大正九年東京朝日新聞第44局

2006-10-29 22:45:48 | 棋譜
開始日時:1920/09/21
棋戦:その他の棋戦
戦型:その他の戦型
手合割:飛車落ち
下手:根岸 勇
上手:関根金次郎

場所:東京市麹町区平河町「関根将棋所」
*放映日:1920/09/21-25
*棋戦詳細:(東朝)高段勝継特選将棋
*「根岸 勇二段」vs「関根金次郎八段」
△3四歩 ▲7六歩 △4四歩 ▲2六歩 △3二金 ▲2五歩
△3三角 ▲4八銀 △4二銀 ▲6八玉 △4三銀 ▲7八玉
△5四歩 ▲5六歩 △3五歩 ▲5八金右 △6二玉 ▲6八銀
△7二玉 ▲4六歩 △9四歩 ▲9六歩 △3四銀 ▲4七銀
△6二銀 ▲3六歩 △同 歩 ▲同 銀 △3五歩 ▲4七銀
△5三銀 ▲5七銀 △7四歩 ▲6六銀 △5二金 ▲1六歩
△6四歩 ▲5五歩 △同 歩 ▲同 銀 △5四歩 ▲6六銀
△6三金 ▲2六飛 △7三桂 ▲5六銀 △6五歩 ▲5七銀
△6四銀 ▲6六歩 △同 歩 ▲6五歩 △同 銀 ▲同 銀
△同 桂 ▲6六銀 △6四歩 ▲6七金 △4五歩 ▲6八金上
△4三金 ▲6五銀 △5五歩 ▲9七角 △6五歩 ▲6四歩
△6二金 ▲6三銀 △同 金 ▲同歩成 △同 玉 ▲6四金
△5二玉 ▲5四歩 △4二銀 ▲3七桂 △6三銀 ▲同 金
△同 玉 ▲4五桂 △同 銀 ▲同 歩 △3七銀 ▲3四歩
△2二角 ▲2七飛 △4六銀成 ▲4四銀 △5四玉 ▲3三歩成
△同 桂 ▲3四桂 △同 金 ▲4二角成 △4五玉 ▲5五銀
△同 玉 ▲5六銀 △5四玉 ▲5五銀打 △6三玉 ▲6五銀
△4五桂打 ▲6四馬 △7二玉 ▲7四銀 △3六成銀 ▲7三馬
△7一玉 ▲8三銀成 △6一玉 ▲5三歩 △6二歩 ▲4四歩
△3二銀 ▲7二成銀 △5一玉 ▲6二馬 △4二玉 ▲5二歩成
△3一玉 ▲5三馬 △2一玉 ▲4二と △3一桂 ▲3二と
△同 玉 ▲4三銀 △同 桂 ▲同 馬 △3一玉 ▲3四馬
まで132手で下手の勝ち

日本将棋成立についての読書とメモ(4)

2006-10-29 03:28:25 | 将棋
増川宏一『チェス』(2003 法政大学出版局)

第一章 チェス史の研究
 1 ハイデとジョーンズ
   トーマス・ハイデ Thomas Heide (1636-1702) 『東方におけるチェス』(1694)
シャトランジの発見 インド西部起源の示唆 象棋の紹介
   ウィリアム・ジョーンズ William Jones 『インドのゲームのチェスについて』(1790)
    四人制チャトランガの発見
 2 リンデとマレー
   アントニウス・ヴァン・デア・リンデ Antonius van Der Linde (1833-1897) 『チェス史の典拠研究』(1881)
四人制チャトランガ原始型説の否定
   H・J・R・マレー H.J.R.Murray 『チェスの歴史』(1913 Oxford) チェス史の聖典
    アシュタパダの紹介 二人制起源説
 3 研究者の結集
   1991年第1回チェスコレクターズインターナショナル(C.C.I)
研究課題の整理
 4 最新の研究
    サマルカンド近郊アフラジアブの760-761の具象的な駒の発掘
    アラブ駒の抽象性はイスラム教の教義を反映したものとする観点が定着
    アシュタパダの由来の解明
    バータの二人制チェス先行説と紀元前二世紀以前発祥説

第二章 チェスの起源
 1 四人制チャトランガ(一)
 2 四人制チャトランガ(二)
   四人制チャトランガ原始説の紹介
   1.さいころ遊戯の系譜
   2.競争ゲームの系譜
   3.文献史
   4.古代インドの軍制
   増川自身は『将棋I』(1977 法政大学出版局)で四人制チャトランガ原始型説をとったが本書では保留
 3 四人制原始型説への批判
   バールフートのレリーフ(紀元前250年-200年 or 紀元前一世紀)がチャトランガとの関連を否定される
   ザイエットによる批判
   1.古代ペルシアに四人制が伝わらなかった
   2.四人制チャトランガの報告は十一世紀前半のものであり、それ以前に存在を確認できない
   3.大臣の駒の脱落
   4.二人制チャトランガに賭博性が薄い
   5.四人制は戦争を模したゲームとはいえない
   6.『マナソラーサ』(a.1031)における二人制と順序と記述変化
   ボックラーミングの推測
   『マハー・バーラタ』のチャトランガはチェスを意味しない
 4 二人制チャトランガ
   ブッダガヤのレリーフ
    0.五世紀の終りの建物にある
    ボックラーミンクはアシュタパダを用いるさいころゲームで、チャトランガを暗示しているのではない、と断定
   ザイエットの文献による批判
    王と大臣は常にセットであり、大臣の欠落している四人制は、二人制から分岐したものである
 5 インドからペルシアへ
  マニジェ・アブカイカバリの講演
   ★『シャーナメ』のイラン宮廷にチェスが輸入されたエピソード
   クスラウ一世アヌシルヴァーンの時代(位531-578)にインドのカウナジの王がチェスを贈った
   ペルシアからは返礼としてナルドが贈られた
   石の駒→M・エデールの復元模型
   ★『タリク・サーレビ』のタルカンドとガウの遊びの発明のエピソード
   テラコッタと象牙の駒 着色 七種(王・将・象・駱駝・塔・歩兵) 百枡盤
   
   二つのエピソードからチェスのペルシア発祥を示唆

  ザイエットの“インドのカウナジ”に関する調査
   カウナジの王マウカリ朝サルヴァールマン(位560or565-588)が上記エピソードのチェスの贈り主
   現在のところ最古とされるチェスの記述が見られる伝記『ハルシァチャリタ』(630-a.640)の主人公インドのハルシア王は、サルヴァールマンの孫であり、マウカリ朝のグラハヴァルマンとは義兄弟
   ハルシア王の宮廷で七世紀にチェスが遊ばれていたのは確実であろう
  「カウナジはチェスの考案された地か最も古くから遊ばれた土地であった。ペルシアへチェスが贈られたのも偶然ではない」

  カウナジからは650-750年の戦士のテラコッタ像、九世紀の戦士のテラコッタ像が出土
  北100kmのアヒック・チャトラからは象・馬・騎士・戦士などチェスの駒を思わせるテラコッタ像、高さ10㎝程度の像は550-650年、高さ9.5cmの像は850-1100年、が出土している 
  出土史料から『シャーナメ』に記されたチェス輸入の伝説は事実を示している可能性が大きい
  
  ササン朝末期の文献『ヴィツァーリジン・イ・チャトランク』に七世紀前半にインド王からクスラウ・アヌシルヴァーンへチャトランガが贈られたと記述あり
  同時期の『カルナマケ・アルダシール』にチェスがすでにペルシアで知られていて、パルター王アルダヴァンが熟達していたという記述がある
  ザイエットの結論 王が贈ったという伝説が事実かどうかは疑わしいが、六世紀中頃以降にインドからササン朝へチャトランガが伝わっていただろう

  現在のところ二人制に対する有力な批判はなく、二人制起源説が最も有力な見解
  チェス・将棋の起源を紀元前に求める筆者(増川)の見解も修正を余儀なくされる

第三章 アラブのチェス
 1 アラブのチェス(一)
  インド→ペルシアの伝播は、確実には七世紀
  アリ(?-661)の時期にアラビア半島でチェスが遊ばれている
  八~九世紀のアラブチェスの駒が多数出土
  九~十世紀には公共図書館にチェスに関する草稿が入っている
  チャトランガ→シャトランジ(アラビア語にChがなくSに転化)
  駒の動き(王=玉、大臣=斜め四方一枡、象=斜め四方二枡、馬=八方桂、塔=飛車、歩兵=敵陣最終列で大臣に成 一歩のみ)
  ハールーン・アッラシード(位786-809)は東ローマ皇帝ニセフォルウスから官僚を駒に例えた書簡を受け取っている ただし、ビザンチン美術の中にチェスを模した物は見つかっていない
  九世紀にはシャトランジは誰もが知る状態になっていた
 2 アラブのチェス(二)
  アッバース朝の書誌学者イサーク・アン・ナーディムがチェス文献を蒐集
  九世紀には強さを示す等級が定められる(当初5階級、後6階級)
  九世紀以降は幾つかの変型が試みられる2つめに紹介された10×10の盤を用いるものと前章の『タリク・サーレビ』に現れるダサバサを用いるものとの関係には言及していない
 3 アラブから西方へ
  中世のイスラム勢力の伸張と交易圏の拡大によりチェス(シャトランジ)の伝播範囲は拡がる
  ロシアへの伝播(カスピ海の南岸から西岸沿いに北上し、カザフ~キエフ ボルガ河沿い)遅くとも八~九世紀 十世紀~十二世紀の駒が出土 抽象的なアラブ駒からロシア独特の形に変化

  ベナフロの駒(ローマ近郊) 885-1017 アラブ型改 現存するヨーロッパ最古の駒
  モラサベ修道院の駒 九世紀~十世紀初
  トレドのユダヤ人織物商の日記に現れる(十一世紀)
  ウルヘル(スペイン北部)の伯爵の遺言書 十一世紀半まで セント・ギレ修道院に水晶製の駒を譲渡
  アインズィーデルン修道院にチェスを詠んだ詩 十世紀
  バイエルン・テーゲル湖畔の修道士フロムウントの手稿 1030-1050
  ライプツィヒ近郊 ペガウ修道院の年代記(設立者グロイッシュ伯爵は1083年、ボヘミア王の娘と結婚した際にチェスを贈る) 年代不詳の古いチェスの駒が現存
  バムベルグでハインリッヒ四世(位1056-1106)時代の骨製のアラブ駒
  ジグマリンゲン城から十一~十二世紀の鹿角製のアラブ駒
  オスティア司教ペトルウス・ダミアーニの手紙(a.1061) (フィレンツェの司教達がチェスに熱中して職務を怠っているという告発)
  クヌート王(?-1035)は夜の退屈をまぎらわすためにチェスとさいころで遊んだ(『ラムゼー年代記』) 北欧・南イングランドにも伝播
  十一世紀末に活躍したトレド出身のアブラハム・イブン・エスラの詩『シャーマットのゲーム』(歩兵は一歩進んで戦場に臨み、相手を捕える時は路を変える。大臣は四つの方向に動き、象は大臣のように行進する。三歩の歩調で進むことができる。)=歩兵は斜め取りになっており、象は三枡動けるようになっている 当時のスペインのルールと考えられる
  『カルミナ・ブラーナ』 塔・農民・ロイファー・老人・馬・王
  サン・サビーノ教会(十二世紀建立)の建築当時に描かれたモザイク

 4 遊戯書とその時代
  カスティリャ王アルフォンソ十世エルサビオ(位1252-84) 『コーデックス・アルフォンソ』 1283 大臣の名称が女王に(初手斜め二歩) 歩兵の初手二歩、 駒の配置も変化 白の大臣は王の左側 黒の大臣は王の右側、12×12の大型チェス、「四季」
  『イン・エクステンソ』a.1280 女王 初手に斜めに二歩進める
  イスラムのチェスの名手ブゼカがフィレンツェを訪れ、市のトップクラスと目隠しや盤を用いずに対局した 1266
  クーリエ
  さいころの存在と多くの地方ルール

第四章 チェスの変化
 1 中世との決別
  『貴婦人のチェスの教訓』15世紀終り イタリア語 大臣が「激烈な・怒り狂う」になり初手でd1→h1、僧正はf1→c4
  ソグラディエール伯爵所蔵手稿 15世紀終り 王の前の歩が二歩前進、女王は三歩直進、歩兵は敵歩兵が横に並んだ時に、相手を取れる
  スペインのチェスの名手ルセナの著作 皇太子(1497/10/04没)に献呈 王の前の歩が初手で二歩進む 僧正が三歩、女王が斜めに一歩進んだり三歩進んだり 右側の塔が左へ二歩寄った後、次の手で王がg1へ 王の馬ジャンプ
  ゲッチンゲン手稿 王が初手二歩動く

 2 新しいチェス(一)
  ダミアーノの戦術書 (1512 ローマ)聖カエザリーノ教会奉納
  十五世紀末から十六世紀初頭にかけて、女王は現在の動きに、僧正も角行の動きを獲得
  ヤコブ・メンネル『イタリアのチェス』(1536 フランクフルト)

 3 新しいチェス(二)
   ルイ・ロペス
   ボナ
   パトロン
 4 チェスの普及
   王の馬ジャンプは17世紀後半には衰退
   キャスリングは17世紀に統一の方向に向う
   歩兵の成が女王以外の既に取られた駒に制限される
   ジョアチーノ・グレコ
   イタリアのチェスの全盛期は17世紀前半までに終り、スペインが盛期を迎える
 5 チェスの完成
   ロンドンのコーヒーハウス
   スタンマの評論(1737 パリ 1745 ロンドン改訂再版)
   エドモンド・ホリー『ルールと観察』(1745)
   ダンカン・フィリドール『ゲーム』(1749)
   ヒルシュ・バルヒ『チェスの戦術』(1747 ベルリン)
   ダンカン・フィリドール『チェスの分析』(1790 ロンドン)
 6 今日への基礎
   
第五章 チェスの駒
 1 駒の変遷
   東南アジアの初期の駒=アラブ型(暫定)
   ロータル駒 紀元前1600年推定 原始チェス説(発掘地点の捏造が発覚 信憑性に?)
 2 ロシアの駒
   十四世紀ノブゴロド
   十七世紀宮廷御用達 具象性
 3 中世の駒
   十二世紀初期 シャルルマーニュの駒 象牙(聖デニイ修道院→パリ国立博物館)
   1200年頃 ルイスの駒 セイウチ牙(スコットランド考古博物館・大英博物館) 
 4 ルネッサンス前後
   12~13世紀と15~16世紀の比較
    階層の消滅・人物像の様式の変化
    具象的な駒は現実の敵対する勢力を反映
    素材の多様化
第六章 美術工芸品として
 1 近世のインド、イスラム圏
 2 近世のヨーロッパ
 3 近現代の駒(一)
 4 近現代の駒(二)

第七章 日本におけるチェス
 1 将棋の伝来
  木村義徳の日本六・七世紀伝来説への批判
   『ハルシャチャリアタ』の意図的無視(630年 二人制チャトランガに関する最古の記述)
   『玄怪録』の無批判な受け入れ
   四人制チャトランガと二人制チャトランガの混同
    これについては増川の明らかな誤読である。木村は二人制さいころ無しチャトランガがタイで改良されたものが日本に入ってきたと主張している。p.218 l.7~p.219 l.13は書き換えられなければならない。木村が四人制と二人制の関係について最新の研究を恐らくは意図的に無視したことは確かだが。
   世界チェス
これも増川の誤読である。木村は世界チェス=十世紀頃の象棋・シャトランジは日本には伝来しなかったか、伝来しても既に日本将棋が独自の進化を遂げ別のゲームになっていたため影響を与えなかった、という主張をしている。
  ”「出土資料や文献にないからないという論理」は成立しない、と公言している。”
    ”「資料にないからないという研究法は歴史学にも考古学にもない」と力説している。”
    感情的な批判ではあるが、この部分の木村の主張には自分も生理的な気持悪さを感じる。
   プロ歴史家の捏造とそれによる権威づけ
   
 2 チェスの見聞
  天正遣欧使節(千々石ミゲル)
  大黒屋光太夫
  長春丸
  彦蔵『漂流記』
 3 江戸時代のチェス
  長崎市万才町旧高島家跡出土駒 1600年
  阿蘭陀将棊
  紅毛将棊
 4 明治維新後のチェス
  津田真道(ライデン 1863-1866)
  『西洋将棊指南』(1869)
  “Chamber's Information for the People"の翻訳
 5 明治・大正期のチェス
 6 昭和期のチェス