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アメノチハレ

都志見隆の果てしない日々の日常

秋日傘

2015-10-08 | 音楽♪
長い道のりだった。

約2年程前に作品作りを始めた。
作詞家の康珍化氏と何度もやり取りを繰り返しながら
半年かかって歌が出来上がった。

歌い手を探しながらそこからまた一年が過ぎ
それでは作曲した僕自身がこの歌を唄ってわれわれの自主制作で
この歌を被災地に届けましょうと準備を始めた矢先
『僕が唄ってみましょうか」と『最後の雨の」中西保志が
手を上げてくれた。
彼の歌でやっと「秋日傘」をひらく事が出来た。


10月7日発売『秋日傘』NHKラジオ深夜便 10~12月 深夜便の歌

ある打ち合わせが終わって帰りの地下鉄の中
「つっくん、作りたい歌があるんだけど」と康さんが話し始めた。
先の震災で子供を失くしたおばちゃんの歌なんだけど と始まって
僕は地下鉄のうなり声を払いのけながら、ずっと耳を傾けて聞いた。

以下 康氏コメントより


< もみじと、りんごと、おばちゃんの家 >

震災から、もうすぐ2年が過ぎようとしていた冬のある日、
津波で子供を亡くしたお母さんたちの、その後の日々を伝えるテレビ番組を見ました。
「復興、復興っていう声を聞くのが辛い。
だって復興できないものを失くしてしまったから」と言った、
ひとりのお母さんの嘆きが深く心に刺さりました

歌を愛し、その仕事に携わる僕らは、震災直後、
たくさんのエールを歌に込めて被災地に届けました。
でも、それらの歌がひとつの役目を終えて静まったあとも、
相変わらずたくさんの人たちが、
厳しい環境の中で日々を送らなければいけない現実は何も変わっていません。
そんな人たちの心に寄り添えるような次の歌を、
僕らはもう作り終わったのだろうか、
もう届け終わったのだろうかと、そんな自問をしている頃のことでした。

何か大げさな歌を作ろうと思ったわけではありません。
ただ、おばちゃんの家にお線香をあげに行く少女の姿を、
歌に描きたいと思いました。
そして彼女の目を通して、かけがえのない命を失ったおばちゃんの悲しみと、
それを気遣う周囲の人たちのやさしさや、
おばちゃんの悲しみを静かに見守って過ぎてゆく季節の流れを描けたらと思いました。

山の色を変えて、3年目の秋が過ぎてゆきます。
厳しい冬には海も色を変えるでしょう。
4年目、5年目と時間が積もることでやわらぐ痛みの傍らに、
癒されることのない悲しみがあることも事実です。
そんな悲しみを見守っている人たちが近くにいることを、
じっと見つめている歌があることを、
伝えられたらと思っています。        作詞家 康珍化

このコメントは2014年当時、この楽曲の媒体へのプレゼン用に氏が
書かれたものです。

悲しいね

2015-09-25 | 音楽♪
これだけ医学が日々進歩してゆく中で
いったいいつになったら 「たかが癌」と言える日が来るのだろう。


友人の奥さんが、どうやらまた癌の疑いがあるらしく
再検査と聞いた。
乳ガンから4年 新しい癌なのか 転移なのか
別の場所に見つかった。

詳しい検査結果を待つ時間でさえ
気が気ではないだろうに。
つらい抗がん剤治療も克服して
やっとお洒落にも気を配れるような余裕も出てきたと聞いていた。



癌と言われるものの中には癌モドキも多いらしいのだが
僕の周りには不運にもどうやらその本物の癌と戦っている人間ばかりだ。

そして昨夜、川島なお美さんの訃報には驚いた。

彼女の何事にも動じず前を向く気丈さと
心の素直さが合わさった凛とした生き方
そしてその短過ぎる一生の終焉に遭遇した僕は
まるで自分の身内を失ったような気持ちになった。

残された御家族の気持ちを思いながら
自分だったらどうするのだろうと
当事者になったり、その家族の立場になったり。。


人の命って なんてあっけない。

はじめての空

2015-09-24 | 音楽♪

さて、中村雅俊さんのツアーが今年も始まる。
スタッフからメールが来た。
「初日の葛飾シンフォニーヒルズ是非来ませんか!?
全23曲中7曲 都志見さんの曲唄いますよ!」

というわけで、23日発売になりました。

中村雅俊「はじめての空」(詞:松井五郎)

※心がたとえ
 どんなに強くても
 幸せがなにか
 ひとりじゃわからない

 明日の自分に
 恥じないように
 愛を守る力は
 ありますか    (一部抜粋)

久々のミッドチューンで、歌にも勢いがあり
とてもいい作品になった。


そしてカップリングの『恵み』という作品。
中西保志の「最後の雨」などでご一緒した時期以来だろうか。
夏目純さんと。

※空の広さに かもめは迷わない
 愛の居場所を 僕らは探すのに

 ぶつかりながら 寄り添うこの絆
 ほどけぬように しっかり結べたかい

 人が背負うのは重荷じゃなく
 翼だったと思うよ
           (一部抜粋)

両曲ともしっかりとした存在感をもつ節目の年にふさわしい
楽曲に仕上がった。


というわけで、土曜日は葛飾まで。

夢のつづき

2015-02-09 | 音楽♪
昨夜も僕の定番である夢のひとつをみた。

あと30分ほどで始まるライブで歌うほとんどの楽曲の歌詞を本番を前にして
全く覚えていなかった事に気づいて頭が真っ白になる。

エレキギターの弦のスペアや、アンプにつなぐシールドを自宅に忘れて真っ白になる。

いつもステージの幕が開く前に目が覚め
犬どものいびきを聞きながら心から 
夢で良かったと安堵するのだ。

夢占いではこういう夢をどう読むのだろうね。。


-昨年暮れに頂いたバースデーカード 
次にまた生まれてくる事があるとしたら
僕は迷わず宇宙飛行士を目指す-


朝食後に、作品チェックのため自分で歌ったデモを何曲か聴いていた。

少し時間が経って 女房が さっき歌っていた人 誰? いい曲ね。と。

あれれ?26年も連れ添った奴の声に気づかんのん?

「えっ?...あれ俺..」

「ありゃま、新しい歌手の人かと思うたわ」

あれれ、だいぶネバさも洗練されて、歌としてカタチになってきたのか否か。
ま、そういう事なら非常にうれしいわ。単純に喜ぶで~。
今年はそろそろ真剣に自分の唄 ちゃんと作って配信するかのう。なんか盛り上がって来たわい。

リリースすれど、まだ日の目を見てないイイ歌がいっぱいある。

自分らしい歌詞とメロディーのものを選りすぐってセルフカバーじゃ!

                   

ジュリー(沢田研二さん)と言えば、僕の中では超スーパースターなわけで
それこそタイガースから始まって 『危険な二人』のイントロのギターフレーズなんかを
得意げにコピーしていた。

最近たまたまジュリーの昔の曲を聴く機会があって、その中で胸がジーンとした曲がある。

「あなたへの愛」作詞:安井かずみ/作曲:加瀬邦彦(1973)

中学三年くらいのガキにとって当時、この歌詞の意味などわかる筈もなく。

シンプルなメロディーの上に乗った時代を選ばない言葉の繊細な表情が
40年以上経っても僕の胸にはジンと響く。

もちろん60半ばを過ぎても色褪せない声質と揺るぎない歌唱力あっての作品。

そして、ジュリーのようなボーカリストに曲を書きたいという想いは
ある意味当然な欲求なのだ。

余談だがちなみに僕は 拙(つたな)いながら生まれて最初に作ったオリジナル曲が「のみほした愛」という歌だった。
高校一年の時、パーマに失敗して頭が大仏さまのようなチリチリのパンチ系になり
恥ずかしくて学校休んでた頃に作った。(精神だけはマセていた)。
まさにそれが、後々シンガーソングライターを目指すきっかけになったかも知れない。

かれこれ30数年
求められて作る仕事をずっとしてきてはいるが 
同じ様なパターンと枠組みの中で作られる歌達は
さすがにもう誰の役にも立てなくなったと感じている。

だから何か他にはないものを  他と違った切り口を  切実でありながらどこかお洒落で大人な歌を 
そして人々が歌いたくなるような そんな作品になあれ!と最近はいつも苦戦しまくっている。

僕らが通ってきたまだまだ音楽界がいい時代だった時の話などは
後輩曰く今の若者達には参考にならないほどに時代は変わったようだ。
音楽の作り方も人間関係も。

先日久しぶりに、編曲家の船山基紀さんと仕事でお会いした際に
「最近は人と会わなくなったからねえ~(笑)」と仰っていた。

船山さんと言えば、ジュリーのあの「勝手にしやがれ」の編曲家でもあり
僕の作品の中では、トシちゃんの「ごめんよ涙」(1989)という作品あたりから
頻繁にご一緒するようになった。

長い時間が過ぎてまたコラボできることがとても嬉しい。

やれやれ また長々とダラダラとやっちまった。

                  

さて、そろそろ発声練習でもはじめるか。

満場一致

2014-10-26 | 音楽♪
「いつも何か探してるのよ。生活の中に新しい歌の材料はないかって」
              
伊東ゆかりさんの「小指の想い出」 南沙織さんの「17歳」ほか
数多くの昭和のヒット曲を持つ 作詞家の有馬三恵子さんにお会いした。
最近では1973年リリースの金井克子さんが唄った「他人の関係」が
一青窈によってカバーされておりドラマのタイアップ曲になっている。

僕の母親とほぼ同世代だが、そのバイタリティーたるや
僕なんかが軽々しく「歳を取った」などというのが恥ずかしい程だ。

「売れない時代」だからって、何もしないで同じような歌ばっかり出してるから
余計に活気のない世界になるのよね」

夏川りみちゃんで御一緒して以来久々だった上田知華さんとも御一緒に
色々2時間ほどのミーティングは
あっと言う間でした。
              
       
「他人の関係」というと、不倫の歌だと思われがちだが、
歌詞をよく読んでちょうだいと思うのだそうだ。

僕はいつもその歌が曲先であるのか、詩が先に作られたのかに興味が湧く。

思った通り、曲は川口真さんの曲が先ということだったが
それにしてもなんて斬新な作品なんだろう。
1973年当時まだ中学生だった僕は、あの振り付けといい 
なんとも表現しがたい少し変てこりんな感情で
まだ出会った事のない大人の色香みたいなものだけがやけに強烈だった。

しかしこうして顔をつき合わせて歌詞のやり取りなどをする機会は本当に減った。
大衆を驚かし負かし続けてきた才能に出会う楽しさはまた格別だ。

これまでリリースされた作品の数々
すんなりと決まったものよりむしろ製作陣が首をかしげ、
歌い手が嫌がった作品のほうが売れたのよとも仰っていた。

世の中に出る手前でどんなにいい評価を得ても 売れなきゃナンニモナッシング~。
提出した作品が満場一致で大絶賛なんて言われるとそりゃ悪い気はしないが
作家としての力は、リスナーと同じ場所に居ながら いかに社会とリンクできる作品を世の中に投げ込めるかだ。
制作者側の満場一致の評価なんて実はむしろ怪しいのかも知れない。


「いいもの作れば、売れると思うのよ!」という先人の、情熱溢れるありがたいお言葉に従い、
これからもお互いに切磋琢磨致しましょう。
と翌日に上田知華さんが丁寧なメールをくれた。 


さて その日の夕方 先日受けた健康診断の結果が届く。。

ん~~~~

誰がその数値を見ても結果は 満場一致で 飲み過ぎ~~!!

やっぱり歌がすき

2014-07-22 | 音楽♪

職業柄、いろんなタイプの曲の発注を受けるが、
最近ではその範囲も次第に狭まって来た。

それでも、時にあっちを向いて書き、時にはこっちを向いて書く。

最近また特にいろんな方々から
「都志見さん、歌やらない?」って問われる。

「僕の歌は何の責任もない単なるデモテープのための歌ですから」と言ってお断りする。

大人の歌もそうだが、17歳の女の子に書いた歌まで、
「デモテープの歌の方がいい」と言われると内心は複雑だ。
ネバく鳴らないように声のトーンをあげて歌うのは
それがデモテープだから成立していることだと自覚している。

昔、ある歌手の方の何周年記念かの時に書いた曲を
「御自分で唄われた方がいいんじゃない?」って言われた時には
実は楽曲を気に入って頂いていないではないかなんて要らぬ詮索もした。

ま、しかしデモをちゃんと作るのは僕の姿勢。
姿勢を変える事は今後もない。


自分のために書くとしたら
どんな歌を書いて自分自身に唄わせたいのだろうと考える機会が最近あった。
飲みの席で「都志見くん、アーティスト活動やる気ない?」って言われてから。

おそらく、自分のために何かを書くとしたら一日一歩 三日で三歩
三歩進んで四歩下がる程に時間ばかりが過ぎてゆくだろう。

その人の唄い方や歌うシルエットを頭の中にいっぱい広げて
その人のこんな歌が聴きたいという自分の思いを列の先頭にして
相手の要望の絶対的なひとつだけを勘案材料にして
あーでもないこーでもないと
知恵をかき集めて絞り出す。

かれこれ30年書いて来た今も そんな仕事が自分には合ってると思う。

先日、作詞家の康珍化氏ともそんなはなし。
お互いの仕事場の真ん中あたりで合流して軽飲み。
あの「悲しい色やね」が、最初のタイトルは
「大阪ベイブルース」だった話は大変興味深かった。

打ちあわせの途中でもう色んな事考え始めてるから人の話も上の空とか
書き始めたら部屋のゴミをゴミ箱に放下す時間さえ惜しくなるとか
デモを台所で聴いたり便所で聴いたりベランダで聴いたり
もちろん車で聴くデモは一番輪郭が見えるなどと
詩も曲も役割は違えど同じような事をやっている。


そして みんなやっぱり歌が好き  歌えない作詞家も 歌わない作曲家も
昔歌っていたディレクターも 今からデビューする女の子も

作家達がどんなに誇れる作品を書いたって
やっぱり歌にはかなわない


                     

花筏

2014-07-09 | 音楽♪

僕が長らく文通をさせて頂いている名古屋在住の御婦人から久しぶりに手紙が届きました。

中には、4枚の便せんと綺麗な花の写真が2枚。
今年のバレンタインデーのお返しに 小さなアレンジメントの花籠を送った時の写真でした。

東京の花屋からイメージだけ伝え、半ばおまかせで送ってもらったアレンジメントの花でしたが
思った以上に色鮮やかで、だいぶ時間は経っているものの 写真で観させていただいて今更ながらにひと安心。

そして、綴られた文章の冒頭には
先週のNHKの歌謡コンサートで僕の名前を見つけ思わずペンをとったという出だしからでした。


(NHKホールの楽屋スペースにて)

当夜、偶然にも40周年の中村雅俊さんと50周年の小林幸子さんが出演されており
この写真は、お二人の新曲がたまたま僕の作曲だったということで
幸子さんのプロデューサーで、かつてから可愛がっていただいている和久井社長より
メッセージと一緒にわざわざ送っていただいたものです。

幸子さんの「越後に眠る」という曲はこのたび初めて なかにし礼さんとご一緒した作品。
これについては改めてゆっくりと書こうと思っているのですが、
なにしろNHKホールでの幸子さんの生歌を聴きながら
僕は一瞬背中がゾクッとして、唄の終わりにすぐにご本人にメールをした程でした。
前回のブログにも書いた雅敏さんの作品も、とても丁寧に唄われていて、
お二人が唄い終わった後
珍しく実家の母が、観てたよと電話をして来てくれたり。

そして手紙には、名古屋のその方も同じような気持ちで観ていてくださったらしく
幸子さんの歌ジカラに、そして雅俊さんの唄うテーマに
自分の人生をかぶせながら、
時折昔を思い出しながら噛み締めるように聴いていましたと綴られていました。

本当に嬉しいです。

ご高齢で生活の場に おそらくインターネットなど無い環境のようなので
このお二人の写真をプリントして送ってあげたら、きっと喜んでいただけるかも知れない。

送った花ですが、やがて枯れ 葉っぱだけになっても大事に育てていたら
突然、葉っぱの上に花芽が出たそうです。



「それを「花筏」(はないかだ)と言うらしいですね。

「桜の花びらが川面に溢れ、まるで花の筏....と例えられた言葉と認識していたものですから、
葉っぱの上に花をつけたこの木の名前が”花筏”というのは初めて知りました。

何十年と生きていても、まだまだ新しい発見があるものですね。」と綴られていました。


友人からの手紙

2014-07-08 | 音楽♪
先日、飲みトモダチからのメールに、こんなことが書いてあった。

「僕は自分が聴いた曲の気に入り度を「切ない度数」と「刹那度数」と呼んでる。
この数値が高いほど好きになるみたいだな。
最近は喫煙と同じくこの度数を基準にする人が減ってるように思うよ。
生まれた時から全て持ってる人が増えたからだろうか。

昔のユーミンなんか彼氏とロッジで彗星見てるセレブなのに
何と刹那で切なかったことか....。」



ある作詞家の先輩からは

『歌のよさって、どこがいいのかと聞かれて答えられるようなものじゃないよね。
心の中に何がしか さざ波が立ったということでしかないのだけど。

何に感動するか、感動したか、ぼくは、自分で決めたい。
じゃないと、さっきも言ったけど、生きた甲斐がないもの。
ネットで「いいね」「いいね」を連発されることで、
自分の感動の普遍性を保証されたような気になるのはヤだな。
感動をネットに乗せて伝えることはできないよ。
「いいね」は、感動じゃなくて、感動の記号なんだね。

YouTubeで120万回再生された「○○○」という歌が、
たった100枚しか売れないのは、感動が記号になっちゃったから、
情報として消化されて終わっちゃったんだね、きっと。』



編曲家の友人がこんなメールをくれた。

「編曲家という仕事が出来たのはせいぜい50年前だろう。
それまで長い間無かった。多くの人に都合がいいから生まれたんだろうが。
でも本来作曲という作業は少なくとも最初の発表の時点では
アンサンブルの構築が含まれる。だからクラシックに編曲家は居ないんだ。
アンサンブルの分からないメロディメイカーは作曲家とは言わないと思う。
それは、ただの鼻歌屋さ!笑)」


そしてさっき届いた30年来の友人からのメール

『声優の○○コが逮捕されたね。オレは絶対ポコチンがついてると踏んでたんだがな。
外したわ。オナゴ怖し。』



See You Tomorrow !


中村雅俊さん

2014-06-30 | 音楽♪
ひとくちに40年と言っても、それは長い長い道のりである。
40年前と言うと、僕は丁度16才の高校一年生か。

1974年7月1日に「ふれあい」という曲でデビューされた中村雅俊さん
そう、あの『われら青春』の挿入歌だった。

それから丁度40年後の明日 7月1日に40周年記念アルバム『ワスレナイ』がリリースされる。



先日もそれについてHPに記したばかりなので、それを引用します。

 「ワスレナイ」~MASATOSHI NAKAMURA 40th Anniversary~
2014/70/1発売
40周年記念アルバム

1.君がいてくれたから
(作詞:松井五郎 作曲:都志見隆 編曲:河野伸)

ひとくちに40年といってもその道のりは長い。
松井五郎氏の詞先で出来上がった作品。
自分の周りを見渡せば、そこに家族があり友人があり
自分をここまで支えてくれた方々が居てくれたからこそ、これまでの自分の歩みがある。
そんな事を改めて噛み締めるような気持ちで作った。いい歌になった。(2014/6/12)

1988年初発売のアルバム「アクロス.ザ.ユニバース」の中の「永遠にJust a pain」という曲が一番最初だった。ミュージシャンの時代で様々なアーティストが好きなミュージシャン目当てに頻繁に海外レコーディングを行っていた時代。このアルバムもLAやNYで録音されてきた。僕自身も当時は洋楽指向が強く、メロディックなものに強く魅かれた。雅俊さんにもこれまで多くの作品を提供させていただきながら、2008年発売の「涙」で丁度20年目だった。2012年3月に雅俊さんの母校でもある女川第一中学校へお邪魔したのだが、高台にある中学校から見下ろす女川の町は悲しすぎる程に、すべてが津波に奪い去られたあとだった。
また、いい歌を作って必ず 雅俊さんのもとに届けようと思っている(2012/7)。


作家にとってアーティストとの出会いは宝物
雅俊さんにも色んな引き出しを開けてもらった。
事務所やレコード会社のスタッフの方々にも心よりサンキュ!って気持ち。 

-NHKラジオ深夜便 2014/7月~9月 深夜便の歌-

是非聴いて下さいね。
                                 

安らかに。

2014-06-23 | 音楽♪
今月16日、編曲家の池多孝春先生が逝去された。
昨日、お通夜に伺ってきた。



世代的にも携わっているアーティストのジャンルの違いなどから
池多先生と直接、作品を御一緒させてもらったことはないのだが、
かねてから可愛がって頂いている現在テイチクレコードの制作本部長であられる
池田純氏の御父上であり、また、
同じ音楽界の大先輩として敬意を込めてお焼香させて頂いた。

代表作には『与作』や『酒よ』(吉幾三)などこれまで2000曲を越える編曲を残して来られた。
ジャンルは問わず広い音楽知識と経験を持つ真の音楽家だ。
数年前にスタジオでお会いしたときはお元気そうにお見受けした記憶があるのだが。。
本当に残念だ。
斎場にて、隣の席に座った知り合いのエンジニアの方が
「また一人、グレイトな音楽家が逝っちゃったねえ。。」と呟きながら
遺影の写真を見つめておられた。

才能というものには定年はないが、ずっと現役で書き続けるってそう簡単なことではない。
それこそ僕らの仕事は、ひとりよがりでは何も成立しないからだ。
池多先生から比べれば、50代半ばの自分なんてまだまだ青二才だが
こんな若輩者でさえ、今まで何度も壁にぶち当たって行き詰まってんだから
80歳を越えても現役でおられたということがいかに凄い事かよくわかる。


池多先生 
沢山お話出来なかった事は大変心残りですが 
どうぞ安らかにお眠りください。

ダイエット

2014-01-20 | 音楽♪
12月の冬至を境に日没も少しずつ遅くなってきた。

それは同時に日の出も早くなると言う事ではないらしいのだが
夕方4時半くらいでもう暗くなっていた時にくらべると
だいぶ日が長くなった感覚である。

今年の冬は久々に顳顬(こめかみ)に感じる寒さだ。
この寒い季節を、もうひと山超えれば
その先にはまた春が来る。

 年が明けて二週目、約一年振りに大腸ポリープの検査に行った。
残念ながらまたまたポリープが発見され同時に切除。
結局はその晩に予定していたすき焼きには有り付けず
お粥や流動食的なもの、そして禁酒の日々がスタートした。

昨年末から正月期間中に飲んで食って溜まった身体の澱(おり)を
綺麗に掃除するにはいい機会だと、あえてこの時期に予約を入れた。
なので、検査だけで終わってそのまま飽食の日々の継続になるより
むしろ予定通りだったわけだ。

切除後、六日振りに飲んだワイン
最初の一杯だけはジーンと猛烈に効いた。
が、2杯目からはすぐまた元の身体に戻って行く感じが
なんだか少々寂しかった。

実を言うと酒を飲まないだけでも体重はわりと減ってゆく。
このまま頑張って65キロくらいまで落とすかっ!なんて一瞬頭を過(よぎ)ったが
食事制限と飲めない酒によるストレスを貯めてイライラされるくらいなら
適度に飲んでくれた方が健康にもいいと言う女房の助言は実に真っ当で
二つ返事で素直に従った。


-Chiro & Mimi-

 先の16日でチロが10才になった。
普段より一回多い予想外のオヤツの理由は、君への誕生祝いだったんだ。

何よりボール遊びと散歩が好きな犬で
ミミより後にうちに来て3つほど若いせいか、小柄で短毛なスムースヘアのせいか 
くりっとした顔立ちのせいなのか どうも未だに赤ちゃんの様に接してしまうが
10才という年齢から言えばチロももう立派な中年後期の女なのだ。

その横のミミは今年の夏で14才になる。
身体は元気だが、最近また特に耳が遠くなった。
玄関のドアの締まる音などにはチロが反応するからそれに準じて吠え始めるのだが、
最近ではもう耳元で喋ってやらないとジャーキーや
サンポやパパという言葉にも反応しなくなった。
人間も動物も、その老いてゆく姿は実に切なく愛おしい。

ミミに関しては単純に犬というよりも
何かしらもう少し信頼感をもった接し方をしているように思う。
言い方を変えれば、たよりにしてきたという感覚だろうか。
嘘をついても見破るし、ご機嫌取りのジャーキーには見向きもしない。
留守番って言うと笑っちゃうくらいに悲しげな小芝居もするのだが、
時折人の頭の上に何かが見えてるのだろうか 
過去に二回だけ今まで見た事もないような形相で
その二人の人間に吠えまくった事がある。

昨年末に、よく訪れるペットショップのくじ引きで
本格的なスタジオでペットを撮影して頂けるチケットが当った。
その撮っていただいた中の一枚。

「はい、では最後にワンちゃんと御一緒にいかがですか?」と、
何枚か撮ってもらったのはいいが、
私の顔は寝起き間もないブン膨れのマン丸顔で、
そのままカシャッ! 
めったにある機会ではないし
こんな事ならダイエットも服装も含めて
シャキッとしてくればよかったとは、あとの祭りだが
人目には然程(さほど)の違いはないらしい。 
なにせ、主役はあくまで犬なのだから。

ゴルフのスウィングでクラブの上げる位置を1センチ変えようと思うと
自分の感覚の中では15センチくらい変えた感覚だとあるプロが言っていたが、
そのくらいにスウィング改造っていうのは容易ではない。
他人にとっては全くわからないレベルでも、その誤差がかなりの大きな違いを生むっちゅうことやからね。
こりゃ作曲なんかでも大いに言える事かも知れんね。

年末に比べればポリープ切除後、ずいぶんと細面になったと自負していた自分の顔も
哀しいかな、先日一緒に飲んだ友人にはその違いはまだ届かぬようだった。

そう考えるとダイエットなんぞはスウィング改造に比べたら結果は出しやすいわね。

覚悟を実行に移せばいいだけやからね。

考えてみれば犬どもも、
ミミはヘルニアをやったとき、
チロも近年、ストラバイト結石(尿結石)が出た時には可哀想なくらいの
食事制限を経た。

「ダイエット」、今年の本格的なお題のひとつにしようかね。

「お前、痩せたなあ...どっか悪いん?」 と、言われん程度にな(笑)。


長文多謝


いつだってこれから

2013-11-10 | 音楽♪
先月のある晴れた日、初めて女子プロゴルファーの方とゴルフをランドする機会をいただいた。
スタートして3ホール目くらいで球が曲がり始め、一つのアドバイスを受けた。

「都志見さん、ずっと左手の親指を立てているイメージでクラブを振ってみてください」

そのアドバイスを頂いてから、途端に球が当たらなくなった。

当日は女子プロのメジャートーナメントよりも長い距離のセッティングということだったが
その名の通り、プロフェッショナルというのはどんな条件下でもその片鱗をしっかり残したプレーで
18ホール終わってみれば我々男どもを寄せ付けないスコアで上がってくる。

大したものである。

たった一つのアドバイスで、もしかしたら今までの癖と垢が染み付いた独学スウィングが
見違えるようになるかも知れないと欲張ってしまうのは昔も今も変わらぬアマチュアの性だろうが、
ちょちょいと練習したくらいで、そう簡単にあの厳しく美しいプロの世界に到達できる筈もない。

ましてやその時のアドバイスで一発は打てても、実はどう打ったかもわからないレベルなのだ。
そのメカニズムを出来るだけ多く正確に繰り返せるかどうかがプロとの違いだろう。

あれだけ毎日ゴルフ漬けのプロであってもミスショットをする。
ゴルフというのはナイスショットをどれだけ打てるかよりも
出てしまったミスショットに対してどれだけの引き出しを持って
それをリカバー出来るかの勝負だとそのプロは言ってまた、静かに歩き始めた。



 小学生の頃に日本中に流れていた「夜明けのスキャット」(1969)。
以前このブログでも書いた事があるが、父がある日、トヨタパブリカを買ってきた。
我が家に始めてマイカーが来た。その日からその中古の車で岡山や島根の親戚の家によく出かけた。
あの生き生きとした時代に流れてた歌の殆どが昭和の名作として今も長く歌い継がれている。

音楽の仕事をしていると幸運にもかつての時代によく聴いていた歌手の方などとの出会いも多い。
そしてもちろん由紀さおりさんもその一人。

『くじけないで』という映画の主題歌という事で、
松井五郎氏の詩先で出来上がった「わたしのうた」という作品。
都合でレコーディングには同席できずとても残念だったが、
ご本人とは当日に電話でお話する事が出来た。
大変に気さくな方で作品をとても喜んで頂いた。

出来上がった歌のところどころに
かつて聴いた事のある由紀さんの特徴的な節回しが聞こえてきて
何だか嬉しくなった。

ところで先月末から母親がちょっとした手術のため入院していた。
病院に来ると血圧が上がるタイプでとてもナーバスになりやすい性格だが、
そんな事には容赦なく、手術に向かって時は一歩一歩近づいてゆく。
が、心の準備だけは一向に進まないようだった。

手術に関する色々な話を担当医が話し始めると
どんどん母の背中が小さく丸くなる。
付き添っている男の自分でさえも、出来るなら今すぐに帰りたいと思うほどに
年老いた身体には検査も含め負担もさぞ大きかったに違いない。
結局は案じるしか能のない息子と
その隣で口を閉じて話を聞く事しかできない父との無力な二人で
母の背中を見守る事しか出来なかった。

90歳を過ぎてから詩を書き始めた、映画「くじけないで」のモデルの柴田トヨさんの話をすると
「うちは90までなんかは よう生きんじゃろうね」と頼りない声で返す。
まあ、長い先の目標より、今はとにかく術前の身体に戻す事じゃねと
励ますことしか術がない。




そして先日 母より二つ若くして天国に旅立たれた島倉千代子さん。
90年代半ばに アルバムの一曲だが岡田冨美子さんの作詞で
「銀の舟」という作品を書いた。
どういう経緯で、曲の発注を頂いたかは忘れてしまったが
初めてお会いした島倉さんは自分に大変厳しく
そして、人にはとっても優しい方という第一印象だった。
マイクの前で一生懸命に唄われている姿は
今も忘れずこの目に焼き付いている。


柴田トヨさんの言葉のように、
歳を取っても、色んな事があっても「人生はいつだってこれから」って思えたら
少しだけ勇気が湧いてくるかも知れない。
幾度の大きな荒波を乗り越えるために人は
嘘でもいいからそう思いながら生きていたい。
人生はゴルフのようにもう一度元に戻ってやり直せない一度きりの旅だ。

最近の色んな出来事に接し、改めて
悔いなき一生を送る難しさと、そしてその尊さを
実感する秋この頃。

島倉さん ありがとうございました。

安らかに。


ニライカナイ

2013-09-29 | 音楽♪
しかし先日の相撲を見ても痛感した事ですが
世の中には色んな職業がありますね。

あの両国の土俵の最後に立つ横綱をみなが目指し相撲道を志しますが
闘う事に不向きだという事がそこに入ってみて初めてわかる場合だってありますし
ケガや病気をして断腸の思いで夢をあきらめざるを得ない人だっている。
やむなくついた裏方としての仕事に力を発揮する場合だってあるでしょう。
望めば誰もが会社の長になれるはずもなく
大事なのは社長の下にどれだけの才能ある部下が働いているかですしね。
むしろ二番手のポジションの方が向いてる人だっている。
社会というのは自然に適材適所という事でうまく成立してるんですかね。

それなら肉体の存在しない世界ではお互いに
どう認識しているのだろうかなんて
ふと考えたりします。
その時点でもう 彼はおすもうさん 彼は社長の右腕 彼女は女優さんになどと
将来の娑婆(しゃば)での修行の場が
適材適所に決まっている筈は...ないですよね。。

あの世の事はまだ訪れた事がないのでわかりませんが
実は我々も元はと言えばあの世から訪れているわけですから
オギャーとこの世に生れ落ちた瞬間には
もしかしてまだあの世の記憶は残っていたかも知れませんね。
それが一つ一つこの世の経験を重ねる事によって
その記憶一つ一つを忘れてゆくのかも。


<上間綾乃(うえまあやの) 9月14日発売CDアルバム「ニライカナイ」>
上間綾乃オフィシャルサイト

※ニライカナイ
沖縄県や鹿児島県奄美群島の各地に伝わる他界概念のひとつ。
理想郷の伝承とある。
つまり人は死に肉体を離れニライカナイへ帰ってゆき、
またそこから新たな魂がこの世にやってくる。
その海のかなたにある神の世界を言う。

上間綾乃は沖縄出身の唄者(うたしゃ)。
ちょうど昨年の同じ時期のこの頃に曲の発注を受け
彼女のライブを見た。

三線のきっかけで始まるビート感溢れる沖縄民謡のハリクヤマクヒヤミカチ節などを
たとえばまるでロッケンロールのジョニー.B.グッドのように
エレキを三線に持ち替えてスウィングしまくる彼女の唄三線の姿と歌声に圧倒された。

どちらかというと一般的には、なごみ系や癒し系という
打ち出しの印象が強かったこれまでの沖縄音楽の中にあって
そのイメージとは少し違う種類の勢いがあった。

大陸的な長い黒髪、目鼻立ちのくっきりした美しい顔立ちで
とーちゃん、かーちゃん おばあー なんて喋り始めると
何だかいきなり肩の力が抜ける。
美しい姉さんからいきなり御近所さんみたいになる。
ところでみなさん、沖縄の人はみんなゴーヤ大好きと思ってないかい?なんて
曲の合間のトークもそんじょそこらのお笑い芸人なんぞは舌を巻いて逃げ出すだろうほどに
知性とユーモアに溢れ、彼女の喋る言葉は何とも言えない間(ま)を持って笑わせてくれる。
実際には上間もまだゴーヤを食べれる程には成長していないらしいが(笑。

 昨年の9月に書いた楽曲『ソランジュ』(作詞:康珍化)が
今年の6月にシングルとして先行発売された。
この曲は作詞家の康氏と共に上間本人そしてスタッフ達と
制作時から色んな想いをたくさん重ね合わせて作った。
大袈裟だが新しい命を産み落したような感覚だった。
十月(トツキ)と十日(トウカ)程ではないにしろ
時間をかけて成長し、やっとこの世に出たという感覚を皆で共有した。

アーティストの何かを引き出そうとしていつも自分の仕事にのぞむわけだが
今までを振り返ってみるとどうやら大半は
アーティストによって自分の知らなかった世界を
引き出してもらっていただけのようだ。
剣を抜いて闘おうとしていたのは自分だけで
大半は向こうが一枚うわてだったというわけだ。
もちろん、今回の作品はなおさらだが
上間がそこに居なければ書けなかったのだから。

若い頃はそんな事すらわからない。
だから歳をとるということは、老化も相まってそりゃやるせない時も多いが(笑、
実は大切な事を今度は一つ一つ思い出し理解できるようになるという事なのかも知れない。

民謡..まさしく民(たみ)の謡(うた)であり
先人達の残して来た伝統を受け継ぎ、
そして今生きる時代に生まれる新しい唄も一緒に
歌い継いでいくのだと上間は言う。
昨年の上間のアルバム『唄者』が伝統なら『ニライカナイ』は
挑戦であろうか。それとも融合であろうか。

どちらにしろ、沖縄の唄者という肩書きからまた一歩踏み出した覚悟が
今回のアルバム、そして今の彼女の唄には宿っている。

きっとこの上間綾乃も 自身ではまだ気付かない程の大きな役割を持って
あのニライカナイからやって来たに違いない。

来月には日本全国津々浦々まで流れるNHKの大きな歌番組への出演も決まったようだ。

彼女の歌声は生まれ故郷の沖縄へはもちろん、いや、 
もしかしたらその遥か彼方、 
今年の夏に自分の役目を終えてひと足先に旅立ってしまった
彼女の大好きだったばあちゃんが居るあのニライカナイへまでも
どうせなら届いてしまえ。

きっと、届くよ ホトトギス。

ちばりよー!

最新音楽ニュース『ナタリー』インタビュー
上間綾乃「ニライカナイ」

夜な夜な

2013-07-19 | 音楽♪
長い間潜り続けた深い海からゆっくりと上がったらだいぶ歳を取っていた(竜宮城みたい)。
その反動か当分は仕事場に行きたくない程だったが
その間色んな人達と飲んだり食ったりしたおかげで
また段々と少しずつ元に戻って来た。

しかし飲んだり食ったりする以外にないのかと思うのだが
そんな時間が好きなのだから仕方がない。
お陰でとても醜い体型になり、週末はいつも反省蛙である。


<ボチェッリ・ロッソ>

先日の暑い夜、作詞家の康珍化氏、メーカーのプロデューサー方々と久々に夜を跨いで飲んだ。
雑談交えての戦略会議だが、振り返ると昔は結構な割合で
こうしてみんなが集まり夜な夜な秘密会議を繰り広げていた。

同じ業界に暮らす人達にそんな話しをすると、
熱き良き時代を思い出すなあ、
そうやって丁寧に作っていた時代が懐かしいよ なんて
一様に目を細める。

そんな瞬間に、自分が作家の端くれであるという事を強烈に自覚する。
新しいものを生み出したいというエネルギーは
流れ作業のように何も疑わずに作る生活を、時に一喝するように刺激的だ。

いつもの事だが、この打ち合わせの時間ほどワクワクする瞬間はない。
深い海に潜る前がずっと続けばいいと思う。

ヒット曲というのは自分にとって年々、実に難しくなる。
だからこそ、先日も書いたエージヒットなるものを必ずや達成してやろうじゃあないか
なんて自身を奮い立たせれば尚更酒も進み行く。


 また別の日、あるアーティストのお誘いを受け一緒に飲んだ。
その時の一本<ボチェッリ・ロッソ >.
これはあの世界的テノールのアンドレアボチェッリの実家のワイン。
彼の実家はトスカーナになるワイナリーで最近日本でも手に入るようになったと聞いた。
私がワインが好きだと聞いたのでと、わざわざお店に持ち込んでいただいた。
大変美味いワインだったし、そのお心遣いが実に嬉しかった。

ANDREA BOCELLI (HQ) AMAPOLA
-かつてこのブログで紹介したボチェッリのラスベガスでのコンサート。
何度観てもため息がでる-

昔から私の作る曲が好きで聴いてくれていたらしく
つい最近も彼のコンサートに招待して頂き、後輩を介しての
先日の会食となった。
そのコンサートでのピアノの弾き語りのカンツォーネは圧巻。
コードの四分弾きで唄うよくあるバラードとは違った質感で
まさにピアノオーケストラ的な印象。
弾き語りとしては始めての感触で実に新鮮だった。

今年がデビュー5周年の彼の何枚目かのこのアルバムを
当時アマゾンで買って聴いた。

仕事場に向かう途中の車のラジオで初めて彼のボーカルを耳にして
そのままアマゾンしたのを覚えている。

本当に気のいい面白い男で、歌の印象とはまたひと味違った旨味を感じる。

昨今、どんな情報も簡単に手に入り知識として得る事は出来るが
やはり実際にライブを見て歌声を聴いて、そして会って話してみると
情報にはない色んな事が見えてくる。

殆どの事が机上で処理できてしまう今の社会だからこそ
自分で足を運んだり、手に触れたりと 
自分なりの情報を得る作業が実に尊い事だと感じる。

夜を徹しての作戦会議も、飲んで騒いでいるその横で
音資料とメールだけでの打ち合わせにはない
『「実は」のヒント』みたいなものを夜な夜な炙り出しているわけで、
この合理的な時代にいくら昭和的といわれようが、時が巡っても
この夜な夜なの世界だけは皆のスケジュール合わせて
是非スルーせずにいきたいもんやね。

実際、次の日はもちろん二日酔いと二度寝という有り様だがね。
自分の感覚とは裏腹に肉体だけは夜な夜な いや 日に日に
無理の利かない仕様になっているという事~だにゃ。

彼とはワイン二本 とっても素敵な夜にお招き頂き心より感謝。
いつかまたそんな機会がくれば、
今度は是非あのボチェッリ.ロッソのような味わいの素敵な歌をつくりましょう!

そんで、私は いい気持ちで飲み過ぎて また もちろん 

撃沈。 で  沈没。

美ら海

2013-06-23 | 音楽♪
約ひと月の間 書き溜めたメロディーのスケッチを
モチーフごとにそろそろ何曲かの完成品に仕上げる時期が来た。

もうすでに頭の中では、色々と曲が鳴っているのだが
最初の一筆を、つまり いざ形にしようと
楽器やPCに向かい作業をスタートするのが
何だか恐い。

やり始めると形として出来上がっちゃうわけで
その出来上がってしまいたくない感じというのかねえ。


<2013/03 沖縄にて>

その日出来たスケッチを帰りの車で聴きながら
頭を冷やす。
そして一晩寝て再起動した翌朝はリスナーとして
仕事場に向かう車のなかで唄ってみる。
そこに冷静さや客観性などまったくないリスナーだが
そうやってブラッシュアップされた楽曲は
机上で完結するものよりどこか力が抜けていていい。
朝の日差しにもよく響く。

机上ではどうしても作家のエゴだけで固まりやすい。
行き方やコード進行やリズムやといった音楽的なことだけに
とらわれやすい。
車中が一番いい。
景色は流れ音楽だけにとらわれない空間がある。
車中では何かに拘りすぎてギクシャクした部分がすぐ分かる。
何故か仕事場での悩みは、数分後の車中で解決できる。

だが、そんな繰り返しをいつかは終えなくてはならない。

既にご一緒する我が敬愛する作詞家には万全な形でお待ち頂いている。
これ以上愚図愚図とやってもお互いの創作の旬を逃す。
締め切りというある種の解放の日に向かう時期が来た。

ボクらの仕事は気に入って頂けてナンボの世界。
このひと月、頭の中に鳴り響いた歌が
果たして正しかったのか。
そして届くのか。

まずは第一走者。責任は重い。

色んな人の喜ぶ顔を胸に抱き
さあ、最初のひと筆を現実に落とそう。

大きく息を吸って
さあ、美しく蒼き創作の海に深く潜ろう。