しい管理職を送り込んだはいいが、その人の一から十までについてゆけず
長い時間をかけてそのスタンドを地域に密着させてきた従業員全員が
退社するなんて事態に唖然とし
裏を返せば、どんなに辛くたって仕事だから仕方ないと
ストレスや不満を日々の晩酌に散らし愚痴るだけ愚痴っても、
それでさえも我慢できなかった程の辛い新体制だったという事なのだろう。

組織の大幅な人事異動ではなく、結果的にはそれまでそこに勤めていた全員が
長年働いた職場から忽然と姿を消したのだ。
そんな旧態依然とした会社の決断の末の嘘の様な結末に
思わず「えっ?嘘だろ!?」って。

じゃああの人はどうしたの?
あの人も?って聞くと
色んなお客さんから聞かれるんですよ~と まるで、
旬な政治家がマスコミからの同じような質問に半ばうんざりして答えているがの如く
「んなわけで、これからは私が対応しますからよろしく!」なんて言われても
はいそうですか、ほならコチラこそ今後ともシクヨロ!などと
そんなにすぐに自分の愛着を右から左へとは移行出来んのですな。
なんせ今の街に住み始めて15年以上 
車やバイクでお世話になっておったスタンドのスタッフさんですもの。

ほんまに寂しい話やね 。

そんなこんなを書きながら、気がつけば誕生日を跨いでおりました。

 都志見さん明日誕生日ですよねっ。おめでとうございます!と
いつもの仲間と忘年食事会の席で乾杯していただき、
そうか明日は誕生日だったんだと気づく。
もはや誕生日とは自分にとってそんな程度のものになってしまいましたが
とにかくこの一年も、みなさんのお陰で元気に歩かせていただいたという気持ちに変わりはなく
そういう区切りとして、誕生日には両親をはじめ今ある自分に関わってくださっている皆に
心静かに感謝する日と思っています。

今日(29日)、最後の作品の仮歌を入れて提出し 
明日、最後の食事会で昼に一人、夜に一人友人とお会いして本年度の呑み納めの予定。
(口で言う程最近は酒もガッツリ飲みゃあしませんがね。)
1年が本当に早く過ぎてゆきました。

今年はと言えば、やはり春先に訪れた仙台そして武将隊JAPANや
女川第一中学校の生徒さん達と出会い、歌を作った事からスタートしました。

数多くではないし表面的な動きもなかなか見えづらいけれど
今年作った他のどの作品達も、それを唄ってくださる方々にとって
かけがえのない楽曲になるようにと心を込めて作らせていただき 
その手応えを今年は特に感じた年でもありました。

歌い手を含め制作者や関係者等プロフェッショナルな人間達が
涙しながら笑顔しながらドキドキしながら作り込み
世の中に送り出されてゆくような作品にしない限り、
我々はそれ以外に歌を作って届ける意味が
どこにあるんだろうとさえ思ってしまいます。
もちろん私自身の職業の役割としての個人的な意見です。
歌い手にとって財産となるような作品を
一つ一つ丁寧に作ってゆくことを
今後も変わらず続けてゆきたいと思います。

 さて 私は暮れの忙しい時に生まれました。
子供の頃、年末にむけて両親がだんだんと忙しそうに動きはじめる
あの慌ただしい感じが大好きでした。
街にも人が溢れ 年越しに向けた買い物では母に同行し
買い物かごの中の魚や野菜の間に普段は買えないチョコレートなどをちゃっかり忍ばせて
レジの時に発見され怒られながらも、
年末だけは母も笑いながら買ってくれた記憶もあります。
金があるないにかかわらず、一年をちゃんと納めて新しい年を迎えるという
そんな世間の動きは本当に景気よく勢いを感じた時代でした。

27日生まれですので、冬休み クリスマス 誕生日 お正月 と
子供にとっては大層なイベントづくしで
一番楽しい時期だった気がします。
この度 メール等々で沢山の方から誕生日のメッセージを頂き、ありがとうございました。
心より感謝いたします。

新しい一年も あるがままに そして新たな気持ちで
 Let's get started. で ございます。

それぞれの皆様 よいお年をお迎えくださいね!

ツックン

2012-11-11 | 音楽♪
 富士の御山もすっぽりと白い雪帽子をかぶり
もう残すところ2012年もあと2ヶ月を切った。

先日仕事場の掃除がてら昔の音源や古い紙資料等の整理をしていたら
なつかしい写真がでてきた。
十数枚程の写真だったが、そのなつかしさに一瞬掃除の手が止まる。

広島時代に東京に送った写真の数々を、実は長年お世話になった事務所の会長が
ちゃんと保存しておいてくださり、それを数年前にまとめて自分の手元に
お返しくださった。ありがたい事だと思う。

その中には、東京に出たい想いを便せん数枚にびっしり書いた手紙などもあった。
よくもまあこんな田舎モンに興味を抱いていただいたと思う程
それは恥ずかしい程に真っすぐな内容だった。


これは上京後のおそらく19歳の頃の写真だと思うが、
よく見るとジャンバーの下にYAZAWAのTシャツを着ていたりもして
一人思わず笑ってしまった。
音楽番組の楽屋で、先日亡くなった桑名正博さんと最初にお会いしたのもこの時代。
チリチリパーマがよく似合っていて、優しい人だった。
好きだった「哀愁トゥナイト」という曲を生で聴いた時、本当にかっこ良い人だと思った。

いつになったらどうやったらそんな人になれるんだろうなんて
鼻息荒く上京したものの、実は色々落ち込んだりもしたもんだ。

そんな世代的な事も関係してか、周りの知人や青春時代に花を添えてくれた人や
多感なあの時代に手本になった方々の訃報も最近重なる。

キーボードの佐藤博氏が亡くなった時、友人の編曲家が「またひとつ俺の青春が消えてゆくような気持ちだよ」と
メールしてきたけれど、なんとなく自分のかつての写真を見ながら
色んな人を思い出していた。本当に色んな方々に支えて頂きながら。

 そういえば昨夜も、キーボーディストでアレンジャーの安部潤氏の20周年ライブが六本木STBであったのだが
そこで20数年振りに当時のジャニーズ関係の制作でよく一緒に仕事していたカマちゃん(鎌田俊哉氏)とバッタリ。
「おーツックン!」
あん時生まれた息子さん、年なんぼになった?と聞いたら、23歳だよと言うので
それじゃあやっぱりもう20年以上は会ってなかったねなんてね(笑)。
同い年で当時はまだ20才台 色んな話もしたもんだ。

同じような感性のもとに一つの作品を作り上げるという仕事は喜びも大きい。
本当はそこがミラクルを生む一番の要になるのだけれど、哀しいかな 
なんだか暖簾に腕押しな事も多くなった昨今。
誰と一緒に仕事をするかというのは本当に大事な事だが
これだけ音楽を取り巻く時代や環境が様変わりした中で、
満たされない現実を排除して、お互いの感性を交える事の出来る人と仕事がしたいと思うと
結局は一緒に仕事をできる人間は殆どいなくなるんだよと
知人のアレンジャーや制作者も苦笑する。

ともあれ、当時の戦友達の元気で頑張っている姿を見るのは嬉しい。
昨夜一緒に居た後輩が、都志見さんの事を「ツックン」と呼ぶ人は
鎌田さんで二人目です(笑)というので一人目は誰だったんだ?と聞くと
田原さん(田原俊彦)でしたというから
当時の仕事仲間からはほとんど「ツックン」って呼ばれていたんだよなんてね(笑)。
いや実は学生時代から「ツックン」でしたね。

 さて最近は自転車生活もだいぶ板についてきた感じ。というのも
運動不足を少し真面目に実感し、基礎体力アップに取り組もうと思い始め
必要以外はなるべくバイクや車に乗らない生活をと心がけている毎日。

なんせ上の写真の時代からざっと、10キロ以上体重が増えているもんで。。

国道246を走る自転車群のなかで女の子にもどんどん追い抜かれるけれど
自分のペースで走ります。

あのギリギリな感じ

2012-10-14 | 音楽♪
僕が東京駅にはじめて降りたってからもう
36年になろうとしている。

残念ながら夜行列車を乗り継いで
やっとの思いでたどり着いたわけではなく
当時の事務所の社長でおられた野崎氏が
わざわざ広島まで出向いて頂き
それこそ初めて乗せて頂いた新幹線で、
しかもグリーン車に寝そべらせて頂いて
夏の夕方に反対側の八重州口に着いた。
人さまに語れる程の話ではない。

余談だが、
そういえばYAZAWAがどこかのインタビューで、
「@もし俺があの時代に
新幹線や飛行機なんかで上京なんかしてたら
今のヤザワはないよね(笑)」
なんて言ってた事を思い出したけど、
やはり夜汽車に乗って広島を抜け出したっていう事が、
「物語」なんだ。



先日、東京にいる同窓生が久々に集まったのだが、
店の場所が東京駅を見下ろせるロケーションだった。
丁度リニューアルが終了したばかりの駅舎で、
沢山のカメラを抱えた人達に混じって私もシャッターを切った。
近代的な高層ビルとレトロな洋風建築が
見事に溶け合っているエリアで本当に美しい。

住まいのある場所の関係もあり
最近では帰省するときはほとんどが新横浜から新幹線だ。
職業柄、全国を飛び回る頻度も圧倒的に少なく、
だから本当に何年ぶりだっただろう東京駅。

あの日、ここからタクシーに乗って それから
約12年間お世話になった事務所のある赤坂へと向かったんだな。。

            

丁度20年前に「最後の雨」という楽曲を提供した
中西保志のライブがデビュー20周年を記念して
先日六本木で行われ、
当時のメーカーディレクター氏と一緒にお邪魔した。

過ぎてしまえばあっという間とはよく言うが
あの曲が出てから本当にもう20年経つのか。
ひとくちに20年なんて言うが、
生まれたてのまん丸い赤んぼうが
胸も腰も張り出した立派な女性にまで成長できる時間量だ。
本当に尊い長さの時間なんだ。

そんな長きにわたって
どんな場所であれ一旦歌手として人前に立てば
誰だってあのヒット曲を皆は聴きたがる。
時代がいくら過ぎたって、
リスナー一人一人の胸にあるのがヒット曲だ。

誰彼に限らず時代のヒットを持つ歌手やアーティスト達は、
本人の意志とは関係なくも、望まれる限りは
それをちゃんと歌い続けていかなくてはならない。
仕事とは本来そういうもんだと思うからだ。

その日の中西は「最後の雨」を
久しぶりにオリジナルのアレンジでオリジナルキーで唄った。
中西のあのギリギリな感じのサビの唄い方がいいんだ。
「最後の雨2007」として
キーを少し下げてゆったりと唄ったバージョンを
聴いた事があるが、決してオリジナルを超えはしない。

あの高音の伸びとシワ苦茶な表情で唄う中西の
あのギリギリな感じの上にメロディーと言葉が乗っかって
中西自身だけが持つあの独自の歌声によって
息の長いヒットに仕立て上げてられていったと思うからだ。

あれから20年、
歌い続けて頂けたことに感謝の気持ちで聴いていた。

中西ご本人とお会いしたのは、
この20年でおそらく今回が3回目ではないだろうか。
割とそんなもんである。
これまでには一度もお会いしていない歌手の方も沢山おられる。

以前よりも彼は風格を増しボーカリストとしてとても円熟していた。

音楽の「ジャンル」という狭いカテゴリーの中で
窮屈に生きていくより
彼にはこれから是非やりたいものに
どんどん挑戦して頂きたいと願う。

昨今のカバーブームによって「最後の雨」も例に漏れず
本当に多くの方々が唄ってくださることに大変感謝している。

反面、作曲家として一人の歌手やアーティストに向き合う時
やはり 何とか新しいオリジナルの楽曲で世の中と勝負し
今の時代のヒット曲への道筋を模索していかなくてはと
日々焦りながら思っている。

ライブ後、当時のなつかしいスタッフの方々と久しぶりに夜を越え
胃袋の中の赤ワインも自分にとってはギリギリな感じにまで浸透し
浄化されたのは翌日の昼過ぎでござんした。

ともあれ
Thank all of You and You Yasushi.

久々の反省蛙

2012-10-12 | 音楽♪
少し意識しないうちに何だかめっきり日の入りも早くなったんだな。
肌寒いと思えば時たま汗ばんだりと体調も中々スッキリと衣替えをさせてくれない。

犬どもは爽やかな風の中、あの死にそうな酷暑の日々を取り戻すかのように
よく動くし よく食べるし よく寝る。

先日、後輩と久々に仕事場の近所の中華屋で昼に食べた少し多めの麺だけで
帰宅する頃には太ももがジーパンに張り付く感じで太った気がした。


-Chiro 9才-

ダイエットなんて言葉は自分の辞書にはないはずだったが
人生はそれこそ想定外の連続だ。
痩せた太ったなどは耳くそ鼻くそ。
こっから先が、人生の本当の正念場だぞ。

先日だが、私の曲をどこかで聴いてくださった隣人の方が
「あの曲聴きましたよ~。とても難しい曲ですね~。さすがプロ。
私には唄えません(笑)」と。
字面だけ見ると皮肉っぽく言われた様に聞こえるが決してそうではなく
笑顔で素直な感想を仰っていただいたのだが。

そう聴こえるってことはこちらの負けですね。
勝ち負けではないけれど、やはりそういうのは自分にとってはダメな仕事なんだよね。

趣向も違えば年齢層によっての違いもあり、
いい評価をくださる方もいらっしゃるし
好きとか嫌いっていう意見は、そりゃまあ色々あるわなって
あまり気にもとめないんですがね
難しいっていう感想を持たれると、「しまった...やっぱりか....」と条件反射のように反応してしまう。

簡単に簡単にというわけではなく、唄いやすければそれでいいというわけでもなく
巧みでかっこいい歌もあれば、難しくしようとしているわけでもない。

ただ自分でこすって自分だけ気持ちイイだけなら
何とも空しい事だね。

作曲家としてなんて思っているからどんどん巧みな方向へ
埋没していくのかも知れない。
色んな人の悲しみや喜びに寄り添える歌を作りたいのに
難しく聴こえたらまずやっぱアウトなんだよな。

歌を作るっていう難しさを改めて感じるね、最近特に。






さんま焼けたか

2012-09-25 | 音楽♪
1975年9月にCBSソニーから発売された斉藤哲夫の「さんま焼けたか」という曲。

具体的な事は今ひとつ思い出せないでいるが、何故かよく覚えている曲だ。

東京へ出るきっかけが少しでもつかめるようにと
当時のバイトも音楽の「お」の字だけでも関わってるところをと選んだ
中国芸能というイベントやコンサートなどの興行会社で
そこの宣伝カーに乗る仕事をしていた。
丁度その頃によく聴いていた曲だと思う。

どこかしらほっとするようなフォークだけど
こういう歌が流行るような時代のほうが
国も政治家も、もうちっとは熱くなれるのかも知れないよな。

1975年といえばあの矢沢永吉のバンド「キャロル」が解散した年だ。
もうそんな前になるんだな。



 後輩から朝早く電話があった。
普段からメールのやり取りで済ませる事が多い昨今だが、だから余計に朝早くの電話は
特別の「何かあったのか...な」と一瞬ドキッとさせる。

「おはようございます。朝早くからすみません。都志見さん今日自宅におられますか?」
「どうしたっ!?.......」

「あのう...たった今、宮城の女川から捕れたてのサンマが沢山届いたので、
食べてください!届けます。」

せっかくだから、より新鮮なうちにという後輩の心使いがまた嬉しい。

勝ちどき橋渡れば 浪花節でも聞こえそうな
三味線の音風に柳ゆれ姐さんこれからどちらまで
向こう三軒両隣りは 人なつっこそうな笑い声がこぼれてくるよ
さんま焼けたか 粋な親父の声がする(さんま焼けたかの歌詞の一部)

実際に勝どき橋の向こうに住む後輩が、勝どき渡って来てくれた。
送られて来た時と同じ水と氷のまま持ってきましたからと、
見るからに色のいい銀ギラのサンマを届けて頂いた。

今年のサンマは脂がほどよく乗っていて今までに何度か食べていたが
何しろここまで奇麗に食べれたのも生涯で初めての事だった。

昔住んでいた町の定食屋でカウンターの隣に座ったタクシーの運転手さんが
背骨一本残して綺麗に食べ終えたサンマの姿が何とも美しく
いつしか自分もと憧れていた魚の食べ方だった。

それくらい臭みもなく身のつき方も上等なサンマだったわけである。

食べきれないともったいないので、控えめに4匹だけいただいたが
友人曰く、ツミレにして食べたら絶品だったと聞き
次回は少し多めに頂いて、焼きの後はツミレ汁に挑戦してみるか。

勝どきの後輩殿 ごっそうさん!

Have a nice day!

サンキュ!

2012-08-24 | 音楽♪
40年かあ...

泣けたよ。

次の曲のメロディーを唄い始める度に
涙をこらえながら。


矢沢永吉40th [BLUE SKY] 日産スタジアム 開演1時間前

都内はその日の午前と夕方にゲリラ豪雨を浴びたが
スタジアムの真上には月が出た。

一緒に行った友人のクロちゃんもタオルで汗を拭くふりをして
何度も目頭を押さえ涙を拭ってた。

キャロルのデビュー当時からのオーディエンスとしては40年の歳月を重ねたわけで。
前の席には、白髪の70歳くらいのおばあちゃんと
その孫と息子らしきおじさん 
後ろの席には小さな娘とその両親が親子三人お揃いの白いスーツ。

この日だけはとポマードで固めた頭も多く、
ただ少々薄くなった頭ではリーゼントとも言い難く、
しかしそれがまた40年をヤザワとともに生きて来た証であるかのように
なんとなく誇らしげにも見えた。

ファンそれぞれが思い思いの法被(はっぴ)や浴衣を着て
全国からこの矢沢祭りにやってきた。

長い年月をかけて繋いで来た65000人という大きな人の気をはね返すように
マイクスタンドを回しながら一曲一曲を全力で吐き出してゆく。

曲のキーは40年前のまま。衰えているどころかむしろ
声は当時より出ているのではと思うくらいにシャウトにもキレがある。

最近は歌番組でもコンサートでも
足下のモニターに写される歌詞をみながら
唄うことも当たり前になっているようだが、
歌い手の目線もチラチラ下がるし何だかシラケてしまう。
自分の歌やん 歌手やん 自分の仕事やんって。

とにかくそんな手抜きなしの
全身全霊で唄う60代のロックシンガーに逢いに
親子三世代65000人がスタジアムに集う光景は
毎度の事ながら圧巻。

ファン達はそれぞれの中で
一番強烈だった時代への郷愁を強く抱いていると思う。
そこで時間は止まっているかも知れない。
それぞれの青春時代に会いにやってくる。
そしてまさに本人の言葉通り、
細胞は老けても魂の輝きは衰えていない
そんなYAZAWAに会いにやってくる。

70歳で武道館に立っているヤザワを見たいなあと
都内に戻りビールで乾杯。祭りの夜を締めくくった。

理屈じゃない音楽がもたらす力とその素晴らしさを
40年目にもしっかりと体験させてもらった夜だった。

矢沢永吉 63歳(9月14日) 2時間半 26曲 全力疾走


サンキュ!

7月

2012-07-08 | 音楽♪
朝方、早く目覚めるといつも口の中がカラカラに乾ききって
喉の奥まで水気がなくなっている事が多い。

口を開けて寝ているせいだろうが
この喉の乾き方からすれば
きっと100年の恋も一瞬で冷めてしまうであろう、
そんな寝顔に違いない。

振り返ると、昨日一日で摂取した水分はというと
食事時のお茶と夜の酒

その前日のスタジオでは、水分の殆どがコーヒーと
きつねうどんの汁と酒

まともな水分を二日間とっていない。
どうりで身体の調子がどうもよくないわけだ。
危ない危ない。

明らかに水分を摂取している時の方が
身体がスムーズなんだ。
まだまだ自然に出来て行かない習慣だが
再度肝に命じよう。

このところ訃報が多かった。
そういう時の巡り合わせなのだろうが
昭和の時代を深く生き抜いた方達を失うのは
個人的に面識がなくとも、何故かふと心が寂しくなる。
ザ.ピーナッツの伊藤エミさんもその一人。
私の生まれた昭和33年の翌年がデビュー。

思えば自分の音楽人生の発端は間違いなく昭和歌謡だと言える。
まだジャンルとして音楽にそんなに多くの区分けがない時代で
あの当時聴いた歌がすべて自分の中の流行歌だった。

当時聴いた洋楽も共に、
今の自分の音楽の血となり肉体を形成するルーツであることは
間違いない。

二段ベッドの上と下で弟と交互に好きな歌を唄ったりと
あの頃がとても懐かしい。

今にして思えば、
当時の楽曲 そしてアレンジなどとても洋楽的というのか
ジャズやラテンやそんなとても音楽的な要素がふんだんに取り入れられて
まさに才能ある人だけが活躍できる場が日本の音楽界だったのだなと
改めて実感する。

もうお亡くなりになったが、特に宮川 泰さんの書かれた作品や編曲などは
今でもその手本となるところが大きい。

先日スタジオでエンジニア達との雑談の中
やはり今の音楽業界の現状について嘆かざるを得ないもどかしさと言うのか
暗い話の話題は尽きない。
世代的には今のスタジオの若いアシスタントなどは
たとえばアルバム一枚の制作に普通に1500万円かかっていた時代を
知らない人達も多いという。

その音が生で録音されたものか、そうでないものかもちゃんと認識できない
若手のエンジニア志望も多いらしく、
いくら時代や世代の違いと言えど、悲しい話である。

テクノロジーの進化は、人が持つ潜在能力を引き出すどころか
実際は人間として相当に退化しているのではないかと
不安になる。

長い歴史を積み重ねて来た老舗の大きなスタジオもどんどんと消えて行き
プロがプロとして働いてきた環境をアマチュアレベルにまで落とさないと
色んな事が成り立たなくなって来ている現状においては
音楽はかつてのように憧れや大きな夢を持てない仕事になりつつあるかも知れない。

しかしそんな時代だって、いい歌はできる。
何だか目先の事ばかりではなく、時代が変わっても
この歌はきっとどこかで息絶えないで生きているぞ
という想いでいつも書いている。
そんなにいい曲がどんどん出来るはずもない。
が、やはり気持ちを尽くして 一生懸命その人の事を思い
曲っていうのはそうやって書いてゆくもんだと思う。

そういえば、Facebookを介して、とても懐かしい人達にまた出会えた。
その中のお一人に私が80年代にL.Aでの滞在中や
レコーディングで大変お世話になったお方がおられ
元気で過ごされているようでとても嬉しい気持ちになった。

ドラムはだれ ギターはこの人 弦は絶対にジェレミーラボック
などと好きなミュージシャンや編曲家を集めての海外レコーディングが
当たり前のようだった時代。

長い歴史の中で培って来た経験やノウハウを伝承し若手がそれを活かして行ける場所や
音楽環境そのものがどんどん無くなって来ているのは本当に残念だが
それでもそんな時代のいいとこを見つけ
次の一曲を心を込めて書いてゆけたら。

いい詩よ いい唄よ 寄ってこい。

ホトトギス。








月島と東京タワー

2012-06-22 | 音楽♪
約三年半のニューヨーク生活を終えて帰国したのが
確か1981年あたりだったろうか。

成田に着いた日、東京は雨で
久しぶりに嗅ぐ懐かしい日本の匂いが
体全体の毛穴から自分の五感のすべてを
一瞬にして癒してくれた。

とりあえずではないけれども、住むところが必要だからと
知り合いの紹介でいくつかの物件を当たってもらい、
最終的に決めたのが月島だった。

10階の部屋の窓を開けると
すぐ真下に運河のような水路があり
当時はそこに何台ものヨットが停泊していて。
都会の雑踏より時間が穏やかに流れている空気と
近くの月島商店街。
そんな理由だけでそこに決めた。

18歳で上京し、住んだのが四谷三丁目だったので
結局、東京のどのエリアに住みたいなどという
土地の知識やこだわりも無かった。
いつも川の向こうの遠くに東京タワーが見えていて
いつか曲で儲けて絶対にあっちのエリアに住むぞと
そんな目標を持つにも絶好の場所だったかもしれない。

さあ、ここから再スタートという気持ちで一杯だった。

当時は最寄りの駅が築地で、
勝どき橋を渡ってマンションまでたっぷり15分の歩きだった。
現在は大江戸線の勝どきという駅があるらしく
かつてのマンションは目と鼻の先らしいが。

先日、渋谷で飲んだ後輩が近々そちらの方に引っ越すという事で
そんな月島界隈の懐かしい話題に花が咲いた。

当時は片手にギター、片手にエフェクターラックを抱え
渋谷のリハスタまでよく通った。
とにかく築地駅までの15分の歩きが地獄のような辛さで
両手に抱えた荷物のおかげで、肩と腕と指先が当分の間
感覚がなくなる程だった。

早いものだ。あれから30年が過ぎた。
ふとグーグルで調べてみたらそのマンション、
色やエントランスの材質に違いはあれど
未だに存在していた。

一度、大江戸線であのあたり、ぶらり一人旅してみるか。

さて、私が帰国した年、
オギャアと産声を上げてこの世に舞い降りた人も
沢山いるだろうがその81年生まれの一人に
斉藤工くんという役者がいる。

2008年に中村雅俊さんが唄った「涙」という楽曲が
主題歌であったNHKの土曜時代劇「オトコマエ」に主役として
出演していた一人が工(たくみ)君であった。

メーカーやディレクターとの
いろんな繋がりで彼にも曲を書かせて頂く流れになり
今度のシングルの二曲目に入れて頂いた。



スタジオで初めて彼に会ったときは見上げた。
私が東京タワーなら、彼はまるでスカイツリーだ。
長身で甘いマスクと低いトーンの声。
色んな役での演技とは違った彼の生々しさが
逆に自然体で素敵だ。
飾り気のない唄い方と普段の素朴な笑顔が
とてもいい。

彼が2007年にインディーズとしてリリースした
「ココロノグルリ」というアルバムを資料として聴いた。
いっぱいいい曲が詰まってた。

一年以上も前になるが楽曲提出の際に
一度ディレクターからダメ出しを食らった。
「なんか…迷ってます? メロディー多くないっすか?」
「…確かに…」

スーツの下のクタビレたシャツを見破られた気分だった。
襟元に職業作家の長年の垢とエゴがべっとり丸見えやないか。
毎度の事ながら、何年やっても学習せんのう。
月島時代を思い出せ、このあほんだら。

襟を正し気持ちを入れ替えて、言葉と一緒に作ってみた。
少しはマシになった。
彼が唄った。
思った通りの作品になった。

「ずっと… 」 って曲。


締め切り

2012-06-12 | 音楽♪

なんだかんだと言いながら
生まれてこのかた
大した大病もせずにここまでやって来れている

丈夫な身体に生んでいただいた両親に感謝だ

一週間程 仕事場に缶詰で作業していた

ひどい時は席を立つのは便所と食事くらいで
12時間くらい椅子に座っている 

いわゆるエコノミー症候群状態になりかけて
慌てて無理矢理30分くらい歩く始末である


Chiro

何度やってもなかなか自分の音楽を
俯瞰(ふかん)で聴くのは難しい

そこまで入り込むと余計な事までやってしまうし
肝心な事を見失う

そうやって気づいてはまた
振り出しにもどるもんだから
時間は立てど同じところから
半歩も前に出ていない一日も少なくない

何が何でも結論を出さなくてはならない
”締め切り”というのは結局
我々に与えられた唯一の救いと解放だと
この歳になってようやく悟る

そんな事をかれこれ
30年以上もやっているのだから
どこかで身体機能が失速してしまっていても
おかしくないと思うのだが
日々細々と調子の悪さは小出しに訴えるものの
病院で医学の力を借りなきゃならないほどの
病気に至っていない事が自分でも不思議だ

とりあえず健康であると言う事が全ての根っこなんだな

歩く事を目的にむりやり早朝ゴルフに出かけ
カートに乗らずに18ホールを自分の足で駈けるぞと
意気込んでみたが午後一発目で右足がつる

やがて左足もつり 挙げ句の果てには
同時に両足が吊った時には
歩行が出来なくなり大地に突っ伏した

同伴していた方に頂いた
芍薬甘草湯という顆粒の漢方薬だが
これが狐につままれたように
嘘のように即効性があり
瞬間的にはとても足吊りの症状が改善される

積み重ねて体質改善してゆくのが
漢方だと思っていたので
即効性があると怖いなと思ってもみたが
いつも服用する葛根湯や小青龍湯などは
風邪の引き始めの時などには
すぐに服用して効果が得られる事を思えば
何だか納得した

しかしこんな小さな顆粒の薬一包に救われ
痛みから解放されるなんて

人間ってのは強いのか弱いのかわからんね

芍薬甘草湯 ゴルファーにはお勧めですぞ
キャディーバッグの中と
車の運転中の足吊りに備えて
常備したいね


今夜のNHK歌謡コンサート

たまたま偶然にも
前川清さんの新曲”哀しみの終わりに”(作詞 伊集院静)
西郷輝彦さんの新曲”旅のあかり”(作詞 喜多條忠)
と 二曲続けて唄って頂けた

とっても素敵な歌 

毎度の手前味噌だが
そう思える事が
次の締め切りに挑める勇気になる

次なる救いと解放を求めてね

もう一杯だけ焼酎湯飲んで

また明日もがんばるべ

365回目の恋

2012-06-02 | 音楽♪
夜遅めの食事と飲みが、この三日間続いたものだから
恐る恐る乗ってみた体重計が表示した数字に唖然とし
何かの間違いだろうと数回リセットしてみるが
数字は同じ。増えた。

久しぶりに会って飲んだ広島時代からの戦友も
「最近体重が増えたわ、酒太り」と笑っていたが
幾分ぽっちゃりと膨らんだほっぺたを見て
むしろそのくらいのほうが健康的だよと
豚しゃぶの肉を追加する。

食べる量は変わっていないが
若い頃よりは明らかに美食だし
若い時程エネルギーを消費しないからね。
太らないわけがない。
粗食こそが健康維持の秘けつとは重々承知の上で
目の前で嗅ぐ様々な芳醇な香りに
食という大きな生きがいの一部を確認する毎日だ。


1998年生まれの我が愛車だが
ふと気がつくとシリンダーにオイル漏れを発見。
バイクも歳を取って各部が少し緩んで来たようだ。
来年を車検を待たずして、このへんで一度ドック入りするかね。

仕事が終わっては毎晩のようにこの1台が置いてあった
ハーレーショップに寄って眺めていた時代があった。
以前ここにも書いたが、30歳の結婚の時にバイクをやめ
10年経って、そろそろ大人の乗り方ができるし
なにせ、デカい方が危なくないからと
勝手に理由を付けてまた40歳から乗り始めた。


とっても愛くるしい笑顔で
まるで昔からの知り合いのように開口一番
「ハーレー買ったんだって?」と
楽屋にご挨拶に伺った際に仰った言葉。

「今回は、とてもいい楽曲ありがとうございます。」と
今度はとても礼儀正しく二言目に言ってくださった。

三宅裕司さんが主催される劇団スーパー・エキセントリック・シアター第36回公演
『昨日たちの旋律~イエスタデイズ・メロディ~』
という芝居の主題歌として劇中でも唄われた「365回目の恋」(1998)という歌。
作詞は森雪之丞さん。


初めてお会いした尾崎紀世彦さんだった。
尾崎さんも古いビンテージ(ハーレー)を数台所有されているというのは
バイク乗りの間では有名な話で
唄うスーツ姿からもうすでに着替えられていた楽屋での出立ちは
膨らみかけた髪の毛を一本に束ねて、
今にも鉄馬にまたがりそうな風格があった。
初対面だったけれど、気のいいお兄ちゃんみたいで
かっこいい人だったな。

「ハーレーはお金かかるけど、楽しいよね~」と
あの愛らしい笑顔で話されていた姿を
今でもはっきり覚えている。


尾崎さん 安らかに。