大正9年東京朝日新聞第22局

2006-10-14 12:00:00 | 棋譜
開始日時:1920/05/21
棋戦:その他の棋戦
戦型:その他の戦型
先手:村上桂山
後手:花田長太郎

場所:東京市麹町区平河町「関根将棋所」
*放映日:1920/05/21-25
*棋戦詳細:高段勝継特選将棋
*「村上桂山六段」vs「花田長太郎六段」
▲7六歩 △3四歩 ▲2六歩 △8四歩 ▲6六歩 △8五歩
▲7七角 △6二銀 ▲7八金 △3二銀 ▲2五歩 △3三銀
▲4八銀 △5四歩 ▲5六歩 △3一角 ▲8八銀 △5二金右
▲6九玉 △8六歩 ▲同 歩 △同 角 ▲同 角 △同 飛
▲8七銀 △8二飛 ▲8六歩 △8八歩 ▲同 金 △6七角
▲5八金 △5六角成 ▲5七銀 △4五馬 ▲7八金 △4二玉
▲7九玉 △3二玉 ▲6七金右 △3五歩 ▲4六銀 △4四馬
▲6八角 △3四銀 ▲3六歩 △同 歩 ▲3五歩 △4五銀
▲2四歩 △同 歩 ▲4五銀 △同 馬 ▲3四銀 △5五馬
▲2四飛 △2二歩 ▲2三歩 △3一金 ▲4六角 △4四馬
▲2六飛 △8五歩 ▲同 歩 △同 飛 ▲7五歩 △同 飛
▲5五歩 △8六歩 ▲同 銀 △5五飛 ▲2二歩成 △同 金
▲5五角 △同 歩 ▲2三歩 △1二金 ▲6八金引 △4八角
▲2二飛 △同 金 ▲同歩成 △4二玉 ▲3二と △同 玉
▲2三飛成 △4二玉 ▲2一龍 △8七歩 ▲6五桂 △4九飛
▲5九歩 △同飛成 ▲6九金打 △5六龍 ▲7七銀 △6六龍
▲同 銀 △8八銀 ▲同 金 △同歩成 ▲同 玉 △6六角成
▲7七金 △8七歩 ▲同 玉 △6五馬 ▲7八玉 △6六桂
▲8八玉 △8七歩 ▲同 金 △8六歩 ▲3三銀打 △5三玉
▲4四銀成 △同 歩 ▲2三龍 △6四玉 ▲8六金 △8七歩
▲7七玉 △8八銀 ▲6八玉 △4七馬 ▲3一角 △5四玉
まで126手で後手の勝ち

日本将棋成立についての読書とメモ(3)

2006-10-14 07:47:35 | 将棋
木村義徳『持駒使用の謎』(2001 日本将棋連盟)
 基本的にまとめのまとめ 斜体は私の感想
まえがき なぜ取った駒を使うようになったか
      ↑
      本書の問題設定?
      まえがき内にその解答の手掛りはなし
   「本書はこれまで不明であった日本将棋がいかにして出来上がったかをほぼ解明している。少なくとも持駒使用がいかにして改良されたかについては自信がある」
“なぜ”ではなく“どのように”を主題としたことを表明
   マックルック、将棋、象棋、チェスなどを“史料”とする
   「従来のような文献を主とする研究法に頼っていたら、やはりわからなかったであろう」
   興福寺駒の出土(1993)=1058年ごろ 持駒使用→執筆の動機かつ有力な史料

   将棋=将棋類、日本将棋=将棋、と語義を設定

第1章 原将棋
 第一節 チャトランガ
  古代インドに発生 前史としてダイスつき四人制と二人制ダイスつきがある
  その後成立したダイスなし二人制チャトランガが世界中の将棋類の共通祖型である原将棋
ダイスつき四人制の成立は紀元前七~三世紀、原将棋の成立は紀元一~四世紀とする
  インドではかなり後世まで三種のチャトランガは並行して流行
 第二節 伝播の範囲
  旧世界全体(アフリカ東岸~東南アジアのモルッカ諸島・ボルネオ島~中央アジア~モンゴル)に伝播
  私はここで歴史として読む気はなくなった。p.28「史料がないから未到着とは言えないのである。歴史学方法論では、その存在が確認できる少し前を初伝とすべきかもしれないが、それでは実際の到着時期と多分乖離するであろう。少なくとも、存在の確認は到着時期の下限とすべきである。そして、上限がどこでもわからない。それゆえ、状況証拠や間接史料を活用して、全人類に最も好まれた賭博具だから、どこにでも案外に早く到着したと想定するであろう。」と宣言されてしまっては手も足も出ない。想定するのは木村であり、その想定に不都合な史料には言及しない。増川に「想像しているだけ」と書かれた所以である。
  
  多くは32個の色わけ立像型と8×8の盤
  象はらくだ・ビショップ・銀将など土着文化の影響を受けて変化
「将棋は主に商人や船乗りが自らもプレーしつつ各地に伝えていったのに違いない。これは自明と言えよう。」
現代を見れば将棋に類するゲーム=“将棋”が世界中に伝播していることは確かに明白だが、ここでは原将棋=二人制ダイスなしチャトランガの伝播に問題を限定して欲しい。
  将棋はほぼ旧世界全体に広まっており、人類の最も好んだゲームである
チェス・朝鮮将棋(チャンギ)・日本将棋などを見れば、将棋は世界中に広まったゲームであるといえる
    原将棋の初伝(伝播時期・経路)は詳らかでないが
    「史料がないから未到達とはいえないのである」
    全人類に最も好まれたトバク具だから、どこでも案外に早く到着したと想定する
 第三節 西流グループ
  インド→ペルシャ→アラブ・イスラム圏
  ヨーロッパへの到達は八世紀頃とされているが、実際はもっと早い
  現行チェスの成立は1470~1490 スペインかイタリアで成立
従来のチェス史研究は、“状況証拠”を活用してない、文献史料にのみ頼っている、と六・七世紀日本到着説に矛盾するからおかしい、と滅多斬。そして、なぜか紹介するチェス史の研究家はイールズ一人。チャトランガの項では増川の著作を引用して5人も紹介しているのだから、同じくらいの説得力は持たせればよいと思うのだが。

第2章 象棋
 第一節 中国に到着
  五、六世紀に中国に到着
  陸路・海路から相次いで同じものが到着
  32個の色わけ立像型と8×8の盤 駒は翻訳され、王・将・象・馬・車・兵→これが日本に伝来
  九世紀前半の「玄怪録」では駒の動きは弱いままで、立像型のままだが、駒の名は中国風に
  タイの改良を受け入れ
 第二節 世界チェス
  十五世紀以前のチェスと象棋は駒の動きがほとんど同じ 世界チェス
  インドで六、七世紀に改良され、各地に伝播、定着
  象棋とチェスは世界チェスに一層の大改良がなされ、現行のものに
  日本将棋のみはこの影響(第二波・第三波)を受けず、のちに持駒使用に改良
   第二波の強い駒の動きの起源を無理にインドに求めなくてもよい アラブで改良されたシャトランジの類いが中国に伝来し、土着化もしくは第一波に影響したとしても良さそう
 第三節 アジア将棋
  現行マックルック(タイ将棋)のビア(歩兵相当)は(1)前に一つ、(2)三段目に並べる、(3)敵陣の三段目で成る、(4)メット(金将相当)に成る、(5)その時ウラ返す、(6)相手の駒を取る時のみナナメ左右に動く(ポーンに同じ)
  (1)~(5)はタイでの改良であり、中国・日本に伝播したが、インド由来ではないので西には伝播せず
  (6)はインド発の改良であり、(6)が伝播する前の段階のものがタイ・中国・日本でプレー アジア将棋
  原将棋を第一波、タイでの改良をタイの波、強い駒の動きを第二波、ポーンのナナメ左右取りを第三波とする
  日本には第二波・第三波が影響せず、中国には第三波が影響しなかった
 第四節 現行象棋
  中国では第一波の到着後、駒の名称のみ中国風に変わり、流行せず
  第二波の強い駒の動きが到着後、流行
  その後、漢字表記の円型木片と交点置きに変化
  ドロー多発の行き詰まりを砲の創作が打開
  ほぼ同時期に兵卒は五枚になり初期配置は四段目に進む
  現行象棋の成立は1050年前後50年の北宋期

第3章
 第一節 立像型の早い到着
  32個の色わけ立像型と8×8の盤が中国語に翻訳されて日本に到着
  到着時期は六、七世紀(600年頃)
  理由1.当時の日本人は賭博好き
  理由2.港から港への伝播
  理由3.象棋と日本将棋の大きな相違
  理由4.日本将棋の銀桂香の弱い動きは原将棋=インドからの第一波が保存されたもの
  理由5.1058年の興福寺駒が持駒使用(ここに至るには多くの改良と変化があり四百年ほどを要する)
 第二節 到着をめぐる諸説
  日本への到着は八世紀もありえるし、五世紀もありえる
  漢字表記の伝来はありえない
  理由1.象棋の漢字表記・円型木片・交点置きは囲碁の強い影響下にその道具を転用したものであり同時変化。その後に日本に伝来したのであれば交点置きも伝来したはず。
  理由2.象棋では象・馬・車の動きが強くなって(インドからの第二波の影響)から漢字表記になったので、それが伝来したのなら、日本将棋の銀桂香の動きはもっと強いはず。
  理由3.象棋が漢字表記になるにはかなりの期間を要している
  将棋の二元発生論はありえない
  日本将棋の原型であるアジア将棋はタイ・中国・日本で共有されており、伝来ルートは東南アジア→中国→日本である
 第三節 遅い到着説の批判
  1.正倉院宝物に将棋(盤)がないことは、八世紀前半の宮中になかったという証拠にしかならず、七世紀以前の到着を否定する根拠にはならない
  2.『和名類聚抄』は漢和辞典であり、将棋がそれにのっていないから日本に将棋がなかったとはいえない
  3.文献にない(漢和辞典に日本の事物(将棋)が登場しない)からなかったという増川の論理は歴史学の研究法になく、出土資料にないからなかったという清水の論理は、考古学の研究法にない
    興福寺駒は日本の駒型であり、1058年にこの段階に至るには十世紀に将棋が伝来したのでは遅すぎる
    日本独自の改良がなされるにはある期間が必要であり、その間、文献・出土資料に将棋が登場しないのは二人の論理に矛盾する
  4.到着後百年で興福寺駒という想定は無理
    日本型の駒型、かつ平安将棋の改良型の醉象という日本で創作された駒もあり、到着後百年で興福寺駒に達するのは不可能

  a.十世紀後半には世界中で動きの強い世界チェスが流行していた
  b.1058年の興福寺駒はすでに持駒使用であり、伝来から100年で持駒使用に至るのは不可能、二百年でも難しい
 要は1058年の興福寺駒が持駒使用で現在の駒と同じ形をしているのだから、八世紀には当然将棋はあったし、600年ごろに原型となるものが伝来したに違いない、という主張。十一世紀半ばの出土資料が七世紀初頭の日本への将棋の到着を保障しており、興福寺駒以前の史料の有無は関係ない、批判はお門違いというわけだ。この主張を覆すのは不可能と思う。仮に今後10世紀に旧型の駒が出土したとしても、「古い型と並存していたに違いない」と木村は反論すればよいし、980年に将棋の原型が伝来したという文献史料が発見されたとしても、「80年足らずではこれほどの改良は不可能だから、その文書は疑わしい」と木村は言うのではないか。

  増川はマックルックのビアのウラ返しを見落としたままであり、タイの波に気づけば、早い到着の想定は当然
  タイの波を見落としたままの遅い到着説はすべてが誤り

第四章 平安将棋
 第一節 立像型から駒型へ
  第一波の到着後、日本で行われた改良
  1.(日本的駒名)立像型のものに玉将・金将・銀将・桂馬・香車・歩兵と名づけた
  2.(タイの波)歩兵の初期配置三段目と敵陣三段目での成
  3.タイの波により歩兵は扁平木片になり、ウラオモテ識別、敵味方識別のために先端のトンガリができた
  4.歩兵以外の駒の漢字表記=駒型
  5.金将が二枚に 銀将より上位なので現行の動きに改良された
  6.銀桂香も歩と同様にウラ返し成が可能に
  以上で平安将棋の完成  730~870年
  日本駒型化により立像型の強い駒の動きの影響を拒絶した
  漢字表記の象棋は第二波の影響を受けているが、日本将棋は受けていないので、漢字表記は日本の方が早かった
第二波は日本に到達しなかったとする見解も成立するだろう
 第二節 異議の多い平安将棋
  平安将棋において
  1.香車の動きは飛車だった、2.桂馬は八方桂であった、という主張は『二中歴』の記述から否定
  3.飛車・角行が加わっていたという主張は平安大将棋に飛車がなく、角行と同じ動きの飛龍があることにより、否定
  平安大将棋は「十三間で玉将は中に住す」とあるから金将は二枚であり、平安将棋もこれと同様であり、既に9×9盤に金将は二枚であった
 第三節 平安大将棋
  『二中歴』に記されている将棋(平安将棋)と大将棋(平安大将棋)は興福寺駒(1058年)より先行(『二中歴』の成立年代は十二世紀とされているが、将棋の項の原史料は十一世紀かそれ以前に存在する)
  平安大将棋は平安将棋の上級者のために850-950年に創作された世界最初のビッグチェス
   「新猿楽記」や興福寺駒の時代には平安大将棋は衰退していたとも考えうる
第五章 持駒使用
 第一節 敵味方同型の駒型
  持駒使用は日本の駒型化のあとに発生
  銀桂歩のウラの金字が楷書から草書に書き分けられているので、1058年の興福寺駒はすでに持駒使用
  持駒使用の発生は950-1050年
  主流は36枚制であり、醉象の加わった38枚制は支流
 第二節 一三〇枚制大将棋
  持駒使用の平安将棋(1000年頃~)と平安大将棋(900年頃~)は並行して流行していた
  平安大将棋は手詰まりから大将棋へと改良される(1150年頃~)
  大将棋はあまりに複雑なため中将棋(1250年頃~)が創作される
  同時期に持駒使用の平安将棋は飛車・角行を加え現行将棋となる
  醉象つきの平安将棋は持駒使用、飛車・角行を加えたのち消滅した
 第三節 中将棋
  1200~1300年に大将棋を縮小させた中将棋が創作される
  中将棋は流行したが、主流は同時期に創作された現行将棋だった
  鎌倉期に創作された大大将棋・摩訶大大将棋・泰将棋は机上のもので流行はなかった
第六章 現行将棋
 第一節 飛車角行プラス
  現行将棋の成立は1200-1300年 従来の戦国期とする見解は誤り 鎌倉期が正しい
  南北朝期の「異制庭訓往来」に詰将棋についての記述がある
 第二節 小結
  まとめ(p.264-271)
   ここまでのまとめになっており、説を知るにはここだけ読めば十分

附論
 第一節 室町期の流行
  室町期の将棋の主流は現行将棋であり中将棋ではない
  増川が公卿日記中の“将棋”を中将棋と解釈するのは誤り “将棋”は現行将棋を指す
 第二節 慣習としてのルール
  行き所のない駒の禁止は宗古の創作
  二歩の禁止は持駒使用(1000年頃)の後しばらくして成立
  打ち歩詰の禁は雑兵が旧主を討つは無礼なりという社会通念からルール化
 第三節 将棋所と名人

日本将棋成立についての読書とメモ(2)

2006-10-14 07:38:09 | 将棋

増川宏一『将棋の駒はなぜ40枚か』(2000 集英社新書)

第一章 日本将棋の起源
 一 最古の将棋駒
  興福寺駒の出土(1993)
   1058年
   駒形はすでの現在の形
   醉象
   之金・金也
  大宰府木簡(1996)
   十一世紀末
   (将)桂馬香車歩兵

  文献資料
  伝藤原明衡著『新猿楽記』(1058-a.1064) 
  源師時『長秋記』大治四年(1129)五月二十日
  藤原頼長『台記』康治元年(1142)九月十二日
  『健寿御前日記』寿永二年(1183)
  「神護寺旧記」元暦二年(1185)碁・双六・将棋の禁令
  藤原定家『明月記』
  
  『倭名類聚抄』十世紀前半に成立 “囲碁・雙六は記されているが、将棋は記されていない。”
   ↓
   “当時はまだ将棋は知られていなかった、すなわち伝来していなかったと考えられる。”

 二 伝来期の誤認(一)
  六世紀伝来説への批判
   物的史料の欠如(六世紀の将棋駒は出土していない)
   中国史書の根拠の薄弱さ
    (『隋書』倭国 「囲碁・握槊・樗蒲の戯を好む」の引用
      中国将棋や日本の将棋の記述はないが伝来の可能性がある)以下( )内は木村義徳の主張、< >内は持駒使用の謎での木村義徳の再反論
     <再反論 記述されていないからといって存在しないとは限らない>
   正倉院宝物には碁盤・雙六盤はあるが将棋盤がない
    (将棋盤には天皇に献上するような高級品がなかったが、将棋はあった)
     <再反論 高級品がなかった証となるだけで、庶民には流行していた>
   『倭名類聚抄』に将棋が記されていない
     <再反論 百科事典ではなく漢和辞典である。将棋は日本独自のものとして存在した>
   チェスに関する英文参考文献の古さ
     <再反論 不案内なので特にない>

 三 伝来期の誤認(二)
   世界チェスが日本に伝播した?
     <再反論 増川の曲解 日本に世界チェスは伝来していない チェス・象棋の前身を世界チェスと称する>
   チェスと将棋は違う
     <再反論 同上>

日本将棋成立についての読書とメモ(1)

2006-10-14 07:31:29 | 将棋
すべて2年前に読んだ時にメモを取ったもの。当時はノートPCを持ち歩かず、USBメモリを持ち歩いていた。ネット上に移すのは自分がどこからでも見られるから。中の感想その他はすべて当時思ったこと。

増川宏一『将棋』(1977 法政大学出版局)

Ⅰ 将棋の起源

 1.将棋の創成伝説
 日本の将棋創成伝説に類似したものはインドや東南アジアにはあるが中国にない
 伝説については南方系の民話に属し、仏教流布のためのたとえ話として使われてきたのではないか

 2.将棋の起源の研究
 ギリシア起源説の紹介
 エジプト起源説の紹介
 インド起源説
 原始将棋(四人制さいころ将棋)の発見
 四人制→二人制 ☆
 将棋創成の時期 6.将棋の伝播に後述

 3.競争ゲームから将棋へ

 4.最古の将棋チャトランガ
 盤は8×8の六十四枡 駒は(王・象・馬・車・歩×4)が4セット
 駒の動き(歩=ポーン、車=2つずつ、馬=桂馬、象=角行・ビショップ、王=全方向に1枡=玉)
 取り捨て・成・点数制 賭博
 車→舟

 5.二人制将棋への発展
 改良の必要性(さいころの空振り、駒の動き)
 駒の進行方向を修正→チャトラング・リツ
 連合した組の駒の進行方向を同じにする→二人制チャトランガの誕生
 さいころの廃業
 二人制への移行により二王→一王・一将(女王・金将の原型)

 6.将棋の伝播
 バールフート彫刻の作製年代の諸説を総合して、四人制チャトランガの発生の下限を紀元前三世紀と断定 ☆
 二世紀ごろまでが四人制チャトランガの全盛期で、その後二人制さいころ付、二人制さいころなしが相次いで出現する
 二人制将棋が記録にあらわれるのは六世紀
 チャトランガ(インド→ペルシア)・ナルド(ペルシア・インド)の伝播伝説
 この伝説はササン朝クスラウ一世(在位531-579)に書かれたので伝播はこれより早い

Ⅱ アジアの将棋
 1.中国の将棋
 象棋=弾棊や六博の駒
 北周武帝の庾信『象戯賦』の象戯はナルドと推測
 『人民中国』1975年3月の晩唐には象棋があったとする記述を紹介
 出土した漢代の三人象棋盤には疑問を呈する
 (炮の駒の存在←漢代に火砲が存在するか? あるいは他の兵器を表したものか)
 『玄怪録』と『古局象棋図』の紹介
 李清照(1084-1151)の『打馬図経序』の図から、中国将棋は宋代に完成したと推定

 2.朝鮮の将棋
 周書『百済伝』囲碁がもっとも重んじられている
 隋書『百済伝』囲碁や双六が盛んである

 3.ビルマの将棋
 シットイン
 古代インドから直接の伝播
 駒の動き(大王=王、司令官=斜め四方1枡、象=銀、馬=ナイト、車=飛車、歩=ポーン)

 4.タイの将棋
 四人制さいころ→二人制は紀元前360年頃と伝承
 駒の動き(王、貴族=斜め四方1枡、象=銀・古代には角、馬=ナイト、舟=飛車、歩=ポーン)

 5.その他のアジア諸国の将棋
 欧米の支配をうけて以来将棋のルールに変化があらわれている

 6.日本将棋とアジアの将棋との比較
 中国・朝鮮の将棋との比較
  共通点 平面的な駒 書き文字による駒の識別
  相違点 路に置くか枡に置くか 河の有無 城内の有無
  中国将棋もしくはその原型が日本へ伝播したとする説は採らない

 東南アジアの将棋との比較
  相違点 駒は立体的か平面的か 駒の識別は形状によるか字によるか
  共通点 駒の名称 平安将棋の“王”将・金“将”・銀“将”(象)・桂“馬”・香“車”は南方系と共通する 金・銀・桂・香は珍宝

 7.日本への伝来
 東南アジアからの海のシルク・ロードによる伝播を推測
 伝来の時期(かなり早い時期)

“ここまでの感想”
平面化された将棋が南方から伝播した可能性は低い(共通点の多い東南アジアに残っていないから)
南方系の将棋の伝播後、漢字の普及が相まって、平面化=文字による駒の識別がなされたのではないか。漢字のことを考えれば、字による識別の考案は富裕階級でなければできない。逆をいけば平面化は庶民→識字階級の浸透後と思う。もちろん平面化が成された際に動きを駒に記してもよいが、その場合は、名称と動きのばらつきが伴うおそれがある。
持駒使用の前提となる脱色=駒の五角形化(字の向きで敵味方が識別できるので必要ないとも言える)はいつか。平面化と同時か、それより後か。持駒使用の発生は十五世紀以降か、小将棋の発生、醉象の退場を考慮すれば、いずれにせよ遅いのであまり考えないことにする

III 日本の将棋
 1.古代日本の盤上遊戯
 藤原行成(1056没)の『麒麟抄』に将棋の駒の字の書き方についての記述がある
 (平面化完了・成有・飛車角行はない)
 伝藤原明衡著『新猿楽記』(1058-a.1064) 「…、囲碁、双六、将棋、弾碁、…」
 『二中暦』(1120年代成立)   (まだ金将1枚、8×8盤の可能性)

  平安将棋
  ↓
  大将棋・平安将棋
  ↓
  大将棋・中将棋・平安将棋
  ↓
  泰将棋・大将棋・中将棋・平安将棋・天竺大将棋・大大将棋・摩訶大大将棋

  平安将棋→日本将棋か小将棋→日本将棋か小将棋→醉象つき→日本将棋

  駒数の変遷
  1120年代(36枚)→1350年代(36枚以上)→1560年代(42枚の存在)→1587年(40枚)

 以降は日本将棋の成立が主題ではないので、割愛。『将棋II』も同様。

大正九年東京朝日新聞第29局

2006-10-14 07:18:39 | 棋譜
開始日時:1920/06/30
棋戦:その他の棋戦
戦型:三間飛車
手合割:香落ち 
下手:村越為吉
上手:金易二郎

場所:東京市京橋区新富町「小松将棋所」
*放映日:1920/06/30-07/04
*棋戦詳細:(東朝)高段勝継特選将棋
*「村越為吉六段」vs「金易二郎七段」
△3四歩 ▲7六歩 △4四歩 ▲2六歩 △3五歩 ▲2五歩
△3三角 ▲1六歩 △3二飛 ▲1五歩 △6二玉 ▲4八銀
△7二玉 ▲6八玉 △4二銀 ▲7八玉 △4三銀 ▲5八金右
△5二金左 ▲9六歩 △9四歩 ▲4六歩 △3四銀 ▲4七銀
△8二玉 ▲5六銀 △7二銀 ▲2六飛 △5四歩 ▲3六歩
△同 歩 ▲同 飛 △3五歩 ▲2六飛 △6四歩 ▲4五歩
△4二飛 ▲4四歩 △同 角 ▲同 角 △同 飛 ▲4六歩
△3三角 ▲8八銀 △3六歩 ▲同 飛 △2五銀 ▲3五飛
△2四飛 ▲8五飛 △5五歩 ▲4五銀 △4四歩 ▲5四銀
△3四銀 ▲2五歩 △同 飛 ▲1六角 △3五飛 ▲3七歩
△4五歩 ▲同 銀 △同 銀 ▲同 歩 △5六歩 ▲4六銀
△1五飛 ▲1七香 △1六飛 ▲同 香 △2四角打 ▲2六飛
△7四銀 ▲8六飛 △8八角成 ▲同 玉 △8五銀打 ▲同 飛
△同 銀 ▲3五銀打 △3九飛 ▲7八角 △4七歩 ▲2四銀
△同 歩 ▲同 飛 △3三桂 ▲2二飛成 △7六銀 ▲2一角
△4八歩成 ▲同 金 △6七銀不成▲2八龍 △7八銀成 ▲同 金
△6九飛成 ▲5八銀 △3九角 ▲3八龍 △4八角成 ▲同 龍
△2九龍 ▲7六角成 △6五金 ▲7七馬 △7六桂 ▲9八玉
△9五歩 ▲6九歩 △9六歩 ▲9五歩 △9七銀 ▲同 桂
△同歩成 ▲同 玉 △8五桂 ▲8六玉 △7七桂成 ▲同 金
△7五角 ▲9六玉 △5七歩成 ▲同 龍 △同角成 ▲同銀引
△7九飛 ▲9四桂 △同 香 ▲同 歩 △9九飛成 ▲9七香
△9五歩 ▲8六玉 △7四桂 ▲9五玉 △9七龍
まで137手で上手の勝ち
棋譜貼り用のブログを週明けから稼動させている。概ね順調。

左耳の上の付け根が切れる

2006-10-14 07:15:10 | 雑記
原因がわからない。
春と秋にしかならないので、体調のせいではないと思う。
妹がアトピー+喘息を患っていたこともあり、自分にもややその気がある。原因不明のアレルギー性鼻炎を疑ったこともあるし、風邪がひどくなって医者に言ったら喘息ですかと言われたこともある。何かのアレルギーなのだろう。一昨年から軽い花粉症を自覚(薬を使うようになったけど今年は軽く済んだ。気にしていなかっただけでもっと前からなっていたようだ。)しているので、これの一症状なのかなあとは思うが、ブタクサその他、秋の抗原は見つかっていない。食べ物だったら嫌だが、これも季節にかかわりなくなっていいはずだから、除外しておく。来年春、症状がひどいようだったら、医者に聞いてみよう。