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書き逃げアンドロイド。

副交感神経が優位になるような写真が好き。

伊藤 益(いとう すすむ) 筑波大学

2022年06月09日 11時57分41秒 | 意識論関連

伊藤は「利他こそがヒトの最も幸福だ」と述べたが

実際には利己的欲望にまみれた者の方が圧倒的に多く また 社会的にも有利な立場に立てるため 淘汰圧力的としては利己的であることの方が遺伝子が拡がりやすいのである

 

評価承認欲求というのは 元々は子供が親から評価承認してもらうことに対する脳への報酬によるものであり

子供の幼稚な「甘え」が血縁続柄を超えて社会に対して発揮されているのが評価承認欲求中毒である

評価承認欲求中毒になると 他人との比較における自己の優位性だけが価値になってしまい 他人を蹴落としてでも 騙してでも自分が利己的に優位に立つことだけが自己存在価値の全てになってしまうのである

ヒトはそもそも集団統率的協調性によって過酷な自然環境下を生き抜き ヒト同士での環境資源の奪い合い競争にも勝ち抜いた者だけが遺伝子を遺しているのであり

先天的に動物的な「社会性」として 封建的序列順位に基づく統率協調性を発揮することが「脳への報酬」として働くように「進化」しているのである

集団内部で群れの長や多数から評価承認されることを「常識(正解データ)」として学習し 群れの内部での序列競争によって自分が優位に立つことばかりを優先するようになることで ヒトは自分よりも順位序列が下とみなした相手を蔑み 暴力的な行動もできるようになるのである

サルの集団では 小さな子供は大人達からは邪魔扱いされる

サルに利他の概念などないからだ

それはヒトも同じで 自分達の属する集団組織の利益ばかりを優先することで 自律的な社会的責任を負わなくなるものなのである

東京電力福島第一原子力発電所事故においても 日本大学の組織腐敗においても 他の様々な名だたる大企業における不祥事においても 組織内部での出世競争や保身ばかりが優先し 社会的責任判断をしなくなるのがヒトという種の普遍的習性というものである

 

だが 自分から主体的に「生きて」いる人にとっては 自分が純粋に楽しめるためには社会安全性や公平性も必要となるからこそ 利他的行動もできるようになるのであって

他人との比較競争に依らない純粋な個人的楽しみの有無が 利他的行動の有無とも相関が見られるのである

加藤英明がトカゲ探しに夢中になるのは あくまで個人的で純粋な好奇心に因るものであり 他人との比較競争には何の興味もないからこそ 環境保全活動にも積極的に参加するのである

「撮り鉄」が迷惑行為をするのは 他人よりも作品に対する世間的評価ばかりを求めているからであって 純粋に写真が撮りたいわけではないからだ

サッカーチームのサポーターに無責任なフーリガンが出てくるのも 野球ファンが選手に対して誹謗中傷をするのも 純粋に試合を楽しんでいるのではなく 順位成績評価だけでしか選手達を見ていないからである

自分が無能で評価されない代わりに 応援している選手やチームの成績評価ばかりを求め 試合成績が悪いことに対して理不尽な怒りをぶつけて満足しようとするからである

評価承認欲求中毒者というのは 他人を蹴落とすことで自分が優位に立つことしか頭にないのであり 利他なんぞに興味は一切なくなる

 

他人からの評価や承認なんぞなくても 純粋に楽しいと思えることがあれば その楽しさを他人や次世代の子供達にも受け継ぎたいとも思えるようにもなる

「自分のことを大切にできない人は 他人も大切にできない」ものなのである

伊藤益は「究極的には自分がなくなる」などと言っていたが これは間違いである

まず自分が純粋に生きていてい楽しいと思えるからこそ 他人への配慮にも意識が働くのであって 「滅私奉公」的な観念は特攻隊のような偏った倒錯にも陥る危険性が排除できない

オウム真理教が地下鉄毒ガステロを実行したのも 「人類の救済」を目的として教祖に対する盲目的信頼によって「滅私奉公」したからであり 

真理真実を見極める「自己」なくして本当の利他はあり得ないのである

特攻隊は主観的には「お国の為」だと思っていたものの それが根拠のない倒錯であることには気づくことができず 盲目的に権威に服従したからこそ 終戦後には「荒れた」のであり 自分で選んでいなかったからこそ 報復的に他人世間へと「荒れた」のである

「自己中心的な者に 自己はない」といわれるが 一見自己矛盾的なこの話は 「身勝手で利己的な者は 本質的な自己としての意識がない」ことを意味するのである

ヒトは 他人から評価されたり 他人と比較して優位な立場に立てれば快楽を感じるものである

だからこそ ヒトは他人を蹴落とし 利己的利益ばかりを求めるようにもなるのである

だが 他人を蹴落とし利己的利益ばかりを追求している自分の姿を客観的に見ることができれば そんな自分を肯定することが出来ずに自己嫌悪に陥り その自己嫌悪を見ないようにするため 「なかったこと」にするために むしろ利己的利益追求や他人の蹴落としにばかり邁進するようになるのである

「それしか快楽(脳への報酬)が感じられない」からである

純粋に楽しめることによって脳内麻薬の自給自足ができていれば 自ずと自然に利他的行動や他人への迷惑への配慮も働くようになるのであって 自己客観性というものは主体的に自己存在を肯定できる純粋な楽しみを感じられる自己なくしては発揮されることはないのである

 

 

評価承認欲求は自己肯定感のない行動を促し その自己嫌悪感から益々ヒトは迷惑行為に邁進するようにもなるものである

元暴走族だった人が 洋菓子作りに楽しみを見つけてケーキ職人になることで更生した例もある

洋菓子作りを楽しみ 続けるためには 他人への迷惑にも配慮しなければ続けることは出来ないのであって むしろ洋菓子を購入してくれる顧客達のために洋菓子を作ることにこそ喜びを感じられるようにもなるのである

自分が大切にできるものがあるからこそ 他人への配慮(利他)も働くようになるのである

 

 

 

Ende;


山極寿一

2022年06月09日 10時59分11秒 | 意識論関連

「社会力」だの「同調」や「共鳴」といったものは 「大きな力」を発揮するものではある

しかし その「大きな力」というものを欲望のままに利用し 地球環境資源を喰い尽くす程に異常繁殖している事実を無視し 「繁栄」などと形容して正当化しているのは 現実を直視しておらず はぐらかしやごまかしにしかなっていない

ヒトが持つ「社会性」というものは 統率的協調性を発揮することで安心感や満足感を得られるが故にラグビーなどのスポーツ競技においてチームの強い結束を作ることもできるが

その一方で 武力攻撃における残虐性や 振り込め詐欺や暴力団の封建的順位序列による統率やヘイトスピーチのような差別も作り出すものでもあり

一面的効用だけを採り上げて生物学的な「社会性」というものを全面的に正当化しようとするのは客観性を欠いた大衆迎合にしかなっていない

 

生物学者や脳科学者共というのは 将棋の成績だけで知能だと主張し スポーツの成績だけで「社会性」などと主張しており 芸術や将棋やスポーツといったものは所詮遊興であって その成績や人気の「数」だけで人間としての優位性の論拠には全く当てはまらない

衆愚は哲学というものを あたかも「読んで主観的に気分が良くなるもの」「主観的悩みが解決するもの」であるかのように錯覚しているが これもまた主観という無意識が優先しており 科学や哲学というものが論理客観的真理の探求であることを忘れ 身勝手なこじつけばかりを鵜呑みにして真実を見誤っていることに誰も気づかないのである

将棋でいくら「直感(主観)」が有効であることを論証しても それは所詮将棋というゲーム上での特殊な能力に過ぎず 応用性や汎用性は何もないのである

スポーツ競技において チーム内での統率的協調性を発揮し 「仲間意識(無意識・情動)」をいくら満足させても それは所詮主観的満足以上の何ももたらすことはないのである

「心を一つ」などと言えば衆愚大衆は人間性か何かだと勝手に妄想して満足感を得てしまうのであろうが ミャンマー軍やロシア軍による残虐行為も 少数民族による反政府テロも 香港民主化勢力に便乗した暴動も その行動において「心を一つ」にしているという勝手な仲間意識による主観的安心感が暴力破壊を正当化できているという倒錯であり あらゆる組織的暴力には「心を一つ」にするための盲目性が働いているのである

スポーツ競技であれば 盲目的に競技に勝つことだけを考えていれば良いが それは「勝ちたい」という欲望を満たすためだけの「遊興」であって むしろヒトの暴力性をゲームという遊興によって解消満足させるためのものであって 生物学上の「社会性」という統率協調性というものは 所詮主観的欲望を満足させるためのものに過ぎない

フォートナイトのような殺人ゲームに人気があるのも ヒトは統率協調的に殺し合いをすることで 仲間同士の連帯や仲間意識を満足させることが快楽だからである

山極寿一のような生物学者共は ヒトの統率的協調性による「大きな力」というものが あたかも自然界においては他の生物との生存競争だけに用いられているかのように言っているが 実際にはヒト同士での環境資源の奪い合い競争も多く 文明から隔絶された少数民族における紛争での死亡率は年間1%に達するという

1%というと 大したことではないかのような感覚を持ってしまうかも知れないが 平均寿命を50年と仮定した場合には 2人に1人は紛争で死んでいることになるのである

例えば100人の部族の中で 毎年1人ずつ他の部族に殺害されていれば それは他の部族に対する猜疑心や報復の連鎖は止められなくなるだろう

 

日本大学における組織腐敗の傍観放置も その内部においては「心を一つ」にする仲間意識が働いていたからこそであり 「社会にバレなきゃ組織腐敗でも構わない」という身勝手な観念があったからこそ誰も組織腐敗に対して異議を唱えなかったのである

民族主義者が同一民族だけで「心を一つ」に他の民族を差別排除するのも 仲間意識に対する安心が中毒的に暴走するからであり 他の集団を攻撃している間は仲間同士での共感共鳴同調による快楽安心感が得られることへの中毒症状として 非合理な差別への暴走を引き起こすのである

個人的な主観として 他の民族や文化に対する嫌悪感がある場合もあり ドイツ人は日本人が「鼻をすする」ことへの嫌悪感を持っているのだという

日本人であれば「鼻をすする」ことは別に何とも思わないものだが ドイツ人の文化としてはタブーとされているのである

とは言え たとえドイツ人であっても日本に移住して暮らしていれば慣れてしまい 何とも思わなくなるようにもなるものである

東南アジアのどこかの国では 「Vサインが良くない」という話も聞いたことがある

文化や風習というものは 主観的安心感を醸成すると同時に それにそぐわないものに対する観念的嫌悪感をも作り出すものでもある

主観的嫌悪感というものは人それぞれであり 個人的なものに過ぎず 社会的にはどうでも良い話に過ぎない

私は個人的にハゲオヤジ同士で仲良くしていることに対して嫌悪感を持ってしまい 若い女性同士が仲良くしているのは逆に素敵だなと思ってしまうが 同性カップルであることに違いはなく 社会的差別の対象にすべきではないことは理解しており どのみち個人的好き嫌いの範疇の話に過ぎないものを社会的行動とは切り離す理性が必要である

ヒトは所詮親子であっても別人であり 理論的には「他人の気持ちは本当はわからない(又吉直樹)」ものなのである

「心を一つ」にしたがるのは その方が気分的に安心満足感が得られるヒトの先天的「社会性」によって促されるバイアスに過ぎず より大きな集団に属していることに対する主観的安心感欲しさにヒトは「心を一つ」にしておきたいという先天的欲求を持っているものではあるが だからといって合理性のない差別排除や暴力による協調性までをも正当化することはできないのである

ヒトは「欲望そのものを欲することはできない」のであって 様々な欲望の中から最も合理的で 自己が存続するに価する社会の理想に基づいた行動選択をすること「は」不可能ではない

自分が暴力や差別を受けたくないのであれば 自分も他人に対して暴力や差別をしないようにするのが人間性である

「歯には歯を 目には目を」という報復主義は ヒトの先天的な欲望であって 報復の応酬には何の合理性もないことは歴史を見ればわかることである

本当に合理性があるかどうかが重要なのであって 歴史の中から報復の応酬をどんなに大量に抽出枚挙してきても 報復の応酬が合理的で正当性があることの論証には全くならない

ヒトは主観的気分が安心満足することを 短絡的に合理性だと錯覚する性質があり

心理学においても「気分的に都合の良い解釈」のことを「合理化」などと形容している程である

気分が良くなることが合理的であることの論証にはならない

そもそも「気分が良くなる」かどうかは選択不可能な先天的な脳の構造に由来するものであり 「欲望そのものを欲することはできない」範疇のものである

通り魔が暴力を振るうのは 暴力を振るうと満足感があるからであって その満足感そのものは選択不可能で「欲することができない」ものである

ヒトの祖先がかつての生息環境において 「暴力で解決」しておいた方が生存にとって有利に働いた結果として 「暴力で解決」したがる習性を持った遺伝子の方が拡がりやすかったという結果でしかない

通り魔を死刑にして満足するのも 結局は同じ情動による満足感が優先しているからであり 「なぜ通り魔などという非合理で意味のない行動を採るようなバカになったのか」についての原因究明にも再発防止にも全くならないのである

「本当は他人の気持ちはわからない」とか

「通り魔を死刑にしただけでは通り魔の再発防止にはならない」といった話は大衆にはウケが良くない

ヒトは「他人の気持ちはわかっているはずだ」と信じておきたいからであり 「通り魔や死刑にしておけば安心」だからである

これらは全て情動であり 先天的な欲望によるバイアス(偏り)である

ヒトは所詮動物である以上 その行動バイアスは他の野生動物とさしたる違いなどなく 合理性のないバカげた行動であっても主観的安心感や満足感が優先し 非合理な行動選択をしてしまいがちなものなのである

「意識の9割は無意識」とは 要するに欲望や感情が意識のほとんどを決定してしまっていて 論理客観的合理性に基づいた行動判断選択は1割にも満たないことを意味するのである

欲望や情動そのものは欲することも 選ぶこともできないが ヒトは欲望や情動だけでしか行動選択ができないわけではなく 自分の頭で考えて 本当に最も重要で優先すべきものが何なのかを選択することは不可能ではない

不可能ではないが 主観的には「やりたくない」だけのことである

それが精神的怠惰というものである

ヒトは生物学上の「社会性」を発揮して 「心を一つ」に多数派に同調し 権威肩書の主張を安心して鵜呑みにしておいた方が満足感が得られるものである

その「満足感」こそが 「欲望」によるものであることを 多くのヒトは自覚認識していないようである

自分の主観的満足安心感は一度棚上げにしておいて 本当に大切な社会安全性や公平性にとって重要な選択とは何かを 自分の頭で考えないからバカになるのである

 

生物学的な「社会性」を発揮しておいた方が気分的には安心満足感が得られるものではあるが 人間としての「社会性」すなはち自律的な社会的責任判断選択というものは 必ずしも主観的安心満足感が伴うとは限らないものでもある

腐敗した組織の内部において 組織の利益に適わぬ行動選択をすることは決して安心満足感など得られず 差別排除の対象にされて身の危険に及ぶ可能性も充分にある

生物学的な「社会性」は「大きな力」を持っているが故に その「大きな力」に対して個人は無力感を感じ 安易に絶望して多数派に同調迎合忖度服従しておいた方が 主観的には安心満足感が得られるのであろう

学校でのイジメにおいては 8割の生徒が傍観者だと言われているのも 主観的に「怖い」相手には逆らいたくないからである

フリードリヒ:ニーチェは「できそうにないことは やらない方が良い」と言ったが 「できそう」かどうかは個人の主観的印象であって 「イジメに逆らうことができそうか できそうにないか」は「やらなくて良い」ことの正当性の論証には全くならない

山極寿一は京大学長時代に松沢哲郎を支持した立場であり 11億もの研究費不正流用の責任の一端もあるはずで そもそも「ヒトには先天的に人間性があるはずだ」などという論理客観的根拠のないデマで大衆人気を集めた上に その一方では「安倍政権はゴリラと一緒で忖度だらけ」などという支離滅裂なことを言い出すバカである

ヒトにもゴリラにも見られる普遍的習性としての「忖度」が 一体人間性の論証なのか それとも卑怯で身勝手な行動なのか 言っている内容に整合性がなく その場限りの無責任な発言であることに 大衆マスコミは全く頓着がないのである

ヒトの大半は 権威の主張に論理整合性があるかどうかには何の興味もなく ただ権威肩書の言っていることを盲目的に鵜呑みにして信じておけば主観的無意識に安心満足しているだけなのである

その意味においては「自由意志などない」とは言えるのである

自由意志がないからバカなのであり

バカだから自由意志がないのである

 

 

 ◇

踊りを踊ることがメスに対する「生存の余裕」の表現になるという見解があるが

ロクロクビオトシブミの配偶者選択が働くのは 非合理な形質であっても天敵に食い尽くされない環境ありきの結果でしかない

オスがメスの気を引くための行動が 結果的に生存の余裕による産物であるとしても それはあくまで余裕が持てるだけの環境下における結果に過ぎず そもそもメスがオスの繁殖行動に「酔う」のはメスの主観であって 欲望という主観そのものは選ぶことができず 合理性も必要はない

無駄な配偶者選択をするようなメスの遺伝子は その生息環境において生存価において余裕がなければ拡がらず 死滅するだけである

たまたま生息環境に余裕があって 合理性のない意味不明な繁殖行動として踊りをを踊るオスをメスが選択しても死なずに死滅しなければ生物として現存可能となっているだけの話に過ぎない

繁殖における様々な踊りの類いは 別にメスが合理的に何かを考えてオスを選択しているわけではなく 偶発的に踊りを踊るようなオスに脳が酔っ払うメスでも環境淘汰圧力が弱ければ死滅せずに遺伝子が拡がっただけの話に過ぎない

ヒトの女性が「吊橋効果」によって 暴力的な男に対する性的興奮をしてしまい 結果的にDV男との間に子供を作って社会的負担にもなってしまうのも 「合理的意味」などどこにもないのである

祖先の生息環境においては 暴力性が高い方が生き残りやすかったのかも知れないが その結果として女性が暴力性の強い男を選びがちなのも 所詮は「結果」であって 合理的な「目的」があるわけではない

従って 「踊りが余裕の表現」だという見解は 遺伝的進化の結果に対して後からこじつけた屁理屈に過ぎない

遺伝的進化に対して後からいくらでも理由をこじつけることは簡単であり 「○○のために進化を選んだ」といった説明の全ては生物学者共による遺伝的進化に対する「典型的な間違い」であり 後からこじつけた根拠のない屁理屈でしかない

 

光のない洞窟に適応すれば 眼が退化することもあれば 生息環境が安定していて淘汰圧力がほとんどかからなければシーラカンスやオウムガイのように何億年も形質がほとんど変わらない生物もいるのである

配偶者選択によって意味のない形質や習性が見られるとしても そこに合理的意味が必ず存在する必要性はなく あくまで生息環境に適応して「繁殖の継続」さえしていれば 単に「メスの脳が酔う」配偶相手の選択であっても生物としては成立してしまうのである

ロクロクビオトシブミは他の環境では生息不可能であろう

アズマヤドリやクジャクでも同様なはずである

あくまで生息環境に適応さえしていれば 意味のない形質や習性への収斂進化が起きても生物として存続することは成立するのである

たとえライオンであっても西表島には適応することは出来ず おそらくエサが充分に摂れずにすぐ死んでしまうであろう

大衆観念的には 特定の能力の高さこそが優秀さであるかのような解釈をしたがるが 生物というのは環境に適応できなければ存続できないのであって

どんなにヒトが「繁栄」と称した異常繁殖を正当化しても それが原因で地球環境を破壊している最も大きな要因となっている事実をねじ曲げることはできないのである

ヒトは先天的な動物的「社会性」によって「大きな力」を発揮することが可能とはなったものの その「大きな力」を何に どのように発揮するかを選択することが充分にできておらず 合理性のない環境破壊や殺し合いにばかり発揮していることが問題なのである

環境を破壊する程の「大きな力」があることを いくら自慢されても何の合理性の論証にもならない

大衆観念的には「繁栄したから優秀だ 知的生命体だ 強い存在だ」と勘違いしておけば安心満足なのであろうが

論理客観的には異常繁殖して自滅の一途を辿っている「バカの独りよがり」に過ぎない

「バカの独りよがり」をいくら多数で共有し 共感共鳴して安心満足しても それが論理客観的正当性の論証になるわけではない

 

 

 

Ende;


究極

2022年06月08日 11時41分34秒 | 意識論関連

更科功は自身の考えを「究極の答え」などと称しているが これは更科が自分のことを全知全能の神か何かと倒錯しているからである

ナチスの蛮行は「最終解決」だと信じたからであり 自分達の信じているものが究極絶対的な解答であると錯覚していたからこそ600万ものユダヤ人殺害をも実行できたのである

有限の脳しか持たぬヒトに「究極絶対的答え」なんぞ知覚できるわけがないのだが 断片的には嘘と真実の区別をすること「も」可能ではある

科学や哲学というのは 断片的真理の積み重ねによって より高次の真理へと近づくことができるからこそ 反証主義が重要なのであり 批判精神なしに神だの権威だのプーチンだのヒトラーだの麻原彰晃の言っていることを盲目的に信じ込み 何の疑いも持たなくなるからバカになるのである

何かを絶対的な究極の存在だと信じ込み 何の疑いも持たなければ 衆愚は主観的には安心満足感が得られるのであろう

だが それは「親大人や権威を盲目的に信奉する幼稚な子供の満足(パターナリズム)」でしかないのである

子供のうちは知識も思考も充分ではないために 子供の幼稚な考えで行動しないようにせざるを得ないが 大人になるにつれて知識や思考を磨き 自分で自律的に物事を考え判断する能力を獲得させてゆくことで 社会的にも責任ある行動選択ができる「人間」として育てなくてはならないのだが

いつしか学術権威からの評価承認 学力成績という抽象化された脳への報酬だけに意識を奪われ 自分の頭で物事の真偽を判断する能力を失い 盲目的倒錯による主観的安心満足感ばかりを追求するようになり バカな衆愚へと誘われてしまうのである

「東大生=頭が良い」などという観念が未だに世間では通用してしまうが 地下鉄テロをやらかしたオウム幹部の多くに東大医学部の学生達が含まれていたことや ISIL(イスラム国)の幹部達にも高学歴な者が多かったことからも 学力成績は知能の論証にはならず 認知科学的にも学力は知能の論証にはならないことが立証されているのである

ヒトは 主観的に気分の良い話をしてくれる相手を「頭が良い」と錯覚する習性がある

それは 自分の主観的な直感や印象というものを絶対的なものだと倒錯しているからであり 自身の主観(気分情動)こそが意識の本質だと錯覚しているからである

イヌはエサをくれてやれば 相手が泥棒だろうが殺人犯だろうが服従する

イヌは目先の欲望でしか行動が決定しないからだ

ヒトもまた 権威肩書や多数からの評価承認という「脳への報酬」欲しさにインスタグラムなどのSNSに「虚構の充実」をアップロードすることに中毒になるのも 評価承認欲求という「自意識(本質的な自己の意識とは別物である)」だけに意識を奪われ 本当の自分を見失うことになるのである

ヒトがドイツのナチス政権やロシアのプーチン政権や日本大学の田中英寿体制などの腐敗組織に迎合同調忖度服従してしまうのは 組織内部での評価や優位な序列立場を得ることだけが目的になってしまうからである

軍隊であれば致し方あるまい 民間人を虐殺することを命令してくるようなキチガイ上官の命令に背けば 自分がその場で反逆者として殺される立場であれば 服従して民間人虐殺をするか 自分が上官から殺されるかの究極の2択しかないからだ

だが 日本大学はそうではない 東京電力福島第一原子力発電所でも同じである

自分のことを全知全能の神か何かと倒錯している更科功の話を盲目的に信奉し 何も疑わずに信じ込んでおけば主観的には安心満足感が得られるのであろう

それはもはや科学ではなく 盲目的宗教による洗脳である

洗脳状態のヒトに対し 「お前さんが信じ込んでいる教祖様はイカれているぞ」などと言えば 「いや、そんなことはない。自分は絶対に間違ってなどいない」と頑なに拒絶するであろう

自分が一度信じ込んだ相手や話を否定されると ヒトは反射的に拒絶反応を示すものなのである

認知行動療法では 頭ごなしに「間違っているぞ」などとは言わずに 「どうしてそう思うのですか?」という質問攻めによって あたかも自分の頭で考え自ら気づいたかのように誘導する手法が用いられる

最終的な結論は同じであっても 気分的に悪くないように誘導されれば ヒトは素直に自分の間違いを受け入れること「も」可能ではあるが

こうした認知行動療法的手法というのは あくまで他人からの誘導による認識に過ぎず 自らの頭の悪さには自覚がないため 間違いの全てを他人が誘導してやらないとならず 決して自分から自分の間違いを自覚できるようにはならないのである

衆愚のご機嫌取りをしても 衆愚が衆愚であることを自覚して衆愚ではなくなるようにはならないのである

「お前はバカだぞ」と直接言えば それは嫌われることはわかっている

だが 本論は衆愚から主観的に好かれることが目的ではない

衆愚が自らの頭の悪さを自覚し 衆愚ではなくなるための「出口」を提示しているのである

 

長谷川眞理子は「戦争は個人の暴力とは別物」だと断言したが これには客観的根拠はない

地政学が戦争を予言したことはなく 組織腐敗は日本大学でも東京電力福島第一原子力発電所でも起きたものである

リクルートでも雪印でも東芝でもオリンパスでも長銀でも どこでも起きるのが組織腐敗である

ウクライナの惨状から比べれば 規模だけに着目すれば日大の組織腐敗なんぞ「さざ波」かも知れないが 「一つの大きな事象の陰には 無数の小さな事象が隠れている(ハインリッヒの法則)」のであって 決して事象の規模だけで別物だと決めつけられるようなものではないのである

ロシア人がプーチン政権を盲信していることと 学術権威の主張を盲目的に鵜呑みにしていることは別物だと 衆愚は主観的に「思って」いるのであろうが

ヒトである以上普遍的に同じ間違いを犯す可能性は充分にある

それが主観的 感情的に不安や精神的恐慌をきたすとしても それもまた主観であり 本能的情動による「無意識」に過ぎない

「ヒトの意識の9割は無意識」なのであり 自分の意識の9割が先天的本能習性によって支配されている以上 不安かどうかは真理真実とは関係がない

だからわざわざ論理客観的検証として科学や哲学という分野の社会的存在意義があるのであって 科学や哲学に主観が混入するからオカルトにしかならないのである

オカルトを科学や哲学的真理だと信じ込んでいたら それは間違った結末に陥るのは必然というものである

 

 

 

Ende;


「心に刺さる」ことが真理である論拠にはならない

2022年06月08日 10時17分19秒 | 意識論関連

 

「心に刺さる」だとか言っているが 要は「衆愚が気分的に安心満足している」だけの話に過ぎない

実証不能の謎の「叡智界」であっても「心に刺され」ば満足するのが衆愚であり NHKはそれを「哲学的真理」だと吹聴しているのである

視聴率を稼げばNHK内部での「業績」にはなるのだろうが それが社会的に責任ある内容かどうかは話が別である

警察内部においては違反者や犯罪者を摘発するだけで「業績」として扱われるが それが本当に社会安全性に寄与しているかどうかは全く別の話なのと同じである

 

 

Ende;


疑う余地

2022年06月07日 17時59分03秒 | 意識論関連

生物の活動の多くが、生きることを目的にしたものであることは疑う余地がない。

 更科功

 出典:↗「生きる目的なんてない」進化の観点から考えてたどりついた"究極の答え"

 

 

⇨では なぜ自ら自死を選ぶ人がいるのだろうか?

生き続けるに価しない社会であるならば 生きていても意味がないからである

従って 「疑う余地がない」とは言えないのである

更科はこの文章の直前で

何かに最終的に到達することを目指して「生きている」わけではないのである。

とも言っており 論理整合性がない

主観的感情として「死にたくない」というのも「目的」の理由には全くならない

なぜなら 「死にたくない」と本能的に思う個体種だけが生き残ったという「結果」でしかないからだ

たとえ永遠の命を獲得したとしても ただ漫然と用もなく生きているだけの人生には意味が何もないのである

 

永遠に生きられるわけでもないのに なぜ生き続けるのかと言えば それは「用」があるからだ

その一つは生きていて「楽しい」と思えることがあること

もう一つはその「楽しさ」を次世代の子供達にも受け継ぐために持続可能で安全で公平な社会を求めること

この2つである

前者は個人的な楽しみで 後者は社会的責任の素となる

どうせいつか必ず自分が死ぬことを避けられないにも関わらず 自己の生存にとって有利な行動をいくら選択しても それは社会的責任には結びつかず 生存欲のおもむくままにシーケンシャルに条件反射的に「生きている」だけの存在にしかならない

プーチンなどの独裁者が 権力欲や物質欲にまみれているのは 権力や物質というものが生存価にとって有利に働くからである

「生きる」ことを絶対的な目的にしてしまえば他人を殺すことすら正当化可能となるのである

実際に自然界の野生生物は殺し合いだけで生態系バランスを形成しているのであり カマキリやゴキブリは当然のように共食いをするのである

凶暴だろうが卑怯だろうが 死なずに生き続けさえできれば「生物」として存続可能となる それが「生物」である

結果的に存続し 「繁殖が継続」できていれば「生物」なのである

ハリガネムシのようにカマキリの脳を乗っ取り水に飛び込ませて魚に喰わせようが ロイコクロリデュームのようにカタツムリの脳を乗っ取り樹上に登らせて鳥に喰わせようが 絶滅さえしていなければ「生物」として存続可能であり 存続可能なものを「生物」というのである

カッコウなどの托卵なども 自然界ではそれほど珍しいものではない

ヒトの社会においても 奴隷の労働力を安く買い叩けば 奴隷を使役する側の利益となり 生存価において有利にもなれる

「生存」だけを目的と見なすのであれば 独裁だろうが組織腐敗だろうが不公平だろうが構わないという話になってしまうのである

東京電力福島第一原子力発電所においては 原発の津波に対する脆弱性を放置しておいた方が 社内においては有利であった

日本大学の職員達は 田中英寿理事長による強権的独裁体制に逆らわず 唯々諾々と忖度服従して気に入られようとして組織腐敗を傍観放置した

ロシア軍の若い軍曹は 上官の命令に従わなければ何をされるかわからない恐怖によって 上官の命令に従ってウクライナ市民を殺害した

これらの行動選択を 「生きるためには仕方なかった」と言い切れるであろうか?

「仕方ない」とは 「他に一切の選択可能性が存在していない」状態を指すのである

東京電力の組織体質に逆らえば 会社にいづらくなり 退職して四国で農業でもやらなければならなくなるだろう

田中英寿理事長体制の日本大学では 組織腐敗に異を唱えれば左遷されたり嫌がらせをされたりして大学には居づらくなるだろう

ロシア軍の内部で上官に逆らえば 反逆罪だとみなされその場で銃殺されてもおかしくはないだろう

ロシア軍の内部で 上官による理不尽な市民への危害命令に逆らって銃殺されたとしたら それはそれは「立派」なことかも知れない

ナチスに反逆してスイス山中で自決を余儀なくされたヴァルター:ベンヤミンのように「立派」だと称賛されるだろう

インド独立の際に非暴力を訴え殺害されたマハトマ:ガンディーもまた「立派」だと称賛された

「死ぬことは人生の一大事」ではあるものの 人間としての尊厳を棄ててまで生き続ける意味は 「人間」にはないのである

サルなら尊厳なんぞ要らないだろう

チンパンジーは同族同士で殺し合いをしても 何とも思わない

チンパンジーは目先のことしか興味がないからだ

イヌも同じで 目先のことしか興味がなく 相手が女子小学生なら飛びかかっても怖くないと思えば飛びかかるが 飼い主がいて怒られると思えば飛びかかったりはしないし 餌を見せれば泥棒相手でも服従するようになるものなのである

尊厳というものは 「人間」には必要だが 「ヒト」という種の生物には必ずしも必要はない

残虐行為を平気で行って「業績」とみなす兵隊達にとっては 自律的な社会的責任判断選択など何の興味もなく

暴力団も暴走族も 他人に迷惑をかけることの優越感だけを目的に迷惑行為に邁進するのである

暴力団や暴走族には その内部における順位序列という「プライド」のようなものはあるが これは人間としての尊厳とは真逆の順位序列に基づく不公平な差別でしかない

ライオンのオスが群れを乗っ取り 群れの子供を全て喰い殺すことも「プライド」と呼ぶが ここにも「人間性を伴う尊厳」なんぞありはしないのである

おそらくは 「強い遺伝子が遺る」という「結果」においてはは子殺しは有効性があるのだろうが それはあくまでライオンという生物の結果以上の意味なんぞないのである

怖い相手を「畏れ」忖度し 服従し 尊重することというのは 単に不公平な序列順位を受け入れるだけの卑屈な態度の事後正当化にしかならないのだが こうした「権威」に対する盲目的服従性というものを 衆愚は「尊厳」だと錯覚する習性がある

更科功だの長谷川眞理子だの山極寿一などの生物学権威の主張なら 何でも鵜呑みにし その主張の内容に論理整合性や客観的根拠なんぞなくても短絡的に鵜呑みにし 唯々諾々を信じ込むのが衆愚マスコミの頭の悪さの原因である

11億もの研究費不正流用をやらかした松沢哲郎は 「チンパンジーの行動習性から 人間としての社会性を立証できるかも知れない」などと主張して衆愚マスコミから人気を得たが 一体どんな実験結果が出てくれば「立証」したことになると言うのであろうか

本能習性というものは 遺伝的進化という自然現象の「結果」であって そこに「人間としての社会性」などの「目的」が都合良く組み込まれるメカニズムやプロセスは存在しないのである

ありもしないものを「ある」と言い張るのは オカルト以外のなにものでもない

 

生物には目的はない

死にたくないから生きているだけなら その「死にたくない」という情動そのものが遺伝的進化の結果に過ぎず ただ「生きて」いるだけならゴキブリでもロイコクロリデュームでもハリガネムシでもプーチンでも田中英寿でも何でも構わないのである

どんなに卑劣であろうが 暴力的であろうが 「生きて」いさえすれば「生物」である

プーチンは「生物」としては優秀なのかも知れない 先天的疾患を持って産まれてきた子供と比べれば「生物」としては優秀なのであろう

だが 「人間」として優秀かどうかは話が全く別次元である

生物学者共は「生物」としての優秀さ 優位性しか立証したがらない

理由はわかっている 今まで散々遺伝的進化を万能の願望器のように勘違いし 「目的のために進化を選んだ」などと説明し続けてきた頭の悪さを隠蔽するためである

生物の活動の多くが、生きることを目的にしたものであることは疑う余地がない。

と言ったところで 「生物の活動の多く」をいくら大量に抽出枚挙陳列したところで 人間までもが「生きることを目的にしている」ことの論証にはならないのである

どんなに大量の「結果」を陳列枚挙したところで 「結果」が合理的「目的」であることの論証にはなりえないのである

衆愚は学術権威が「疑う余地がない。」と言い出せば 「ああ 疑う余地なんかないんだな」と盲目的に鵜呑みにする

ヒトとは 先天的にそういうバカなのである

 

 

Ende;


主観的に「信じたくない話」

2022年06月06日 11時55分36秒 | 意識論関連

先天的な行動習性というものは 遺伝的進化における「結果」的なものであって そこに合理的「目的」のようなものが存在しているわけではない

進化そのものが祖先の生息環境における淘汰圧力の結果に過ぎないにも関わらず リチャード:ドーキンスのように あたかも「遺伝子の目的」が存在しているかのような荒唐無稽な「解釈」をするというのは 科学を逸脱したファンタジー妄想にしかならない

 

「進化人類学者だから」と称してゴリラやチンパンジーなどの野獣の殺し合いとヒトの戦争を同列に扱い しかも「ゲーム理論」で戦争を語るというのは不謹慎極まりない

チンパンジーの一種であるボノボは 精神的に不安に陥ると誰彼構わずケツを振って興奮を抑えるのだというが こうした行動はヒトがやったらただの変質者でしかない

痴呆老人がスーパーの店員に怒鳴り散らしている行動に対して 「直接殴ったり殺したりしていないから人間性だ」などという話になど なるわけがないのである

ヘイトスピーチで根拠のない誹謗中傷を怒鳴り散らしていても同じことである

イヌやチンパンジーが統率的協調性を発揮する上においては それなりの認知能力は必要だとは言うものの チンパンジーなど3歳児程度しか知能を持たぬと言われているのであって その程度の知能を人間性や戦争の話に持ち込んで「かなりの認知機能が必要」などと称して人間としての知能と同列に扱うというのは あまりに強引なこじつけであり 自分の専門研究分野だけで全てを説明しようとする傲慢な態度である

イヌ程度の認知能力ですら可能な統率的協調行動は 人間としての知能とは比べるにも値しない程度の認知能力であって

それこそ「真社会性」を発揮するのはハダカデバネズミだの アリやハチなどの昆虫でも発揮可能なシーケンシャルな脳でも可能なものに過ぎないのである

旧来 生物学においては本能習性としての「社会性」というものを短絡的に「人間としての社会性」と混同し あたかも人間性までもが先天的に組み込まれているかのように説明してきたが 野獣の群れの統率協調性というものは むしろ暴力団や振り込め詐欺や残虐な軍事組織ほど発揮されるものであり 日本大学のような学府においても生じる組織腐敗もまたヒトの普遍的な先天的本能習性によるものであることは今更疑う余地などない

山極寿一元京都大学学長や 11億もの研究費不正流用をやらかした松沢哲郎も含め 長谷川眞理子のような生物学権威(肩書)のほぼ全員が遺伝的進化に対する根拠のない合目的的こじつけ論法を展開し 衆愚やマスコミからの人気評価による金儲けを目的としたデマや嘘を展開しているのであり

何の批判精神も持たずに これを傍観放置しているマスコミもまた同罪である

チンパンジーの行動習性をいくら実験室で検証したとしても それらは全て特定環境下における「結果」以上の何も抽出することは出来ない

それならスタンレー:ミルグラムによる服従心理実験もまた「特定環境下における結果に過ぎない」と言うことも可能だが 危険性というものが特定環境下において生ずる可能性は無視しておいて良いものではない

それは 特定環境下において航空機が「墜落しない結果」をいくら立証しても 特定環境下においては「墜落する可能性」を無視しておいて良い話にはならないのと同じである

危険学では どんなに小さな確率であろうと 「いつか必ず起きる」ことを前提として対処するのであり 「人類の中で戦争をしているのはごくわずかであることを知れば戦争はなくなる(山極寿一)」などという話は 科学的根拠のない無責任な決めつけやこじつけにしかなっていないのであり こんな荒唐無稽な話を鵜呑みにして満足している衆愚マスコミも 無責任であることにおいて同罪である

 

イヌは 自分よりも強そうで「怖い」と感じた相手に対しては 仰向けに寝転がり服従すること 順位序列が低いことを認め 「甘え」ることでご機嫌取り(忖度)をする

しかし イヌの場合こうした行動はあくまで状況によってコロコロ変わるものでもあり 私の兄家族が飼っていたイヌは 兄家族がいる時には私に吠えかかるのだが 兄家族の都合で数時間預かった時には まるで当然であるかのように仰向けになって服従しようとするのである

弘中彩香アナウンサーも小学生時代に近所のイヌに飛びかかられた経験があり これもまた飼い主の存在がある場合と そうでない場合とでは行動が全く異なると証言している

イヌというのは主観的に怖いかどうか 安心かどうかという情動バイアスだけでしか行動が決定せず 主観的気分だけでしか行動が決定せず 決して自律的な責任行動判断なんぞしないのである

 

ヒトもまた同様な部分があり 主観的に「怖れ」や「畏れ」を感じてしまうと疑うことをしなくなり権威肩書を持った相手の言うことであれば あたかも「権威肩書を持った相手によって論理客観的な検証に基づいて論証しているはずだ」という勝手な妄想によって 盲目的に信用信頼し 何も疑うことなく安易に信用してしまう先天的習性がある

養老孟司による「脳化社会」の屁理屈の類いには一貫した論理的根拠など全くなく 「私は禁煙と書かれた看板の前でタバコを吸う ほら 私は脳化していない」などという荒唐無稽な話であっても バカなら簡単に鵜呑みにして同調賛同してしまうものなのである

イマヌエル:カントの「純粋理性批判」においても その結論である「理性を超越(逸脱)した悟性」だの「純粋統覚」だの「絶対に知覚することのできない叡智界」などという論理客観的には何も立証できない実証不能の謎の観念を 100年以上も「哲学者」共は鵜呑みにし 「近代哲学の最高峰」などと称賛し続けているのである

もはや「脳が壊れている」或いは「バカ」としか言いようがない

 

戦争というのは 要は「殴り合い」である

殴りかかってくる相手に対して防衛として殴り返すことには正当防衛が適用されるが 先に殴りかかることには正当性はない

では 殴りかかってくる相手を殴り返したら解決するであろうか?

暴力で物事を解決しようとするキチガイを いくら殴り返しても そいつが「キチガイになった原因」究明にもならなければ 再発防止にもならない

警察官が拳銃を携帯しているのは あくまで防衛のための現場の対処 現場の正義として武装しているのであって 銃乱射事件の犯人を射殺しても 銃乱射などという意味不明で何の役にも立たない行動をやらかすキチガイの発生原因の究明にはならない

ウクライナがロシア軍を撃退しても ロシアがナチスを撃退しても それはあくまで「現場の正義」であり 「暫定的な業績」にしかならない

パンツ一枚で包丁振り回している薬物中毒者を金属バットで殴り倒して制圧しても それだけでは「解決」にはならないのである

独裁者が戦争を始めたがるのは 自身の欲望を自給自足できないために 際限なく「他人との比較」による物質的富や権力を求め続けるためであり 権力というものの社会的意義や目的を見失っているからこそ 身勝手な独裁者というのが出来上がるのである

だが 単に評価承認欲求中毒でありさえすれば誰でも独裁者になれるわけではなく 暴力や権力 順位序列を鵜呑みにする従順な服従者の群れの中から独裁者は作り出されるのである

虐待の連鎖というのは 虐待されたことを事後正当化する形で「常識(正解データ)」として 行動学習的に学習した結果的行動であり 条件反射的無意識な行動バイアスとして働いてしまうものである

プーチンは 一説に拠ればスターリン政権の弾圧の犠牲者でもあったという

自分が過去に受けた仕打ちに対し 事後正当化する形で「そこには意味があったんだ そう思わなきゃ やってられないじゃありませんか」と言ったのは養老孟司である

宮台真司が学生に対し 「自分の頭で考えるのは10年早い 丸暗記しろ」と言い出した その理由として「自分は教授からそう言われた」からだと主張している

その一方で 休講になったことが学生達に伝わらなかったことに対しては「それくらいは自分の頭で考えろ」と言い出し 学生をバカにしているのである

自分にとって都合の良いように「考えろ」「考えるな」と言い出す身勝手さというものは そもそも「自分の頭で真偽を判断していない」という自己客観性の欠落から発揮されるものである

ロシア民族はナチスを撃退したが それは確かに膨大な犠牲を伴う「業績」であるとは言えるものの 所詮は「キチガイを殴って制圧した」だけのことであって それでナチスの蛮行の原因究明や再発防止という「解決」にはならず

むしろスターリン政権によって自国民に対してまでナチス政権以上もの虐殺をするという倒錯した結果までをも生み出したのである

いうなれば プーチンはスターリン政権を事後正当化する形の「虐待の連鎖」として独裁を正当化 「常識」化する形で連鎖しているのである

 

評価承認欲求というものは 基準の全てが「他人との比較」に依存する価値観である

「俺の方が学歴が高い」 「学力偏差値が高い」 「資産が多い」 「権力を持っている」 といった他人との比較だけが人生における価値となってしまっているため 世間的な評価基準以外には自己を肯定する基準が何もないのである

スパイ諜報の仕事が多数他人の生死を分けるからといって その生死の数だけが人間としての価値になるわけではない

死んだ人数で倫理が決定しないのと同様に 殺した人数や 救った人数で人間としての価値が決まるわけではないのである

福島第一原発事故では 「放射能で死んだ人は一人もいない」と言っているバカがいるが それは「酔っぱらい運転をしてるが 誰も轢き殺していない」と言っているのと同じであり 到底倫理に適う話ではない

仕事柄諜報機関では多数の国民の生死を分けるような判断が必要とはなるものの それは「責任が重い」だけであって その仕事での評価というものはあくまで国益に則った評価基準にしかならず そもそも諜報などの戦争に関わる仕事でありさえすれば「偉い」わけではない

大衆観念的には 権力肩書さえあれば「偉い」という評価を短絡的に下したがる性質があるものの 大臣になったからといって不正行為に手を染めればバカであることに違いはないのである

プーチンやヒトラーなどの独裁者達は 権力者になりたかったわけではなく 権力者や国民からの評価や報酬が欲しかっただけであって だからこそ国民をプロパガンダで騙してまで虚構の評価を欲しているのである

それはイヌが飼い主に媚びへつらうことに快楽を求めた挙げ句に 自分が群れのトップだと勘違いすれば飼い主の手を噛むようになるのと同じ現象である

イヌが求めているのは 盲目的に信頼できる服従対象であって 自分が服従させる立場(権力者)になりたいわけではない

ユダヤ人絶滅収容所の吏官アドルフ:アイヒマンは 権力者になるためにユダヤ人殺害計画書を作成したのではなく それによって評価が得られることへの快楽だけに溺れた結果 自己客観性というものを見失って盲目的に虐殺計画に邁進したのである

ところが 野犬の群れにおいては 服従する対象がいなくなって自分が群れのリーダーに「なってしまう」状況というものがあり すると群れのリーダーは信頼して盲目的に服従する対象を見失って暴力的になり その暴力性によって繁殖行動も促されることで 群れの中ではより暴力性が高く 盲目的信頼によって服従したがる遺伝子だけが遺る仕組みになっているのである それは決して遺伝子や生物としての目的に則って「選んだ」わけではなく 暴力性が弱肉強食の自然界において生存や「繁殖の継続」において適した「結果」以上の意味はない

 

一方的に暴力による抑圧をする独裁者に対して 暴力による革命をするのは 一面的には正当性があり チェ:ゲバラの評価は その後の民主的政策が伴ってこその評価である

暴力的圧政者を暴力で革命制圧した後に 結局暴力的圧政をしてしまえば客観的には「首がすげ代わっただけ」に過ぎない

暴力的圧政に対して暴力による革命を起こすことには一面的正当性しか存在しておらず 革命をした「本当の目的」は暴力的懲罰そのものではない

ところが ヒトというのは暴力的懲罰さえしてしまえば安心満足し それで全てが解決したと勘違いしてしまう普遍的習性があり 「本当の目的」を忘れて結局腐敗政治に陥ることの方が多いのである

原因は 目先の気分(主観)的不満を暴力で解消しただけであって その後のビジョンとしての政策目的が何もないからである

フィンランドのように政治に透明性があれば 政策に間違いや問題が生じても民主的に話し合いによって解決することが可能なのであって ロシアであってもゴルバチョフ政権においては透明性を重視したからこそ民主化が進んだのであって 隠蔽主義がはびこる原因とは 身勝手な権力の集中による報酬ばかりを目的にしてしまい 政治というものの「本当の目的」を忘れてしまうのが原因である

 

プーチンは 本当は何がしたいのかがわからないのである

それはヒトラーや麻原彰晃や東条英機も同じである

ヒトというのは暴力的懲罰が「解決」だと錯覚し 安心満足感という主観によって脳が酔い それが本当に「解決」なのかどうかなど考えなくなる習性がある

そのため 他国に対する暴力的威圧や攻撃差別をしておけば多数衆愚からの人気が得られるため 為政者は安易に他国への差別や暴力を煽って衆愚人気を集めようとしてしまうものなのである

ポピュリズムとは 衆愚多数に見られる普遍的習性に則った自然現象でもあり 無意識という先天的本能習性によって促される行動バイアス(偏り)による「ヒトに普遍的に見られる自然な結果」なのである

本能習性というものは 全てが遺伝的進化によって組み込まれた「結果」であって 祖先の生息環境の影響を色濃く反映し また 「欲望そのものを欲することはできない」ものでもある

それなら自由意志の全てが存在していないのかと言えば そうではなく 支離滅裂で合理性のない様々な欲望の中から 統合的に「本当に求めている目的(人間としての真理)」に基づいた行動選択をすること「も」可能ではある

 

要するに 「本当の目的(真理)」が見極められないバカだから 間違いを繰り返すのであって バカとは何かを理解し バカになる原因を知り バカにならないようにすれば 自ずから「バカではない状態」にもなれるのである

そのために必要なのは まず自分の意識の本質が何なのかを識別することであり 主観的情動を客観的に検証する自己客観性が重要なのである

「気分が悪い」とか 「怖い」とか そういった主観的気分は横に置いておいて 論理客観的に考えて「何が本当に正しい話なのか」「信じるに価する話なのか」を見極めることが必要なのであり

「気分の良くなる話」や「信じたい話」や「安心満足する話」ばかりを盲目的に信じようとするヒトの先天的な頭の悪さを理解し 自覚する必要がある

主観には錯覚が混入する危険性がある

錯覚を錯覚だと認識理解するために必要なのは 論理客観性であって 「直感」や「印象」などの主観ではない

 

 

 

 

ヒトにおける戦争が、「ヒトに生物学的に備わっている本能的性質によるものなのか」という問いは無意味だ。集団間にどのような利害対立があるのか、それを解決するためにどれほどの攻撃を用意するのか、自集団はどれだけ結束できるのか、といった問題の集合の結果として、戦争という行為が選択されるのかどうかが決まる。

 長谷川眞理子

 

ヒトにおける戦争が、「ヒトに生物学的に備わっている本能的性質によるものなのか」という問いは無意味だ。

なぜそう言えるのであろうか 論理客観的根拠が示されておらず 真実であることの証拠が何もなく 単に長谷川眞理子の主観的印象に基づいた決めつけにしかなっていないのである

 

集団間にどのような利害対立があるのか、それを解決するためにどれほどの攻撃を用意するのか、自集団はどれだけ結束できるのか、といった問題の集合の結果として、戦争という行為が選択されるのかどうかが決まる。

これらの要因は全て環境条件であって 戦争の全てが一律に環境依存的に「他人が悪い」と言い張ることはできない

ヒトが戦争や懲罰暴力で解決しようとする原因は 合理性があるわけではなく 先天的本能習性として その方が気分的に満足感が得られるからである

一人の社会的存在としての「人間」の振る舞いを 単なる環境条件だけで論じて良い話ではない

 

ゲーム理論とは、自分と相手との間に、ある状況において取り得る行動選択肢がいくつかあり、自分が一つの選択肢を取り、相手もまた―つの選択肢を選んだ時、双方の利益と損失がどうなるかを分析する理論である。例えば、「とことん攻撃」という選択肢もあれば、「いい加減で引く」という選択肢もある。どちらにも、それぞれの戦略を取り、相手がどちらかの戦略を取った場合の利益と損失がある。自分が「とことん攻撃」戦略を採用し、相手が「いい加減で引く」戦略を取ってくれれば、それは自分が勝つだろう。しかし、相手も「とことん攻撃」戦略を取るのであれば、双方の損失は増加の一途をたどる。こんなことなら、「いい加減で引く」戦略を取っていた方がましだ。では、どこに落ち着くか。

***

こうして、高い攻撃性が備わった動物であれば仲間に対しても攻撃が起こり、そうでなければ攻撃はない、といったシナリオは無効であることがわかった。生存のためには、誰でも攻撃性を備えているのだが、それがどのように表出されるのかは、社会関係の状況によるのである。

これは全部環境依存的な「結果」だけでしか行動が決定しないイヌやチンパンジーや暴力団の抗争や 合理性のない暴力や虐殺をする為政者の行動しか論証することができない

強盗が押し入ってきて 虐殺放火略奪の限りを尽くしている状態において「いい加減で引く」戦略などあり得ない


どのように表出されるのかは、社会関係の状況によるのである。

社会関係の状況が悪いなら あらゆる悪事が正当化できるわけではなく 社会関係の状況が悪いのであれば暴力以外の正当な改善方法を選択する理性というものを無視して 野獣の行動習性だけで物事の全てを説明しようとするのは こじつけでしかない

 

高い攻撃性が備わった動物であれば仲間に対しても攻撃が起こり、そうでなければ攻撃はない、といったシナリオは無効であることがわかった。

などと主張しているが 何が「わかった」と言えるのであろうか?

実際にナチスを撃退したソ連のスターリン政権が自国民に対してまで虐殺を行った事実は存在し 何一つ「シナリオは無効」であることの証拠はない

一体長谷川眞理子は何を「わかった」と言っているのであろうか

自身の勝手にでっちあげた仮説の上におけるシナリオにおいてのみ「無効だ」と主張されても それは都合の良い「お花畑」にしかならない

 

こんな支離滅裂なことを言っている長谷川眞理子が大学で学長を務めていられることそのものが 相当にイカれている

言っておくが大学というのは政府税金からの交付を受けているのであり 社会的責任として間違った嘘やデマをひけらかしてバカ学生から人気を集めて授業料を徴収しておいて良いものではない

 

なぜ生物学や哲学に関してだけは論理客観的根拠や証拠に基づいた論証が通じないのかは 私の知る術もないが マスコミまでが「学術権威」という肩書だけで内容を盲目的に鵜呑みにしているというのは 批判精神というものが全く欠如しており 真面目に物事を考えていない不謹慎な態度である

NHK公共放送が 大衆のウケ狙いで嘘やデマで人気や視聴率稼ぎをするというのは

公共水道で喩えれば 水道にアルコールや薬物を混ぜて利用者を酔払わせて水道使用量を水増ししているようなものである

嘘やデマの方が衆愚人気が得られることはわかっていることであり 衆愚の多数を「スポンサー」だと称して衆愚人気を集めることを公共放送が目的にして良い理由にはならない

NHKの番組制作者の大半がバカで 生物学権威や哲学権威の言っている内容に間違いがあっても認識しようともせず 漫然と垂れ流しをしておいても自分達には責任がないと「思って」いるのかもしれないが

そうした無意識さこそが 社会の無責任を助長し バカげた事態を繰り返してしまう大きな要因となっているのである

公共放送の目的とは 多数の衆愚から人気を集めて嘘やデマをひけらかすことではなく 論理客観的根拠に基づいた真実を報道することである

生物学者や哲学者共の荒唐無稽な嘘やデマや誤謬を 何の検証もせずに唯々諾々と垂れ流しておいて「自分達には責任がない」と「思って」いるというのは あまりにバカ過ぎてどうにもならない

 

 

Ende;

 


Ende;


生存バイアス

2022年06月05日 11時10分51秒 | 意識論関連

私は、現代政治や戦争のパワーバランスの専門家ではない。だから現在進行形でこの事態がこれからどう展開するのかについては、ただただニュースを見て解説を聞くだけである。

しかし、私は自然人類学者だ。ヒトという生物の本性について研究している学者である。この際、私が何か言えるとすれば、ヒトにおける攻撃性の進化と、集団間の戦争が起こる条件についてだろう。

***

振り返れば、1960年代から70年代にかけて一般的に問われていたのは、「ヒトという生物は本能的に戦争するようにできているのか」ということだった。戦争とは、同種の個体が集団間で行う、致命的な攻撃行動である。第二次世界大戦の悪夢はまだ記憶に新しく、それに続く冷戦で、いつ核のボタンが押されるかという緊張があった時代だ。

その中で、アフリカに生息する野生チンパンジーの研究を行っていたジェーン・グドール氏が、チンパンジーたちが集団同士で殺し合うことを報告した。チンパンジーは、私たちヒトにもっとも近縁な生物である。私たちは、このような同種個体間に起こる攻撃的性質を、生物として受け継いでいるのだろうか?

これは、本質的に問いの立て方が間違っていたのだと思う。攻撃、とりわけ同種個体間での致死的な攻撃性が、生物として本能的に備わっている、ということはない。そうではなくて、生物は誰であれ、自分自身を取り巻く環境の中で、利害が対立する同種の他者と戦わねばならない状況がつねにある。そういう時に、攻撃行動をどこまでエスカレートさせるのかは、相手がどう出るのかという、相手の戦略に依存するのだ。これは、ゲーム理論的状況である。

ゲーム理論とは、自分と相手との間に、ある状況において取り得る行動選択肢がいくつかあり、自分が一つの選択肢を取り、相手もまた―つの選択肢を選んだ時、双方の利益と損失がどうなるかを分析する理論である。例えば、「とことん攻撃」という選択肢もあれば、「いい加減で引く」という選択肢もある。どちらにも、それぞれの戦略を取り、相手がどちらかの戦略を取った場合の利益と損失がある。自分が「とことん攻撃」戦略を採用し、相手が「いい加減で引く」戦略を取ってくれれば、それは自分が勝つだろう。しかし、相手も「とことん攻撃」戦略を取るのであれば、双方の損失は増加の一途をたどる。こんなことなら、「いい加減で引く」戦略を取っていた方がましだ。では、どこに落ち着くか。

***

こうして、高い攻撃性が備わった動物であれば仲間に対しても攻撃が起こり、そうでなければ攻撃はない、といったシナリオは無効であることがわかった。生存のためには、誰でも攻撃性を備えているのだが、それがどのように表出されるのかは、社会関係の状況によるのである。

さらに、戦争という問題になると、個人対個人の攻撃の話ではなく、集団対集団の攻撃の話である。集団が、自分たちの集団としてのアイデンティティーを持ち、その内部で結束して、他の集団と対決するのである。これができるにはかなりの認知能力が必要だし、そんな攻撃が有利になるような事態も、動物界でそれほどあることではない。

ヒトにおける戦争が、「ヒトに生物学的に備わっている本能的性質によるものなのか」という問いは無意味だ。集団間にどのような利害対立があるのか、それを解決するためにどれほどの攻撃を用意するのか、自集団はどれだけ結束できるのか、といった問題の集合の結果として、戦争という行為が選択されるのかどうかが決まる。昨今は、その選択をする指導者はいなかったのだが、今回は?

 

 ↗(長谷川眞理子)

 

 

⇨長谷川眞理子の論説は生物学的行動結果 すなはち先天的な本能習性や それが生ずる環境条件という「結果」だけで全てを説明しようとしている

「戦争という問題になると、個人対個人の攻撃の話ではなく、集団対集団の攻撃の話である。」というのだが 集団であろうと個人であろうと「ヒト」が引き起こしていることに違いなどなく 「戦争だから個人の人格は関係がない」という話は根拠がない

 


生物は誰であれ、自分自身を取り巻く環境の中で、利害が対立する同種の他者と戦わねばならない状況がつねにある。そういう時に、攻撃行動をどこまでエスカレートさせるのかは、相手がどう出るのかという、相手の戦略に依存するのだ。これは、ゲーム理論的状況である。

長谷川は全てが「相手の戦略に依存する」と論じている

これはつまり 「悪いのは俺じゃねぇ 俺が暴力攻撃をするのは俺以外の環境要因によって全てが決定する」と言っているのと同義である

イヌやチンパンジーならこの話は正当性があるだろう しかし ヒト同士の暴力の応酬 戦争の話に野獣の正義を持ち込むのはヒトの自律的な社会的責任判断能力を無視した「理性を欠いた暴力者の屁理屈」にしかならない

環境条件に応じて先天的に決定している本能欲望のままにしか行動が決定しないというのであれば これはただのバカでしかない

日本大学の組織腐敗において 「相手が集団多数だから権力を振りかざしてくる封建的独裁体制には逆らいたくない(主観的情動)」からこそ 組織の個人の誰も逆らわず 唯々諾々とバカみたいに組織腐敗を傍観放置したことに対して「環境条件が悪い」「組織の体質が悪い」「頭から腐る(トップが悪い)」と称して組織を構成している個人には何の責任もないかのように解釈するのと同じである

「生存価」のみを「目的」とみなす「既存の生物学的正義」においては 暴力的腐敗組織だろうが何だろうが「怖い危険な相手には逆らわない方が賢い」という話になってしまうが 生物というものの存在そのものも 遺伝的進化も全ては「結果」であって 合理的な「目的」など存在していないのである

 

 

大衆観念上では ただ漫然と生活し 子供を産み育てさえすれば自動的自然に遺伝的進化が促されるもののように錯覚しているが

漫然と繁殖しているだけでは遺伝的進化は促されることはないのである

遺伝的に何かの能力 形質や習性の進化が促されるためには 環境から受ける淘汰圧力によって多くの犠牲に基づく収斂が必要であり 現代社会のように先天的疾患があっても平等に扱うことを旨とした環境下においては遺伝的進化なんぞ起こるわけがないのである

遺伝的進化というものは バクテリアからヒトにまで進化を促した「凄い」ものではあるが ヒトでありさえすれば人間性や倫理を発揮するという保証なんぞ存在していないのであって だからこそ戦争などという「人災」が引き起こされてしまうのである

「凄い」かどうかは主観的感想や印象に過ぎず 論理客観的には「どうでも良い話」である

 


そもそも「ゲーム理論」で戦争を語ろうとすることそのものが不謹慎であり 「勝てそうなら仕掛けた方が生存にとって有利」なら戦争などの暴力の全ては正当化されてしまうのである

「殺さない程度になら殴っても 怒鳴り散らして威嚇しても 人間性だ」などという話はあまりにバカげていて こんな話を鵜呑みにできるバカが存在していることそのものが私には信じがたい「事実」ですらある

こういった「生存絶対主義」というものが従来の生物学におけるカルト性や非合理性の源となっているのである

「生き延びるかどうか」というのは 過酷な自然環境下における弱肉強食の生存競争であって 「誰一人として取り残さない」という合理的「目的」行動選択基づいた人道的観点とは相容れない「野獣の正義」であり 自然界における「結果」以上の何ももたらすことはない

生存のためには、誰でも攻撃性を備えている」からといって 攻撃性が正当化できるわけではない

先天的本能習性としての攻撃性というものは 自分では選ぶことの出来ない「欲望」であって 「欲望そのものを欲することはできない」のであって 「欲望」はそれだけでは論理客観的根拠を伴った「目的」行動選択の論証にはならないのである

ヒトは先天的攻撃性や競争への欲求を 直接的暴力ではなくゲームなどの「遊び」として楽しむことで満足させる術を発明したのであり 勝ち負けだけを楽しむフォートナイトのような銃火器で殺し合うゲームには人気があり 多くのヒトは「楽しい」と思ってやっているのである スポーツも多くが「競技」であって 競い合うことで勝っても負けても楽しめることに主観的価値があるのであって スポーツ競技やゲームでいくら良い成績を出しても 金儲け評価にはなるとしても社会的(客観的)には何の役にも立たないのである

先天的な攻撃性や暴力性というものは 祖先の生息環境における「生存価」においては意味を持っていたとは言えるものの それは全て「結果」であって 「死んだら愚か」という理屈にもならないし 「生き延びさえすれば賢い」という話にもならない

「進化は賢い」などという話は 結果に過ぎない現存生物だけから導き出した論理的根拠のない決めつけであって 「*生存バイアス」に基づいた錯覚に過ぎない

 


*生存バイアス

 ↗爆撃機の装甲を厚くすべきなのは「対空砲火を受けた場所」と「受けていない場所」のどちらか? -president online

 


攻撃、とりわけ同種個体間での致死的な攻撃性が、生物として本能的に備わっている、ということはない。」と長谷川は主張しているが この話には論理客観的根拠や証拠が提示されていない

元京都大学学長の山極寿一もまた「ヒトには先天的に人間性が組み込まれているはずだ」などという科学的根拠のないデマで人気を集めていたが

生物学者というのは根拠のないデマであっても衆愚マスコミが主観的に「信じたい話」を展開することによって衆愚人気を集めることの中毒に陥っており また 大多数の衆愚マスコミも科学的な論理客観的証拠や根拠などには全く興味を持たずに 権威肩書の主張を何の疑いも持たずに唯々諾々と鵜呑みにして満足しているのである

これは集団洗脳状態でしかない

 

「生存価」だけを論ずれば 先天的疾患や障害を持った人は経済的負担にはなることには間違いはないのであるが そもそも「経済」とは 「経世済民(世を経って民を救済する)」ことが目的であって 先天的に健康な奴だけが富を独占するためのものではないのである

自然界における生態系のバランスにおいても 弱肉強食の生態系のピラミッドにおける頂点となる肉食獣が環境資源を喰い尽くす程繁殖してしまえば生態系は崩壊するのであって ライオンは西表島には適応できない

ライオンは あくまで環境資源の豊富なアフリカのサバンナに適応しているのであって 環境に適応しない過剰な捕食能力や繁殖能力は生態系ごと死滅を招き淘汰の対象となるのである

現在の自然環境における生態系バランスというものは 過去の進化の過程において生態系バランスを獲得できなかった個体種の全てが生態系ごと死滅した結果であって 生態系の恒常安定性というものも遺伝的進化のアルゴリズムに則ったプロセスの「結果」でしかなく 恒常安定性を獲得できなかった個体種の全てが死滅した結果 生態系の恒常安定性を持った個体種だけが現存しているのであって その進化過程のプロセスを全て無視して「自然任せにしときゃ 何でも恒常安定性が獲得できる」というような都合の良いものではないのである

衆愚観念上では オーガニック信仰のようなものがあるが これは人工的な物質の危険性ばかりが「人災」として採り上げられるためであって 人工的に新しい物質を作った際には危険性の確認が難しく 自然界にある既存の物質のように 何が危険で何が安全なのかの経験則的知見が乏しいことが原因であって

自然物なら何でも安全なわけではないし 人工物の全てが危険なわけでもない

イヌサフラン(コルチカム)やスイセン ゼフィランサスなどの有毒植物は数多あり 実際に誤食事故は毎年起きている

日常食べている豆類に関しても 加熱や乾燥などを経ていなければソラニン毒があり 青梅には青酸毒が含まれており リンゴも種には毒があるという

フグのテトラドトキシン毒は有名だが そもそもあらゆる食物は腐れば腐敗菌による毒が生じるものでもある

遺伝的進化という自然現象に対する異常なまでの盲目的信仰は 科学的根拠のないデマであって 「進化で月経の痛みがなくならないのかしら」などというバカみたいな話が出てくる時点で 衆愚は遺伝的進化というものを全く理解していないのであって 「科学を信じている」とは言うものの 実態は「学術権威肩書を盲目的に信奉している」だけなのである

たとえ学力偏差値が高く 医師免許を持っている大手町の医者や 日医大の特任教授であっても遺伝的進化を理解しているわけではなく 無責任に「ウイルスは弱毒化する」などと言い出すものである

「宿主が死んでは困るから 環境に適応した変異だけがどんどん起こる」などという「解釈」は 遺伝的進化のアルゴリズムに基づいたプロセス過程の全てを無視した都合の良いこじつけでしかない

「宿主が死んでは困る」などという後天的都合は遺伝的進化には影響を及ぼすことはなく 変異の全ては常にランダムであり 「ヒトが殺し合いをしなくなる」ようにも「環境と調和して持続可能な社会が構築できる」ようにも遺伝的進化は生じることはないのである

遺伝的進化というものは 先天的な情動や本能習性による行動バイアスしか促すことはない

ヒトが生活習慣病に陥りやすいのは 祖先の生息環境の影響であって ヒトが日大や東電やロシア政府やミャンマー軍事政権のような腐敗組織に陥りやすいのも 先天的な「社会性(封建的順位序列による社会形成習性)」に起因するものであって 「社会的生活習慣病」とも言えるものである

遺伝的進化という「結果」は 「ヒトは生活習慣病に陥りやすい」という「結果」以上の何も論ずることはできない

「ヒトが先天的にバカである」ことを進化的に規定することは可能だが 「ヒトはバカにしかなれない」ことの論証にはならない

「ヒトは先天的に暴力で解決だと錯覚するものである」とは規定することは出来ても 「錯覚を錯覚だと理解認識して暴力性を抑制することが絶対に不可能である」ことの論証にはならない

遺伝的進化によって ヒトが過剰な塩分や糖質脂質を欲さなくなるようにはならないが ヒトは欲望を制御する術も持っているのであって 「オノレはカブトムシと一緒だから 先天的本能習性には抗えない」などというバカ丸出しな話は論外である

 

「ヒトは進化的に戦争をしない」かのように言っておけば 衆愚マスコミは人気を集めて金儲けにはなるのだろうが

それはヒトという種の生物が主観的に「信じたい話」ばかりを信じようとする習性を利用した人気取りにしかなっていない

気分的に安心満足さえしておけば その話が本当に安全性や信頼性を持った真理かどうかは ヒトは先天的には興味すら持たないものなのである

ヒトがなぜ盲目的洗脳状態に陥るのかと言えば それは気分主観的に安心満足感が得られる「信じたい話」ばかりを信じようとするという 先天的な思考バイアス(無意識)が働いているからである

逆に言えば どんなに論理客観的根拠や証拠に基づいた論証であったとしても 気分主観的に安心満足感が得られない「信じたくない話」は 衆愚マスコミも金儲けにならないから興味すら持たないのである

 

他人からの評価や承認だけが「目的」であれば 本論は「金儲けにもならない権威肩書に対する反抗する愚かな行為」でしかないだろう

それが本当に「愚か」かどうかなど 衆愚マスコミは興味すら持たないだろう

ヒトとは 利己的金儲けにならない話でなければ 社会安全性や公平性など 本当は誰も興味を持たない無責任な生物に過ぎないからだ

 

 

 


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2022年06月04日 00時18分04秒 | 写真

栃木県南部から埼玉県北部に移動してきた積乱雲による雷

FHD動画からフレームを切り出してみた

動画でもシャッタースピードを最低速にしないと雷のような瞬間的な光は写りづらいようです

 

 

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こじつけ論法

2022年06月03日 17時24分46秒 | 意識論関連

「私は自然人類学者だ」だの「私は解剖学者だから」などといった専門分野を理由に 専門分野に都合の良いこじつけを展開して科学的根拠のように言い張るのは 社会的に無責任である

畑村洋太郎は危険工学の専門だが 社会心理学など他の分野の知見も盛り込んで検証しているのであり 決して専門分野以外の知見を無視して良い理由などないのである

 

遺伝的進化が専門だからといって 何でもかんでも遺伝的進化による先天的本能習性だけで事象の解釈にこじつけて良いわけではない

遺伝的進化に基づいた知見というものは あくまで「ヒトという種の生物の習性や傾向」しか論証することは出来ない

ヒトでありさえすれば人間であることの論拠にはならないのであり ヒトの先天的本能習性をいくら抽出枚挙しても人間性や倫理の論証になど到達できないのである

 

人間性というものを論じるためには 哲学や教育心理学や犯罪学 社会心理学 危険工学 その他様々な観点からヒトの先天的欠陥というものを検証し 「どうやったらバカにならずに済むのか」を見極めることが重要なのである

「危険学」が社会安全性を追求するための学問であるのと同様に 意識論とは「バカ学」でもあり 「バカとは一体どういうものなのか」を理解し知ることによってバカにならない賢い選択も可能となるのである

「私は○○の専門だから」などと称して 自分の専門分野だけで物事を説明しようとするから根拠のない「こじつけ」になってしまうのであり

遺伝的進化からは「ヒトという種の生物の先天的習性や傾向性」以外何も論ずることなど原理的にできないのである

遺伝的進化というものはあくまで自然現象であり 「結果」以上は何も論ずることなどできないにも関わらず 「ヒトの先天的危険性は問題ではない」などと決め付けるのは自分の専門分野にとって都合の良い身勝手なこじつけにしかなっていないのであり 論理客観性を欠いた非科学的デマに他ならない

 

 

 

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バカの屁理屈

2022年06月03日 15時59分19秒 | 意識論関連

自然選択説を提唱した本人であるチャールズ:ダーウィンが

その著作の中で「○○のために進化した」という表現を用いてたとしても その「説明」は自然選択説との論理整合性がないのである

 

ダーウィンは 別に全知全能の神ではない

所詮はヒトであり 間違いもする可能性は充分にある

ダーウィン本人が間違えた表現をしているのか それとも翻訳が間違っているのかは知らないが 遺伝的進化の説明において「○○のために進化した」という表現は自然選択説とは相容れない間違いである

 

「だってダーウィン本人がそういった表現をしているから」というのは 自分の頭で物事を考えて真偽の判定をしていない「バカの屁理屈」である

 

 


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こじつけ論法

2022年06月03日 15時56分08秒 | 意識論関連

私は自然人類学者だ。ヒトという生物の本性について研究している学者である。この際、私が何か言えるとすれば、ヒトにおける攻撃性の進化と、集団間の戦争が起こる条件についてだろう。


 長谷川眞理子

攻撃性がどう進化したかは 単なる自然現象の結果でしかなく 暴力を用いて物事を解決しようとするヒトの先天的本能習性の程度強度をいくら論じても 本能を自律的に抑制する意志(目的意識)の存在を無視して良い理由には全くならない

「戦争が起こる条件」についても 「条件さえ揃えば戦争は避けることができない」などという環境依存的発想そのものに「自律」判断が欠落しており 「私は自然人類学者だから」と称して ただの先天的情動バイアスの強度程度だけで人間性を語ろうとするのは自分の専門分野を正当化するための都合の良いこじつけでしかない

それはまるで養老孟司が「私は解剖学者だから 形(外見)しか扱えない」と言い張るのと同じはぐらかしの手口と同じである

地政学的リスクで戦争を予測できた試しなどなく そもそも長谷川眞理子は「ヒトが殺人をする動機は 本当にくだらないこと」だと言っているのである

殺人暴力が戦争という大規模化した途端に まるで別のことのように言い出すのは 長谷川の個人的印象や感覚に基づいた決めつけに過ぎず 論理客観性を欠いている




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老害の正義

2022年06月03日 13時31分24秒 | 意識論関連

中東由来の一神教では 実証不能の神の存在によって人々は導かれると説いた

イマヌエル:カントは「純粋理性批判」において 結果的な自然界における恒常安定性が常に都合良く働くものであるという超常的力学を「叡智界」などと称してでっちあげた

フリードリヒ:ニーチェは旧約聖書以前の原始宗教に過ぎぬゾロアスター教の「超人」を遺伝的進化のメカニズムを用いた「ヒトの品種改良」によって実現可能であるかのように人類を誘導した

リチャード:ドーキンスは 遺伝子というものがもたらす進化という結果だけを抽出してきて これもあたかも超常的力学によって「ヒトには先天的人間性が組み込まれている可能性」などというオカルトファンタジーをでっち上げて衆愚人気を得た

そのドーキンスの人気に便乗する形で山極寿一や松沢哲郎は衆愚人気を集めたのである

 

能町みね子は 意識を超越した無意識な意識によって正しい結果が得られる可能性を主張した

音楽バンド崩れのYOUは「遺伝的進化で月経の痛みがなくならないのかしら」などと言い出した

これらは全て 個人の意識による合理的根拠に基づいた行動選択とは全く別の 謎の超常的力学の存在に基づいた論説である

 

神が実証できないからといって 神以外の進化生物学的結果のようなものを万能の願望器のようにすり替えておけば 衆愚人気だけは集めることが可能である

気分的に安心満足な話の方が 衆愚にとっては「信じたい話」だからである

バカが考える形式にさしたる違いはない

なぜならバカだからである

暴走族の考える形式はほぼ一緒であり

暴力団も独裁政権も同じである

バカは自律的には何が間違いなのかは認識できない

原因は自分の頭の悪さを主観的に「認識したくない」からである

それは まるで振り込め詐欺師の電話を信じ込み「いや 自分は絶対に騙されてなどいない」と頑なに言い張る老人のようである

 

 

 

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原理的不可能性

2022年06月03日 12時54分15秒 | 意識論関連

現代における神頼み 望むことで得る平安

 

⇨ヒトには主観と客観がある

夜中に泥酔して暴力や痴漢行為をしているバカは「殴っておきたい」と思う主観もあるが 同時に「何がどうしてそんなバカになったのだろう?」という客観的好奇心もある

私は実証不能の神を信じてはいないものの セーレン:キェルケゴールの真理に対する真摯な探究心には感服せざるを得ない

 

「死に至る病」冒頭に以下の一文がある

「主よ! 無益なる事物に対しては我らの眼を霞ましめ、 汝の凡ゆる真理に関しては我等の眼を隈なく澄ませ給え。

当初 この本を読む際には気にもしなかった一文だが その内容を読み進むにつれ その「信念」に尊さすら「感じ」るようになった

無論 私の個人的主観に過ぎない

単なるキェルケゴールの主観的「望み」であって

客観的には「どうでも良い話」である

 


「迷惑者はザラにいる」と称して自分の迷惑行為が正当化出来ていると勝手に勘違いしている迷惑系ユーチューバーがいたが 「俺の迷惑行為なんぞ 大したことではない」という比較を用いた正当化の手口は 養老孟司による「私は教科書に墨を塗らされた どうせ間違っていない本なんかないんだから 間違っていたら墨を塗れば良いんだな そう思っています」と称して支離滅裂な話を展開するのと同じ手口である

どうせ世の中バカばっかりで 間違いだらけなんだから 「まちがったっていいじゃないかにんげんだもの」的な開き直りともとれる言い逃れに衆愚は満足し その主観的満足を客観的真理か何かと履き違えて思考停止に陥る衆愚は非常に多いものである

「非常に多い」ということは 「ヒトという種の生物に普遍的に見られる」ということでもあり 「子供のイジメなんか皆やるものなんだから そんなの無視しておいても構わない」という傍観放置の屁理屈に用いられることも多い

ヒトは「多い」ことには安心し 多数でありさえすれば「正常」だと見なして何の対策もしなくなるものである

フリードリヒ:ニーチェの「迷言」の数々は 根拠や基準が曖昧で 読み手が都合良く主観的に気分が良くなるようこじつけ解釈することが可能であるために多数から人気を得られる

主観的満足感というものと 客観的真理(哲学)を区別せず あたかも「哲学というものを主観的に安心満足するための芸術文学」か何かと勘違いしているバカは「多い」ものである

そしてその「多数」によって 衆愚は自らの頭の悪さを安心して自覚しなくなるのである

ほんの数年前には大学でニーチェを教え込んでいたそうで 下手すると今でも教えているのかも知れないが 少なくとも現代人の大半はニーチェを論理客観的根拠に基づいた真理(哲学)だと錯覚しているバカが大半であろう

「哲学には好き嫌いがあります」と言い出す「哲学者」がいるが そんなもん何だって個人的好き嫌いなんかあって当たり前であり 主観的に嫌いであることが「間違い」で 個人的に好きだから「正しい」ことの論証になどならないのは当たり前の話である

 

痴漢に遭うのは基本的に若い女性である

ヒトの男は基本的に見た目が幼い女性に性的衝動を促されやすい先天的傾向が存在するからである

進化的にはヒトは幼形成熟性が高く 体毛やシワが少ない傾向があるが これはヒトの祖先による配偶者選択によるものである

女性であっても配偶者選択には「肌がキレイかどうか」が基準になるという

人気アニメキャラクターの多くは顔が幼いものが多いし 女性アイドルも世間一般から比べると幼い顔立ちの方が多い傾向がある こうした先天的な傾向性というものは祖先の繁殖の過程における収斂進化の結果であって 決して主体的に選択できるようなものではなく それだけでは「自由意志」であることの論証にはならない

「欲望そのものを欲することはできない」のである

これは定理でもある

欲望というものは遺伝的進化によって結果的に組み込まれた大脳辺縁系による情動行動バイアス(偏り)であり 状況や環境に左右されるシーケンシャル(機械的)な条件反射に過ぎない

欲望や衝動によって短絡的行動が促されるというのは 進化的には正当化可能なものであり 進化的に幼女強姦の衝動が存在しているからといって正当化できるようなものではない

先天的な本能習性というものは あくまで遺伝的進化という自然現象の結果であって その全てに合理性や正当性が存在しているわけではなく むしろ「繁殖の継続」においての収斂進化や 「拡がりやすい遺伝子」が拡がったというだけの結果以上の意味など存在しないのである

したがって 遺伝的進化による「説明」からは 人間としての社会性 自律的な社会的責任判断選択について論証することは原理的に不可能なのである

航空機が墜落するのは航空機というものの構造原理によるものであって 「墜落する」ことを前提として安全性を追及することが重要なのである

船舶も沈没するが 原理的に沈没する可能性があるからこそ 沈没しないようにするにはどうすれば良いのかを考え選択することが必要なのである

ヒトは原理的に間違えるものである

誰も全知全能の神じゃねぇからな

だからこそ 「間違える可能性」に基づいて 「どうやったら間違えずに真理を見極められるのか」を常に考え続けなければならないのであって

遺伝的進化に基づいたあらゆる説明というものは あくまで「ヒトという種の生物」の結果以上の何も論証することはできず 人間性や倫理 合理性といったものを見出すことは構造原理的に不可能なのである

動物としての「ヒト」は 懲罰や暴力によって物事が「解決」するという感覚(錯覚)が先天的にあり 国家権威による司法裁判の判決が出れば ほとんど誰も批判せずに唯々諾々と鵜呑みにして泣き寝入りするだけである

「痴漢や性犯罪は強盗殺人よりも罪が軽いから 懲役何年」という判決は 被害者からすれば合理性が何もないのである

社会的にも合理性などなく 「どうして痴漢などの性犯罪をするようなバカになったのか」についての科学的知見というものが司法裁判からは全く得られないのである

マスコミも短絡的に「動機の解明が待たれる」などと言い出すが これは司法警察の捜査における手続きを そのまま鵜呑みにして垂れ流しているだけであって 犯罪者の動機を解明しても加害者の身勝手な主観が出てくるだけである

プーチンに対する心理分析で「冷徹な理性」などという形容詞が出てきているが 「冷徹」であることというのは強い実証不能の観念に囚われているからであって 情動バイアス(偏り)が認知に悪影響を及ぼし合理性を欠いた執念(中毒)によるものであり 「利己的行動選択を理性だ」と見なしている大衆観念的誤謬に基づいた分析に過ぎない 

本当の「理性」 究極の「理性」とは 自らの生存すらも顧みずに社会安全性や公平性を優先する人道的なものなのであり 利己的利益をいくら追求しても「本当の精神の平穏」には全くならないのである

物質的な富や 権力をいくら手に入れても それは結局他人との比較における優越感にしかならず 平和で平等な社会への希望には全くならない

しかし ヒトというのは先天的にはバカなので どうしても目先の欲望ばかりを満たそうとしてしまい 「本当の目的」を忘れて非合理な行動や言動ばかりに囚われてしまうものなのである

先天的にはヒトはバカだが 主体的に物事を考え 何が本当に「自分が望むもの」なのかを追求する「意志」によって 人間性は発揮されるのである

人間性や倫理というものは 個人の主観的な好き嫌いや趣味趣向とは無関係なものであり ロリコンだろうが殺人ゲーム好きだろうが自律的な社会的責任さえ果たしていれば 個人的な趣味趣向は人間性とは無関係なのである

主観的好き嫌いの強度程度に因ることなく 社会的存在として責任ある行動選択をしてこその人間性であって 生物学者共による「進化的説明」からはヒトの先天的行動バイアス以上の何も論証することはできないのである

 

 

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環境依存性

2022年06月03日 10時14分31秒 | 意識論関連

生物は誰であれ、自分自身を取り巻く環境の中で、利害が対立する同種の他者と戦わねばならない状況がつねにある。そういう時に、攻撃行動をどこまでエスカレートさせるのかは、相手がどう出るのかという、相手の戦略に依存するのだ。これは、ゲーム理論的状況である。(長谷川眞理子)

 ↗出典:ウクライナ侵攻 戦争はヒトの本能か?

 

⇨「相手の戦略に依存する」ということは 要するに環境依存的な行動に過ぎず 合理性が伴うかどうかは無視しているのである

 

生存のためには、誰でも攻撃性を備えているのだが、それがどのように表出されるのかは、社会関係の状況によるのである。

さらに、戦争という問題になると、個人対個人の攻撃の話ではなく、集団対集団の攻撃の話である。集団が、自分たちの集団としてのアイデンティティーを持ち、その内部で結束して、他の集団と対決するのである。これができるにはかなりの認知能力が必要だし、そんな攻撃が有利になるような事態も、動物界でそれほどあることではない。

 

⇨「誰でも攻撃性を備えているのだが、それがどのように表出されるのかは、社会関係の状況によるのである。

これもまた環境依存的結果であり 合理性を伴った自律的な目的行動選択性を無視した「動物の理屈」「野獣の屁理屈」に過ぎない

「チンパンジーは環境が安定していれば殺し合いをしない」だとか「ヒトのほとんどは戦争をしていないことを知れば戦争はなくなる」などという生物学権威共の主張には論理客観的根拠に基づいた「人間性の論証」が伴わないのである

 

戦争という問題になると、個人対個人の攻撃の話ではなく、集団対集団の攻撃の話である。集団が、自分たちの集団としてのアイデンティティーを持ち、その内部で結束して、他の集団と対決するのである。これができるにはかなりの認知能力が必要だ

統率的協調性を発揮するためには それなりの知能は確かに必要だが 動物的行動習性だけで「人間としての知能」を論証することそのものが根本的に間違っている

戦争とて所詮は「ヒト」が引き起こしているものであって 「集団対集団」だからといって急にヒト個人の判断が環境依存的にしか決定しないものであるかのように言い張るのは 随分おかしな話である

 

 

ヒトにおける戦争が、「ヒトに生物学的に備わっている本能的性質によるものなのか」という問いは無意味だ。集団間にどのような利害対立があるのか、それを解決するためにどれほどの攻撃を用意するのか、自集団はどれだけ結束できるのか、といった問題の集合の結果として、戦争という行為が選択されるのかどうかが決まる。

⇨独裁者の非合理な行動選択というものは ヒトという種の生物の先天的情動である恐怖心や猜疑心に依るものである

「生物学的に備わっている本能的性質」が短絡的に行動に反映してしまうから合理性のない理不尽な暴力が引き起こされるのであって 子供のイジメ殺人にせよ 国家単位での戦争にせよ 暴力の原因は生物学的本能習性に起因することに違いはない

野犬や暴力団同士の抗争に「かなりの認知能力が必要だ」などというバカみたいな話を鵜呑みにしている奴の方が頭がおかしい

 

「ヒトに生物学的に備わっている本能的性質によるものなのか」という問いは無意味だ。」などと決めつけているが これは論理客観的根拠が示されておらず 長谷川の勝手な主観的印象に基づくものに過ぎない

地政学的リスクの類いは 戦争の有無とは無関係であり 戦争というのは為政者の人格に依存するものであって これは子供のイジメもイジメ加害者側の「ボス」の判断に依存するのであって 環境条件にいちいち左右される環境依存性そのものが人間としての理性や知性としての自律的判断の欠如を意味するものである

 

非暴力を唱えたガンジーを称賛しておきながら 「殴られたら 殴り返す」という報復や懲罰を正当化するというマルチスタンダードそのものが二枚舌(嘘)を含んでいるのである

殴り合いの勝ち負けで人間としての存在価値が決定するわけではなく 相手が殴りかかってきたら防衛のために殴り返すことは仕方ないとしても そもそも「先に殴って解決しよう」とする動物的行動習性そのものに合理性が伴わないのであり 「本能的性質が原因ではない」などと言い張るのは あまりにバカ過ぎて話にならない

殴り合い暴力によって勝つのは 人数や武装の質や量に依存するものであって 勝っても負けても殴り合いそのものには合理性も 人間存在としての優位性の論拠にもならない

生存や「繁殖の継続」という結果だけを価値と見なす遺伝的進化のアルゴリズムは あくまで「自然現象」であって 「殴り合いで勝ったから 正しい」という短絡的な結論にはならない

 

遺伝的進化というのは 死なずに生き残れば「生物」なのであって 死なずに生き残りさえすれば正義とみなすのが遺伝的進化万能論である

先天的に暴力性が高いか低いかという程度問題ではなく 暴力によって解決しようとする非合理性にこそ非人間性の根源が存在するのであって 「殺さない程度に殴っているから人間性だ」とか「殴らないで怒鳴り散らしているから人間性だ」などというバカみたいな話は要らないのである

それは「複雑な法手続きを踏んで死刑にしたら人間性」の論証にもならない

気分的安心や満足という主観的印象が基準になっているから論理客観性が失われるのであり 長谷川眞理子ら生物学権威(肩書)による主観的印象論の羅列を鵜呑みにしているバカが多過ぎてどうにもならない

科学というもの 真理というものは 論理客観的根拠や証拠に基づいて見極めなければならないのであって 権威の主張を漫然と鵜呑みにしているだけでは「ただの無意識なバカ」にしかならない

 

 

Ende;